あらすじ
肌をさされてもだえる人の姿にいいしれぬ愉悦を感じる刺青師清吉が年来の宿願であった光輝ある美女の背に蜘蛛を彫りおえた時、今度は……。性的倒錯の世界を描き、美しいものに征服される喜び、美即ち強きものである作者独自の美の世界が顕わされた処女作「刺青」。作者唯一の告白書にして懺悔録である自伝小説「異端者の悲しみ」ほかに「少年」「秘密」など、初期の短編全7編を収める。
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Posted by ブクログ
"当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。誰も彼も挙って美しからんと努めた揚句は、天稟の体へ絵の具を注ぎ込む迄になった。芳烈な、或いは絢爛な、線と色とがその頃の人々の肌に躍った(『刺青』より、p.8)"
少し前に谷崎潤一郎の本のレビューを拝見し、僕も何か読みたいと思い積読本の中から引っ張り出してきた。谷崎の初期の短編7作を収録。
『刺青』
谷崎の処女作であり、代表作の一つ。娘を眠らせその背に刺青を彫ることで己の嗜虐性を満たす清吉だが、その裏には「美しい女の前に身を投げ出し、その足に踏みつけにされたい」という欲望が隠れているように思える。サディズムなのか、マゾヒズムなのか、それらが混然とした彼の複雑な悦びに本作の魅力がある。ただ、他の作品に比べるとそれほどピンとこなかった。そもそも体に絵を彫りつけるのが美しいという感覚がよく分からない。(キモいと言われるのかもしれないけど)素肌の方が良くないか?
『少年』
"纔かに膝頭に届いて居る短いお納戸の裳裾の下は、靴足袋も纏わぬ石膏のような素足に肉色の床靴を穿き、溢れるようにこぼれかかる黒髪を両肩へすべらせて、油絵の通りの腕環に頸飾りを着け、胸から腰のまわりへかけて肌を犇と緊めつけた衣の下にはしなやかな筋肉の微動するのが見えて居る。(p.64)"
一番気に入った作品。解説によれば谷崎自身も自信作だと語っていたそうだが、確かにこれはめちゃくちゃ良い。
冒頭、やけに既視感があったのだが、多分『銀の匙』(中勘助)かなぁ、と。「私」は、学校であまり話したことのない信一から、彼の家の庭で行われる祭りに招待を受ける。そこで、「私」は学友たちの隠れた一面を知る。学校ではいじめられっ子だが家ではサディズムの衝動に取り憑かれている信一、学校では餓鬼大将で威張っているが家ではすっかり信一の言いなりになっている仙吉。蔵の中で、大人たちから隠れて密かに行われる子どもの遊戯に、まだ解き放たれていない無意識の官能を感じる。彼らは、その無垢さゆえに性の衝動に身を委ねることが許されるのだ。
圧巻なのは終盤、仙吉と同様信一の言いなりだった彼の姉の光子が、マゾからサドへ立場を一気に逆転させ、"女王(p.70)"となるシーン。彼女の劇的な変身は意外ではあったが、こうやって転換して終わらせるものなのかと感心させられる。
『幇間』
これも、凄まじい作品。
ある幇間(太鼓持ち)の、人から軽んじられ憐れまれることに快感を抱くその倒錯を描く。彼が、惚れた芸者から真剣に扱われていないことを悟ったとき、即座に彼女が仕掛けた悪戯に乗っかって自らを道化に仕立てる様には、むしろ薄ら寒いものを覚えた。
『秘密』
「秘密」の甘美さによって辛うじて保たれていた男女の関係。秘密が失われると、忽ちにして色褪せてゆく。
『異端者の悲しみ』
この本の中では他とかなり毛色の違う作品。谷崎の自叙伝的な面が強いという。自分に非があると分かっていながらも、つまらない意地を張って一層強情になるなんていうのはきっと誰しも覚えがある感情ではないだろうか。それに付き合うのは正直勘弁被りたいが、自分の卑しさを最もよく分かっていて、深く絶望しているのは、他でもない自分なのだと言いたい。
