あらすじ
人はいかなる時に、人を捨てて畜生に成り下がるのか。中国の古典に想を得て、人間の心の深奥を描き出した「山月記」。母国に忠誠を誓う李陵、孤独な文人・司馬遷、不屈の行動人・蘇武、三者三様の苦難と運命を描く「李陵」など、三十三歳の若さでなくなるまで、わずか二編の中編と十数編の短編しか残さなかった著者の、短かった生を凝縮させたような緊張感がみなぎる名作四編を収める。
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Posted by ブクログ
「山月記」を高校生の頃に初めて読んだとき、格調高い文体や比喩の妙に心を奪われた。しかし再読した今、最も胸を打ったのは李徴の内面である。彼が味わった孤絶、人としての道を踏み外した悔恨、理想と現実の乖離から生じる自己否定、そのすべてが痛切に迫ってきた。特に「己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。」という一文に宿る、言葉にならない悲しみが深く響いた。夜露では覆いきれない涙や苦悩、誰にも理解されないまま時だけが過ぎていく空虚さが、その短い表現に凝縮されているように感じた。当時は気づけなかった“距離”―人間関係の中にある微細な断絶、孤独の輪郭、そして胸を灼く後悔。それらを今では読み取れるようになった。李徴の絶望は悲劇ではなく、人間が陥りうる普遍的な罠なのだと気づき、胸が締めつけられた。
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新潮文庫2024プレミアムカバー。レモンイエローに金の箔押し。30年前以上前の版より字が大きくて読みやすい。
漢文調の文章が格調高くて心地よい。
学生時代に読んだ時とはまた違う感じがする。
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改めて秀作と思います。
学問、芸術、スポーツ、芸能、政治、ビジネス。人が何かを志すときに時として精神の強さが肉体の強度を超越してしまうほどのことが起こりうる、そういった人間の精神性がが語られているのではないかと感じました。
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やっぱりすごいすね
山月記が、「臆病な自尊心」を持った自分に刺さりまくるのはわかってたことなんだけど、
それ以外の作品も、難解な言葉遣いでありながら生々しさを失わず、内面の葛藤や懊悩がグッと心を揺さぶってくる読み直してよかった
Posted by ブクログ
人の生き方や自己の選択が強調されている。良いこと、悪いことの教えも与えてくれる。この本を通じて、自分の成長や生き方について深く考えさせられました。
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昔教科書で読んだ山月記を久しぶりに読みたいなと思ってた時にタイミングよくプレミアムカバーで購入。山月記はもちろんのこと李陵が素晴らしく良かった。三人の人物の生き様が描かれるが三人それぞれに「自分が思い描いていた人生からは意図せず外れた状況」の中での葛藤や生き方の違いが描かれる。三者三様に身につまされる。太平洋戦争中に書かれた作品であることや、夭折してしまった著者の遺作であることも含めて色々と考えさせる力を持った作品。夭折の作家にはもれなく思うことだけど長生きして戦後の社会を生きていたらどんな作品を描いていたんだろうなと残念でなりません。
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山月記
「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」
「しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。」
「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。」
「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」
「本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」
李陵
「それは殆ど、如何にいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同志のような宿命的な因縁に近かいものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。」「五月の後、司馬遷は再び筆を執った。歓びも昂奮も無い・ただ仕事の完成への意思だけにむちうたれて、傷ついた脚を引摺りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いで行く。」
「彼は粛然として懼れた。今でも己の過去を決して非なりとは思わないけれども、尚ここに蘇武という男があって、無理ではなかった筈の己の過去をも恥ずかしく思わせる事を堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるさような女々しい己の気持ちが羨望ではないかと、李陵は極度に惧た。」
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物語としてめちゃくちゃ面白いだけでなく、非常に勉強になる。中国古典を掘り返して、このように小説として昇華するとは、とんでもない人だな。特に、李陵が泣ける!
