あらすじ
「本当に目から鱗が落ちまくり。このイラン観は唯一無二だ」高野秀行氏、熱烈推薦・解説
国民は脱法行為のプロばかり!?
強権体制下の庶民の生存戦略を、長年イランの一般社会で暮らしてきた著者が赤裸々に明かす!
イスラムへの無関心、棄教・改宗が進んでいる? 国民の関心はいかに国から逃げるか!?
イスラム体制による、独裁的な権威主義国家として知られるイラン。しかし、その実態に関する報道は、日本では極めて少ない。
イスラム共和国支持者=敬虔なムスリムといえるのか? 棄教者は本当にいないのか? 反体制派の国家ビジョンとは?
違法・タブーとされる麻薬や酒に留まらず、イスラム体制下の欺瞞を暴きつつ、庶民のリアルな生存戦略と広大な地下世界を描く類書なき一冊。
■イスラム宣伝局の職員はイスラム・ヤクザだった
■イスラム法学者たちはアヘンの上客
■「隠れキリシタン」「神秘主義者」として生きる人々
■古代ペルシアを取り戻せ!――胎動する反イスラム主義
■美容整形ブームの裏には低い自己肯定感がある
小さな独裁者たちが「大きな独裁者」を生み出す
■親日感情に隠された本音「尊敬されたい!」
■メンツ(アーベルー)がすべて、「知らない」と言えない人々
■おしゃべりこそマナー、しゃべらないのは失礼
■おらが村こそイラン一! 強すぎる愛郷心
■イラン人は個人崇拝と訣別できるか
【目次】
はじめに
第一章 ベールというカラクリ
第二章 イスラム体制下で進む「イスラム疲れ」
第三章 終わりなきタブーとの闘い
第四章 イラン人の目から見る革命、世界、そして日本
第五章 イラン人の頭の中
第六章 イランは「独裁の無限ループ」から抜け出せるか
おわりに
解説 高野秀行
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Posted by ブクログ
イランは親日的。お酒も男女同席のパーティーもやり放題。
ヒジャブを着ている女は軽い告げ口から密告までする嫌な奴が多いので要注意、とか、色々びっくりだけれどなるほどなあ、と思えるイラン社会。
2022年のヒジャブデモの前ではあるが、行った人が、「皆が思っている以上に開放的」と言っていたのが納得できた。
Posted by ブクログ
50年近く昔、パーレビ体制下のイランにそれこそ「モハンデス(技術者)」として通算1年近く、イラン人と仕事や生活を共にした当時のことがまざまざと思い出された。当時のアメリカ一辺倒の素晴らしかった?イランと今や反米のイランだがその国民性が基本的に大きく変わっていないように思え、あっという間に読み終えた。体制が変わっても本質のところは…というところか。
当時の開放的イランは、今では想像もつかないかもしれないが日本の先を行っているのではないかとさえ思える数々のエピソードが走馬灯のように浮かんできた。
Posted by ブクログ
これはおもしろい。イランについて、まるでそこに住んでいるかのような生き生きとした想像を楽しめた。イスラム教の捉え方、政治の捉え方、日本の捉え方、どれも新鮮。小さな独裁者的な価値観も。日本人の価値観と大きく異なり、双方なかなり理解し合えないのだろうなと想像。
Posted by ブクログ
我々日本人にとって馴染みのないイランが手に取るように分かる。
馴染みがないからこそ知らないことが多くて、読んでいてワクワクした!内容を思い返してみればシリアス寄りだったんだけど、イラン愛が強い著者の語りが面白くて、ワクワクの方が優っていたかな。日本人にイランを知ってもらおうとする著者の努力も沢山伺えたし。
そ!し!て!解説には高野秀行氏!!著者自身、学生時代から氏の大ファンだったみたいで、道理で同じ匂いがしたわけだ…!ちなみに高野氏は、本書執筆における影の功労者でもある。
まず念頭に置かねばならないのが、著者および彼がインタビューしたイラン人たちは皆仮名だということ。
イスラム体制下の検閲システムは国外にも及んでおり、イランの政策に批判的な日本人は全て諜報機関にマークされる。本書では、長年暮らしてきたからこそ分かるリアルな国内情勢や人々の実際の暮らしぶりなどが綴られているので、(長年暮らしてきた)著者自身も仮名の使用を余儀なくされた。
