【感想・ネタバレ】豊臣家の人々 新装版のレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

教科書ではわからないことが詳しく書かれていて面白かった。
それにしても政権を徳川に取られるのが自分の養子や妻、側室のせいだとは・・・人を大事にしないといつかは痛い目に合うということね。

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2013年01月10日

Posted by ブクログ

ネタバレ

貧農の家に生まれながら関白となり、位人臣を極めた豊臣秀吉の奇蹟の栄達は、その一族、縁者たちを異常な運命に巻き込んだ。平凡な彼らに与えられた非凡な栄誉と境遇は、ときに豊臣凋落の予兆となる悲劇をもたらす。甥・秀次、正室・北ノ政所、弟・秀長、妹・朝日、養子とした皇族や武将、そして大坂城に散った淀殿と秀頼。彼らの運命を描きながら、豊臣の栄華と衰亡の軌跡をたどる司馬文学の傑作。

秀吉は
1)卑賤から身を起こし
2)二十年で天下人となったが
3)政権は一代しか続かず
4)晩年まで実子にめぐまれず
5)嫡男はその生母とともに自殺し
6)血統は絶やされた
という、特異ないきさつを持っています。

「秀吉は、信長や家康とちがって、
豊臣家の藩屏となるべき血縁者をほとんど持っていない」
【新潮文庫『関ヶ原』(中)P.458】

1)殺生関白
2)金吾中納言
3)宇喜多秀家
4)北ノ政所
5)大和大納言
6)駿河御前
7)結城秀康
8)八条宮
9)淀殿・その子

1、関白豊臣秀次…秀吉の実姉おとも(後の瑞龍院日秀)の再婚相手で、尾張大高村の百姓弥助(後の三好武蔵守一路)の子。次弟は秀勝。三弟は秀俊で豊臣秀長の養子。初め三好孫七郎秀次と称し、河内2万石から、秀吉の後継者となり、尾張伊勢100万石、位人臣を極め関白。暗愚で残虐非道な振舞いの為、高野山へ追放され切腹。妻妾は幼児諸共、京都六条磧で刑戮され尽くした。

2、金吾中納言小早川秀秋…北ノ政所(秀吉正室寧々)は杉原助左衛門定利(のち木下と改姓)の子に産まれたが、早くから伯母の浅野家の養女となった。生家杉原家の当主家定は寧々の年子の弟にあたるが、その5男を豊臣家の養子に入れた。秀秋である。12歳で従四位下右衛門督(唐名を金吾将軍)、15歳で参議、16歳で権中納言という異数の累進を遂げるが、その人となりは愚人であった。慶長の役では総帥を勤めるが、秀吉の癇気に触れ越前に改易されるも、家康の取りなしと、秀吉の薨去で封地を守り、やがて関ヶ原での寝返りが東軍勝利の主因となった。秀秋は歴史に於いて、豊臣家を滅ぼす役割しか演じなかった。

3、備前中納言宇喜多秀家…秀吉が織田家の将として中国攻めの頃、播磨の秀吉と安芸の毛利家の間にあった、備前・美作の大名宇喜多直家が織田方に降った。その際秀家は人質として安土へ行くが、父直家の死去の際、秀吉が見せた厚情を生涯忘れなかった。後、豊臣家の養子となり、五大老の一人となり、勇猛な備前兵の大軍を率いて関ヶ原では獅子奮迅の働きをするが破れ、薩摩に逃れた後、八丈島に流される。内政や政治・権謀に暗く、可憐な迄に豊臣家への素直な忠義を貫いた。豊臣家の養子達の内、彼一人が秀吉の遺志に応えた。関ヶ原の敵味方全てが既に滅んだ、4代将軍家綱の明暦元年まで長生した。享年84歳。

