【感想・ネタバレ】ヒトラー 下:1936-1945 天罰のレビュー

あらすじ

権威の絶頂から総統地下壕の最期まで
評伝の決定版、完結!

権威の絶頂から総統地下壕の最期まで後半生を活写、ヒトラー研究の金字塔! なぜ未曾有の侵略戦争とホロコーストは起きたのか? なぜヒトラーとドイツは自己破壊へ突き進んだのか? 口絵写真48頁・地図8点収録。

本書で描かれるのは、権力の傲慢と絶対化した個人支配のもとで進む近代的な統治機構の瓦解、その帰結として体制が未曽有の死と破壊をもたらしながら自壊へと突き進んでいくプロセスである。ヒトラーを生みだし、その傲慢を共有した「ドイツに与えられた天罰」として、ドイツ国民の自己破壊が描き出される。
ヒトラーと「共犯関係」にあった実業界、産業界、官僚機構、そして何より国防軍など、保守派を中心とする非ナチのエリート層、熱狂し歓呼する大衆も含めて、何がヒトラーの権力を作り上げたのか? ヒトラーにすべての責任を押し付けるのではなく、ドイツ人とドイツ社会の責任を問いかける。この視点が、本書を評伝でありながら評伝に収まらない作品にしている。
それはまた、現代に生きるわれわれにとっても、極めて今日的な意味があることを実感させられる。
下巻では、権力掌握から自殺まで、後半生を活写。ドイツ現代史、ナチズム研究の世界的権威による圧巻の大作。白水社創立百周年記念出版。

[目次]
凡例/地図/序文/謝辞/一九三六年――勝ち誇るヒトラー
第1章 不断の急進化
第2章 膨張への推進力
第3章 ジェノサイド・メンタリティの兆し
第4章 誤算
第5章 一か八か
第6章 解き放たれた野蛮
第7章 権力の絶頂
第8章 「絶滅戦争」の構想
第9章 決戦
第10章 「予言」の実行
第11章 最後の大博打
第12章 包囲されて
第13章 奇跡を願って
第14章 悪運
第15章 絶体絶命
第16章 奈落へ
第17章 破滅
終章
訳者・監修者あとがき
口絵写真一覧/参考文献/原注/略語一覧
[原題]Hitler 1936-1945:Nemesis

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Posted by ブクログ

ヒトラーについての研究書。上下巻で1500頁にもなる大作で、出典も明確である。ヒトラーに対する批判的コメントも多いが分析は精緻で参考となる。時間の経過に沿って書かれているため、ヒトラーがどのように感じ行動してきたのかを実感できる。勉強になった。

「疑念を抱いていた者の多くも、予想をはるかに超える規模で国内が再建され、対外的にもドイツの強さが再び主張されたことで、ナチ体制の支持に転じた。めざましい国内の再建や対外的な威信回復は想像を超えるもので、失われた国民的誇りの多くを取り戻し、第一次大戦後に残された屈辱感を癒したのである。大多数の国民は、権威主義を天の恵みととらえ、政治的な逸脱者、好まれない民族的少数派、社会的異分子に対する弾圧は、国民的再生と見なされたものに比べればささいな代価として受け入れられた。大衆の間でヒトラーへの賛美がますます高まり、反対派が粉砕されて影響力を失うにつれて、ユンカー、産業界、官僚機構の上層部の実力者たちは、ナチ体制を支持するようになった」p17
「民衆は、魅惑的なプロパガンダによって完全に洗脳されたのでも、催眠術にかかったのでもなく、容赦ない弾圧を恐れて、服従させられたわけでもなかった」p19
「(1936年)選挙では投票者の98.9%がヒトラーを支持した。それが操作された数字で、背後にどんな巧妙なプロパガンダと抑圧があったにせよ、1936年3月にドイツ国民の圧倒的多数が、ヴェルサイユ条約のくびきを振り払うヒトラーのこれまでの行動と同様,彼がラインラントでドイツの主権を回復したことに大喝采を送ったのは間違いない。それはヒトラーにとって外交・内政上の大勝利となり、その独裁の第一段階のクライマックスとなった」p27