だからジャーナリストのルポみたいに緊迫感に満ちた仕上がりなのかと思ったんだけど、こりゃまたどこか陽気なんだよなぁ…。まるで多くの矛盾点を孕んだイランの国民性みたいだ。
「もし神がいるとしたら、それは人間の心のなかにいるんじゃないかな。[中略]いずれにしても、遠い宇宙の彼方から、僕たちにあれこれ命令してくるアッラーなんて神は存在しないよ」(P.62)
もう第1章から我々の持つイメージを打ち破ってくる。
ベール(女性が頭髪を隠す布)については、着用を拒んだ女性が不審死した事件を例に、現地での着用事情を掘り下げている。
事件を受けて着用拒否する割合も増えてきているが、ベールを出世や成績アップに利用する実情もあるのだとか…。まさに目から鱗である。そういう狡猾な人間ほど信仰心が薄いという著者なりのデータも興味深い。
「イスラムは本来信者の内面だけでなく、外面(装いや日常的な行為)も厳しく規定する」らしいけど、現実、信仰心と身なりは必ずしも比例しているわけじゃないんだな…
一方で、親近感がわく点も少なからずあった。日本で我々が抱く感情が面白くなるほど似通っていて、「何で今までイランについて何も知らなかったんだろう」と不思議に思ったくらいだ。
自国よりも、戦乱で苦しむ他国に支援する政府への不満。(我が国でいうところのウクライナ支援) イランがルーツの史跡を平然と自国の歴史に組み込んだトルコを「歴史泥棒」と呼んでなじる。(京都と奈良の関係や、邪馬台国の所在地をめぐる論争を想起させた)etc…
謙遜の表現(「タアーロフ」)が豊富なのも、日本人にとっては親しみ深い。
例えば「大変恐縮です」に対しては「あなたの敵が恐縮すべきです」と、えらい誇張されて返ってくる(笑) 他の例を覚えるのも楽しそうだし、「ちょっとペルシア語勉強してみようかな」という気さえ起こった。
更に本書のレイラさんをはじめ、イラン人には親日家が多いという。せっかく好いてくれているんだし、いつか必ず「初めまして」と歩み寄りたい。大のトーク好きだから、話題を蓄えておくことも忘れずに!
Posted by ブクログ
『深夜特急』を読んだ感覚ではイランは通り過ぎてしまった国なのでイスラム教圏内のグラデーションの一部でしかなかった。
本書は風変わりな経歴の著者だからこそイランの政治・経済・文化・歴史をイラン国民と時には同化し、時には日本人の立場として書くことができており、その説得力と内容の濃さは傑出している。しかもめちゃくちゃ分かりやすい。
イスラム体制のイランを知ることは、イランだけでなくモヤがかかっている中東世界全体の輪郭を掴むことができ、とても勉強になった。
Posted by ブクログ
最近、『聖なるイチジクの種』『君は行く先を知らない』『熊は、いない / ノーベアーズ』など良質のイラン映画を観た。そしてイランの独特で悲惨でむちゃくちゃな現状を知り興味を持った。
本書は歴史書や学校の授業のような堅苦しさがなく、庶民の生活に密着した知識が満載でよかった。
イラン人は超親日家らしい。
「タアーロフ」という慣用的やりとりがおもしろい。ペルシア語には挨拶への「お返しの表現」として誇張的な謙遜の定型表現の種類が無数にあり、これを使いこなすと通認定されるらしい。
例)
とても美味しかったです → (食べたものが)あなたの命の糧となりますように
お手数をおかけします → あなたに命を捧げるつもりです
最終章のイラン評はかなり辛辣ではあるが、むしろ著者はイラン人視点から身内のことを語るようであり愛を感じた。
Posted by ブクログ
イランの庶民生活に入り込んだ筆者による、リアルなイラン社会のレポート。とはいえ上段からの論評ではなく、筆者自身が生活を送る上で実際に感じたことや人々とのエピソードが多く散りばめられていて、その語り口は理路整然としていながらポップで、何より血が通っている。滅法面白かった。
Posted by ブクログ
思ってたイランと全然違う!
