【感想・ネタバレ】零式戦闘機のレビュー

あらすじ

昭和十五年=紀元二六〇〇年を記念し、その末尾の「0」をとって、零式艦上戦闘機と命名され、ゼロ戦とも通称される精鋭機が誕生した。だが、当時の航空機の概念を越えた画期的な戦闘機も、太平洋戦争の盛衰と軌を一にするように、外国機に対して性能の限界をみせてゆき……。機体開発から戦場での悲運までを、設計者、技師、操縦者の奮闘と哀歓とともに綴った記録文学の大巨編。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

このページにはネタバレを含むレビューが表示されています

Posted by ブクログ

ネタバレ

零式戦闘機、通称ゼロ戦。
誕生から戦争の終焉までを描いた本です。

日本でこんなすごい技術があって、
世界を驚愕させたゼロ戦。

アメリカにゼロ戦が徹底的に調べられた後も、
徹底抗戦して立ち向かっていくほどの強さ。

しかし、アメリカに比べて日本の戦闘体制は数が圧倒的に違う。

その中でなんとか日本のためにと出てきたのが、
神風特攻隊。
日本の勝利のために、相手に体当たりしに行く。
胸が詰まる思いです。

改めて日本がすごいと思った本です。
大東亜を自信を持たせたいという気持ちの上の戦争。
ただ、戦争を擁護しているわけではない。

平和な今の日本は、敗戦があってのことで、
ただ、愛国心は持つべきだと思いました。

0
2025年09月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ


随分前に、柳田邦男の「零戦燃ゆ」を読んで
全6巻という、あまりにも長くて難しい作品だったため
太平洋戦争モノでも
零戦関係は、もういいかなぁーと思ってたところ

吉村昭の『戦艦武蔵』を読んでしまったからには
零戦も避けては通れないよなぁーと 笑

吉村先生なら、きっと
違う切り口だろうと、期待を込めて…


三菱名古屋航空機製作所で
初めて、艦上戦闘機が制作されたのは
大正十年十月

国産の航空機は存在せず
機体、発動機と共に
外国製航空機を輸入していた

その後も、外国機の制作権を入手して
外国人技師を招聘
その技術指導の元に
設計製作に従事していたに過ぎなかった


日本の造船技術が
世界的な水準を維持していた事と比較すると
航空機製作技術の水準は
欧米先進国から
大きな遅れをとっていた


第一次世界大戦終結後
それまで、木製又は
木と金属の組合せによる機体が常識的だったが
ドイツで開発された
ジュラルミンの製造が
日本を含めた、戦勝国側に譲渡された事で
陸海軍、民間企業を含めた
技術者が、ドイツへ留学する


