あらすじ
激動の昭和・戦前戦中期、作家たちはみずからの限界点を見つめながら、文学を愛する人たちの期待に応えようとした。そこから忘れがたい多くの名編が生まれた――。芥川龍之介から中島敦、織田作之助まで現代詩作家・荒川洋治が厳選した全十三篇を発表年代順に収録。解説では昭和の名長篇も紹介する。文庫オリジナル。〈編集・解説〉荒川洋治
【目次】
玄鶴山房/芥川龍之介
冬の日/梶井基次郎
橇/黒島伝治
風琴と魚の町/林芙美子
和解/徳田秋声
一昔/木山捷平
あにいもうと/室生犀星
馬喰の果て/伊藤整
満願/太宰治
久助君の話/新美南吉
コブタンネ/金史良
名人伝/中島敦
木の都/織田作之助
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Posted by ブクログ
荒川洋治さんが選んだ「昭和の名短篇」戦前篇の登場である。これは読まないわけにいかない。
各作品について感想を述べる。
芥川龍之介「玄鶴山房」
芥川は昭和2年7月に自ら命を絶った。昭和の文学は芥川の死に始まったと言ってもよい。玄鶴という小資産家の「山房」には娘のお鈴と銀行員の重吉夫妻が同居している。玄鶴もその妻のお鳥も老齢で結核を病んでいる。ある時、山房のかつての女中であり、玄鶴の妾でもあった二十代のまだ若いお芳が、子を連れて玄鶴の「看病」にやってくる。この微妙な関係にある縁者たちが、一つ屋根の下で過ごす。娘婿の重吉や住み込みの看護婦・甲野の視点も絡みながら、彼らの心理が描写される。怪奇や幻想的な短篇を得意とした芥川だったが、これは完璧なリアリズム小説。この緊迫感はただ事ではない。
黒島伝治「橇」
1917年から始まる日本のシベリア出兵を題材とした作品。戦争の悲惨さ・無意味さを、素朴ながら力強く訴えた反戦文学の嚆矢である。
梶井基次郎「闇の絵巻」
冒頭3段落目が強い印象を残す。以下引用する。「闇! そのなかではわれわれは何も見ることもできない。より深い暗闇が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえ出来ない。何が在るかわからないところへ、どうして踏込んでゆくことが出来よう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。」
林芙美子「風琴と魚の町」
本当の貧しさを経験した少女時代。それがのちの流行作家をつくりあげた。
徳田秋声「和解」
同じ尾崎紅葉門下の泉鏡花との「和解」。多少の文学史の知識がないとわからないかもしれない。
木山捷平「一昔」
小学校の教師をしていた一昔前のことを書いている。ある教え子の姉が仄かに寄せる思いが、はかなくも美しく描かれる。
室生犀星「あにいもうと」
室生犀星の小説作品を初めて読んだのだが、圧倒された。ならずものの伊之と、都会に出て堕落していった妹もんとの言葉の応酬は壮絶。名作である。
伊藤整「馬喰の果て」
この作家の作品も初めて読んだが、室生と同じく、その骨太な人間描写に圧倒された。時化に遭い絶望的だと思われていた準平が助かったかもしれないとわかった時の、かつての愛人お園の心理を短く鋭く描いたラストが余韻を残す。
太宰治「満願」
何度か読んだ作品だったが、これほど短いものだとは今まで気づかなかった。たった3ページ。しかし読者に忘れがたい印象を残す。太宰は天才作家である。
新見南吉「久助君の話」
童話作家と目されている作家だが、友達とは何なのか考えさせる深い作品だ。こういう作品も拾うところに編者の非凡な目利きとしての才能が表れている。
金史良「コブタンネ」
「久助君の話」に続き、子供のころに出会った人と出来事を回想する話。昭和戦前期には、朝鮮半島出身の隣人が今よりも身近にいた。
中島敦「名人伝」
これも昔読んだことがあったが、再読して傑作であることを再認識した。中国の地名や人名が出てきて、難しい漢字も多いので、ちょっと見なんだか厳めしそうだが、これほど面白い作品もない。ほとんどギャグ漫画としても読める。「名人」の超越のしかたが半端ではない。
織田作之助「木の都」
これも再読して名作の印象を深めた。繰り返し味わうことの愉しさとよろこびも、この短篇集から多く得ることができた。
最後に荒川洋治さんの「解説」から、なるほどと思ったところを引用して終わる。この選集には収録できなかった井上友一郎の「残夢」の中で主人公が口にする言葉である。「「総じて自分の今までの文学の勉強のしかたが、絶えず時代とか社会とかいう風なことを一方においてでなければ、何事も考えられないようなところがある」。だが「何事も時代とか社会とかに関聯させて考えるというやり方が、一向その必要のない家常茶飯の事柄にさえ、ばか正直に、よけいなものさしを当てさせる結果になり、わかりきった物事さえも、よけい混乱させたり必要以上に深刻に見せたりしてしまうのではあるまいか」。」
戦前・戦中・戦後という言葉が、じつは文学に対する素直な眼差しにフィルターをかけているところもあるのではないか。そうした反省を私に促した。