ガチガチのイスラムの国かと思ってたいたけど全然違う。
イラン観がガラッと変わりました。
著者は本名ではなく素性も明かされていませんが、そうでなくては書けないよね。イランに居れなくなるよね。という表裏に精通した情報がたくさん。
イランの良い面、悪い面、日本や世界との比較を常に書かれているので、とても客観的であると感じました。
Posted by ブクログ
【感想】
イスラム国家と聞いて私たちが思い浮かべるのは、厳格で窮屈な国だ。人々はコーランの教えに基づいて礼拝を欠かさず、酒を始めとした娯楽を控える。女性はヒジャブやブルカの着用が義務付けられ、男性の前に姿を晒さない。政治を宗教が支配しているため、民主主義とは程遠く、身分の差が激しい。
そうした認識は、一部分においては正しい。しかし、あくまでその国によって厳格さは異なってくる。本書『イランの地下世界』で取り上げられているイランという国は、かつて王政であり、イスラム国家とは程遠かった。そのため人々は教えを形式的に守りながらも、「信奉なんてしてられっか」という思いを強く抱いている。そうした「建前のイスラム/本音のイスラム」を、市井のイラン人へのインタビューとともに解き明かしていく一冊となっている。
例えば、ムスリム女性が信仰の象徴として身に着けるベールやスカーフについて。イスラム国家では、女性たちは教えを守ってベールで頭髪を覆い、身内以外の男性から姿を隠している印象がある。しかし、実際のイランの女性たちは公共の場では仕方なくベールを被っているものの、家では――たとえ男性の来客がいようとも――おかまいなしに脱いでいる。しかも特に若い女性たちは、普通にスカーフ無しで街中を闊歩しているというのだから驚きだ。
ムスリムはイスラムの教えを守らなきゃいけないのでは……?と思えてしまうが、その裏にはこんなロジックがある。
今、イランの経済状況は滅茶苦茶だ。国内では食料品や日用品の価格が1年間に3倍のペースでハイパーインフレを起こしている。加えて失業率は高く、2023年の統計によるとイランの失業率は全体で7.6%、18歳から35歳までの若年層に限ると14.4%にも上る。
しかし、この状況でも法学者たちはといえば、大真面目にこれを「神の与えたもうた試練」などとのたまい、国民に忍従を強いるばかりで何ら有効な手立てを講じようとしない。
こうした中で暮らしていれば、国民には「自分たちの暮らしが良くならないなら、イスラム教なんて信奉してられっか」という精神が育ってくる。その結果、当局の目があるうちは見てくれだけを正し、心の底では宗教を憎む「なんちゃってムスリム」を生んでいるのだ。
注意すべきなのは、イスラム教という宗教に何ら問題があるわけではないということだ。破綻した国の中で、政権が独裁を維持するための口実として「イスラムの教え」を持ち出すのが問題なのである。国が発展しているうちは、政教一致体制もあまり問題が顕在化してこないが、国民が窮乏しているときには、「イスラムを掲げているのに、ちっとも国がよくならない。これはきっとイスラムそのものに問題があるからだ」と感じてしまう。つまり、政教一致の国では、政治が信用を失えば、宗教の権威も失墜してしまうのだ。
結果として、イランの国民の間にはもう「イスラム教なんか信じない」という空気が生まれている。それは教義の中身に不信感を覚えているからではなく、宗教を道具とする政治に嫌気がさしているからなのだ。
――それを見聞きする度に、「ムスリム」とは「服従した者」を意味することを思い出す。イスラムの教えを外からの視点で見ること自体が「背教」であり、ひじょうに深刻な違法行為なのだ。実際、私の知る人でイスラム自体を批判する人(複数いる)は信仰を捨てている。信仰を捨てることはイスラムで死罪に値するので家族にすら秘密にしているらしいが。
ところが、私の知るかぎり、イラン人だけが――しかも多数の人が――その「外からの視点」を平然と取り入れている。まるで日本人の多くが宗教を訊ねられて「一応、仏教徒」と答えるように、彼らも「一応、ムスリム」という感覚なんじゃないかと想像してしまう。そしてそういう日本人の多くが「もともと日本は神道だし」というぐらいの自然さで、イラン人は「もともと私たちはゾロアスターだし」と言うのではないか。
イランのパラドックスはまさにここにある。イラン・イスラム共和国は世界で最もイスラムに厳格な国家なのに、国民の圧倒的多数を占めるイラン人ムスリムは世界で最も世俗的というパラドックスだ。
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以上が本書の部分的なまとめである。