「ヒトラーの勝利は、第一次世界大戦後のヨーロッパの大国であるフランスとイギリスの弱さを白日の下にさらした。ヒトラーは、対戦後の欧州秩序の柱であったヴェルサイユ条約とロカルノ条約を破棄しながら咎めも受けず、国際政治におけるドイツの威信回復と新たな存在感をアピールしたのである」p27
「ヒトラーは約束通り、再軍備は急速にテンポを上げていた。1935年3月には、ヴェルサイユ条約にさらに違反する空軍の存在が発表されたが、国外から避難の声は上がらなかった。意外にも、イギリスは1935年6月に、英国海軍の35%の海軍力の保有を認める海軍協定をドイツと結び、ヴェルサイユ条約を損なうのに進んで手を貸したのだった」p29
「大企業の指導者は、目下の困難や予想される将来の経済問題について個人的な疑念を抱いていたが、ヒトラーが左翼政党と労働組合を打破してくれたことに感謝していた」p30
「ナチを明確に批判したのは、少数の例外的な人物だけだった」p31
「ヒトラーへの支持は本物で、それを超える大きな広がりをもっていた。いかに不平を並べようと、1936年夏には大多数のドイツ人が、何らかの観点でヒトラーを支持していた。外交上の勝利によって、圧倒的多数の人びとがヒトラーの指導のもとで団結した。総統への賛美は広く行き渡っていた。平凡な日常生活のレベルでも、多くの人々がヒトラーはドイツを一新したと考えた。それはまるで奇跡のように思えた」p31
「わずか3年で、ヒトラーはドイツを惨めさとヴァイマル民主主義がもたらした社会の分裂から救い、ドイツ国民のために壮大な未来へ向かう道を敷いたように思われた」p32
「(ベルリンオリンピック)何より重要なのは、ヒトラーのドイツが世界中からの訪問者に開かれていたことである。大多数の人びとは、強い感銘を受けて帰国した。「私は、ナチのプロパガンダが成功したのではないかと危惧している。第一に、彼らは競技をかつてないほどに盛大に運営し、それが選手たちに強い印象を与えている。第二に、彼らは一般の観光客、とくに大企業の実業家に対して、きわめて良好な外面を装っている」と米国のジャーナリスト、ウィリアム・シャイラーは書いている」p46
「(ドイツ将官たちの反対)将官たちは、ヒトラーの軍事分析の欠陥を指摘した。いかなる場合もドイツは英仏と戦争すべきでないというのが、彼らの指摘の要点だった」p86
「政治家になってからのヒトラーの使命は、国内外のドイツの敵を滅ぼし、国民の偉大さを取り戻すことによって、1918年の敗北と屈辱の汚点を拭うことだった。ヒトラーはこの使命は武力によってのみ成し遂げられると、1920年代に多くの場で明言していた。それが意味したのは覇権を求める戦争で、それは避けられないリスクだった。「ドイツは世界強国となるか、それとも滅びるかだ」とヒトラーは『わが闘争』に書いた。この使命に対する熱烈な信念は、年月を経ても微塵も変わらなかった」p101
「(オーストリアの併合)西欧諸国がまたしても傍観して動かず、「われらの総統が血を流さずにそれをやり遂げた」ことが明らかになるや、ヒトラーがもたらした「ドイツの奇跡」が「あらゆる場所での熱烈な興奮」と称されたものを解き放った」p124
「(ユダヤ人の追放先)パレスチナに加えて、エクアドル、コロンビア、ベネズエラが候補に上がったが、それらは当時どれも実現しなかった。それらの提案は、後に改定されるかつてのマダガスカル計画と本質的には同じだった」p172
「反ユダヤ政策には調整が完全に欠落していた。ヒトラー自身はほとんど関与しなかった」p183
「もしヨーロッパ内外の国際ユダヤ金融資本が、諸民族を再び世界戦争に突き落とすのに成功するようなことがあれば、その結末は世界のボリシェヴィキ化、つまりユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となるだろう」p190
「派手な催し全体が舞台裏で入念に演出されたものであったとしても、大衆の間でヒトラーが純粋な人気を博し、多くの者が神格化に近い感情さえ抱いていた事実は否定できなかった」p222
