あらすじ
霧深い道東の街で淡く光を放つ希望の航路
北方領土を間近に望む土地に生まれ、漁師の父に育てられた主人公は、アイヌにルーツを持つ夫と結婚し釧路の街に移り住む。
アラスカからの豪華客船が釧路に寄港するというニュースの一方で、ミュージシャンの夫は行き先も告げずに家を出た。
倦んだ孤独をひとり抱えるわたしは、幼いころに父と見た貝殻島のことを思い出す。
「カイカライ。波の上面低いもの、という意味で、満潮になれば水没してしまうちっぽけな島だよ、日本では貝殻島、カイカライはアイヌ語ね」
北方領土という戦後史にひっそり佇む貝殻島の灯台、かつて海上の国境を越えロシア船に拿捕された父、静かに民族の記憶をつなぐ夫とその妹――いくつものかすかな光が敷きつめられた貝殻島への航路とは。
北海道東部、道東と呼ばれる土地の風土を細やかに描き、そこに暮らす人間の内奥に迫る野心作。
選考委員から高い評価を得た第174回芥川賞候補作。
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Posted by ブクログ
『貝殻航路』久栖博季
私は生まれも育ちも札幌だけれど、
釧路や根室には子どもの頃から何度も足を運んできた。
同じ北海道とはいえ、
札幌から6時間、7時間とかかる遠い場所。
大人になってからは自分で車を運転して、
なぜだか引き寄せられるように道東へ向かった。
重く垂れ込める霧。
夏でも肌寒いほどの冷たい空気。
潮の匂い。
そして、どこか哀しみをまとった異国めいた気配と、
不思議な拒絶感。
納沙布岬にも幾度となく足を運んでは、
海の向こうの異国の輪郭が見えないかと、
ずっと目を凝らしていた。
そんな馴染みのある空気感が、本作では
とても静かな時間の流れのなかで描かれていて、
何度も記憶を揺さぶられ、胸がいっぱいになりました。
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『貝殻航路』には、
さまざまなモチーフがごく自然に溶け込んでいます。
アイヌ、北方領土、静かに朽ちていく灯台、身近な人の死。
主人公・凪には夫がいるけれど、
その関係は、いわゆる普通の夫婦とは少し違う。
夫はふらりと出かけていき、しばらく戻ってこない。
そのどこか儚さをまとった描写が、とにかく美しいのだ。
「長い睫毛に縁取られて翳りを帯びたまなざしは、
鬱蒼と茂る笹藪の黒々と重なっていく影を思わせ……」(P47)
…美しすぎませんか。夫よ。
物語の底を流れているのは、
静かな哀しみなのか、諦観なのか。
この物語を、どう言葉にすればいいのだろう。
ひとつひとつ積み重ねられていく言葉は、
静かに降り積もる雪のようで、
何度も舌の上で転がしたくなるような儚さを帯びていました。
✧
実際に、道東のあの独特な空気を知っているのと
知らないのとでは、
受け取るものも少し変わってくる気がします。
物語を閉じたあとも、
道東の冷たい風がしばらく身体に残っているようでした。