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「山月記」
虎だね。
「名人伝」
主人公の紀昌が天下一の弓の名人を目指す話。往年の少年漫画のような展開が多く、思わずニヤリとしてしまう。特に、紀昌が山奥の老名人のもとへ赴く件が面白い。
長年の研鑽により師匠と同等の腕になった紀昌は、師匠から山奥に住む老名人の話を聞く。「老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど児戯に類する。」自分の技量に自信を持つ紀昌は、これを聞いてすぐに老師の住む山へ赴く。やはり、真の名人は山奥に住む老人でなければならない。老師に出会った紀昌は、自分の弓の技量を見せつけるため、挨拶も早々に、空高く飛んでいる鳥を打ち落とす。これを見た老師の発言が秀逸。「一通りできるようじゃな、・・・だが、それは所詮射之射というもの。好漢未だ不射之射を知らぬと見える。」老名人には、こういうことを言ってほしいと思っていることそのままのセリフ。素晴らしい。
紀昌はこの老名人のもとで修業を行う。長年の修業により遂に天下の名人となった紀昌は、表情のないでくの坊のような容貌になって、街に帰ってくる。「枯淡虚静の域」に入った彼は一向に弓を手に取ろうとしない。彼は言う。「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし。」遂には弓という道具の存在すらも忘れてしまう。「ああ、夫子が、-古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てたとや?ああ、弓という名も、その使い途も!」こういう展開がたまらない。
「弟子」
孔子の弟子のひとり、子路の視点から、孔子との関係を描いた話。
師と弟子という関係は、人間関係の中でも、特異なもののように感じる。血でもなく、友情でもなく、親愛でもなく、ビジネスでもなく、信仰でもなく、ただ、人格によって繋がっている関係。この作品内では、そんな不思議な関係の雰囲気を感じ取ることができる挿話が多数語られている。なかでも、特に印象に残っている話がある。
世間からなかなか認められず放浪の旅をしている途中、孔子達一行から遅れて歩いていた子路が、ひとりの隠者に出会う。子路は隠者に招かれ、彼の家で隠者の生活を体験する。「明らかに貧しい生活なのにも拘わらず、眞に融々たる裕かさが家中に溢れている。」また、隠者は子路を孔子の弟子と知ったうえでこのように言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕の謂ではない。」子路は初めて経験する隠者の生活に幾分かの羨望を感じた。翌朝、隠者の家を出た子路は、昨夜のことを振り返る。欲を捨て道のため放浪の旅を続ける孔子のことを思うと、隠者に対して憎悪の感情が湧いてくる。昼下がり、ようやく孔子の集団の影が見え始めた。「その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然、何か胸を締め付けられるような苦しさを感じた。」
師弟関係とは一体なんぞや。
「李陵」
李陵、司馬遷、蘇武の人生の話。
運命、というと少々陳腐な表現になってしまうが、この作品を読むと、人生には運命としか称しようのないことが部分があるということを強く感じる。
李陵は漢の武将。匈奴を討つため辺境に派遣されるが、敗北し捕虜となってしまう。単于に従いつつ、すきを見て討ち取る機会を窺うも、匈奴の生活に触れ、溶け込んでいく。ある時、漢の武帝から匈奴に寝返ったと疑われ、家族を皆殺しにされる。李陵は漢に対して憤怒を抱き、漢へ帰る意思を完全に失くしてしまう。
李陵の苦悩は、蘇武の存在によってさらに深まる。李陵が匈奴に下るより先に、匈奴の国に引き留められていた蘇武は降伏することを肯ぜず、へき地で孤独と困窮の中生きていた。
忠節を守り続けたところで、誰にも知られなければ意味はないではないかと李陵は思っていたが、偶然にも蘇武の存在が漢に知られ、遂に蘇武は帰国することになる。
そんな蘇武と匈奴に降伏した自分を比較し、李陵は煩悶する。
一方、司馬遷は李陵を非難する宮廷の中で彼を擁護したことによって、宮刑に処される。絶望し自殺しようとするが、父から引き継いだ史記を完成させるという使命を果たすため、死人のように生き続ける。
憤怒と煩悶と諦観が混じった、李陵の複雑な心中。運命を笑殺しつづけた蘇武。絶望するも使命という一点にのみ生き続けた司馬遷。