「ヒトラーの成功は、党ではなく、国民の指導者のものとして前面に押し出され、ほとんどのドイツ人がそれを誇りに思うことができたのである」p223
「「私はドイツの混乱を克服した。秩序を回復し、われらの国民経済の全部門で途方もなく生産を高めた」とヒトラーは4月28日の国会演説で主張した。「私は、われら皆の大きな懸念だった700万人の失業者を残らず有用な生産活動に復帰させ、あらゆる困難を排してドイツの農民を自分の土地にとどまらせ、彼らの土地を守り、ドイツの貿易を再び繁栄させ、運輸を著しく発展させた。私はドイツ民族を政治的に統合しただけでなく、軍備も整えさせた。私はさらに、ヴェルサイユ条約を1ページ、また1ページと破棄しようとした。その条約は448の条項に、諸民族と人類に加えられた最も卑劣な侵害を含んでいる。私は1919年にわれわれから奪い取られた地域をドイツ国に取り返した。私はわれわれから引き離されれ、不幸のどん底にあった数百万のドイツ人を故郷に連れ戻した。ドイツの生空間の一千年の歴史的統一を回復した。そして私は、これらすべてを血を流さず、わが民族やその他の人びとに戦争の苦しみを強いることなく成し遂げようと努力した。私はこれを、21年前には名も無き労働者でわが国民の兵士であった者として、私自身の力によって成し遂げたのだ」」p223
「勝者は後で真実を述べたか否かを問われることはない。戦争が始まり、それを遂行する段になれば、正義ではなく勝利が問題なのだ。憐れみを捨て、情け容赦なく行動せよ。8000万の人間がその権利を獲得する必要がある。彼らの生存を守らねばならない。正しいのは強者だ。最大限の非情さを発揮せよ」p246
「第一次世界大戦を記憶している多くの人びとが数年来恐れてきた西側との戦争は、ほとんど避け難い状況となっていた」p259
「国際的には、第一次世界大戦後のヨーロッパの戦後体制がもろくなければ、ヒトラーの脅しとゆすりが効果を発揮することはなかっただろう。ヴェルサイユ条約は,「ゆすり屋にとっての拾い物」だった。それはヒトラーに要求を釣り上げる根拠を与え、要求は1938年から39年にかけて急激にエスカレートした。ヒトラーはわめき散らし、誇張しているかもしれない。だが、ヒトラーの主張にはいくらかの真実が含まれているのではないか、と英国の人びとは考えた」p262
「イギリスは結局ポーランドのために戦争はしないという絶対的確信から出ていたリッベントロップの自信は、疑いなくヒトラーが誤算を犯す一因となった」p264
「ヒトラーの基本的なメッセージは「闘争」だった。国民の生存、つまりドイツ国民の将来は、「生空間」を獲得することによってのみ保証されると、ナチズムの指導者ヒトラーは15年以上にわたって説いてきた。そしてそれは武力によってのみ獲得できると、繰り返し主張したのである」p273
「ヒトラーが直接指示を下すことはなかったにもかかわらず、「人種的純化」という目標はめざましく推進された」p273
「ドイツでは人口のごく一部にすぎなかったユダヤ人は、ポーランドにははるかに多数居住していたうえ、生まれ育った国で多くの住民から蔑視されていた」p274
「(反ユダヤの措置)占領支配の計画者や組織者、思想的基盤を提供する理論家、それに親衛隊指導部の高官は、ポーランドを実験場と見なしていた。彼らは多かれ少なかれ、望む措置に着手する白紙委任状を与えられていた。総統が示した未来像は、彼らが必要とした正当性を付与した」p274
「ポーランドの占領は帝国主義的な征服で、ヴェルサイユ条約の修正ではなかった。新たな編入市域の住民は、前例のない残虐な扱いを受けた。それがはらんだ近代的形態の野蛮性は、過去数世紀で最悪の粗暴な征服を思い起こさせ、そのやり方はそれ以上恐るべきものですらあった。新しい支配者の粗野な見方によれば、かつてのポーランドは東欧における植民地も同然の存在だった。その資源はほしいままに略奪でき、住民は好きなだけ残虐に扱ってよい劣等人種と見なされた」p279
