あらすじ
大正7年、芥川はすでに文壇に確たる地歩を築き、花形作家としての輝かしい道を進んでいた。愛娘を犠牲にして芸術の完成を図る老絵師の苦悩と恍惚を描く王朝物の傑作「地獄変」、香り高い童話「蜘蛛の糸」ほか、明治物「奉教人の死」、江戸期物「枯野抄」など溢れる創作意欲の下に作品の趣向は変化を極めている。(C)KAMAWANU CO.,LTD.All Rights Reserved
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未完の『邪宗門』を初めて読んだ。序盤から芥川らしい世界観に浸り面白かったが、終盤、摩利信乃法師と僧都の法力合戦になったあたりで未完のまま放置したのもわかるような気がした。あのあたりで詰んだ感じがした。最後まで長編をものにできなかった芥川に足りなかったものは何だったのだろうかと思う。
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読んだ話は
・袈裟と盛遠
・蜘蛛の糸
・毛利先生
・犬と笛
で、まだ半分は読み切ってない状態なんだけど、ここまですごく面白かった。有名な話は蜘蛛の糸と地獄変なんだろうけど、自分のお気に入りは『毛利先生』『犬と笛』かな!
とくに『犬と笛』は、難しい単語が無いから初めて読むならおすすめ!日本の昔話のような話。子供に読み聞かせてもいいと思う。
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芥川作品の中で蜘蛛の糸が1番好きな小説。お釈迦様は何でもお見通しですね。人間とは醜い生き物でもあるなと。私もカンダタの立場なら、同じようにしていたのかもしれません。私の中の教訓本。卑しい心ではなく、相手を思いやるキレイな心を持って生きたい。
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考えながら読む、ということが許されなかった。それほどに話に引き込む言葉選び、描写の仕方、構成。ただただ面白く、貪るように読み進めていきました。
解説を読んではじめて考察することができました。
これは一度だけでは考察しきれない作品だと思います。それほどに、お話の一つひとつが面白すぎるので。
蜘蛛の糸はずっと小さい、それこそ小学生のころに杜子春などと一緒に読んだ記憶がありますが、大人になってから読むとまた違った見方ができて面白いですね。
解説をうけて、確かにこれを子供に読ませるのは、酷いかもしれないなぁと思いました。あまりにも現実を突きつけすぎていますよね。ここから反省をして次に生かしていると知り、納得しました。
この本は、一度めは純粋にお話を楽しみながら読む。
二度めは芥川の考え、思いを推し量りながら読む。
二度だけではきっと足りないでしょう、何度も読むことで芥川の考え方を理解できると思いました。
すぐに2周目にいきたいところですが、ほかにも読みたい本がたくさんあるので、また後日、日を置いてから読んでみたいと思います。
でも、それでもまた「面白い!」と思って考えられないのかな…そんな気もしています。
芥川は芸術家ということが、この一冊からでもよく理解できました。本当におもしろかったです。
Posted by ブクログ
羅生門を読んでから、芥川龍之介さんの作品に触れてみたいと思い買ってみましたが、凄く面白かったです。
所々言葉の意味が理解できず、読めないところもありましたが、勉強になりました。個人的に、「蜘蛛の糸」、「毛利先生」、「犬と笛」が心に残っています。
Posted by ブクログ
中学、高校時代に芥川龍之介を貪るように読んだ。
ほとんど文庫で読んだのだが、どうしても書簡集も読みたくて、全集の書簡集の巻も愛読した。
好きな作品はいくつもあるが、あまり取り上げられることのない、「袈裟と盛遠」(1918)に非常に感銘を受けた。
袈裟と盛遠、共に人の名前だ。
つまり、「トリスタンとイゾルデ」(「イゾルデとトリスタン」)と言ったようなタイトルだ。
袈裟は袈裟御前、女性の名前。
「盛遠」は、出家する前の文覚のことだ。
だから、袈裟は女性の名前と共に、後の盛遠の出家を象徴している。
文覚は、伊豆に流罪となった時に同じく伊豆に流されていた源頼朝と知り合う。
頼朝にその父義朝の髑髏を見せて、平家追討の決起を促したと言われている。
