あらすじ
人買いのために引離された母と姉弟の受難を通して、犠牲の意味を問う『山椒大夫』、弟殺しの罪で島流しにされてゆく男とそれを護送する同心との会話から安楽死の問題をみつめた『高瀬舟』。滞欧生活で学んだことを振返りつつ、思想的な立場を静かに語って鴎外の世界観、人生観をうかがうのに不可欠な『妄想』、ほかに『興津弥五右衛門の遺書』『最後の一句』など全12編を収録する。
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高瀬舟の感想を。
凄く良い。
安楽死や尊厳死について深く考えられる。
現在の日本では、安楽死という制度は認められていないが、スイスなどでは、シロップのようなものを飲むことで安楽死ができると聞いた。
日に日に身近な存在になっていると思う。
現代の人たちは医療技術の発展が進むにつれて人は死を忘れていっている。どこか遠いものだと思い込んでいる。
でも身近な所に死は存在し、死に苦しんでいる人もたくさんいる。
そんなことを感じさせた。
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「山椒大夫」や「高瀬舟」など有名な小説群のなかにあって、「二人の友」だけがエッセイ。九州の小倉で知己になった二人について書いている。37歳から39歳、小倉「左遷」時代、単身で生活する鷗外の日常も見える。
二人の友とは、安国寺さんという僧侶とF君。安国寺さんは鷗外に唯識論を講じ、鷗外は彼にドイツ語を教えた。彼は、松本清張の「或る「小倉日記」伝」にも登場する。
F君はいわば押しかけ弟子。本名は福間博。ドイツ語がよくできた。鷗外は、余暇に一緒に出かけるだけでなく、彼の就職の世話もした。(蛇足。福間はその後上京して、旧制一高のドイツ語教員になった。芥川龍之介や久米正雄が教わったが、彼らが大学2年生の時に死去。2人とも葬儀に参列した。葬儀の導師は安国寺さん。鷗外は都合がつかず、息子を参列させたようだ。)
このエッセイ、文章の巧さに陶然とする。簡潔で、無駄がない。しかも、情景が鮮明に思い浮かぶ。さすが鷗外。
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何十年も前に、この『鶏』を読んだ時に、とてもイラっとしたのを思い出す。今もそうだが、この”別当”のタイプの人がものすごく嫌いなのである。足元をみて、じわじわとグレーゾーンで悪いことというか、セコいことをするヤカラ。人のものを自分のもののように使い、勘違いする。この別当の延長線に最近大きな問題になった某球団をクビになった犯罪者のような人に繋がるのかと思う。
石田は吝(けち)ではあるが、美学のある人物として描かれる。美学、というか良えカッコしいというか、めんどくさいというか、、そこらへんもわからんでもない。腹が立っても言わない人っちゅうかねぇ。ほんま、わからんでもないが、モヤるのである。
「鶏なんぞはいらんと云え。」
執着、という言葉を考えさせられる話でもある(主観)。
この時代の軍人(位の高い)的な、というか、
石田(森先生のアバター)の教育者向きの部分を感じなくはない。
細かいことは思うけど言えない、モヤっとしつつ
表向きはポーカーフェイス上等である
それ以上に、別当タイプのうざい人にはかかわらず、
関わると同じクソに落ちるように感じて逆に口聞けない
無視が一番というか、、(100%主観か)
書き出すと、異常に長くなるのでこの辺でやめておく(笑)
小倉三部作と総称されるのは
「鶏」、「独身」、「二人の友
学生時代、研究テーマを森鴎外にしようかめちゃくちゃ悩んだ時期があった。
結局別の人にしたが(すまん森先生)、それぐらい非常に入れ込んだ作家である。
小倉の旧森鴎外邸を訪れる機会に恵まれたのでゆっくり再読した
「この土地の家は大小の違いがあるばかりで。
どの家も皆同じ平面図に依って建てたようにできている。」
『鶏』で石田が感じた小倉の住宅は、
そのまま森先生が感じたことであろう
現在はしょうしょう背の高い近代コンクリートのアパートメントなどが周りを囲んでいて、少々興がそがれるが、邸本体のたたずまいはしっかりと当時を保っている。
「門口を入って左側が外壁で、家は右の方へ長方形に延びている。その長方形が表側と裏側に分かれていて、裏側が勝手になっているのである。」