「大戦前のポーランドでは、総人口の3%を占めるドイツ人マイノリティに対して紛れもない差別が存在し、1939年夏の危機にそれが一気に先鋭化した。ドイツ人は、経済的にも不利な扱いを受けていた」p281
「ポーランド側は、ドイツの侵攻後直ちに、約1万5000〜2万のドイツ人を逮捕し、強制的に東方へ行進させた。行進に付随した残虐行為は、後にプロパガンダ目的で著しく誇張されたが、囚人たちは実際にしばしば殴られるなどの虐待を受け、ポーランドの町や村を通る際に、現地住民の暴力にさらされた。歩けなくなった者が射殺されるケースもあった。少数派のドイツ系住民に対する暴力は、多くの場所で発生した」p281
「(ポーランド人に対する虐待)憎むべき敵と劣等な民族の軍事的征服に付随する現象で、遺憾ではあるが不可避なものだった」p286
「対ポーランド戦の勝利はドイツの威信を高めた。だが、あらゆる歴史的な成功は、更新されねばまた色褪せる」p303
「1940年から41年にかけて、ヒトラーは権力の絶頂にあった」p324
「(フランスへの侵攻)ドイツ軍の攻撃は息をのむ速さで進められ、世界を驚愕させた。ヒトラーと彼の軍事指導者たちでさえ、そのように迅速な大勝利は思いもよらぬことだった」p332
「(5月10日攻撃開始)5日後にオランダが降伏し、5月18日ベルギー軍は無条件降伏した。そして、フランスの手薄な防衛戦を打ち破り、早くも5月13日にはマース川を渡った。5月20日から21日にかけてドイツ軍は220km以上を進軍し、チャネル海岸に到達する」p332
「(戦線の拡大)制御を失いつつあったことは、ヒトラーの権威が減じたことを意味したのではない。それはヒトラーの権威の本質が、統治につきものの衰退と侵食をもたらしたこと、それと同時に、ますます拡大し、複雑になる帝国統治の諸側面を把握し続けるのを不可能にしたことを示している。たとえヒトラー以上に有能で精力にあふれた、勤勉な人物が政権に就いたとしても、それをやりこなすことはできなかっただろう」p348
「体制内の急進化はヒトラーの個人的関与を超えて進んだ。ヒトラーの「未来像のために働く」ことは、体制内部の権力闘争を勝ち抜くための鍵だったのだ」p351
「それでも1940年春までに、12万8011人のポーランド人とユダヤ人が、恐るべき状況下で強制移送された(反ユダヤ強硬派-アイヒマン、ヒムラー、強制移送反対-ゲーリング)」p355
「マダガスカル(ユダヤ人強制移送)計画は1939年の年末には停止され、二度と復活することはなかった」p359
「不完全で実行不能な計画にヒトラーが示した性急な支持(同意)は、1940年には彼の反ユダヤ主義政策への関与が表面的だったことを物語っている。その年ヒトラーの主たる関心は明らかに他の問題、すなわち戦争の戦略に向いていた。さしあたり「ユダヤ人問題」は、ヒトラーにとって二次的問題にすぎなかった」p359
「急進化する反ユダヤ主義政策の先頭に立ったのは、とくに親衛隊と公安警察の指導部だった。この時期のヒトラーは、部下の誰かが提起した特別な問題への対応を迫られぬ限り、「ユダヤ人問題」にさほど大きな関心を抱いていなかった」p360
「(反ユダヤ政策の白紙委任状)ヒトラーは、積極的な役割はほとんど果たさなかった。しかし彼が包括的な認可を与えたことで、旧ポーランドの占領地域では、ジェノサイドの前提となる状況と精神的素地が醸成されていった。そこでは全面的なジェノサイドが、一歩先まで迫っていた」p361
「ヒトラーは当時,日本とのいかなる正式な同盟の締結にも、東南アジアでのフリーハンドを与えることにも反対していた」p362
「ロシアとイギリスが手を結ぶという噂について、次のように言った。座して待つのは危険だ。しかし、もしロシアを方程式から排除すれば、欧州大陸でドイツを打破するイギリスの望みは消え失せるであろう。そして日本はソ連に背後から攻撃される不安がなくなり、米国の介入はより困難になるだろう」p371