読んだ感想だが、普段まったく素性が分からない「イスラム国家」の現状が知れる、またとない本だと思う。本書が取り上げているのは比較的先進的な気質を持つイランであり、これが超保守のアフガニスタンなどだと事情は違ってくるのかもしれないが、いずれにせよ政府方針と国民感情がここまで乖離しているものなのか、と衝撃を受けてしまった。また、宗派性の濃さは若い世代と壮年・老年世代で全く違っており、世代によって価値観が異なるのはどこの国も同じなのだなぁ、とあらためて実感できた。
日々のニュースでは決して知り得ない情報で溢れた、イスラム国家のリアルを学べる一冊。ぜひおすすめだ。
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【まとめ】
1 ベールというカラクリ
2022年の反体制デモから1年半、テヘランでは女性たちがスカーフなしで歩いている。
イスラム体制は、「イスラム的支配」を常に可視化したい。早い話、「ほら見て、こんなところにもイスラム的支配が及んでるでしょ!」と見せびらかしたいわけだ。逆に、被ってもらえなくなると、体制の求心力が失われてしまうわけだ。
スカーフは政治的な「道具」としてイスラム体制の根幹を支え、自分たちはその犠牲となっている――。それがこの国に暮らす女性たちの常識だった。だからこそ、「スカーフが自由になる日は、イスラム体制の崩壊する日」だったのである。
ところが、政府が公式にスカーフ自由化を宣言したわけではないのに、今やなし崩し的に自由になっている。
日本ではしばしば、スカーフ(などのベール)を自発的にかぶり、強制を苦痛に感じないイラン女性は敬虔なムスリムで、そうでない人は信仰心が希薄であるかのように言われている。ただ、ベールが常に信仰の目安となると考えるのは間違いだ。ベールをかぶっているから信仰心が強いとは必ずしも言えないし、かぶってなくても敬虔な人はたくさんいる。
例えば、イランの女性は、小学校からベールを制服として強制される。学校でベールをしっかりとかぶらないと、成績に響く。イランの通知表にも日本と同様、「生活態度」の項目があるが、女子の場合、その評価を大きく左右するのがベールの着用状況だからだ。そのため、イランの女子高生たちは、どんなに鬱陶しく感じてもベールだけはきっちりかぶる。
だが、そうなると当然、ベールは信仰心から切り離されて、単なる「踏み絵」のような性格を帯びてくる。つまり、「評価を落としたくないから、とりあえずかぶっておこう」という安直な発想が生まれる。ほか、礼拝も生活態度の評価項目となっており、礼拝をすると「礼拝カード」にスタンプを押してくれる仕組みとなっている。
困ったことに、このようにベールと礼拝で点稼ぎすることを覚えた少女たちのなかには、大学に入り、社会人になっても、その悪癖の抜けない者がいる。今イランの企業がいちばん警戒しているのは、そのような似非ムスリム女性が自分の会社に入ってくることだ。
こういう女性は、たいてい黒いチャドルで身を固めている。チャドルというのは、一枚につなげた布で全身を覆うタイプのベールだ。チャドルに身を包んだ女性は、出世のために職場でも礼拝や断食を欠かすことはない。上司の気を引くために高価なプレゼントをしたり、巧みな計略によって優秀な同僚を貶めたりすることもある。
もちろん上司は彼女を無視して、本当に能力のある従業員だけを出世させることもできる。しかし、その場合には重い代償を覚悟しなければならない。なぜなら、彼女が腹いせのために難癖をつけて、会社を当局に訴え出ても、文句は言えないからだ。
「そんなバカな」と思うかもしれないが、ここはイスラム共和国である。「女性社員たちがスカーフをかぶっていない」「幹部たちが礼拝や断食をしていない」といった告発があれば、すぐさま役人が飛んできて、最悪の場合には会社ごと取り潰されてしまうのだ。
いずれにしても、彼女たちにとってチャドルはもちろん、礼拝も断食もすべて出世のための道具にすぎない。自分がただ出世するだけならまだしも、こういう女性たちは善良な経営者や従業員を翻弄し、ときに彼らの人生までも狂わせてしまうのだから厄介だ。
かつて敬虔と貞節の象徴と呼ばれたベール。40年あまりにわたる強制の結果、それは今や欺瞞とおべっかの象徴へと成り下がり、ついに脱ぎ捨てられることになったのである。
今、大多数のイラン人は、宗教性と政治性の両方を帯びていない。イスラム体制を支持しないことはもちろん、もはや熱心なムスリムですらない。宗教としてのイスラムが政治的な道具に堕してしまったからだ。今日イスラム体制を支えているのは、宗教性は低いが政治性の高い、保守派の人間である。彼らは大した信仰心もないくせに、いついかなる場合も全力でイスラム体制を支えようとする。この連中による死に物狂いのバックアップがあるからこそ、大規模な反体制デモが起きても、イランの体制は簡単には崩壊しないのである。
2 イスラム疲れ
イランは今、危機的状況に陥っている。