「先ず、柱が鉄丹(ベンがら)か何かで、代赭(明るめのマットな赤茶、赤土の顔料赭”そほに”)のような色に塗ってあるのが異様に感ぜられた。」
異様ではあるが不快ではない、とも書かれている。
新築とは言わないが、建ててからそんなに年数が経っていないのに、
「何となく古い、時代のある家のように思われる。」
このあたりは要塞が近いので石塀や煉瓦塀を築くことができなかったらしい。なので、現在も当時のままの竹の生垣なのであろうか。
「玄関から次の間を経て、右に突き当たる西の詰が一番よい座敷で、床の間が附いている。」
裏側の方は、西の詰が小さい間、その次がやや広い。「この二間が表側の床の間のある屋敷の裏」
「表側の次の間と玄関と裏が、半ば土間になっている台所」
「井戸は土間の隅に掘ってある」室内井戸になっている。
「庭には石炭屑を敷かないので、綺麗な砂」
「真中に大きな百日紅の木がある。垣の方に寄って夾竹桃が五六本立っている」
残念ながら庭の地面も庭木も経年ですこし違っている
裏庭は表庭の3倍ぐらいの広さ(現在はそんなに広くはない)、所々にみかんの樹、「瓦で築いた花壇には菊、丸石で畳んだ井戸、どの石の隙間からも赤い蟹。」
赤い蟹はいなかったが、ジョウビタキがうろうろしていて
とても趣があった。
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高瀬舟にフォーカスします。
人間にとって充足ってなんだろ?と深く考えさせられました。
「足るを知る」と「安楽死(もしくは本人の委託による自殺幇助)の正当性」がこの本の2大テーマだと思いますが、これらのベクトルの方向は正反対なのか、もしくは同一方向なのか?
足るを知る、は老子の言葉そのものですが、安楽死については無為自然や八正道には反しているようにも思う。そう考えると、東洋思想へのアンチテーゼのようにも感じます。
ただ、自利的安心(足るを知る)と利他的慈悲(今回の場合の死)と考えれば、大乗仏教としては唯一不二になって正当化されてしまうかも。
鷗外に聞きたいところですが、自分で考えろと言われるんでしょうね。もう少し思考してみます…
Posted by ブクログ
12篇からなる短篇集。
『妄想』を始め幾つかの作品から、鷗外の考え方や人付き合いがよく分かり興味深い。ベルリン留学は彼にとって非常に有意義な経験であり、頭脳明晰で医学だけでなく文学も書かずにはいられなかったと推察する。
『山椒大夫』は所謂「安寿と厨子王」で、姉弟の思いやる気持ちに心震える。タイトルが何故に山椒大夫なのかは理解できなかった。
『高瀬舟』は17頁の短い作品中に、生き方や命に対する問いかけがギュッと詰まった名作である。
鷗外がすっかり好きになったので、更に他作品を読みたい。
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(高瀬舟)情景描写が丁寧に描かれていて物語の中に引き込まれるような感覚に陥った。自らの貧しい境遇と罪人と呼ばれる高瀬舟の乗員の境遇を照らし合わせる場面に心打たれた。
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中高生の頃、漱石はほぼ全てを途中挫折していたが、短編中心の鴎外はよく読んでいた。数十年ぶりに読み返しても、格調の高い文体、冷静で客観的な表現は切れ味見事で、日本語の素晴らしさを十二分に味わうことができた。ただ、小説としてはどうなのだろう?創作というよりも分析のような物語が多く、冷徹な視線で一段高いところから下々の実態を描写する、そんな感じを受け怖かった。
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森鴎外の歴史小説に描かれるテーマを心に感じるよう読み進めた。
明治後半、欧米文化を盛んに取り入れる日本にあって武士の時代をテーマに何を世の中に問おうとたのか。
それは彼が実際にドイツ留学に行き、欧米文化を肌で感じ、それを盲目的に取り入れることで日本の文化、精神までもが忘れ去られることへの危機感ではなかったのか。
「自己犠牲」の美が、そのひとつのテーマになっていると思う。
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面白い、というよりは精神修行だな。個人的には。山椒大夫とか自分にはキツ過ぎて無理。でも、こういう本を一度は読んでおかないとダメなんだと思う。