「われらは、1941年に欧州大陸のすべての問題を解決しなければならない。というのも42年以降には、恐らく米国が介入する状況になるからだ」p371
「共産主義者はこれまでも、そしてこれからも仲間ではない。これは絶滅戦争なのだ」p376
「正しかろうが不正だろうが、われらは勝利しなければならぬ。そして勝利してしまえば、そのやり方をわれらに問う者などいようか」p376
「ロシアは軍事的脅威ではない。劣った将校団に加えて装備も訓練も劣悪なロシア軍は、「われらの脅威にまったくなり得ない」と、ヒムラーは断じた」p378
「ヒトラーの観点からは、ドイツに待つ余裕はなかった。彼の目にはロシアが脅威と映っており、それは翌年以降には増す一方に思われた。ドイツ軍の迅速な攻撃によって脅威は取り除かれ、米国の参戦頼みのイギリスの希望も打ち砕かれるだろう」p378
「他方で主導権を失うことは、ヒトラーの考えによれば、自身とドイツの行動の自由を徐々に奪うことになる。そうなれば戦争に敗北するだろう。ドイツは機会を逃してしまう」p378
「大攻勢の準備が具体化しつつあるなかでヒトラーは、ムッソリーニのお粗末な計画に基づく1940年10月のギリシア侵攻がバルカン半島で生み出した危険な状況と、イタリアの軍事的な無能さが北アフリカでもたらした帰結を、挽回することに心を奪われていた」p382
「1941年1月20日午後、ヒトラーはドイツのギリシア介入の開始について、軍事専門家の前で約2時間演説した。「ヒトラーはギリシア問題をもっぱら技術的な観点から扱い、一般的な政治情勢に関連づけた。私は彼がこれを並はずれた巧みさでやってのけたと認めねばならない。われらの軍事専門家は感服した」と、チャーノは記述している」p382
「悲惨な1941年1月の間に、リビアにおける戦闘で約13万のイタリア兵がイギリスの捕虜となった。北アフリカで、イタリア軍が総崩れとなる事態を覚悟しなければならなかった。ヒトラーは2月6日、枢軸のためにイギリスの進軍を阻止し、トリポリタニアを死守すべく抜擢した将軍に指令を与えた。それはエルヴィン・ロンメルで、彼は卓越した戦略とはったりを組み合わせ、1941年後半と42年のほとんどの時期を通じて、イギリスに対する形勢を逆転させ、英軍を北アフリカで食い止めることになる」p383
「3月17日、ハルダーはヒトラーの発言を記している。「スターリンが登用した知識階級は抹殺しなければならない。ロシア帝国の支配機構は壊滅させることが必要だ。大ロシア地域では、残虐をきわめた暴力行使が必要だ」。ヒトラーは、より包括的な「民族浄化」政策については一言も触れていない」p390
「ヒトラーが望んでいたのは、遅滞なくシンガポールを攻撃するよう日本を説得することだった。バルバロッサ作戦が差し迫る中で、それはイギリスを極東に縛りつけ、シンガポールの喪失は、いまだ敗北を知らぬ同国に破滅的打撃を与えるだろう」p398
「ヒトラーは後に松岡を「米国の聖書宣教師の偽善と、日本的、アジア人的な狡猾さを併せ持つ」と評した」p398
「ヒトラーや軍指導者は、冬が始まるずっと前にソ連との戦いは終わると確信していたのである」p403
「(ヘスのイギリス亡命)アウクスブルグでメッサーシュミット110型機に乗ったヘスがイギリスへ向けて飛び立ち、行方をくらました」p403
「独ソ戦での攻撃は史上最も激烈なものとなるだろう。ナポレオン遠征の轍を踏むことはない。ロシアはドイツ軍にほぼ匹敵する約180個ないし200個師団を擁しているが、質では比較にならない、とヒトラーは言った」p418
「6月21日、ヒトラーは疲れ果てているように見え、極度に神経質になって行ったり来たり、気を揉み、ドイツ軍の勝利を告げる声明を口述させた(独ソ戦開始は1941年6月22日)p420