昭和7年に勃発した、上海事変をキッカケに
国産軍用機製作技術の
自立を目指すこととなった

海軍は、横須賀に
海軍航空廠を設立し
民間航空機製造会社を
積極的に指導するようになった


そんな経緯から
三菱名古屋製作所の首脳部は
五年前に、東京帝国大学工学部航空学科を卒業し
入社した、30歳の堀越二郎技師を抜擢

研究熱心で、一切の妥協を許さぬ堀越は
社内でも、特異な存在として
高い評価を得ていた

入社後
イギリス、ドイツ、アメリカの航空会社を視察
特に、ドイツでは
機体設計研究をした実績もあった


若くして、設計主務者という大任に
当惑と、深い孤独感に陥るが
海軍からの戦闘機に対する
計画要求は、かなりの高水準が要求された

それまで、世界中で主流だった
複葉型の戦闘機から
無支柱単葉型という
独創性に満ちた設計をした

資料が極めて乏しい中
機の細部構造にも、新たな創意を凝らし
七試艦上戦闘機の試作機が完成

二機の試作機は、飛行実験に耐えられずに墜落
死者は出なかったものの
完全に無に化した


再び、海軍からの発注を受けた
単座戦闘機は
空気抵抗を減らし、機体の重量も
出来るだけ軽くすることに努めた

試行錯誤の結果
最高時速440キロ余りという
海軍から要求された速度を
100キロも上回る機を作り上げた

この高速戦闘機は
その後、一部の改良を加え
艦上戦闘機としての実用的な機能も備え
九六式艦上戦闘機として
正式に採用された


その後の飛行実験から
格闘戦性能も、九五式を遥かに越えた
画期的な戦闘機であった

この新戦闘機の出現が
小中型機の設計理念の進むべき方向を示し
一気に、日本の機体設計技術を
世界的水準まで引き上げた


じわじわと世界情勢が緊張感を増してきた中
前回よりも、遥かに厳しい要求を秘めた
「軍極秘」の発注を受ける事になる

速度、上昇力、旋回性能、航続力
離着陸性能、兵装艤装など
全ての要求項目は
互いにその性能を減殺し合う性格を持ち
一流の戦闘機の水準を遥かに越えたものだった


僅かに、余地といえる一点は
操縦席と燃料タンクに対する
防弾措置が無視されているところだった

血の滲むような研究と試作を重ねて
漸く完成した試作機は
牛車二台に分載されて
名古屋の航空機製作所から
各務原飛行場へ運ばれていった

製作所の近接に、飛行場を持っていないために
45キロの道程を、24時間もかけて
各務原飛行場まで
牛車で試作機を運ぶ

速度の速い航空機を
牛車で運ぶという事には
社内でも批判的な意見があったが

道幅が狭く、悪路を進む上で
機体を損傷させないための、唯一の輸送方法だった

欧州大陸では、ドイツ軍の侵攻が続き
日本をめぐる周囲の情勢も
ますます複雑な様相となってきた

中国大陸の戦火は
予想を超えて拡大し
収拾のつかない、長期戦に陥っていた

テスト飛行を、何度も重ね
都度改修を行った機体は
海軍の試乗テストも重ね
順調な成績をもって終了

航空廠と横須賀航空隊で
実用実験を繰り返した
十二試艦上戦闘機は

全ての問題点が解決し
海軍の正式戦闘機として採用された

その年の紀元2600年を記念して
その末尾をとり
零式艦上戦闘機11型と命名された

初戦は、中国重慶上空
陸上攻撃機の爆撃後
中国空軍戦闘機群が、重慶上空に戻って来た所を襲撃
敵戦闘機27機、零戦闘機13機だった

凄まじい空中戦を繰り広げた結果
残存する敵機は無く
僅か10分程で激烈な大空中戦が終わった

零式戦闘機の性能は
予想を遥かに超えた素晴らしいものだった

海軍内部の喜びは大きく
海軍航空本部は
この機を生んだ制作会社に対して
異例の表彰を決定
また、零式戦闘機の将来性を認め
大量生産に踏み切った

11月26日、アメリカ国務長官から
日本に手交された「ハルノート」により
日本陸海軍首脳部は、開戦を決意する

12月1日の御前会議に於いて
開戦日も12月8日と決定

対米英蘭戦に対する作戦計画は
真珠湾攻撃と、陸軍の南方侵攻作戦による
在東洋艦隊、航空兵力を壊滅する事に大別されていたが
そのいずれも、航空戦を主体とするものだった

真珠湾攻撃の奇襲に成功
暫くは、目覚ましい成果を上げていった

三菱重工名古屋航空機製作所では
工場の機能を最大限に振り絞って
軍用機の生産に取り組んでいた

作業面積も7倍に拡張され
工員の数も5倍に達していた
更に、陸海軍の第二次拡充命令によって
新たな航空機製作所の建設や
飛行場、格納庫の建設も計画された

名古屋航空機製作所では
相変わらず、完成した機の胴体や翼を
分載した牛車で運搬していた

それに対し、アメリカでは
大増産計画を打ち立てていた

日本陸海軍が、増産と改造に追われて
汲々としていたのに比べ
多数の優れた設計者達によって
新機種の設計試作が行われ
労働環境の良い工場で
優秀な工作機械も豊富で
航空機の生産は、流れ作業で順調に進められていく