二人の友は好きですね。妄想とかも。
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まさに表題作の山椒大夫と高瀬舟の二篇が良かった。二篇共に昔話のような馴染みやすさがあったからだ。他の話は私には、たまに難解なモノもある。
山椒大夫は、安寿と厨子王と言った方が馴染み深い。世間知らずとは言え、人買いに攫われ、不幸に見舞われる母と姉弟。離ればなれになり、自分よりも弟の生を重んじる姉の自己犠牲。安寿の最後を暗示させる文章が心に焼き付いて離れない。
また、高瀬舟は弟を苦しみから楽にさせてやりたいと思う究極の兄の行動。それだけではなく、罪人と護送する同心の生活観、価値観の対比も深い。
家族を思う気持ちは今も昔も変わらない。大事なモノのために私には何ができるのだろう、と問い直しをしている。
森鷗外は留学生活をしていたからか、日本人の精神性を客観的に捉える事ができたのかもしれない。阿部一族の時も感じたが、物語を通して、日本人の精神性を認める部分と「これでいいのですか?」と問いかけている部分があるように思う。明治から大正にかけての時代に勇気のいる文筆活動だったのではないだろうか。
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高校の頃、授業で高瀬舟を習い、幸せの価値観について考えさせてくれるきっかけをもらいました。
ただ、どうしてもこの時代の頃に書かれた文学作品は個人的にどうしても読みづらい感が否めず、星4にさせていただきました。
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『高瀬船』
ざっくりと「安楽死」がテーマの話、くらいの認識しかなかった。改めて読み返すと「こんな話だったっけ?」という発見があった。
まず、喜助が悲しんでいない。むしろ喜んでいる。自分の記憶の中では、弟を「殺し」てしまった喜助は罪の意識に苛まれ船上では悲壮感を携えながら揺られている、というイメージがあった。しかしそのような喜助の姿はそこにはなく、むしろ穏やかな雰囲気で居るのである。
「弟を殺してしまったことで罪の意識が生じ、罪人としての自分が罰せられることに喜びを感じているのかな?」と喜助の感情を解釈してみたりしたが、どうもそのような様子は読み取れない。場合によっては、そのような感情を持っていても不思議ではないが、喜助の「喜」の感情は「罪を償う」ことから生まれるものではない。その主因は、おそらく、「現生活からの解放」だろう。現に彼はお上から僅かなお金をもらって喜んでいる─これまでこんなお金を持ち歩いたことがない─と。
さて、本文冒頭に戻ろう。『高瀬船』は安楽死がテーマの作品と言われている。しかし、本書の最後に記されている『高瀬船縁起』で、鴎外は高瀬船では2つのテーマがあると述べている。一つはむろん安楽死しである。もう一つは「財産に対する観念」、有り体に言えば「足るを知る」である。人の欲は際限がないもので、金が無ければ金を望み、金があっても更なる金を望む。我々は現状に満足することはないし、言うなればその欲望こそが文明を進化させて来た。その観点で言えば、欲望フルスロットルで生きてゆくことは、一概に「悪」だと断定はできない。
だが、常に不満の状態で生きることはとうてい幸せな生活とは言い難い。そこには漠然とした不安感があり物足りなさがあり焦燥感がある。足るを知らずに生きることは、今を蔑ろに生きることであり、過去を投げ捨て理想の未来に依存して生きることである。
喜助は罪人という身の上でありながら、その境遇にある種の喜びを見出している。その感情の出所は喜助本人にしかわかりようがない。しかし、そこには、すべてを失ったことで吹っ切れた喜助の「諦観」の念が裏返ったとでも言うべき一種の喜びがあるように私には思われるのである。
Posted by ブクログ
高校のとき、高瀬舟から見る安楽死の在り方というタイトルで研究発表をした。
医者でもあった森鴎外が書いたことも含め、改めて読み継がれる作品だと思う。
Posted by ブクログ
足りてることを知っている人が一番幸せなんだと思います。あと安楽死の是非を思案することに意味があるように思います。問題から目を背ける事がないように。
Posted by ブクログ
昭和54年10月15日 28刷 再読