3者3様の苦悩と運命を前に茫然としてしまう。この感覚を捉えて言語化できるようになるまで、何度も読みたい。
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教科書に載る理由がしっかりとある。
難しいけれど、とても読み入ってしまいました。
「おれの毛皮のぬれたのは、夜露のためばかりでない。」の言葉が1番刺さりました。
虎になってしまい、詩人としても人としても
もう分かってくれる人がいない。孤独さが痛い程伝わりますよね。
人は誰しも心の中に獣を飼っている。
Posted by ブクログ
2024.03.24〜04.07
いつの時代にも、忖度する奴がいる。
自分に真っ直ぐな人が損をする。
「李陵」の人間臭さとは異なる「山月記」の人間臭さ、どちらも良かった。
Posted by ブクログ
『山月記』についての記述。
高校の授業で初めて接した作品です。
冒頭で主人公の李徴に親近感を抱いたので、発狂して虎になる展開はショックでした。
何となく自分の事が書かれている様な気持ちになるのです。
以来、何十年も経ちますが、何故か『山月記』は私の心にずっと存在しています。
現在では、YouTubeで多くの方が朗読されているので、時おり聴いて李徴に憐れみを覚えるのです。
決して読んで楽しくなる作品ではないのに、つい紐解いてしまう不思議な魅力が『山月記』には有りますね。
強いて言えば、李徴の不幸を芸術の域にまで昇華させてしまう、中島敦の才能に触れたくなるのでしょう。
本文から抜粋。
「己は堪らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って吼えた。誰かにこの苦しみが分かって貰えないかと。」
(『李陵・山月記』新潮文庫 P.17)
「しかし、···(中略)···天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持ちを分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」
(同 P.17)
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『山月記』は虎になった男の話として知ってはいたが読んだことはなかった。『李陵』は前漢頃の話でこちらも運命と自己の忠義や正義との葛藤が良かった。
Posted by ブクログ
『山月記』、『名人伝』、『弟子』、『李陵』の4作品が収められた短編集。
中国伝記や古伝説に取材した著者のどの作品も、常に「自己のあり方」を見つめ続けている。
詩作、弓、儒家の道、軍師。それぞれが抱える苦悩や葛藤や孤独感は、現代人が抱えるアイデンティティクライシスに異としない。
自分の弱さや克服できないこと、曲げられずに意地を張ってしまうことは誰しもある。
作中の登場人物達は、それを自らが明確に自覚し、どう向き合うかを自分が考えることが大切であることを教えてくれているような気がした。
複雑な人間関係や自己実現性への挑戦を諦めず、悩みながら曲がりなりにでも、なるべくまっすぐに、「自分を生きる」ことを目指してゆく主人公達の姿は、本当にかっこいい。
高貴で美麗な人物描写の中に、運命の儚さや虚しさを絶妙にしまい込み、読者の胸に言葉の深みを染み込ませてくれる感覚を覚える。
元史料に基づき中島敦氏の言葉によって、繊細で明瞭で丁寧に描き出された懐疑的自我は、どの読者もが自己のあり方を見つめるきっかけとなるに違いないだろう。
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表題作の一つ、山月記は教科書にも載っていたような…自らを恃むことの強い天才の孤独と後悔は、大人になった今こそ心に響く。
もう一方の李陵も孤独を扱った作品。祖国に裏切られた主人公・李陵と、それと対比されるように描かれる蘇武。李陵が祖国・漢を捨てて匈奴の土地で暮らすことを決意したのに対し、蘇武は純粋な祖国への愛を貫き通す。蘇武の姿を見た李陵の心の葛藤は程度の差はあれど、誰にでも感じたらことのあるものと思われる。
Posted by ブクログ
大人になって読む、山月記。
多分、高校の教科書に載っていた山月記。
当時は虎になった人間の話。くらいの印象しかなかったけど、これ、自意識を拗らせたが故の。。。がわかると、一気に、なんというか親近感が湧く。。
Posted by ブクログ