一番深刻なのは経済だ。トランプ政権が一方的に核合意から離脱したことで、イランは日本を含めた原油の主要輸出先を失った。これにより政府の歳入は激減し、国内では食料品や日用品の価格が1年間に3倍のペースでハイパーインフレを起こしている。
一方、失業率は高い。2023年の統計によるとイランの失業率は全体で7.6%、18歳から35歳までの若年層に限ると14.4%にも上る。
ただし、仕事に就いている若い世代でも、実際にはパートタイムだったり、頻繁に転職を繰り返したりしていて、自活できるほどの経済力を持っていない場合がほとんどだ。このため国民の購買力は低下、これまで社会の大部分を占めていた中流階級が急速に没落し、今や国民の7割が貧困層に転落したとするデータもある。
しかし、この状況でも法学者たちはといえば、大真面目にこれを「神の与えたもうた試練」などとのたまい、国民に忍従を強いるばかりで何ら有効な手立てを講じようとしない。
最高指導者ハメネイは独裁によって周りを身内で固めてしまっている。反体制デモが起きるたびに、ハメネイはそれを「イスラムの敵による陰謀」と切り捨て、武力で弾圧するばかりで、対話に応じる姿勢を一切見せていない。今や「法学者による統治」は完全に破綻しており、不都合な現実を「イスラムごっこ」によって隠蔽している。
イランはその「正しいイスラム」が過度に政治に干渉することで、強固な政教一致を起こしており、最高指導者による独裁が行われている。そして圧政が何度も繰り返されているうちに、「自分を受け入れてくれないこの神、この宗教(イスラム)とは、いったい何なのだ?」と感じる人たちが、徐々に増えてくる。つまり、政治に対する不信感が、宗教にも向き始めてしまうのだ。
3 形骸化しているタブー
酒を飲めない、豚肉を食べられない、女の子とデートもできない。イスラムで「ハラーム」とされる物事については、実はそのすべてにちゃんと抜け道が用意されている。
例えば、豚肉を食べたいと思えば、アルメニア正教徒やゾロアスター教徒が営むお店に行けば、密輸入された豚のベーコンで作ったハンバーガーやサンドイッチを食べられる。もちろんメニューには載ってない。
同性愛についても、テヘランの中心部にはゲイのたまり場として有名な「ダーネシジュ公園」があり、東京の新宿二丁目さながら、出会いや売春を目的とする男性たちで常にごった返している。彼らが摘発されたといった話は滅多に聞かない。
また、テヘランにある公園という公園には、夜ともなればほぼ例外無く青年たちがたまり、マリファナパーティーが開かれている。イラン人の20人に1人以上は何らかの薬物に依存しているというほど薬物汚染が蔓延している。イスラム法学者たちがアヘンの上客であることは、イラン人なら誰もが知るところだ。
一方、酒は薬物ほど暗いイメージはない。何しろイスラム革命前はイランでも飲酒は合法だったからだ。そうした文化の名残もあって、テヘランのような大都市では、よほど敬虔なムスリムや、体質的にアルコールを受け付けない人を除けば、ほとんどの人が多かれ少なかれ酒をたしなむ。
といっても、酒を販売または提供してくれるような店は当然ないので、こちらも薬物と同様、売人とコンタクトを取って、こっそり手に入れるのが基本だ。酒が欲しいときに売人に電話をすれば、いつでも自宅まで配達してくれる。
4 王政復古への熱望
イラン国民は「王政期」にノスタルジーを覚えている。それはいつしか失われてしまったものへの哀愁だけではない。女性歌手たちの歌う懐メロ、ベールなしの女性たちが街を闊歩する姿を見て、そこに「奪われてしまったもの」を感じるからだ。「王政期レトロ」を支えるもの、それは単なるノスタルジーを超えた、王政そのものを再評しようとする人々の強い思いにほかならない。
筆者の知り合いのアミール君は、人々が王政復古を求める理由を、2人の人物の名を挙げ説明する。
「王政復古は、モハンマド・レザー・シャー(イラン革命直前の2代目国王)ではなくて、(王妃の)ファラ・パフラヴィーと、(父で初代国王の)レザー・シャーの路線にイランを戻そうとするものだ、と僕は理解している。ファラ元王妃は、自ら数多くの社会事業を手がけることで、イランの教育や福祉、文化芸術の分野で歴史的な貢献を果たした。だから、シャーを今ひとつ好きになれない人でも、ファラの功績は高く評価している場合が多い。彼女のように、イラン国民のために地道に汗を流す愛国的な指導者を、今僕たちは待望しているんだ」
「一方、レザー・シャーのほうは、イランを近代的な国家に作り上げた英雄として、今も揺るぎない名声を保っている。彼は、イラン社会が世俗化する必要を痛感していたから、ときに強権的な手法に訴えて批判されることもあったけれど、最近のイラン人はそれが正しかったことに気づきはじめている。
