あらすじ
桜の森の満開の下は怖ろしい。妖しいほどに美しい残酷な女は掻き消えて花びらとなり、冷たい虚空がはりつめているばかり──。女性とは何者か。肉体と魂。男と女。安吾にとってそれを問い続けることは自分を見つめることに他ならなかった。淫蕩、可憐、遊び、退屈……。すべてはただ〈悲しみ〉へと収斂する。(解説=七北数人)
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Posted by ブクログ
「夜長姫と耳長男」が一番印象に残りました。
今でこそアニメや小説に「血が見たい」「人の死が見たい」といった猟奇的なキャラクターが見られますが、夜長姫のような人は発表当時にはほとんどいなかったキャラクターではなかったでしょうか。
この本を読んで坂口先生の作品に興味を持ち始めました。
Posted by ブクログ
女は空で男は鳥だったその表現が綺麗でした
男は女にとって綺麗で記憶からも話せないそんな存在
それを桜で例えててると解釈しました。桜と散る男を見ると彼はもう恐るものはないと思いました
Posted by ブクログ
坂口安吾の女性像はどこか観念的で、愛情と不信感のアンビバレントがすごいなぁ…などと思いながら読んでいたら、『青鬼の褌を洗う女』の中で作家自らそれを告白していた。
“彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった”
女を畏怖するのは孤独な彼の生い立ちからきているのだろうか?
坂口安吾を『夜長姫と耳男』の耳男と重ねてみると、夜長姫のことばにぐっとくるものがある。
“好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして”
Posted by ブクログ
文明の中で理性や美を追うことは、人間を狂わせる。
けれどその狂気こそ、人間の証でもある。
私的には人間はみんな不出来で狂ってると思ってる。
それより桜の木のほうの描写は狂気があったかな。
Posted by ブクログ
「夜長姫と耳男」と「桜の森の満開の下」のみ。後者は再読。
「夜長姫と耳男」はあらすじは知っていたものの、やっぱりじわじわくる怖さ。まともな感覚がだんだんなくなってくる。耳男は最初は夜長姫のことを「あいつ、むかつくー」と思ってたろうけれど、弥勒を掘り始めるあたりから、一種の(勘違いから生まれたかもしれない)恋だったのかなーとか。特に笑顔に縛られているあたりは。最後のシーンは客観的にはグロテスクではあるけれど、それだけでは収まりきらない妖艶さ?美しさ?があると思った。
その後に「桜の森の満開の下」を読むと、女が夜長姫よりちょっとマシだけど、やっぱり狂ってるって印象が強くなる。特に首を求めるところからは。最後の桜のところは一種浄化とも捉えられるかも。