あらすじ
神風特別攻撃隊第一号に選ばれ、レイテ沖に散った関行男大尉。敗戦を知らされないまま、玉音放送後に「最後」の特攻隊員として沖縄へ飛び立った中津留達雄大尉。すでに結婚をして家庭の幸せもつかんでいた青年指揮官たちは、その時をいかにして迎えたのか。海軍兵学校の同期生であった二人の人生を対比させながら、戦争と人間を描いた哀切のドキュメントノベル。城山文学の集大成。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
戦争とはなんて残酷なものなんだろう。
そして、もっと残酷なのは、戦争を理由に人間の命を軽く扱った当時の軍のトップたちだ。
「一億総玉砕」という言葉の持つ意味を本当にわかっていたのか。
国民がいない国家など存在しない。軍は日本が滅びるまで戦争をやめるつもりはなかったということなのだろうか。
現代でも何故こんな簡単なことがわからない?と思うような発言をする政治家がいる。
誰が考えても最優先すべきは他にあるだろう!と思うのに、企業利益を真っ先に守ろうとする企業家がいる。
本当に大切なものは何か?
トップに立つ者が優秀だとは限らない。
上に立つ器でもないくせにトップに立ってしまった人間の下につく者は、悲劇しか待ち受けていない。
関大尉は実は特攻の第一号ではなかった・・・というのは別の資料で読んだことがあった。
先に出撃した者の戦果が確認されていない(出撃にあたり機関銃・無電は不用との本人申し出あり)。
掩護機もなく、何よりも兵学校出身者ではなかった。
特別攻撃隊を「神風」と言い、特攻で散った者を「軍神」と言うためには、第一号はどうしても兵学校出身者でなければならなかったらしい。
周囲からは「軍神」と持ち上げられながらも、戦後は一転、世間は冷たく遺族が石を投げられるようなこともあったという。
戦争が終わっても悲劇は終わってはいない。
宇垣纏中将が第五航空艦隊の司令長官に着任したのは終戦の年。
幾人もの軍人を輩出している一族の出身である。
それまでは通常爆撃が原則であり、あくまで特攻は例外とされていた。
しかし、着任早々に宇垣は主客転倒を宣言する。
すなわち「特例の無い限り、攻撃は特攻とする」と特攻を原則としたのだ。
戦争は人を狂わす。
「桜花」や「回天」に代表される人間を兵器の一部として使う武器。
いかにして身を守り相手を斃すかではない。最初から死ぬことが決まっている戦術である。
「桜花」の初出撃の結果は悲惨なものだった。
70機以上の戦闘機による掩護が必要だと訴えたにも関わらず、配備されたのは55機。
実際の掩護機はさらに少なく30機しかいなかった。
重い爆弾を抱えて動きの遅い一式陸攻は、アメリカ戦闘機集団のかっこうの獲物となった。
「桜花」ごと全機が撃墜されてしまう。
「桜花」隊員15名、一式陸攻隊員135名、掩護機隊員10名の命が一瞬にして失われた。
軍のトップにとって人の命とは何だったのだろう?
戦争がすべて悪かった・・・と言い切れるのだろうか。
当時次々と開発されていた特攻のための特殊兵器。
多くの人間が兵器の部品として出撃させられた。
しかし、隊を組んでの出撃であっても、ほとんどは海軍兵学校出身者は隊長のみ。
あとは予備学生出身者と予科練出身者で構成されていた。
口では「一億総玉砕」と言いながら、職業軍人たちは温存されていた事実。
理由はいろいろあるのだろう。
けれど、こうして時間が経てば、予備学生や予科練出身者に多くの犠牲者が集中していることは明らかである。
「特攻を原則とする」と宣言した宇垣中将は、結局歴史にその名を残した。
終戦の日、玉音放送があったことを宇垣中将は部下たちに隠したまま出撃したのでは?と筆者は伝えている。
米軍キャンプ地に特攻をしたとき、飛行機に爆弾は積まれていなかったようだ。
米軍キャンプ地にたどり着いた特攻機は2機。
ともに直前で進路を変更し、岸礁と水田に突っ込んでいる。
隊長でもあった中津留大尉は操縦士としての技量はトップクラスだった。
だとしたら、意図的に米軍キャンプ地を避けた・・・と考えるのが妥当だろう。
もしもこの特攻が成功していたら。
戦争終結後に攻撃をした日本は、国際的に立場を無くし、戦後の復興にも影響がでていただろう。
宇垣中将は終戦の勅命をどう受けとったのか。
死なずにすんだ若者たちを何故道連れにしたのか。
「宇垣さんが一人で責任をとってくれていたらなぁ」という遺族の言葉は、宇垣中将に届いているだろうか。
戦争は哀しい。戦争は残酷だ。そして戦争は人が人として生きることを許さない。