源氏の勝利後、鎌倉幕府の朝廷に対する窓口として権勢を奮った。
頼朝死後、後鳥羽上皇の時代に失脚、流罪になる途中で客死する。
仏教(真言宗)を政治に使う正に「怪僧」と言える。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、市川猿之助がこの奇怪な僧を、奇怪に演じていた。
だが出家前、盛遠は北面武士だった。
と言うことは、「怪僧」とは縁遠い、家柄、容貌、武芸、蹴鞠、和歌に優れた若者だったはずだ。
(平清盛、西行も北面武士。ルックス抜群、運動神経抜群、武芸抜群のスーパーエリートたちだ)
芥川の本作には、モデルがある。
「源平盛衰記」だ。
袈裟は人妻、その美貌の人妻に恋をするのが北面武士、盛遠。
盛遠は、袈裟の夫を殺害しようとして、誤って袈裟を殺してしまい、そのため出家した、と語られている。
文覚の出家譚としての物語だ。
芥川は、これを、近代人の心理ドラマに換骨奪胎してみせた。
話法は、独白体。
盛遠と袈裟の別々の独白を並べることで、物語を重奏的に仕上げている。
これを、より複雑にすると「藪の中」(1922)になる。
従って、芥川23歳の作品、「袈裟と盛遠」は、過度的な作品であると言える。
「信用できない語り手」という独白体を生み出したのは、エドガー•アラン•ポーだ。
ポーの作品はほとんどが、「信用できない語り手」による語りで成り立っている。
夫の殺害を持ちかける盛遠の、それを言ってはダメだと意識的には抑圧しながらも、無意識のうちに口が勝手に動く恐ろしさは、ほとんどポーの短編を思わせる。
だから、本作も、二人の「信用できない語り手」による独白として、眉に唾つけて読まなくてはならない。
本作は、枠組みとしては三角関係だが、独白が二つしかないことから分かる通り、実質的には、男と女の二人の心理劇だ。
第三の男は「夫」という袈裟というヒロインを縛る存在であれば、誰でも よいのだ。
だから、この三角関係は、「中原中也-長谷川泰子-小林秀雄」の正当なる三角関係というよりも、吉本隆明の体験した擬似三角関係に近い。
芥川龍之介は、彼の同世代の中原悌二郎の彫刻に感動したと語っている。
この中原の師事したのが、ロダンに直接師事した荻原守衛(碌山)だ。
芥川が、守衛の傑作「文覚」と「女」を見ていたという証拠はない。
見ていなくとも、芸術家との繋がりの深かった芥川のことだ、「文覚」と「女」の存在も、その作品の背景も知っていた可能性は強い。
だから、「袈裟と盛遠」のもう一つのモデルとして、相馬黒光と荻原守衛を想定することも可能だろう。
芥川の「袈裟と盛遠」の裏には「黒光との守衛」があったと、思うのだ。
守衛の「文覚」は、煩悩の塊のような彫刻だ。
それは今にも人を殺すような迫力を持ち、その内なる暴力をかろうじて両腕を組んで抑え込もうとしている男の危うさを表現している。
守衛は姉のように慕う黒光が、夫の不倫で苦しむのを見かねて、噴出しようとする黒光に対する愛と、その夫を殺害したいという内なる暴力を、「文覚」となって抑え込もうとしていたのだ。
組んだ腕を解いた瞬間、その愛と暴力は迸る。
だから、「文覚」は、守衛の自画像だった。
守衛の「女」は、遺作だ。
彼が30歳で結核で死去した後に、アトリエで発見された作品だ。
遺品整理に訪れた黒光は、その彫像を発見した瞬間、息が止まり、倒れそうになったと語っている。
「これは私だ」と直感した、と言う。
後ろ手に縛られた(手を組んだ)女性が、それでも天を見上げて、立ち上がろうとしている。
打ちひしがれながらも、逞しく生きようとする女性の姿をこれほどダイナミックに造形した作品は他にない。
師であるロダンもこれを見たら絶賛したことだろう。
黒光とその夫は、新宿中村屋を作り、若き芸術家の支援を行っていた。
その夫を殺し、黒光を奪う、という内側から噴出する想いをかろうじて抑えた守衛は、密かに、黒光の苦悩と希望を彫刻に込めていた。
それを見た時の黒光の衝撃を思う。
守衛が3歳年上の人妻黒光に出会ったのは、彼が17歳の時、出身地安曇野ででのことだった。
その時、黒光は、白いパラソルをさしていたという。
そんなハイカラな格好を見たこともなかった少年にとって、白いパラソルをさした都会的な知的で芸術的な美女の姿は、モネの「パラソルをさす女」のように眩しく、正に「ミューズ」に見えたことだろう。