鴎外日露戦争後、医務局長となり、自由に小説を書きはじめた時代の 短編12編
「杯」
明治43年1月 1910年
8人の少女達がそれぞれの杯で泉の水を飲む。一人は異国の少女で、陰湿な言葉で排除されようとするが、その態度と自国の言葉で自己を主張する。
凛として美しい。数ページだが、印象深い。
「普請中」
明治43年6月 1910年
ドイツから愛人だった女性が訪ねてくるが、拒絶する日本人参事官。日本はまだ政治も文化も普請中である、待ち合わせのレストランも工事中。
「カズイスチカ」
明治44年2月 1911年 臨床記録
医学士の青年が、開業医の父親の代診をした経験。父親の知識と経験に尊敬をする様になる。
「生理的腫瘍」の表現には、感嘆。病気だと思っていた妊娠のことでした。
「妄想」
明治44年3月 1911年
鴎外と思われる翁が自分の半生を振り返る。自分は、望まれた自分を演じてきたようだ、と。ドイツ留学時代、自然科学を研究しながら哲学を漁り、それが、その後の作品にも影響する。生と死にも言及しており、これからの生き方について考えいたのだろうか。
最後にきて、これらの著述自体を反故とする。と書き加えられていた。
「百物語」
明治44年 1911年
僕(鴎外)は百物語の催しに参加するも、話には興味なく、集まった人、開催して人を興味を持ってみる。
「興津弥五右衛門の遺書」
1912年 歴史小説集『意地』の一つ
難しくて読めない。
一番良い香木(初音)を買う為に人を斬ってしまう。でもそれは主人の願いだから許される。初音の一部は献上され(白菊)となり、今も徳川美術館に展示されているそうな。
「護持院原の敵討ち」
大正2年 歴史小説『意地』の一つ
盗賊に父親を殺された青年と父親の世話になった壮年の男が、敵討ちをする為全国を巡る。その過酷さに息子は離脱してしまう。最後は敵討ちをすることができる。
これは中々良い。心情が理解できる。敵討ち制度は明治初頭に廃止されたが、武士社会に於いて、重要な役割があったのかもしれない。
「山椒大夫」
大正4年 1915年 五説経 さんせい大夫原話
理不尽な人攫いにより辛酸をなめる安寿と厨子王。
昔は絵本でもありましたね。小説では、拷問のシーンは無く、自ら入水。焼印も夢の中の出来事となっております。後は、ほぼ同じ。
安寿の武士の家の姉たる悲哀、弟への愛情。
世界の何処かでは、まだこようなことが起きているのかと思う。
「二人の友」
大正4年 1915年 小倉にて
実在した二人の友と鴎外との顛末。
時代なのか、それぞれ頭脳明晰なのか、懐が深い三人。小倉で知り合ったが鴎外が、東京へ戻ると、それまでの生活を捨てて、二人とも付いてきてしまう。それぞれの得意な分野で学び合う。一人は結婚の面倒までみる。
現在では、考えられないような実話ですが、微笑ましくもあり、無鉄砲でもあり。
「最後の一句」
大正4年 1915年 太田蜀山人「一話一句」
死罪と決まった父親を助ける為、長女は自身と幼い姉弟を身代わりに差し出す。そこで、お上に審判を促す。少女の「間違いはございませんでしょうから」という、意思表示が表題となっている。
「高瀬舟」
大正5年1月 1916年 翁草 「流人の話」
高瀬川を下る舟に乗る罪人、喜介。彼の生き様に、安楽死と、知足を語る。
考えても、経験を積んでも、結論が出ない題材。純粋に感嘆して読んだ、が、その後の自作解説までは読んでいないので、本当に意図したところは理解していないのかもしれない。
森鴎外では、この短編集が一番、理解しやすいのでは、と思う。鴎外自身が、多少自由となったこともあるのかもしれない。
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森鴎外の代表作の1つ。文豪と言われるだけあって文章が難しい。注釈の数もかなり多く難しさが伝わってくる。本書は様々な作品を収録しているが、テーマも幅広く重たいものが多い。
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・庄兵衛は只漫然と、人の一生というような事を思って見た。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考えて見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が附いた。
