あらすじ
人はいかなる時に、人を捨てて畜生に成り下がるのか。中国の古典に想を得て、人間の心の深奥を描き出した「山月記」。母国に忠誠を誓う李陵、孤独な文人・司馬遷、不屈の行動人・蘇武、三者三様の苦難と運命を描く「李陵」など、三十三歳の若さでなくなるまで、わずか二編の中編と十数編の短編しか残さなかった著者の、短かった生を凝縮させたような緊張感がみなぎる名作四編を収める。
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Posted by ブクログ
「山月記」
虎だね。
「名人伝」
主人公の紀昌が天下一の弓の名人を目指す話。往年の少年漫画のような展開が多く、思わずニヤリとしてしまう。特に、紀昌が山奥の老名人のもとへ赴く件が面白い。
長年の研鑽により師匠と同等の腕になった紀昌は、師匠から山奥に住む老名人の話を聞く。「老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど児戯に類する。」自分の技量に自信を持つ紀昌は、これを聞いてすぐに老師の住む山へ赴く。やはり、真の名人は山奥に住む老人でなければならない。老師に出会った紀昌は、自分の弓の技量を見せつけるため、挨拶も早々に、空高く飛んでいる鳥を打ち落とす。これを見た老師の発言が秀逸。「一通りできるようじゃな、・・・だが、それは所詮射之射というもの。好漢未だ不射之射を知らぬと見える。」老名人には、こういうことを言ってほしいと思っていることそのままのセリフ。素晴らしい。
紀昌はこの老名人のもとで修業を行う。長年の修業により遂に天下の名人となった紀昌は、表情のないでくの坊のような容貌になって、街に帰ってくる。「枯淡虚静の域」に入った彼は一向に弓を手に取ろうとしない。彼は言う。「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし。」遂には弓という道具の存在すらも忘れてしまう。「ああ、夫子が、-古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てたとや?ああ、弓という名も、その使い途も!」こういう展開がたまらない。
「弟子」
孔子の弟子のひとり、子路の視点から、孔子との関係を描いた話。
師と弟子という関係は、人間関係の中でも、特異なもののように感じる。血でもなく、友情でもなく、親愛でもなく、ビジネスでもなく、信仰でもなく、ただ、人格によって繋がっている関係。この作品内では、そんな不思議な関係の雰囲気を感じ取ることができる挿話が多数語られている。なかでも、特に印象に残っている話がある。
世間からなかなか認められず放浪の旅をしている途中、孔子達一行から遅れて歩いていた子路が、ひとりの隠者に出会う。子路は隠者に招かれ、彼の家で隠者の生活を体験する。「明らかに貧しい生活なのにも拘わらず、眞に融々たる裕かさが家中に溢れている。」また、隠者は子路を孔子の弟子と知ったうえでこのように言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕の謂ではない。」子路は初めて経験する隠者の生活に幾分かの羨望を感じた。翌朝、隠者の家を出た子路は、昨夜のことを振り返る。欲を捨て道のため放浪の旅を続ける孔子のことを思うと、隠者に対して憎悪の感情が湧いてくる。昼下がり、ようやく孔子の集団の影が見え始めた。「その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然、何か胸を締め付けられるような苦しさを感じた。」
師弟関係とは一体なんぞや。
「李陵」
李陵、司馬遷、蘇武の人生の話。
運命、というと少々陳腐な表現になってしまうが、この作品を読むと、人生には運命としか称しようのないことが部分があるということを強く感じる。
李陵は漢の武将。匈奴を討つため辺境に派遣されるが、敗北し捕虜となってしまう。単于に従いつつ、すきを見て討ち取る機会を窺うも、匈奴の生活に触れ、溶け込んでいく。ある時、漢の武帝から匈奴に寝返ったと疑われ、家族を皆殺しにされる。李陵は漢に対して憤怒を抱き、漢へ帰る意思を完全に失くしてしまう。
李陵の苦悩は、蘇武の存在によってさらに深まる。李陵が匈奴に下るより先に、匈奴の国に引き留められていた蘇武は降伏することを肯ぜず、へき地で孤独と困窮の中生きていた。
忠節を守り続けたところで、誰にも知られなければ意味はないではないかと李陵は思っていたが、偶然にも蘇武の存在が漢に知られ、遂に蘇武は帰国することになる。
そんな蘇武と匈奴に降伏した自分を比較し、李陵は煩悶する。
一方、司馬遷は李陵を非難する宮廷の中で彼を擁護したことによって、宮刑に処される。絶望し自殺しようとするが、父から引き継いだ史記を完成させるという使命を果たすため、死人のように生き続ける。
憤怒と煩悶と諦観が混じった、李陵の複雑な心中。運命を笑殺しつづけた蘇武。絶望するも使命という一点にのみ生き続けた司馬遷。
3者3様の苦悩と運命を前に茫然としてしまう。この感覚を捉えて言語化できるようになるまで、何度も読みたい。
Posted by ブクログ
『山月記』についての記述。
高校の授業で初めて接した作品です。
冒頭で主人公の李徴に親近感を抱いたので、発狂して虎になる展開はショックでした。
何となく自分の事が書かれている様な気持ちになるのです。
以来、何十年も経ちますが、何故か『山月記』は私の心にずっと存在しています。
現在では、YouTubeで多くの方が朗読されているので、時おり聴いて李徴に憐れみを覚えるのです。
決して読んで楽しくなる作品ではないのに、つい紐解いてしまう不思議な魅力が『山月記』には有りますね。
強いて言えば、李徴の不幸を芸術の域にまで昇華させてしまう、中島敦の才能に触れたくなるのでしょう。
本文から抜粋。
「己は堪らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って吼えた。誰かにこの苦しみが分かって貰えないかと。」
(『李陵・山月記』新潮文庫 P.17)
「しかし、···(中略)···天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持ちを分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」
(同 P.17)