どうしてかって?だって、イスラム法学者と彼らに群がる連中を、生半可なやり方でこの国から一掃できるとは、到底思えないだろう?」
長年にわたり横暴をはたらいてきたイスラム勢力に、何の代償も払わせることなく手を差し伸べるとなれば、国民感情は納得しない。イスラム法学者たちの牙を抜き、将来にわたり二度と政治権力を持てぬよう、宗教組織を完膚なきまでに解体する。そのためには、神をも恐れぬ第二のレザー・シャーが必要なのだ――と。
一方でレイラさんは、レザー・パフラヴィー(レザー・シャーの孫)の即位による王政復古に全面的に賛成する。
「いつも疑問に思うの。イラン人は、そもそも王制という政治体制を、どれだけ分かったうえで王政復古の話をしているのかしらって。王政復古といっても、今どき国王親政なんて時代遅れ。あくまでも国王は象徴的な存在とて君臨し、首相と議会に強い権限を持たせる。これが、現代の王制の常識でしょ。
私は、日本の天皇制をモデルにイランの王制を復活させるのが一番いいと思うの。天皇が政治から遠ざけられたことによって、かえってその聖性が増し、敬愛の対象となっているのは示唆的だと思う。私は、レザー・パフラヴィーにも、日本の天皇のように誰からも愛される存在になってほしい。イスラム勢力や旧体制の残党との闘いは、別に国王本人がやらずとも、議会が有能な首相を選出して、その指示で進めればいいんだから」
今イランの人たちの間にある意識は、「われわれは、騙されてイスラム革命に参加しただけだ」という意識である。彼らは、革命体制の行き詰まりを前に、未曽有の大衆運動と言われたイスラム革命を、そのように総括しようとしている。それはまるで第二次世界大戦後の日本国民が、開戦を熱狂的に支持した事実は棚に上げ、あくまでも自分たちは騙されて戦地に駆り出された被害者であるとして、すべての罪を軍部や戦犯になすりつけたのと同じだ。
5 反米・反露・反中・親日
反米国家としてのイメージが強いイランだが、実際にはイラン人の多くが、米国とヨーロッパの文化に対して親しみと強い憧れを抱いている。
しかし、イラン人が欧米に向けるあこがれと日本人が欧米に向けるあこがれは性質が異なる。イランの場合には、19世紀以降は英国とロシア(ソ連)、20世紀に入ってからはこれに米国を加えた三大国の利害に翻弄され、なかばそれらの属国ないし半植民地的な地位に甘んじてきた歴史がある。しかも、イラン人は、こうした国々によって自国の発展が阻害されてきた、と明確に認識しているのであり、そうした状況は今なお現在進行形で続いているとすら考えているのだ。
仮に、欧米先進国の仲間入りを果たした日本を、「憧れの男性と結婚できた女性」にたとえるならば、イランは「憧れの男性から暴力をふるわれ続けている女性」なのである。
彼らは言う。「そもそもイスラム革命以降、連綿と続く米国主導の対イラン経済制裁が、イスラム体制にどれほどの打撃を与えてきたというのか。まともに制裁の余波を食らってジリ貧の暮らしを強いられているのは国民のほうで、政府は案外ピンピンしているじゃないか」と。
もし、イランに反米(または反欧米)なるものがあるとすれば、それは、陳腐で単細胞的なスローガン「アメリカに死を!」に象徴されるような、イデオロギーに取り込まれた「反米」ではない。本当の反米は、イスラム体制と裏で手を組み、ときにその延命に手を貸しているようにも見える欧米に対する、静かな、しかし呪詛にも似た、根深い不信感に由来するものなのだ。
国際政治上では、イランの友好国はロシアと中国ということになっている。しかし、これらの国に対して一般のイラン人が抱くイメージは、欧米先進国よりもさらにひどい。何しろ中露両国は、今やイラン国民最大の敵ともいえるイスラム体制を強力にバックアップしているからだ。イラン人はなかば自虐を込めて中露を「宗主国」、イランを「植民地」と呼ぶ。
ロシアは19世紀以降一貫してイランへの侵略を繰り返してきたため、言うまでもなく嫌われている。
一方中国は、経済的メリットこそイランに与えている。街なかには中国製品があふれ、地下鉄やバスなど、都市の交通網も中国企業との協力によって整備されている。
しかし、イラン人一般の対中感情は良くない。中国を「信頼できるパートナー」などと呼んでいるのはイラン政府と一部のビジネスパーソンくらいで、多くの国民は中国人を、経済制裁下で生じた空隙を突いてイランを食いものにする、「招かれざる客」と呼んではばからない。とくに中国人が、大挙して押しかけてきながら自分たちだけのコミュニティーに閉じこもってイラン社会と積極的に交流しようとしないことを、イラン人は忌々しく思っている。なかでも一帯一路構想の協定である、「イラン・中国25カ年包括的協力協定」がコロナ禍で調停されたことで、世論は一気に反中へと傾いた。
では、イランはどこの国が好きなのか?