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表題作2作のほかでは「カズイスチカ」が印象に残った。
語り手である医師(花房学士)は、先輩医師である自分の父親(翁)を観察して以下のように述べる。
「翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以て病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが、重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽をもてあそんで(当コメント者注:実際に使用されている漢字に変換できず)いる時もその通りである。茶を啜っている時もその通りである。」(P.34)
「そのうち、熊沢番山(当コメント者注:番は実際の漢字に変換できず)の書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪をくしけずったり(同上、漢字変換できず)するのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父のrésignation(コメント者注:P.275注より「諦念」)」の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながら見えて来た。」(P.35)
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[山椒大夫感想]
この物語は私が文学に求めている人間の本質の姿には深く迫らず、家族愛がメインで書かれていたので、あまり私にはしっくり来なかった。
人買いに買われ、その生活は非常に私の同情の念を引き起こした。弟や姉もいつかこの生活を脱したいと言う共通認識があったと見え、脱走に至ったのだと思う。姉が犠牲になるために、入水自殺したのは、一緒に脱走する仲間としてやってきた弟にとっては耐え難いものであったと思う。その犠牲を無駄にしまいと、弟が出世を果たし、最終的には生き別れた母に会った。だが、その感動の再会も母が老いぼれており、再会の中にも一抹の寂寞な感じがあった。
私も私のために身を粉にしてくれた人に対して、自分が何か報いを受けたり、生きていれば相手に恩恵を与えたりしたいものだと思った。ペシミズム全開の純文学を求めている私であるが、どこか考えさせられるところがあった。
[高瀬舟感想]
喜助が弟を殺したのは、果たして罪なのだろうか?読み終わってこのような問が浮かんだ。
私は病気で人生遠回りしてきた身なので、この話に出てくる安楽死は擁護派だ。私は罪だとは思わない。苦しかったら、死ぬという選択肢もありだとは思う。生というのは、汚濁しきったこの世の中で揉まれながら悶え苦しむことだと思うので、ましてや病気持ちであればより一層辛いと思う。
死についてもかんがえてみた。死とは名誉と屈辱の終着駅、すなわち歴史上の人物でない限り、死んだら名誉も恥も語り継がれなくなるということは以前から悟っていた。だが、それと同時に恒常的な自己意識の虚無の始発駅、すなわち死んだら永遠に意識は戻らず、その意識は輪廻転生先にも受け継がれない(中には前世の記憶を覚えている人もいるらしいが)とも悟った。苦しいという意識がなくなるのだから、場合によっては死は救済の一面もあるということを再認識させられた。
私の死生観はまだまだ発展途上なので、これからも色んな文学の作品に触れて、死生観をアップデートさせていきたい。皆さんの死生観も聞きたいところだ
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「高瀬舟」が読みたくて購入した本。森鷗外の作品はこれまで舞姫くらいしか読んだことはなかったが、この作品にはある種の衝撃を受けた。軍医であるからこそ見つめ続けてきた安楽死という問題を小説作品に昇華させているところが興味深い。この内容は現代では自殺幇助の罪に問われると思うが、何とも複雑である。
また、この作品集に収められている「最後の一句」も面白かった。これもある種の衝撃を受けた。
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初森鴎外。
森見登美彦経由で百物語は青空文庫で読んでいたけれど。
逆に森みーっぽいと思ってしまうのってどうなのか?