この出会いが、守衛を芸術に導き、パリに導き、ロダンに導き、黒光との再会に導いた。
芥川が、守衛と黒光の関係を知っていたかどうかは分からない。
だが、「源平盛衰記」という原型に、守衛と黒光の関係を投影することで、平安時代の物語は、近代の物語に変貌した、という想いを抑えることが出来ない。
守衛は知る由もないが、黒光は、その後も活躍する。
日本に亡命していたインド独立運動家ラース•ビーハリー•ボース(もう一人チャンドラ•ボースがいるので混乱しやすい)を保護した。
ボースは英国から指名手配されていたので、日本政府はボースを国外退去させようとした。
それを匿ったのが黒光だった。
ボースは、黒光の娘と結婚している。
黒光は、インド独立を側面から支えたのだ。
そのボースから教えられたのが、中村屋のインドカレーだ。
NHKの朝ドラ「なつぞら」で比嘉愛未が演じた「川村屋」のマダムこそ、黒光だ。
最後に、芥川の「袈裟と盛遠」の与えた影響を見てみたい。
誰も指摘したのを見たこともないが、三島由紀夫の「愛の渇き」は、三島の「袈裟と盛遠」だと思うのだ。
三角関係による殺人が描かれている。
(芥川の作品は、殺人の直前の場面で終わっている)
ただ、「袈裟と盛遠」で、殺人を犯すのが、盛遠であり、殺されるのが袈裟であるのに対して、「愛の渇き」では、殺人を犯すのが「袈裟」であり、殺されるのが「盛遠」だという転回がある。
しかし、「袈裟と盛遠」にしても、殺人の主導権を握っているのは、袈裟の方だ。
だから、「愛の渇き」において、「袈裟」自身が「盛遠」を殺害してもなんの不思議もない。
鎌倉時代に作られた「源平盛衰記」の文覚出家譚の物語は、「黒光と守衛」と言う実際のドラマを介すことで、芥川龍之介によって、近代心理劇に生まれ変わり、それを三島由紀夫は換骨奪胎することで、謎に満ちた現代ドラマを生み出した。
こう考えることが出来るのではないか。
Posted by ブクログ
本屋で、ブックカバーが可愛かったので買いました。
芥川龍之介の作品はもっと読みにくいものかとおもったけど、意外にも読みやすかった
地獄変で、芸術家の真骨頂を垣間見た
Posted by ブクログ
蜘蛛の糸は小学生の頃読んで好きだったなぁと懐かしくなりました。
地獄変は独特の雰囲気と簡潔で深い物語で好きです。オマージュ作品も多数あるみたいなので少しずつ追っていきたいな。
Posted by ブクログ
“地獄変”はアーティストとは?という問いを芥川が投げかけているようだった。自分もアーティストとはどんな人なのかよく考える。類まれな才能があって、ストイックで、人生より芸術に重きを置いている人、私生活や人付き合いを犠牲にしてでもただひたすら、独りで何かを考えたり作り上げたりしている人なのかなと思う。例を出すと、ハリウッドの巨匠、スピルバーグや毎日コントを上げているジャルジャルとかかな。
ただ地獄変の絵師、良秀は娘を殺されてまでも、自分の求める芸術を追い求め続けた。作中の高僧は仏教的な立場から、いくら芸に優れていても、人を殺してはダメだ的なことを言っていたが、実際はどうなんだろう。自分もこれはやりすぎなのかなと思ったけど、芸術的な観点から言えば、良秀の生き方は美しく正しいのかもしれないし、芸術家とはこういう人を指すのかもしれない。もしかしたら芥川は自身の芸術家としての生き方や決意を良秀に投影したのかもしれない。
“奉教人の死”も結構好きだった。芥川の作品はこういう儚くて救いようがない話の方が好き。人物の機微をしっかり描いているから本当に面白くて読み応えがある。それと芥川の歴史ものは古文で書かれているものが多くて、古文単語とか慣れていない自分には読みにくいけど、これを機に源氏物語とか今昔物語とか読んでみようかなと思う。
Posted by ブクログ
新技巧派ならではの表現の癖を感じられて面白い。夢と現実を行き来するような虚構の遊戯性を強調する文体は反自然主義ならではで、どこか童話らしさをも感じさせる。
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①『地獄変』
完全な地獄屏風を完成させるために娘を豪華の炎に追いやる良秀。彼の中に「完璧なる芸術」を希求する欲求と、非人道的な方法で愛娘を美の遂行のために殺してしまう事への葛藤が相剋しており、なかなかに考えさせられる作品。特に炎の描写は圧巻。生きたことのない時代にも関わらず、燃え盛る馬車のイメージがまざまざと浮かんでくる。あっという間に物語に引き込まれてしまった。