二度とこんな時代がこないように、心から願う。
Posted by ブクログ
2015年の15冊目です。
海軍の神風特攻隊作戦を最初の特攻退院関行男大尉(レイテ沖)と終戦の玉音放送後に最後の特攻隊員として沖縄に出撃し帰ることのなかった中津留達雄大尉の二人の生き方を対比させながら、史実を丹念に調べ書きあげられている作品です。ともに結婚し家庭の幸せも手に入れていた若き指揮官の人間ドキュメントです。
70年前の出来事と私の生きている今とは、繋がっているはずだが、積み重ねられた惜別と悔恨の情を知るすべもなくなりつつある。こんなことに思いを馳せる年になったということかもしれない。
Posted by ブクログ
第二次世界大戦の中、一億総玉砕が叫ばれ、まさに必死の作戦として始まった特攻作戦。
その中でも有名なのは「カミカゼ」と敵兵からも恐れられた神風特別攻撃隊。
本作はそんな神風特別攻撃隊の最初の特攻隊長・関大尉と最後の特攻隊長・中津留大尉にフォーカスをあてた作品。
そこに著書の戦争体験も加わり、戦後末期の日本がどのような状態であったのかが語り継がれています。
特攻作戦の悲劇。
何冊かの書籍にて「回天」や「桜花」の存在は知っていましたが、「伏龍」の存在は本書にて知ることになりました。
普通では絶対に考えられないことが起こる、まさにこれが戦争の悲劇。
二度と同じ過ちを起こしてはならないと思う気持ちと、今の平和な日本が多くの犠牲の上にあることを改めて強く認識させられました。
説明
内容紹介
戦争を書くのはつらい。書き残さないのは、もっとつらい。──城山三郎
海軍特別幹部候補生として終戦を迎えた著者による、哀切のドキュメント・ノベル。
神風特別攻撃隊第一号に選ばれ、レイテ沖に散った関行男大尉。敗戦を知らされないまま、玉音放送後に「最後」の特攻隊員として沖縄へ飛び立った中津留達雄大尉。すでに結婚をして家庭の幸せもつかんでいた青年指揮官たちは、その時をいかにして迎えたのか。
海軍兵学校の同期生であった二人の人生を対比させながら、戦争と人間を描いた哀切のドキュメントノベル。城山文学の集大成。解説・澤地久枝。
本文より
私は、それこそ飛び立つ思いで沖縄へ。
那覇空港で降り、沖縄本島を北へ縦断し、運天港へ。
そこから、日に二便の伊平屋村営のフェリーに乗り、約八十分の船旅という道程である。
本島から遠ざかると、一面に濃いエメラルド色の海。
しばらくして、進行方向左手に伊江島が見えたが、その先もまた波また波。
だが、私は少しも退屈しなかった。波間から浮き上がり語りかけてくるものがあったからである。
この海には、数え切れぬほどの特攻隊員が沈んでいるはずである。……(本書191ページ)
城山三郎(1927-2007)
名古屋生れ。海軍特別幹部練習生として終戦を迎える。一橋大学を卒業後、愛知学芸大に奉職し、景気論等を担当。1957(昭和32)年、『輸出』で文学界新人賞を、翌年『総会屋錦城』で直木賞を受賞し、経済小説の開拓者となる。吉川英治文学賞、毎日出版文化賞を受賞した『落日燃ゆ』の他、『男子の本懐』『官僚たちの夏』『秀吉と武吉』『もう、きみには頼まない』『指揮官たちの特攻』等、多彩な作品群は幅広い読者を持つ。2002(平成14)年、経済小説の分野を確立した業績で朝日賞を受賞。
内容(「BOOK」データベースより)
神風特別攻撃隊第一号に選ばれ、レイテ沖に散った関行男大尉。敗戦を知らされないまま、玉音放送後に「最後」の特攻隊員として沖縄へ飛び立った中津留達雄大尉。すでに結婚をして家庭の幸せもつかんでいた青年指揮官たちは、その時をいかにして迎えたのか。海軍兵学校の同期生であった二人の人生を対比させながら、戦争と人間を描いた哀切のドキュメントノベル。城山文学の集大成。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
城山/三郎
1927(昭和2)年、名古屋生れ。海軍特別幹部練習生として終戦を迎えた。一橋大卒業後、愛知学芸大に奉職、景気論等を担当。’57年、『輸出』により文学界新人賞、翌年『総会屋錦城』で直木賞を受け、経済小説の開拓者となる。吉川英治文学賞、毎日出版文化賞受賞の『落日燃ゆ』や『毎日が日曜日』『もう、きみには頼まない』等、多彩な作品群は幅広い読者を持つ。2002(平成14)年、経済小説の分野を確立した業績で朝日賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)