それは、嘘偽り無く、日本である。
イラン人は、イランと付き合いが深かった国のことは、だいたい嫌いである。両国は地理的・歴史的に離れているため、そのアドバンテージがある。
加えて、文化的な面でも日本はイラン人の賞賛を集めてきた。古くは日露戦争での劇的な勝利、焼け野原からの驚異的な戦後復興、そして日本でも小説・映画化された日章丸事件などが、イラン人の称賛を集めてきた。
だが、何といっても決定的だったのは、1980年代の終わりごろから日本に大挙してやって来たイラン人労働者の存在だろう。人によっては10年以上日本で働き、われわれの言語や習慣、そして文化を余すところなく吸収した。
幸いなことに、こうしたイラン人たちの多くが、帰国するころには大の日本びいきになっていた。そして、自らの友人や家族、親戚たちにも、日本人の規律正しさや礼節を重んじる心などについて、その後何年、いや何十年にわたり、繰り返し述懐してくれたのである。
また、インターネットを通じて多くの若いイラン人が、ほぼリアルタイムで日本のサブカルチャー(特にアニメ)に親しんでいるのも大きい。
6 イラン人の精神
イラン人は、人生を楽しむのが実にうまい。
人生の楽しみ方というのは、要するに時間の使い方である。イラン人はわずかな時間、わずかな休日を最大限、レクレーションのために使う。イラン人は若い人たちばかりではなく、子どもや孫がいるような年齢の人も基本アクティブで、わずかな休みがあれば旅行やホームパーティーに明け暮れている。
そもそもイラン人は、いくつになってもどこか子どものような無邪気さを残していて、日本人のように「年相応の振舞いを」とか、「もう家庭があるんだから」とか言って人を戒めたり、やりたいことを諦めたりすることがほとんどない。非常に陽気で純朴な国民性なのだ。
また、イラン人はとにかくよくしゃべる。日本人の5倍はしゃべるイメージだ。「頭に浮かんだことは何でも話してみる」がイラン式コミュニケーションの基本である。逆に、しゃべらないということはその場が楽しくないか体調不良かのどちらかとみなされる。この国では、しゃべること自体が「マナー」なのだ。(例え死ぬほど退屈な話であっても、イラン人は会話を盛り上げる方向へ持っていこうとする)
イラン人は、とにかく人と距離を詰めるのが早く、誰とでもすぐ親友になる。プライベートもすぐさらけ出すが、冷めやすくて関係を切るのも早い。また他人にかなり親切であり、ひたすら人助けをして見返りを求めない人も少なくない。
かつ、イラン人は相当な自信家だ。とにかく自分に自信があり、自己肯定感も高い。メンツのために知らないことも「知っている」と答えてしまう。恐ろしいことに、それが教師やエンジニアといった「スキル」にも及ぶ。つまり、対して実績も実力もないのに簡単に「プロフェッショナル」の看板を掲げ商売する人があまりにも多いのだ。
イラン人は見栄っ張りであり、同時に嫉妬深い。今イラン社会にはびこるのは、「持たざる者が持てる者を蹴落とし、むしり取り、自らそれに取って代わろうとする」、強い敵意に満ちた嫉妬にほかならない。仕事場だけでなく、学校、隣近所、さらには親戚のあいだにすら、激しい嫉妬が渦巻いている。イラン人が本当に恐れているのは、アメリカ人でもなければ、ロシア人でも中国人でもなく、実はイラン人自身なのだ。(2017年の「悲観的な国民ランキング」で、イランは1位を獲得した)
多くのイラン人は言う。「イランの暮らしは、気が休まらない」
7 イランが独裁の無限ループから抜け出すには
古代ペルシアの時代から、イランという国には民主的な政治体制が敷かれていない。
その理由は、「この国民にしてこの政治あり」だからだ。独裁を生み出しているのは、個々のイラン人である。