『二人の稚児』
王朝文学的な設定。女人禁制の比叡山で育てられた二人の美少年の、「女性」への憧れ。上人や仏典は女性を恐ろしい魔性のものだと言うが、成長するにつれどうしようもなく惹かれていく。ラストシーンの、絵画のような儚い美しさが印象に残る。
『母を恋うる記』
読み始めてしばらく、主人公がどのような状況にあるのかよく分からなかった。どこか不条理な情景を描いた作品である。見かけたお婆さんを自分の母だと思って「お母さん」と声をかけるシーンでは、『赤い繭』(安部公房)を思い出した。まぁ結局この不条理は昨今評判の悪い「夢オチ」なのだが(笑)、ここで夢と現実が重なってきてとても切ない(「あぁ、お母さんはもう死んでいたのだった・・・」)。
それにしても、やはり谷崎は文が美しい。谷崎は『文章読本』で、日本語の調子には大まかに言って"源氏物語派(=和文的)"と"非源氏物語派(=漢文的)"の二つがあると述べているが、前者の特徴は"一語一語の印象が際立つことを嫌い(『陰翳礼賛・文章読本』(新潮文庫)p.232)"、単語から単語へ、センテンスからセンテンスへ、境界をぼかしてなだらかに繋げるところにあるという。谷崎の作品で言えばそれが極められているのが『春琴抄』だが、本短編集でも谷崎の文章へのこだわり・工夫を見ることができる。例えば『幇間』では、
"草行きの電車も蒸汽船も一杯の人を乗せ、群衆が蟻のようにぞろぞろ渡って行く吾妻橋の向うは、八百松から言問の艇庫の辺へ暖かそうな霞がかかり、対岸の小松宮御別邸を始め、橋場、今戸、花川戸の街々まで、もやもやとした藍色の光りの中に眠って、その後には公園の十二階が、水蒸気の多い、咽せ返るような紺青の空に、朦朧と立って居ます。(p.72)"
といった具合で、これでまさかの一文である。この息の長い調子が、『幇間』の長閑な雰囲気を生んでいると感じた。
Posted by ブクログ
「刺青」と「母を恋うる記」が好きでした。
男性視点からみる「女性」についての様々な話が収録されていた。
日本語はこんなにも美しいのかと再認識させられるような本でした。特に「幇間」の春の描写は息を呑むほど綺麗。
Posted by ブクログ
•『異端者の悲しみ』
谷崎の稀有な自伝作品。
偉大なる芸術の才を持つ有為な人間であると自らを認めつつも、困窮を極める家庭環境に底知れぬ劣等感を抱いていた谷崎の苦しみが伺える。あるべき自分に達することのできない恐怖とそれによる底なしの体たらくに捕らわれる時期が自らにもあったので、谷崎の徹底的な自己暴露には幾許か同情の余地を残しつつも、「堕落の元凶を全面的に他者に委ねるのは如何なものか」と馬鹿真面目に考えてしまう面白みのない自分もいる。(自分の卑さを一番理解し、最も深く絶望しているのは本人だとわかっているのに、谷崎に寄り添いきれない事がなんとも悔しい)
「自殺=精神的脆弱性であり悪である」というステレオタイプがある。しかし、嫌悪する境遇から逃れ出る道を講じることもなく、己の不幸をかこちながら醜い生を続けていくことが果たして強さだと言えるだろうか。単に怠惰から来る薄志弱行ではなく、どれほどに己を奮い立たせようとも心に行動を伴わせることができない瞬間が人間にはある。そんな苦しみから死を持って自らを解放させる事ができるのならば、それもある意味強さだと思う。
物語ラストは富子の死によって文学的な芸術の才能(『刺青』)を開花させたということか?ここの繋ぎ目がよく分からない。
•『少年』
無垢な少年少女のマゾヒスト、サディスト的嗜好の開花とそれによる征服の過程を描く。
•『秘密』
秘密は秘密であるからこそ愉楽である。
やはり谷崎は視覚型よりも聴覚型の作家である。彼の言葉の端々に、文才とはこのようなものを言うのだと、感嘆させられる。