地獄変が人々に認められたことで、芸術が道徳を超越したかのように見えたが、結局良秀は自殺してしまった。芸術至上主義へのアンチテーゼとも捉えられつつ、
真の芸術は、死を伴う葛藤の上にようやく実現可能なほど尊いものだと言われているような気もした。
記憶に焼き付く作品。
②『枯野抄』
松尾芭蕉の死を前にした弟子たちの「死」に対する赤裸々な矛盾が語られる。案外、人の死を前にした人間の感情は、利己的な感情や嫌悪感、恐怖など「悲しみ」だけで語れるものではないのかも知れない。芭蕉は夏目漱石をイメージして描かれたものであるという説もあるようだ。漱石というカリスマの呪縛から解放された自分自身と重ね合わせて描かれたのかもしれない。
「自分たちは師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分自身を悼んでいる。ーーそれを非難したところで、本来薄情に出来上がった自分たち人間をどうしようか」
③『邪宋門』
個人的には、人々の信仰心の脆さや危うさを描いていると解釈した。恋愛に対して若殿は、「いつ始まっていつ終わるかだけが気がかり」「始めから捨てられるつもりでいる」と述べている。そして、恋愛も宗教も、ただ世の中の無常から逃れるための救済措置の手段に過ぎない。つまり、恒久な恋愛感情の実現が不可能なように、宗教における信仰心も簡単に捨てられて、乗り換えられていく。という事か?
『奉公人の死』では殉死のようなものを描いていてかなり宗教に対しての信仰が熱い作家なのかと思っていたが、この解釈だと他の作品との調和が取れないか。。?
④『毛利先生』
自己の本質を不器用にしか表現できない人間の哀れを描きながら、それに侮蔑の目を向ける人々の倨傲に、作者の深いため息が聞こえてくるよう。不器用ながらも、自分らしい道を、自分らしく歩む先生の強さに感服。
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【2022年30冊目】
蜘蛛の糸、羅生門、杜子春しか読んだこと無かったので、久々に芥川に触れたいなと思ってこちらの短編集を読んだのですが…作風の幅広すぎてビビりました。同じ作者が書いたとは思えない、すごいですね…。邪宗門だけ全然理解できなかったのでまた時間を置いて読んでみたいと思います。
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最愛の娘を焼かれながらにして、良秀の悲しみや怒りが狂気に変わっていく様が何度読んでも凄みを感じる
芥川龍之介の短編小説はほんと凄い
いつまでも心に残ってふと読み返したくなる
Posted by ブクログ
難しかったり、事前知識がないと理解できない話もあったが、解説なども見て「なるほど」と楽しめた。
普段小説を読まないのもあって、明示されてないけど汲み取って解釈するという習慣がなかったので、てとも刺激になった。
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芥川の文章は無駄がなく、冬の夜みたいな冷たい美しさだと思う。
蜘蛛の糸は学生時代ぶりに読んだけど、あのころと良い意味で抱いた感想は変わらない。人によって感想がわかれそうだから読んだ感想や解釈を話し合うのも楽しいかも。
地獄変は人を魅了するものを造るには人でいることを手放さなければならないのか、いや手放さずにいたから造ることが(描くことが)できたのか自分でもこれだという考えがまとまらないけどそれが芥川作品の良さでもある。
毛利先生は心が苦しく、切なくなる。
人のことを愚かだと嘲ったあとに知るその人の本質。
誰かのことをわかった気になることほど浅はかなことはないよなあ。
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「地獄変」を読んだ時…昔「羅生門」を授業で読んだ瞬間に心に湧いたのと同じ何かが蘇った。
私は芥川龍之介の「はっ…」っと息を飲むような苦しく切ない後味が好きかもしれない。
どの作品にもちょっとした苦味があるような、そして何かを考える余韻を残しているところが、難しいながらも読み続けてしまう理由に違いない。