「1941年6月末、ドイツ軍はビャウィストクとミンスクを包囲した。その結果、ソ連側は32万4000人の赤軍捕虜、3300両の戦車、そして1800門の大砲が捕獲ないし破壊されるという驚くべき被害を被った。2週間余り後にスモレンスク攻防戦が終結すると、これらの数は倍増した。侵攻作戦の2日目、撃墜されたか地上で破壊されたソ連軍機を2500機と見積もっていた。ゲーリングがこの数字に疑念を呈すると、それらの統計は再確認され、実数は200〜300機多いことがわかった。1ヶ月後には、破壊された航空機は7564機に上がった。7月初めまでにソ連の164個師団のうち89個師団が全滅ないし一部破壊され、戦闘可能な状態にあるのは赤軍の29個戦車師団のうちわずか9個師団のみと算定された」p432
「生存とは残酷なものだ。生まれ、生き、そして死ぬ。それはいつも殺すことなのだ。生まれた者は必ず死ぬ。それが病気によるものだろうと、事故だろうと、戦争だろうと同じことだ」p437
「ソ連軍の師団は、たしかにわれらの基準に沿った武装や装備を備えておらず、その戦術指導はしばしばつたない。だが彼らはそこにいる。そしてわれらが彼らを12人打ち倒すと、ロシア人はただ別の12人を補充する。広大な幅に奥行きなく間延びしたわれらの部隊は、それで繰り返し敵の攻撃にさらされるのだ」p444
「甚大な損失にもかかわらず、ソ連軍は壊滅にはほど遠かった。彼らは、無尽蔵に見える兵員や原料を補充し、宣言された「大祖国戦争」で侵略者に対して必死で戦い続けていた。ドイツ側の損失も無視できなかった」p449
「(1941年9月24日)ヒトラーがシュポルトパラストに来るまで向かう通りには、歓声を上げる群衆が立ち並んだ。広々とした体育館で、ヒトラーは熱烈な歓迎を受けた。演説終盤になると、ほとんどすべての文句が、拍手の嵐で中断された。長いブランクにもかかわらず、ヒトラーは演説の才を失ってはいなかった。シュポルトパラストの聴衆は演説が終わると一斉に立ち上がり、陶酔して大喝采した。ヒトラーはこのような歓待に感激した」p464
「ヒトラーは「水晶の夜」の後にユダヤ人を区別する印の導入を求められた際、それを却下していた。しかし今、彼は新たな圧力を受けて方針を変えた(1941年8月)」p502
「戦争が終わり次第、解体されたソ連で手に入る領域にユダヤ人を追放することだった(戦争が終結しないため、アイヒマンはユダヤ人の射殺を提案した)」p505
「ユダヤ人への復讐と報復は、ヒトラーの同期の中で常に大きな役割を演じていた。しかし当初、ヒトラーは躊躇していた。彼が即座に見せた反応は、この問題を外務省に照会することだった」p507
「ベウゼツでは1942年春、アウシュヴィッツでは夏に、大量虐殺が開始された」p513
「ハイドリヒはユダヤ人の東方移送に関するヒトラーの白紙委任状を、殺戮作戦をヨーロッパ全域に及ぶジェノサイド構想へと拡大するのに喜んで利用した」p522
「1941年6月22日にソ連侵攻に加わった320万の兵員のうち、これまでに100万人以上が死亡、ないしは捕虜となるか行方不明で、陸軍師団のうち3月末に完全な動員が可能だったのはわずか5%だった」p542
「(1942年)お粗末なソ連の諜報活動のせいで、ドイツ軍が攻撃した時、ロシア軍はまたしても不意を突かれた。5月19日までにケルチ攻撃は大方終了し、15万人の捕虜と大量の略奪品がドイツ軍の手に落ちた。ハリコフでもソ連の3個軍が壊滅し、20万人以上の捕虜と膨大な戦利品を獲得できた」p542
「9月8日、ヒトラーはリストを解任し、当面、自らA軍集団の指揮を執ることにしたのだ。いまやヒトラーは国防軍最高司令官であり、3軍の1つである陸軍総司令官であり、その上さらに、陸軍の1軍集団の司令官も兼任することになった」p559
「燃料と弾薬を欠き、数で圧倒的に優勢な敵軍を前にしたロンメルは、11月2日に始まった新たな猛攻撃で、モントゴメリーの戦車がドイツ軍の前線を突破するのを食い止められなかった」p564
