あらすじ
NHK「100分de名著」で出会った本から伊集院光が3冊を厳選。名著をよく知る3人と再会し、時間無制限で新たに徹底トークを繰り広げる100分de語りきれない対談、好評第2弾! 松尾芭蕉『おくのほそ道』、デフォー『ペストの記憶』、コッローディ『ピノッキオの冒険』を収録。
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Posted by ブクログ
とても読みやすく、そして面白くて2日で読んじゃいました。「100分de」での伊集院さんが全く読んでないのにあんなに的確な質問できることにビックリ。むしろまっさらだからできる純粋な疑問なのかもしれないけど。私にはできない。
今回はちゃんと読んでから改めて名著対談ということでしたが、もちろん的確だし、目の付け所がさすがです。
松尾芭蕉の
むざんやな 兜の下の きりぎりす
は印象に残った。
ピノッキオで和田先生が
「意思を持ったあやつり人形であるピノッキオは、わたしたち人間を体現しているように思えてならない」という言葉が印象的でした。
Posted by ブクログ
このシリーズ、まだまだ続いて欲しい笑
松尾芭蕉『おくのほそ道』
古池や蛙飛びこむ水のおと
夏草や兵どもが夢の跡
京にいても京なつかしやほととぎす
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
などなど。
解説ありきで読む方が面白そうだが、読んだ後に実際の足で旅路に足を運びたくなりそうだ。
ダニエル・デフォー『ペストの記憶』
同著者のロビンソン・クルーソーは、名前は知っているが読んだことのない作品であり、いずれ読みたいと思っていたので、その際にはペストの記憶も読みたい。コロナ禍でも怪しい検査キットやサプリメントが売られていたが、ペストでも様々な謳い文句の薬が売られていた。
本書で伊集院氏は、戦時中は戦前の落語がいくつかなかったことにされ、戦後には戦時中の落語がなかったことにされる。不謹慎であったり、国威発揚的な内容もあるため。〜と引き合いに出しており、共感した。
コッローディ『ピノッキオの冒険』
以前、読んだことのある作品だった。
ディズニー映画とは異なり、人間くさいというか、現実の貧しさや主人公も気まぐれな人間らしい精神の人形であり、特にコオロギをさっさと殺してしまう場面は衝撃だった記憶がある。
新聞連載の作品なので、途中でピノキオは死んでしまった描写があったが、実は著者の借金分稼ぎ終え、もうこの話も書く必要がなくなったと思い〆ようとしたものの、読者からの要望で続いたという話や、ジェッペット自身が結構問題のありそうな人間であったり、クジラに呑み込まれるのは人形作りなんてやってられなくなった産業革命で会社に取り込まれ、貨物船もクジラに呑み込まれたため食料などに困ることはなく、むしろ以前の貧乏生活よりランクアップしているということで、自由はきかなくなったが食べ物に困らない(稼ぐことは出来る)という比喩である話など、面白かった。
Posted by ブクログ
伊集院 『ピノッキオの冒険』を読んで、落語に近いなと感じたんです。
落語が描く江戸って、理屈の世の中じゃあない。現代に比べると、全然、デオドラント(脱臭)も整理整頓もされていない。憎み合っているのか仲がいいのかという境や、善人なのか悪人なのか境目がはっきりしない人たちが出てきます。たとえば、
「おい、くたばりぞこない、まだ生きてやがったか、しばらく鼻の頭見せねえから、ついにくたばったかと思ったよ、香典出すのが惜しいから、ボケたついでにしばらく死ぬのも忘れちまえ」
などと言う。こういう江戸っ子の温かみを含んだような口の悪さと、無知で間抜けな長屋の住人の与太郎が絡むと落語のリズムができあがるんですが、まさに、ピノッキオもかなり無知で間抜けで……。とにかく読んでいてとても心地いいんですよね。
ピノッキオ落語説、無理やり過ぎますかね?
和田 とても的確だと思います。『ピノッキオの冒険』は、物語を組み立てるうえで非常に大切なスピード感を一貫して保っている。
物語の速さやテンポを保つのって簡単じゃない。スピードを出しても読者がついてこられるようにしなければなれないし、物語の筋が脱線しないやり方で運んでいかなければいけない。それは相当技量がないとできません。
伊集院 そして落語的なのが、斜に構えたというかひねくれたというか、物語の書き出しです。これがとてもいい(笑)。
昔むかしあるところに……
「ひとりの王さまがいたんだ!」わたしたちの小さな読者たちはきっとすぐに言うに違いない。
「いいえ、みなさん、それはまちがいです。昔むかしあるところに、まるたんぼうが一本、あったのです」(和田忠彦訳、以下同)
「よくあるベタな童話なんて読みたくないでしょ」という作者のメッセージがいきなりきますよね。
ラジオの深夜放送も、こういうひねくれ方をリスナーと共有します。「テレビだったらこうくるけれども、そんな建前は飽き飽きでしょ」ってな感じで。
そういうことができるのは、自分に付き合ってくれる人がいると信じているからです。これに対して、普通の話に飽き飽きしている人たちが「わかってるねぇ、面白そうだな」って感じてくれると思うんです。
伊集院 和田先生は、主人公のピノッキオと作者のコッローディに重なるところがあるとおっしゃっていましたね。
それを聞いたうえで読んでいくと、コッローディは、物語を書くなかでピノッキオを育てながら、コッローディ自身も育っていったような感じがします。ピノッキオが改心しても改心しても、欲や好奇心を抑えられずにやらかしてしまう。破滅寸前のピノッキオを救済するときに、作者自身も救われたり、どうすればよいのか学んだり。
まるでピノッキオを書くことが作者のセルフカウンセリングになっているような印象を受けるんです。ピノッキオの物語が予測不可能で面白いのは、作者自身が不安定だからだと思います。
伊集院 児童書で書いてよいのはこれくらい、なんて思っている連中に「これでも喰らえ!」って爆弾を投げかけているようです。
僕が中学生くらいのとき、ビートたけしさんがテレビやラジオに現れて、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいなことを言い出したときも、やっぱり「これでも喰らえ!」と感じました。
世間が建前で埋めつくされるようになると、そういう人が現れて、人気をさらっていく。たけしさんもおそらく複雑な環境で生きてきているから、当たり前の建前がくそつまんないことがわかっているんですよね。
和田 実際われわれが生きている人生って、そんなわかりやすい道徳で割り切れるようなものでは到底ありませんよね。