芭蕉が登場する作品もあれば最後は少しファンタジーもあって、幅広い世界を味わえる一冊。
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芥川の鋭い筆致によって人間の業、強さ弱さを浮かび上がらせた作品を、うまくまとめていると思う。装丁が美しいのもポイント。最後の一編だけすこし「ちがう」気もしたが、巻末には年表も付いていて十分に楽しめた。
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大学時代、文学といふものを改めてやつてみようと思ひたち、試みに手にした一冊。
あれから時は過ぎ、「なんで買ったんだっけ?」と思うくらいには思い入れがなかったものの、折角買ったんだし試みに読んでみるかと思い立った。
記憶の中にある『地獄変』は、アニメだった。良秀があんなに嫌われ者で蔑まされている印象なのはちょっと違ったが。『地獄変』という物語を一言で現すならば、まさしく「業」だろう。倫理観と芸術は相容れない。いや、相容れない方が面白い。
あとは『奉教人の死』はなかなかに良い。
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蜘蛛の糸感想
地獄から這い上がろうとする主人公の執念とそれを潔しとしないお釈迦様とは別のお天道様の存在を感じた。人間は一度執念にとらわれるとそれに固執することも多々ある視界の狭い生き物だと思った。お天道様は見ているという言葉がありありと思い出された。
お釈迦様の地獄にいる主人公を助けるために蜘蛛の糸を垂らしたあたり、お釈迦様の慈悲深さを感じた。これほどまでの聖人でありたいと自分の醜い一面を省みながら思うのであった。お釈迦様ほど人格が出来上がって、神と崇め奉られているような方が、地獄にいる人を助けたりすることがあろうか?
すごく短い作品ながらも、いろいろ思うところはあった。主人公のその後も想像してみるのも面白そうだ。
地獄変感想
とにかく絵師は耽美主義の権化で、娘が乗る牛車が燃えても、悲しむ姿は見せつつも、絵を描けるのは美を追求しすぎていて、人間の心がどこか欠けていたようにも思える。いくら良秀の申し出とは言え、娘を燃え盛る牛車に乗せるお殿様もなかなかに酷である。
ミミズクやヘビが良秀の弟子を襲い、良秀の弟子が泣きわめいたりして阿鼻叫喚と化している場面は、なかなかにカオスな感じもあった。
この作品は人間の心が欠けている人物が多く、あまり好きではなかった。人面獣心とはまさにこのことだ。芸術のために、なぜあんなむごたらしい事ができるのか私には疑問であった
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『地獄変』
娘が焼かれているのにも関わらずそれを絵に描き続ける良秀の狂気的様子は現代から見ても異端。血の繋がった身内より芸術を選択した良秀にとって芸術とはなんだろうか、と思わされた。ある意味、芥川なりの芸術至上主義への問題提起?
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地獄変と邪宗門がよかった。続きがあって種を見破り鼻を明かして欲しかった。全部身振り手振りする語り手がいて、それを聞いているみたいな落語みたいなそんな気持ちになった。そういうテンポ感があったからか。
Posted by ブクログ
地獄変は教科書で学んだ宇治拾遺物語の「絵仏師良秀」の続きのお話。
燃え盛る家の中で女房子供が燃えているのを見て、不動明王の背中の火を描いたというサイコ良秀は、今回も健在。
地獄の様子を屏風にしろと言われ「私は見たものしか書けん!」と、自分の娘が牛車で燃やされても、絵を描いていた。
良秀が芸術のためなら家族の命だって厭わないという狂信的な芸術至上主義なのはわかったけど、それだけじゃ「宇治拾遺物語」と同じ。
ここからが芥川。語り手のうさんくささ(事実を言っていない可能性)と、大殿の実際の行動から、良秀も大概だけど、大殿もかなり性格が悪そう。
そんな大殿が良秀を嗜めようと、見たこともないはずの地獄の様子を屏風に書けと命じたから、今回「も」悲劇が起こる。
ただ、そのままだと、娘が浮かばれなさすぎるので、「猿」という救いの手を差し伸べたのは、芥川の優しさだったのかな。正直「猿」必要かなぁって思いながら読みました。