「スターリングラードの戦いでドイツ軍の21個師団とルーマニア軍2個師団のうち、約10万人が命を落とした。さらに1万3000人のドイツ将兵とルーマニア将兵が捕虜となったが、そのうち生きて祖国の土を踏んだ者はわずか数千名だった」p576
「(1943年5月)その頃には枢軸軍が退去して降伏していた。5月13日、北アフリカで100万人の兵士のうち約1/4が降伏した。それは連合国軍の手に落ちた捕虜数としては開戦後最大で、半数がドイツ人、残りがイタリア人だった。逃亡に成功したのは800人にすぎなかった。北アフリカは失われた」p610
「1943年5月、1336人を乗せた41隻の潜水艦が大西洋で失われた。それは開戦以来、1ヶ月に被った損失としては最大で、また同時に作戦に従事する潜水艦数もすでにピークを過ぎていた。デーニッツは重大な損害を前にして潜水艦に大西洋の護送ルートから離れるように命じ、それらをアゾレス諸島の南西へ移動させた」p610
「大評議会で声を高めるムッソリーニの対応は、奇妙に無関心で、鈍く、怠慢だった。イタリアを破壊から救うもっと有効な政策を国王に請願することが、19対7人の賛成多数で可決されるという驚くべき結果となった(ムッソリーニは逮捕された)」p619
「1943年9月10日、ドイツはローマを制圧した」p625
「ヒトラーが新たな軍事的勝利をどれほど渇望しようと、ウクライナと北カフカースは1943年末までに失われ、取り戻すことは不可能になった」p628
「側近に対して表明した戦局に関する見解には、ヒトラー自身の決意が揺らいだり、いかなる意味でも敗北の見通しを感受するよう暗示するものはなかった。「総統がどれほどの確信を持って自身の使命を信じているかは感銘を与える」と、ゲッペルスは44年6月初旬の日記に記している」p636
「(ヒトラー暗殺計画1944年7月20日)執務室の爆発時、作戦会議が開かれていたバラックには24人がいた。何人かは床に投げ出されたり、部屋を横切って吹き飛ばされていた。髪や衣服が燃えている者もいた。最も重症だった11人は、急いで野戦病院に搬送された。爆風を全身に浴びた速記者のベルガー博士は、両足を吹き飛ばされ、その日の午後遅くに死亡した。ブラント大佐は片足を失い、翌日死亡した。空軍参謀総長コルテン将軍は、木の裂片が突き刺さって死亡した。副官シュムント少将は片目と両足を失い、数週間後に病院で死亡した。バラックの中で、カイテルとヒトラーだけが脳震盪を免れた。驚くべきことに、ヒトラーは軽傷を負っただけで生き延びた。爆発の初めの衝撃が過ぎると、彼は五体無事で動けるとわかった。それからヒトラーは残骸をかき分けてドアに向かい、ズボンに着いた火を叩き消し、歩きながら後頭部の焦げた髪も叩いて消した。ヒトラーの制服の上衣は裂け、黒いズボンとその下の白い下着はズタズタに裂けていた」p698
「暗殺計画の失敗は、ドイツ国内だけでなく前線兵士の間でもヒトラーへの強固な支持を復活させた」p722
「1944年、ヒトラー帝国に対する包囲網は狭まった。6月と9月の間に全ての前線で100万人をゆうに超える国防軍将兵が殺害され、捕虜になり、行方不明になった。戦車、大砲、航空機、その他の兵器の損失は甚大だった。航空戦はいまや一方的だった」p739
「赤軍は兵員数で圧倒的に優勢だった。900kmにおよぶ前線には、40万のドイツ軍に対して約220万のソ連軍が配置されていた」p776
「2月初めまでに、約200万の米国、イギリス、カナダ、フランスの兵士が、ドイツ攻撃の態勢を整えていた」p780
「ドイツがとりわけ東欧地域で占領下の住民に加えてきた容赦ない残虐行為が、いまドイツ人自身に跳ね返ってきた」p782
「ヒトラーは戦争の首謀者だった。その戦争で5000万人以上が死亡した」p862

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2024年05月03日

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