4、高台院北ノ政所…秀吉の正室、寧々である。勃興期の織田家で未だ下級物頭の秀吉(当時木下藤吉郎)と結婚し、前田利家・まつ夫婦とは垣根一つを挟んだ仲であった。やがて異数の累進を遂げた秀吉によって、従一位という女性最高の位を得てもまるで権柄ぶらず、尾張の頃の言葉と物腰を貫いた。やがて豊臣政権が固定し、秀吉の寵が淀殿に移り、その膝下に石田三成、小西行長らの近江系官僚が政治を執ると、次第に寧々の周りには加藤清正、福島正則、浅野幸長らの尾張系の荒大名がその庇護を受けるようになり、寧々自身が徳川家康を頼りにした為に、遂には関ヶ原での尾張系大名と、黒田長政、小早川秀秋の東軍参加への道が出来ていく。秀吉と寧々が作り上げた豊臣家という存在を、淀殿に継承させる事を潔しとしなかった心情が伺える。それを見届けるかの様に、家康の寄進に依る京都東山の高台寺に於いて、秀吉の菩提を弔いつつ、3代将軍家光の寛永元年9月、76歳の生涯を閉じた。

5、大和大納言豊臣秀長…秀吉の異父弟小一郎。秀吉はお仲(大政所)と百姓で織田家の足軽弥右衛門との子であるが、小一郎は継父竹阿弥との子である。秀吉は此の継父と合わず早く家を出た為、兄弟の邂逅は、秀吉が士分に取りられた後である。以降は竹中半兵衛に薫育され、天性の調整と内治の天稟を持ち、その温厚さ故に広く慕われて、豊臣政権の基礎を固めた。大功を立てても秀吉や配下に譲り、自己は目立たず兄の影に従う篤実さを生涯持ち続けた。惜しくも小田原征伐の頃の天正19年正月23日、大和郡山城で死去。享年51歳。秀長の早世が豊臣家の衰亡を早めたと言っても過言ではない。

6、駿河御前旭姫…秀吉の継父の子で異父妹にあたる。小一郎秀長の実妹。秀吉が異数の出世を遂げ始めた頃は、尾張中村の水呑百姓に嫁いでいたが、その夫は俄かに侍に取り立てられ、佐治日向という名を与えられるが、程なく死ぬ。次に副田甚兵衛という秀吉の直参に嫁ぐが、此の男も大した才覚も無く、小身のままであった。やがて徳川家康との間に小牧長久手の戦いが起こり、家康有利での講和後、秀吉は何とか家康を籠絡せんものと外交を仕掛けるが、旭姫を甚兵衛と離縁させ、家康に嫁がせるという手を打ち、更に生母大政所を人質に浜松に下らせた。此の後に家康は本拠を駿府に移したため、駿河御前と称せられた。僅か3年半後の天正18年8月聚楽第で死去。享年48歳。直後に小田原征伐が起こっている。彼女もまた、秀吉の異常な運勢に、運命を変転された一人であった。

7、越前少将結城秀康…実父は徳川家康であるが、生母おまんが出自の卑しい侍女であって家康は喜ばず、徳川家で重んぜられなかった。小牧長久手の戦の後の講和で徳川家から人質として豊臣家に送られるが、秀吉は秀康を大変愛した為に、彼もまた実父以上に秀吉を思慕した。のち秀頼が生まれた為に、常陸の名族結城家を継承し、徳川家に戻される形で家康に従った。秀康は異母弟で徳川家の世子秀忠を遥かに凌ぐ器量を備え、剛毅果断で、周囲を静まらせる威徳を備えていたが、反って家康は此れを恐れ、刺激せざるよう扱われた。よって秀康は一度も戦場に出ていない。関ヶ原の後は越前若狭75万石を領したが、大坂の陣の起こる前の慶長12年病没。享年34歳。徳川の血を持ち、豊臣の養子であり、類稀な将器を備えながら一度もそれを顕す機会を得ず、遂に若くして空しく世を去った。政治に翻弄されきった人生であるといえよう。

