あらすじ
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて『それから』『門』に続く三部作の序曲をなす作品である。(解説・柄谷行人)
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Posted by ブクログ
中学生以来、およそ十年ぶりの再読。
なぜか強烈に覚えていた「雲」のシーンに再会できて、懐かしく嬉しい気持ちになった。
それ以外に関して言えば、忘れていたところの方が多かったし、当時の最低限の時代背景などもとくに知らなかったので、中学生の自分は、まったくこの作品を理解していなかったのではないかとすら思う。(それでも読み切った記憶はあるので、よく読んでいたものだとも思う)
それでも読んでいたのは、『三四郎』の中に広がる、現代とは異なる当時の独特な世界に惹きつけられたからだと思う。自分は今でも明治や大正、昭和など近代小説が生まれた古めかしい世界が好きだし、そうしたルーツを形成した近代小説の一冊として、『三四郎』は思い出深い。
内容について
主人公の三四郎を、今自分がほとんど同い年になって眺めると、なんともかわいいやつだなと思う。三四郎は熊本のど田舎出身で、かなりゆったりと、おおらかに育った人間だ。だからこそ何も知らない。東京帝大に入れたので勉強はできる。しかも本科である。でもそれ以外は何も知らない。都会も、教養も、人間も、女も、なにも知らない三四郎が、そうしたもの全ての洗礼を受けたり、もみくちゃにされたりする話だ。同級生にいたらいいやつなんだろうと思う。それは与次郎も同じである。三四郎の相棒としては、こいつ以外に考えられない。三四郎が動かない分、動きすぎるほどよく動く。しかしこいつはこいつで面白いやつで、何をしでかすかわからない。しかし頭はいいようである。美禰子も美禰子である。広田先生が途中で論じるように、こいつはなかなかの悪女だとも思うが、ある意味美禰子も、三四郎とどっこいどっこいの「子ども」だったのだ。美禰子という世界が三四郎の世界に奥行きを与える。ウブな三四郎を一層浮き彫りにするのは、美禰子を筆頭とする女性陣である。美禰子は悪女だが、どこかその存在に惹かれてしまう。
何はともあれ、ずっと再読したかった一冊をもう一度読めて、かなり満足。他の漱石のやつも、読み返してみたいやつがあるので、今度読んでみよう、読んでないやつも読んでみようとおもう。
Posted by ブクログ
その時代背景を知ると更に理解が深まるのでしょう。
熊本から東京に出てきた三四郎。出会う人々から刺激を受けて、恋をして、考えて…。
美彌子の思いは誰へと向かっていたのでしょうか。
Posted by ブクログ
「君、不二山を翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
主人公「小川三四郎」名刺には里見美禰子とあった。友人、佐々木与次郎、野々村先生、妹よし子、先輩、広田先生、原口さん画工、里見恭助。法学士だ。美禰子さんのにいさんだ。原口さんの絵の知り合い、三井さん
「彽徊家(ていかいか)」は、物思いにふけりながら、あちらこちらと行きつ戻りつする人(彽徊する人)を指す言葉です。
三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。
第二の世界のうちには、苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある
第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性がある。三四郎はその女性の一人に口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。
ない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心のために、流俗の嗜欲を遠ざけているかのように思われる。だから野々宮さんを相手に二人ぎりで話していると、自分もはやく一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まないような気が起こる。
我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――
「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」
野々宮は三四郎に向かって、
「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と言った。
美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎のそばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。
そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶をしている。
野々宮は三四郎に向かって、
「妙な連つれと来ましたね」と言った。
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。
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夏目漱石は、1916年12月9日に亡くなりました。『三四郎』は、夏目漱石の小説で、1908年に発表されました。この作品は、主人公の三四郎が東京の大学に入学するために田舎から上京し、新しい生活に慣れ、友人を作り、恋をするなど、若者の成長と心理を描いた青春小説です。三四郎は、理想と現実のギャップに悩みながらも、自分自身を見つけていく過程が描かれています。