学生時代には苦手意識の強かった「漢文」であるが、中島敦氏の本作は漢詩の風体を持ち、深い教訓とともに純文学的な味わい深さも兼ね備えている。一文字一文字推敲に推敲を重ねたであろう文章には一切の無駄がなく、研ぎ澄まされていながらも懐の深い柔らかさがある。200ページほどの本だが、うち50ページが注解という中島氏の凄まじい意気込みと迫力を感じさせられる。4つの収録作品はいずれも示唆に富み、甲乙つけがたし。
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早逝の著述家、中島敦の短編集。
昭和の時代には珍しく中国古典を紐解いて、我々にも読みやすく再編している。
内容は詩人が虎になる山月記、
弓の達人が武の極限に達する名人伝、
孔子の弟子で破天荒な子路の人生を描く弟子伝、
苛烈な漢の時代を生きた武将の数奇な人生を描く李陵
どの短編も現代にも生かせる教訓に満ちている。
中国古典も良いなと思わせる本だった。
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虎になってしまった詩人李徴がかつての親友と出会い、自分がなぜ虎になったのか気づく
「共に、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である」「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に踊り入って、再びその姿を見なかった」
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自分はその辺の人よりはすごい人間だっていう自信があって、でも上には上があるから本気になったら自分のダメなところを晒してしまうんじゃないかって不安もあって、2つの感情に挟まれた結果人との関わりを避ける。
切磋琢磨すること、時には失敗することがどれほど大切だったか後悔している虎を見て、これから始まる新生活では純粋に成長するために分からないことも分からないと言える人になりたいなあと思った。
新しい目標ができた時に見返したい本。
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国語の授業で出会った作品。
自分の力を過信して足りないものを補おうとせず、一方で自分の力を無さの露呈を恐れて仲間と切磋琢磨することもしなかった。自尊心がすぎるあまり、うまくいかなかった時の羞恥心を飼い太らせ、やがては虎になる。
誰しも心に虎を飼っていて、その虎に目を背けずに受け入れる必要があるのだなと思った。身につまされる。
最後まで残してきた家族より自分の詩歌の道のことしか考えてないから虎になったんだよ、と呆れてたら李長自身も「こんな姿になってまで家族のことより詩歌のことしか考えてない自分が情けない」と自覚していたので、少しかわいそうに思えた。笑
Posted by ブクログ
漢文っぽくて読みにくいなぁと思いながら読み進めると、たまに視界が開けたように現代文っぽく書かれてるから戸惑う...
「山月記」と「名人伝」はサクッと読めてわかりやすかったな。
虎になってしまったら...例えば末期癌になってしまったときのような状況にも当てはまるかもしれない。健康だったときに思いを馳せつつ、現状全てを受け入れて残りの人生を生きるのだろうか...なんてことを考えました。
Posted by ブクログ
「山月記」は中学でも高校でも授業で読んだけど、中島敦の他の話はよく知らないなと思って読んでみた。表題作を含む4編を収録。
「読み進めるのが難しい本だな」と、まず感じた。話は全て中国の古典を題材に取っているので、人名、地名、役職名にとにかく馴染みが無く、ほぼ全てに注釈が入っているので本文と巻末の行ったり来たりを繰り返すことになった。
ただ、「山月記」が「芸術(というか人がそれぞれ持つ夢と言えるもの)への苦悩と後悔」を描いていることが分かりやすいように、それぞれの話のテーマや登場人物たちの心情はとても分かりやすく、ときにはとてもドラマチックに描写されている。
とにかく今回は内容を追うだけで精一杯だったので、他にも色々なレーベルで読んで、いつかもうちょっと楽しめるようになりたいなと思った。
Posted by ブクログ
臆病な自尊心尊大や羞恥心
初めはなぜ虎になってしまったのかわからなかったが、後半にかけていくにつれ自身の冷酷さと孤独さを認めて虎となった自分を認めていく。山の李徴と月の袁さん、山の下から吠える李徴
李徴と袁さんの対比とともに、李徴の強い人間性を感じる作品のようです