あらすじ
作家を志して上京した青年小泉純一は、有名な作家を訪ねたり、医科大学生大村に啓発されたりして日々を過す一方、劇場で知りあった謎の目をもつ坂井未亡人とも交渉を重ねる。しかし、夫人を追ってきた箱根で、夫人が美しい肉の塊にすぎないと感じた時純一は、今こそ何か書けそうな気がしてくるのだった。――青春の事件を通して、一人の青年の内面の成長過程を追求した長編。(解説・高橋義孝)
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
純一の成長、というよりは、なんでもない日常 のように見えた
上京して、新しい人に出会って、経験が増えたからといって文才が育つわけではないし、
純一はきっと、大きく成長したりはしない これからも不条理な感情を持って、やらなければならないことを後回しにする ただ、流れるように、時が過ぎて行くだけ
Posted by ブクログ
本書は、白紙に等しい青年が成長をしていく過程を描いたものであり、所謂「教養小説」「発展小説」というジャンルに属するらしい。小説内で展開される出来事(上京/未亡人との出会い/失恋?等)よりも、その出来事の中で主人公である小泉純一が何を考え、何に答えを求め(主に西洋の書籍)、どのような問いに苦悩していたかという描写が素晴らしい。100年以上前の作品であり、当然情景描写も議論の内容も(例えば、個人主義や利己主義等。西洋との接触により活発になる議論)全く今とは異なる訳であるが、現代に於いても青年が抱く或いは悩む「自分が思う自己との乖離」は大なり小なり変わらないのではないかと感じる。そしてその答えを、ある意味自らの日々とは距離のある、洗練された書物に求めるという点もいじらしい。
青年とは自分を開示していない真っ白な状態なのではないかと思う。つまり、仕事等を通じて自分を世間に晒したこともなければ、主人公のように、作家を志しながらも活字を世に発表したこともない。世に自分を開示したことがないため、傷ついたこともなく、また傷ついた時に自分がどのように反応するのかも知らない。これが鴎外が言う「生活」との乖離なのではないか。「生活」という言葉に何を投じるかは意見の分かれるところであるが、自分なりに考えるとそれは、日々の衣食住を通じ、いつ訪れるか予測も出来ぬ闇に備えることのなのではないかと思う。その闇に備え、生活にて何かを構築するも、脱構築するも良い。こればかりは、半ば無理やりにでも自分を世に放つことによってのみ、過去/現在/未来が重なる形で見出されるものなのだと思う。
特に印象に残った箇所は以下
・自分は東京に来ているには違いない。しかしこんなにしていて、東京が分かるだろうか(p.35)
・「ちっと無遠慮に世間へ出して見給え。活字は自由になる世の中だ」(p.50)
・「今のように思想を発表する道の開けている時代では、価値のある作が具眼者に認められずにしまうという虞れは先ず無いね。だから急ぐには及ばないが、遠慮するにも及ばない。起とうと思えば、いつでも起てるのだからね」(p.116)
・思って見れば、抽象的な議論程容易なものは無い(p.146)
・「そうさ。一々の詞を秤の上に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、我々青年の特権だね」(p.188)
・純一はこれまで物を書き出す時、興奮を感じたことは度々あったが、今のような、夕立の前の雲が電気に飽きているような、気分の充実を感じたことはない(p.237)
・(解説)「純一が日記の断片」には「そんならどうしたら好いいか。/生きる。生活する。/答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。/一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先きには生活はないのである。/現在は過去と未来の間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。/そこで己は何をしている」(p.324)
Posted by ブクログ
小泉主人公に感情移入するにしたがって、自分の嫌な部分を暴かれるような嫌な気持ちを味わった。
大村青年は『ノルウェイの森』の先輩と似た雰囲気があったように思えた。
頻出するフランス語が瀬戸放浪人との対比なのか、注釈との往復が大変だった。
誘われ行った福住は、坂井夫人は岡村画家と親密な関係を築いていて、ありありと眼前でその光景を見せつけられている。しかも大晦日の夜だった。
もし、この光景を見せつけるために招いたのなら、裏切りでもなく羨むでもないこの余韻はなんだろう。良い気分ではなかった。
読後感?(読後感という言葉は慣れていたないが、余韻としてあまりよいものではなかった)。
とはいうものの、小泉主人公の目線から言えば恋人ではないのに、どうして坂井未亡人の元へと向かったのが、恋愛ではないと言っているくせに、それは情欲のためかとするならば、その裏切りとかそういう感情は、違うだろうと言えるが……。
Posted by ブクログ
上京した純朴な美青年小泉純一が、医学生の大村や法学者の未亡人坂井夫人との交流を通して世間を知っていく話、のように思えた。特に前半では、キラキラした目のきゅるんとした純な少年、といった感じの描写をされている純一が、坂井夫人に出会ってまんまと(?)「男の貞操」を捧げてしまったあたりから、人間はいかに生きるべきか、自分は真の自由を持っているのか、そんなことを当事者性を持って考えている気がする。大村は純一の精神面の成長に、坂井夫人は身体を持った一個の人間としての成長に寄与している。純一は自分の精神の自由、選択の自由をあえて意識しながらその実、自分の欲望の前に自分は自由ではなくて、あれこれ言い訳をしながらも坂井夫人を訪ねてしまうのを自覚している。それが、坂井夫人を追うようにして行った箱根で坂井夫人が画家の岡村と一緒に夫婦のようにして過ごしているのを目の当たりにして、もうこの生活をやめようと自分で決心し、今こそ文章が書けるような気がしてくる。リルケだったか、詩を書くためには恋をすることや瀕死の病人の手を握ることや、人生の経験を積むことが必要だというようなことを言っていたような(慶應文2008年の小論)記憶があるけれど、それと同じで、上京したてのただ純粋なだけの青年には書けなかったものが、自分の中の葛藤や嫉妬や制御不可能なものや、人生のいろいろなままならなさを知ることが、文学者としてのスタート地点だよなと思った。