あらすじ
聞いて欲しい人が一人おるんです。政と聖を描く芥川賞候補作。早野ひかるは「先生」に打ちのめされ、銅鐸と土地の来歴を学び始める。ここではかつて罌粟栽培と阿片製造が盛んで、満州に渡って「陛下への花束」を編み、紀元2600年記念万博を楽しみにしていた青年がいた。いつしか昭和と令和はつながり、封印されていた声が溢れ出す。大阪と大陸で響き合う夢とロマン、恋愛政治小説。
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Posted by ブクログ
圧倒的没入感。『金閣寺』を読んだときの読後感に近い。
ストーリー自体に引き込まれるようなミステリアスな要素や、胸が締め付けられるような恋愛要素がありつつも、登場人物の言葉がどことなく教化的で単なる痛快な小説にとどまらない凄みがある。
感想を書く上でストーリーを簡単に描くと、市の職員として無目的に働いていた主人公・早野ひかるが、銅鐸を作る<先生>に出会い、考えや、私生活が変わっていく物語。アクセントとして、早野が恋心を寄せる長田しおりと、回想的に挿入され、早野と重ね合わせて描かれる川又青年という2人の登場人物がいる。川又青年は、早野が住む茨木の地を舞台に1930-40年代に罌粟(ケシ、アヘンの原材料)を育てる川又幹朗と言う人物。師匠に連れられて、満州熱河で罌粟の畑を作っていた半生があり、本小説で中心的な舞台となる万博という一つの共通項によって早野と結びつけられる。早野は大阪万博へ訪問し、川又は幻となった1940年の日本万国博覧会への訪問を夢見ていた。
本作にて<先生>が訴える「聖(ひじり)」という概念は非常に重要であろう。政(まつりごと)を下支えし、国家を統合するための霊的な支柱とも描かれ、それ自体については、一つの到達点であるとも説明される。聖になるとは、「己の来歴と土地の来歴の軽重がなくなる」というものであり、思想や政治の基層を為すものともみなせる。冒頭の文章にもあるが、かつては名前は土地の名前であったが、いつしか固有名詞となり、歴史は英雄史観として語られるようになった。しかし、聖はそうした固有名詞とは離れつつも、民衆の現実的かつ霊的な生活の基盤として支えてきた人、概念なのだろう。(この辺りは、民藝や生活誌的なテーマに近いのかもしれない)。
★引用1
というのも国家とはそもそも福祉のためにあるからである。そして福祉は何のためにあるかというと、これは労働からの解放区をつくり民間から 聖 を輩出するためである。聖は労働のない場からしか輩出されず、かつて在野においてはその場づくりを寺を始めとする宗教が行っていたのを、今は福祉が代行しているのである。現代では人は国家のたくましい腕に抱かれて初めて聖になれるのである。では聖は何のためか、という質問はこれは成り立たない。ためにするところがないのが聖だからである。あえて言うならそれは国家の霊的な面での統合を家とすると柱のようなもので、常に所定の数の柱がないと家は崩れてしまう
★引用2
聖とは到達点であって、そこからは歩んでいく一歩一歩が正しさで光り輝いていく。聖とは歩みのことであると同時に、その際にからだ一つぶんが占める場所のことである。だから聖になれば己の来歴と土地の来歴の軽重がなくなる。ということは己の来歴と土地の来歴の軽重をなくしていけば聖に近づいていく。そのためにはまずこの土地の歴史を勉強しなければならない
<先生>は銅鐸を作りながら、人々に向かって、聖になること、聖であることの重要性を訴える。それは、現代社会における霊的な裏付けの脆弱さの裏返しであり、まさにそうした「根無し草」的に生きている早野が<先生>に出会い、郷土史への学びや銅鐸づくりを通じて、「根」を生やしていく成長譚とも読める。が、しかし、この小説は早野の成長という話だけでは収斂されず、根を生やす過程でなぜかリーチしてしまう約80年前の川又青年の人生、他者への思慕(川又青年の場合は、その対象が天皇)という感覚とのオーバーラップにより、単なる成長譚から、早野がその純度を高めるにつれ、「狂人」となり、最終シーンへと繋がっていくスリリングな展開を持つ狂気のストーリーへ変調していく。
現代社会において、「根」を持ち、社会における平衡感覚を持ちながら、叫び続けることは、成立するのか。その土地の歴史と、自分自身を重ね合わせ、微かな生きる希望を持つこと、そして、誰も聞いていなくとも鐘を鳴らし、叫び続けることは、現代においては狂人とみなされる以外にあり得ないのか。そんな現代における深い哲学的かつ思想的なテーマも内包しているように思える。
『金閣寺』でも、自己と向き合い続ける先に、何かに投影しないと耐えられないほどの不安が喚起され、青年は金閣寺に美や崇高さの象徴を投影する。自分というものを一定の懐疑をもって深堀すればするほど、自分自身の刹那的な存在基盤に辿り着き、なんらかの崇高さや美という永遠性を象徴する概念に縋るということは、個人的にも理解できる。そうして投影された自分自身の生きる意味が他の誰かによって侵害されてしまう可能性を想起した際に、そのようなことがあるならば、自分の手でそれを毀してしまう欲望にかられるという点も、さもありなんということだろう。
本小説における川又青年は満州で転々と罌粟の栽培への教育を行っていくにつれ、自分自身の存在への不安を掻き立てらる。一方、その存在への不安に対して暫定解を与えるものとして天皇が据えられる。川又青年は疲れ果てた先に、暫定解を真の解にするために天皇からの労いの言葉を望む。それは危険な賭けでもある。
自分自身の存在への不安を抱きながら、<先生>と出会い、自分自身とその土地を貫く「根」を形成していくことで、溌溂とした生を持とうとする早野には、川又への同情がある。また、早野自身も長田しおりを思い、その気持ちを伝えて暫定解から真の解を得ようとする危険な賭けに挑もうとしている瞬間でもある。そうした早野は、その危険な賭けに挑む川又を1人では行かせられないと狂信的に行動を起こしてしまう。そして、その対象は長田ではなく、偶然そこに居合わせた日本という土地の霊的な象徴である天皇へ向けられる。
自分自身の生への不安に対峙し、掘り下げ、今にも崩れそうな危険な道のりを歩く(閉山した鉱山の中にある坑道は、こうした自己と向き合うギリギリの思索の隠喩かもしれない)早野にとって、川又青年の思想は全く同一に思い、自らを同一人物だと思い込んで行動を取ってしまうことは、一見すると完全に「狂っている」ように見えるが、狂人が全くもって自分の行動を真っ当であると思い込んでいるように、早野にとっては、至極真っ当な行動なのである。聖であろうとすること、聖として生きようとすることの難しさ、危険性について早野を通じて描かれることもまた、この小説の深遠なテーマなのかもしれない。