イラン人は人の下で働くことを嫌い、あらかたの仕事を覚えたら、実力が伴っていなくてもすぐに独立したがる。加えて、イランでは人に雇われると、少ない報酬で限界までこき使われる。経営者はいかにも偉そうな命令口調でこと細かに指示を出し、すべてが自分の思い通りにならないと怒りだす。従業員の自主性など、この国ではほとんど無きに等しい。誰の指示も受けることなく、従業員を意のままに操り、利益を独占するこの国の経営者たちは、言うなれば「小さな独裁者」である。また、お店の店主は基本的に横柄であり、客の方が下だ。イランでは、接客業というものは「客からお金をいただく仕事」というより、お代と引き換えに「客に欲しいものをくれてやる仕事」と認識されている。
アミール君は言う。「イラン人の苦悩は『なぜ独裁者に支配されているのか』じゃなくて、『なぜ自分が独裁者じゃないのか』ってことなんだよ」
そんな社会では、「公」よりも「個」が優先されるために、協調よりも対立が目立ってしまう。これでは話し合いによる意見の形成をするのは不可能であり、それがゆえに「小さな独裁者」が秩序を担うために機能してしまうのだ。
また、イラン人は遵法意識が低い。証明書類の偽造はイランではごく当たり前に行われている。遵法意識の低さには、3つの要因があると考えている。
1つ目は、「そもそも他人の決めた規則に縛られるのはご免だ」という、「イラン的反骨精神」である。
2つ目は、「メンツ至上主義」である。イラン人はメンツを守ろうとするあまり、しばしば不正を犯すことも辞さない。証明書を偽造してもらおうとする人も、ここに含まれる。
そして3つ目が「歪んだ義理人情」である。これは、イラン人の「優すぎるほどの優しさ」の裏返しであり、義理人情によって違反の手助けやお目溢しが横行し、どんなに厳しい法律を守っても法律そのものが形骸化してしまう。この人情第一主義はかなり深刻で、縁故主義が蔓延した結果、コネのある人間だけが就職で得をし、コネのない人間は賄賂を使うことになる。単に公平な競争が阻害されるだけではなく、そこからあぶれた善良な人間を堕落させることにもつながっているのだ。
イランが独裁から抜け出すためには、イラン人一人ひとりが主役となり、責任を取っていく必要があるだろう。
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イランでイラン人の中で暮らしている筆者によるイランとイラン人の実態。
イスラム共和国であるイランだが、政教一致であるが故にイスラム教指導者による政治に対する不満や不信がイスラム教そのものに対する不信につながり、筆者の見るところ民衆の過半数が両者に不信感を持っているという。
厳密なイスラム国家であるにもかかわらず、酒、豚肉は普通に手に入るなど、市井の実態は極めて世俗的で、草の根の親日感は本当らしい。
元来ペルシャ人なのでゾロアスタ教が根底にあり、アラブ人を裏では裸足の人と呼ぶ。
外からでは伺い知れない彼の国の実態に、正に眼から鱗が落ちる思いがする。
Posted by ブクログ
とても読みやすかったです。読んでいて驚くことばかりでした。イランという国を「中東」という一括りにして考えていたけれど、イラン国民の考え方はとても先進的で情報に左右されていない。今の日本には耳がいたい話かもしれません。
Posted by ブクログ
長くイランで暮らす経験を持つ筆者が、イラン人の生活や国民性、彼らのいいところも悪いところも熱く語る本。筆者のイラン人の友達や知り合いたちに関するエピソードがふんだんにあり、ありふれている飲酒や法律違反、独裁体制を馬鹿にしつつ利用する人々の実態、おしゃべりで行き過ぎた親切、見栄っ張りな性格などなどが生々しくて面白いのですぐに読めてしまう。歴史などにも軽く触れていて、現在のイランの現状が簡単にわかるようになっているのも良かった。
政教一致の負の側面として、宗教が政治の不満をも一身に背負うようになってしまい、求心力が低下するというのはなるほどと思った。宗教革命以降は女性の服装も一変したというのはいつか読んだ覚えがあるが、そんなにイラン人女性たちがヒジャブを嫌っているというのは知らなかったなあ。この人の書く本はまた読みたい。