小説や近辺エッセイ的なものは好き。
受け付けないものも半分。
でも現代の常識で読んでしまっているからなのかもしれないということも、解説を読んでみて思った。
近代文学の裾野を広げていこうキャンペーン第一弾としてはまずまずのスタート。
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「百物語」を読みたくて手に取ったんだけど、「妄想」が面白かった
なんでいつも鷗外は外国語をそのまま引用するのかと思っていたけど、ぴったりくる日本語訳がなかったからなんだと納得
山椒大夫はこんなにむごたらしい話だとは思わずすごく悲しくなった
遺言のやつは人多いし文字がぎゅってなりすぎてて頭の中が混乱しまくった恥ずかしい
敵討ちのやつは相手の顔も行方も知らんと探すなんてもはや阿呆やと思って読んでた見つかってよかったけど。結局宇平はどうなったんやろ。
Posted by ブクログ
たるを知ることと、安楽死について。
安楽死のテーマは自分も身内の苦しむ姿を見た経験があるから共感できる部分があった。
足るを知ること、人と比べないことは難しい。お金がいくらあっても上を見てもっともっと、と比べてしまう自分に気付かされた。
Posted by ブクログ
表題作やエッセイのようなものも含む短編集。
古い作品だが、改行がしっかりされているので読みやすい。
高瀬舟なんかは、著者が医師であるがゆえに描いた作品かなと思う。
たまには古典を読むのもいい。
Posted by ブクログ
2021/07/04
感想)庄兵衛の心の動きが自分と同じだった。喜助の境遇に同情し、判決に疑問を覚えるも、自分の力ではどうにもできないのを悟り、聞くだけ聞いてそのまま送り出すところ。喜助に対して何となく罪悪感を覚えた。
残す'庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。
Posted by ブクログ
中学生の授業で初めて読んだけど、
話の意味が分かれば、めっちゃ意味が
分かるし、高瀬舟は本当に主人公が
悪人か善人なのかどっちだ〜‼️
Posted by ブクログ
初鴎外。有名な表題作など全十二篇を収録。私小説的な作品もちらほらあり、鴎外の考えをうかがうに重要なようですが、ドイツ語やらフランス語やらがやたらめったら差し込まれており、とにかく読みづらい。こーゆう作風が当時の流行りなのかなと思いきや、解説曰く、どうやら鴎外の厭味の表れであるよう。
一方、「護持院原の敵討」や「山椒大夫」、「最後の一句」、そして「高瀬川」はおもしろい。「山椒大夫」はとにかく悲惨。最後は厨子王の地位も安泰し母親と再会してよかったと思いますが、心にしこりが残ります。それはやはり安寿の存在。犠牲のうえに成り立つ幸福。これは手放しで喜んでいいのでしょうか。本作ではそのあたりの葛藤を一切除いて描かれているような気がします。犠牲と幸せは表裏一体、それが当たり前の世の中に疑問を投げかけているようで、魅力を感じます。
そう思うと「高瀬川」も犠牲と幸せの構造と捉えられなくはない気がしますが、この作品の魅力は善悪二元論で語れないところかと。加えて、登場人物の心情の変化もわかりやすいので、たしかに国語の教科書向きだなぁと思うところです。