8、八条宮智仁親王…父は誠仁親王(正親町天皇の養嗣子)、母は勧修寺晴子。兄は周仁親王で、正親町天皇を継ぎ、後の後陽成天皇となる。智仁親王は今出川(菊亭)晴季の斡旋で、関白に就いた秀吉の養子になっている。皇族が臣下で、しかも氏素性もしれない秀吉の養子になるなど、史上唯一の事である。親王は非常に聡明で、和学に通じ、後に幽斎細川藤孝より『古今集』解釈の秘伝、「古今伝授」を受けている。後鶴松の誕生を機に、第二皇位継承権者として皇族に復すが、絶頂期の秀吉を間近に見て育ったため、その感興は秀吉を眩しく捉え、聚楽第、伏見城、そして秀吉自らの縄張りによる自身の八条宮邸などの桃山文化の美術・建築に強く影響を受け、豊臣家が滅んだ後、桂離宮を造営し、其処に住んだ。同時代の日光東照宮と美意識の対極として今に語られる。3代将軍家光の寛永6年没。享年50歳。

9、淀君・豊臣秀頼…淀君は北近江小谷城主浅井長政と、信長の妹お市の方との長女。秀頼、幼名は拾、秀吉と淀君の次男(長男鶴松は夭逝)。世界史上にも極めて類稀な強運によって人臣の栄華を極め尽くした秀吉と豊臣家。此処まで見てきた様に、俄かに立ち上った異常過ぎる強運は、彼の周囲の人々をも巻き込み、彼らは皆数奇な生涯を送った。その最も象徴的なものが、淀君と豊臣秀頼であろう。織田家の血を引く淀君は、武家の貴種の血統を崇拝する性癖がある秀吉に溺愛され、二度も豊臣家の世継を生んだ為に、異常な権勢を持つに至った。その側近は、石田三成以下の近江系の文治派の吏僚大名で構成された為に、正室北ノ政所を戴く、加藤清正・福島正則以下の尾張系の武断派大名らと、豊臣家を真っ二つに割って抗争した。此の間隙を利用して関ヶ原の戦いを起こし、遂に天下を得て幕府を開いたのが徳川家康である。豊臣家は65万7千4百石の一大名に転落し、家康はその生存中に豊臣家を滅ぼすべくあらゆる手を打ち、その命運を追い詰めてゆく。三成亡き後の大坂城内には既に人無く、無能な家老の片桐且元、淀君の乳母大蔵卿の縁者の大野治長・治房兄弟、秀頼の乳母の子、木村長門守重成など、淀君を中心とする閨閥の支配する家となっており、情報の漏洩、家臣の離反、秀頼が家康に伺候させられた事に依る家格の失墜など、大坂の陣に到る前に、家康に調略され尽くしてしまう。中でも最大のものは秀吉が大坂城内に貯蔵していた夥しい金銀を、秀吉供養や秀頼祈願の為と称して、莫大な出費を強いた事で、汲めども汲めども一向に減らない莫大な金穀の量に、家康も舌を巻いたと伝わる。やがて方広寺大仏と大仏殿の再建に到って漸く尽き、方広寺鐘銘事件によって武力討伐へと発展していく。
 淀君その人は、美貌以外の何の能力も無い女性であり、己の地位だけに拠って、遂に大局に盲目な儘であり、家康に脅され、宥められ、すかされる度に家康が思うが儘の愚かな反応のみを繰り返した事には、当の家康でさえ苦りきった思いを持った事であろう。大坂の陣では真田幸村、後藤基次、長曾我部盛親、毛利勝永、明石全登といった名将を有しながら、彼らを信頼せず、夏の陣で豊臣家の滅亡寸前になってさえ、秀頼を陣頭に立たせて士気を鼓舞する事さえしなかった。その秀頼は22年の生涯で、名前以外の何の声も痕跡も残さず、大坂城山里廓の焔硝蔵の爆砕と共に此の世から消滅した。

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2016年02月28日

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