あらすじ
読者は著者の意図など考えずに自由な読み方をしていいのである。理解されることで表現は変化し、そこに異本が生じる。口承文芸など長い伝承期間を経た物語や歌謡が、具体性・簡潔性を具え古典になるのはそのためである。翻訳、コピー、原形と典型など、異本化作用から、広く表現文化について考えた画期的な本。
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実は、マーケターこそ、読むべき一冊。
本は作者のものだけではなく、読者のものなんだ。読者に開かれたものなんだ。というメインの主張は、読書論にとどまらず、マーケティングやブランディングの可能性をぐっと切り開く視点をくれる。
本好き以外には見慣れない「異本」というコトバを題材に、「本を読む、理解する、解釈するって一体どういうことか?」の、常識を裏切る発想法を提案する名著。
「ちょっと同じ話を繰り返し過ぎやろ感」はあるものの、まったく違うOS・アングル(物事の見方)を育むためのプロセスなんだろうなと思うと、あえての繰り返しなのかもしれない。
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古典は作られたその時から古典なのではなく、様々な解釈や社会・コンテクストの変化などによって異本化されて古典へと昇華する。本自体は短編エッセイ集のような形式だが、様々な例を出しながら一貫した主張を展開。
1970年代発行(文庫は2010年)の随筆だが、今でも通じる、また今だからこそ考えるべきテーマが盛り込まれている。示唆と教養に富んだ一冊。
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この論考が世に出たのは1978年。物語や歌謡がいかにして古典になるかを論じた本書は40年以上の歳月に耐えている。既に古典の仲間入りをしたと言ってもいいのではないか。最も印象に残ったのは次の一文。
「文学的表現は物件ではなくて、現象である。書いた人から読む人へ、ある記号表現が移るプローセスにその生命が宿る」
未来の古典を生むことに貢献していると思えば、読書がさらに楽しくなりそうだ。
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テクスト論。
今までは作者が本ぜんたいの権威を持つとされていたが、読者の解釈によって決まるとした。
歴史とおなじように、本は時間を置かなければ真の評価ができない。例えば宮沢賢治のように、生きている間は見向きもされなかったが、その後再評価されることはよくある。逆に、流行するものの、10年後には忘れられているということもある。
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・情報を整理して過去を知るだけでなく、伝えられていることに疑問を持ち、 その問いを突き詰めていく姿勢は、まさに、思考の整理学
東大・京大で2年連続売上1位!になった「思考の整理学」の著者、外山 滋比古 先生の著書。
読者に媚びることなく、ご自身の思考を整理する。だからと言って、読者を意識していないわけではなく、ご自身と異なる背景を持ち、知識も語彙も不足しているはずの読者に優しく歩み寄り、難しいことを分かりやすく解説してくれています。その文章を構築する過程は、まるで、先ず基本となる骨格を組み上げ、筋肉に見立てた粘土を付けていくことによって、肉体を表現するようで、絶品です。
仮説をたて、膨大な知識と思考力で既存の概念を崩し、新しい概念を構築していきます。情報を整理して過去を知るだけでなく、真実は見えてきません。情報は、作った人、伝えた人の意識が反映されているモノに過ぎないからです。伝えられていることに疑問を持ち、情報を紡ぎ直し、その問いを突き詰めていく姿勢は、まさに、思考の整理学、これが学者の姿勢なのでしょう。とても勉強になる良書です。
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原典主義や作者至上主義といったものがある。あるテクストの解釈は「著者の意図」という神聖にして唯一のものしか有されないといった主義のことだ。そしてこれらの主義において「異本」――読者が理解することで生じる表現の変化――は忌み嫌われる立場にある。「あるがまま」に作品を読むのが理想であり、それに反駁する「異本」は作品の価値を汚し、貶めるものである、と。
こうした考えを筆者は批判する。何故なら「異本」は一卵性双生児であろうとも指紋が違うように完全に同一のものであることはあり得ない。また優れたものであるとされる古典は、それが多様な「異本」によって時間的空間的に一種のふるいにかけられてきた。時に「異本」が原典の価値を超え、原型から典型へと生まれ変わる。このように洗練されてきた結果、古典が古典たり得ているのではないかと言うのだ。
考えてみれば当たり前のことだ。友人と一冊の書について語り合う時、意見が食い違い熱い議論を交わすことのできるものはおしなべて良書である。一回目より二回目、二回目より三回目と読めば読むほど理解の深まる本もまた、紛れもなく良書である。優れた書からは多くの「異本」が生まれる。あくまでそれが収束した結果が普遍的な一つの解釈であり、唯一の解釈しか求められないような本に価値はない。
この本が刊行されたのは1978年。現代において原典主義・作者至上主義を持つ人は少ないだろうし、著者の意見が新鮮味に欠けるきらいはあるが、それでも十分に読むに値する示唆に富んだ書である。興味がある方には是非読んで欲しい。
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文学、さらには芸術全般、より大きく言えばコミュニケーションにおいて、「異本化」は必ず生じうるものであるし、生じないものは表現ではありえない。
「あるがまま」読む、解釈することは有り得ないし、誤解(異本化)することによって、文学作品となり、古典となる。
原稿至上主義に価値を置くことは、却ってそのおもしろさの価値が見えなくなる。
自由な読み、解釈、複製の中におもしろさがあって、それを許容出来るものが古典となる。