昭和19年秋には
徴用工以外に、女子挺身隊や勤労学徒も動員され始め
部品の供給が、著しく低下してきた

部品や、機械以外にも
あらゆる日常必需仏師の欠乏により
休む間も惜しんで飛行機生産に励んだ

その頃の戦局は、最終的な段階に近づき
世界史上、前例のない
飛行機による、特別攻撃隊の出撃が考案された

前年に、一戦闘機が
B17に体当り撃墜したのを始めとして
翌年、陸軍戦闘機隊四機が
自発的にアメリカ艦艇に突入して
敵艦を撃沈していた

壮烈な体当り攻撃は
たちまち全軍に伝えられ
必死必殺の肉弾攻撃を行わざるを得まいという
気運が濃厚になって来た

そうした中
「零式戦闘機に、爆弾を装着させて突入する」という作戦が
組織的に行われる事となる

日米戦争の、一特徴ともなった
壮絶な体当たり攻撃は
初回の突入に端を発して
規模を大きくしていった

飛行機は、若者を乗せた一種の爆弾と化し
太平洋は、祖国の危機を救おうと願う
若者達の壮大な自殺場と化した

特別攻撃隊の相次ぐ突入は
アメリカ軍の一大脅威となった
殊に、アメリカ軍将兵に与えた恐怖は激しく
夥しい発狂者が出るようになった


やがて、戦局も終盤
沖縄本土上陸を許した日本軍は
あらゆる戦闘機から、練習機に及ぶまで
特別特攻隊として
多くの犠牲者を出した




「中国大陸での戦争から、太平洋戦争の終結まで
代表的兵器の一つであった
零式戦闘機の誕生から、その末路までの経過を辿ることは
日本の行った戦争の姿そのものを辿る事になる
という確信が、私に筆をとらせた」

と、あとがきにあるように
まさに、渾身の作品である

フィクション、ノンフィクション含めて
まあまあな数、戦記物読んできた中で
最高峰と言っても過言ではない

第二次大戦の流れから
日本とアメリカのモノの考え方の違い
ヨーロッパの情勢
設計者の苦悩や、将校達其々の思い
情報を遮断された、市井の人々

などなど
過不足なく、しっかりと描かれている

備忘録がてら、あらすじをまとめようとしても
どの部分も全く外すことができず
読書感想文の体をなしていないのが
我ながら、ほんと恥ずかしい

感情的な部分は、一切排除して
淡々と筆を重ねていく手法は
本作でも、変わらないのだけど

吉村氏が、如何に戦争を憎み
忌み嫌うかが、行間から滲み出ている

戦争を知らない世代こそ
一度は読んだ方が良いと思われる良作である事は間違いない



#吉村昭
#零戦闘機
#戦記物の最高峰
#十二試艦上戦闘機
#零式戦闘機
#吉村昭
#記録小説
#三菱重工名古屋航空機製作所
#各務原飛行場
#堀越二郎
#この作品は絶対に読むべき
#吉村作品中best3に入る

0
2020年08月22日

Posted by ブクログ

ネタバレ

随分と長い間積読にしていた。
なんで今読み始めたのか…分からない。吉村昭を読みたいなと思い、それと書き途中の原稿のこともあったのかな。

読みながら何度も鳥肌が立った。
感情を排して書かれた文章はより胸に迫る。ある時は部品の置かれた格納庫に、ある時は皆が駆け寄ってくる滑走路、そしてその物量に押しつぶされていくしかない戦場に、自分も立っているような気持だった。

いつも思うのは、日本軍だから、なのではなく、日本人だからこうなったということ。
国力とは何か、きれいな言葉の裏にある、それを支える土台の危うさ、そういったものも思い返すことになって、読み終えた時ひどく疲れた。

また時折読み返したい本。

0
2017年06月25日

Posted by ブクログ

ネタバレ

『永遠の0』を読んで感動したのと、作者が吉村昭だったのとで読んでみたのだけど、零戦が名古屋で作られていたとは知らなかった!知っている地名やなじみのある地名がたくさん出てきて、予想外におもしろかった。
まず冒頭の、試作機が牛車にひかれていく鶴舞から布池、大曽根という旧市電の道は、高校時代の通学路。たどり着いた先の各務原の飛行場ではその昔、父方の祖父が徴用されて飛行機を作っていたそうだ。ひょっとして零戦だったんだろうか…?そして名古屋が大地震に見舞われたあと工場疎開した先のひとつが松本の片倉紡績工場。学生時代、毎日のようにお世話になっていた、カタクラモールよね??牛車に変わって飛行機を運ぶことになったのペルシュロン種という馬は、帯広ばんえい競馬のばん馬にもなる種類だし。そういえばナゴヤドームも三菱重工業の跡地だ。
東京大空襲や硫黄島の決戦や南方での海戦とかは、映画やドキュメンタリーでけっこう知っていたけど、地元名古屋が戦時中どうだったかというのは案外知らなかったので、とても新鮮でした。

0
2014年05月06日

「歴史・時代」ランキング