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久しぶりに読んだ芥川龍之介の作品でした。
今回強烈に感じたのは、和の様式美とでも言うべき彼の文章の美しさです。全作通じてカタカナが殆ど見当たらず、ほぼ全て漢字とひらがなのみ。熟語の並ぶ堅苦しさも若干感じこそすれ、それは日本語本来の美しさや様式美に通ずるように感じました。
・・・
さて、本作に収められている作品ですが、「袈裟と盛遠」、「蜘蛛の糸」、「地獄変」、「奉教人の死」、「枯野抄」、「邪宗門」、「毛利先生」、「犬と笛」の8作品。
「蜘蛛の糸」は非常に有名ですが、恥ずかしながら私は芥川龍之介といえば、これと「羅生門」くらいしか知りませんでした。
・・・
で、今回本作をすべて読んで、「袈裟と盛遠」、「枯野抄」、「邪宗門」に興味を持ちました。どれも歴史を題材にした小説ですが、そこに芥川氏一流の創作が挿入されている形でしょうか。
「袈裟と盛遠」はどうやら源平盛衰記に典拠した作品のようですが、殺人者と被害者という対立関係に内在している一種の共犯関係ともいうべき心理を描いています。この二人は不倫関係の末に、男が、女の旦那を殺そうとして誤って女を殺すというもの。しかし本作ではこの誤認をお互いが予測しているという筋立てであり、その心理描写が絶妙。なお、ソースである源平盛衰記は違った書き方であるそう(未読なのですが、盛遠が誤って女を殺してしまい、それを悔いて出家するとか)。
今でこそ、心中テーマはもはや驚くほどでもありませんが、本作は初出が1918年。きっと今以上にセンセーショナルに映ったのではないかと思い致します。
「枯野抄」は、松尾芭蕉が亡くなる直前、その弟子たちが師匠の死を前にして、夫々の思惑を思い巡らす場面を描いています。人はおよそ、大切な人の死を前に、死者を悼むのではなくむしろ自分の行く末や顛末を考えていたりするという、シニカルな情景をあぶりだします。その節操のなさを本人たちが自覚している点もまたユニークです。これは舞台などで見たら映えるのではないかと夢想してしまいました。
「邪宗門」は平安時代を題材にした伝奇小説とでもいえる作品ですが、残念ながら未完。どうなるのかとワクワクしながら読んでいたので一層残念でありました。本作を読んで私は中学生の時に一瞬ドはまりした藤川圭介氏の「宇宙皇子」を思い出しました。歴史上の人物+超能力とか魔力とか、そういう取り合わせにどうやら弱いようです笑
・・・
ということで、久方ぶり(30年ぶりくらい?)に芥川龍之介氏の作品を楽しみました。
氏の作品は日本文学・文芸の祖という扱いでか、中学や高校とかで取り上げられることが多いと思います。ただし、到底その年代では楽しめないのではと感じました。
学究から離れた大人の方が振り返って読まれることで、かつては分からなかった面白味が感じられるのではないでしょうか。また平安期を題材にした作品が多いので、京都方面にご縁がある方、関西の方は一層楽しめるのではと感じました。たしか「邪宗門」には烏丸とか河原町とかの描写が出てきていました。私には阪急線の急行の駅、という程度しか思い出がないのですが笑 本作を読みながら京都旅行にでも行きたいものです。
あ、あと最後に。これ、表紙がとっても素敵です。絵柄もそうですが、紙の素材が和紙のような手触り感になっています。そのザラザラ感も楽しめる作品です。
Posted by ブクログ
カドフェス2021の中で最も価格が安かったため購入。
蜘蛛の糸は小学生時代に読書感想文を書くために読んでおり非常に懐かしかった。地獄変は読んだことはなかったが、高校時代に宇治拾遺物語の絵仏師良秀は読んでいたので、これまた懐かしく読めた。
個人的に気に入った話は犬と笛である。ストーリーが王道的で自分好みだった。逆に微妙だったのは袈裟と盛遠と枯野抄。前者は元ネタを知らなかったので物語に入っていけなかった。枯野抄は松尾芭蕉の弟子の知識が自分の中で乏しく、登場人物がかなり多くてこれまた話に入れなかった。
Posted by ブクログ
短編集でクモの糸が入っている。地獄変では、娘を牛舎に入れて燃やしてしまう。絵のために。
毛利先生は、不器用ながら教えるのを生きがいにした先生の話。
犬と猫は欲がない主人公が家臣を助けて犬をもらい幸せになる話。
どの話も人間味があってよいと思う。