あらすじ
志賀直哉(1883-1971)は、他人の文章を褒める時「目に見えるようだ」と表したという。作者が見た、屋台のすし屋に小僧が入って来て1度持ったすしを価をいわれまた置いて出て行った、という情景から生まれた「小僧の神様」をはじめ、すべて「目にみえるよう」に書かれた短篇11篇を収めた作者自選短篇集。(解説=紅野敏郎)
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Posted by ブクログ
志賀直哉が気になって読みました。
「小僧の神様」ですごくファンタジーな作風なのかなと思ったら、「正義派」や「母の死と新しい母」、「城の崎にて」では死の儚さや人間の残酷さが描かれていて、幅広く書いていた人だと思いました。
正義派で、他人のことについては正義を振りかざすが、いざ自分の身になれば、正義感を持って考えることはできなくなる。城の崎にてで、死は悲しいけど、生きていることが幸せなのかは疑問である。と言うように、人間を正直に描くスタイルが気に入りました。
Posted by ブクログ
「ところが、どうだろう、この変に寂しい、いやな気持ちは。」
評判通り、文章が非常に綺麗だった。
小僧の神様では、善行の後に残る不快感をみごとに表現している。
赤西蠣太では、ふと芽生えた愛情に揺れる男が描かれている。
清兵衛と瓢箪は、昔読んだ懐かしい作品だった。
范の犯罪では、妻から強く逃げられない男の弱さがうかがえる。
流行感冒では、人間的にできていない”石”が悪くも、良くも活躍する。
清兵衛と瓢箪は、小学校の授業か何かで読んだ作品で、最後の瓢箪を売られる場面を今でも覚えていました。その作品に再び会えたことに驚き、また、よいものを小さいころから読ませられていたんだなと、改めて思いました。
Posted by ブクログ
表紙は城の崎にての沢蟹か。
小僧の神様と清兵衛の瓢箪はいつか読んだことがあった。知っていた小説だからかこの二つの小説は際立って優れたものであるように感じた。ひいき目すぎるか。
小僧の神様は二つの視点から進んでいく話を神の視点から把握することができるのが面白い。片方のみだとこの情緒は生まれないだろうなんてありきたりなことを考えた。小僧の無知さから生まれる勘違いが可愛らしい。
母の死と新しい母は志賀直哉の私小説らしい。たしかに主人公=志賀直哉自身の心情が素直に描かれているなと感じた。母の死に心を痛めるも新たな美しい母にも素直に心を開いていく様子が淡々とした状態の文章ながらもやさしく述べられている。
城の崎にても実体験らしい。読んでみるとなるほど城崎に行ってみたくなる。城崎にて静養中に見たものが述べられていくだけだがどこかに情緒を感じる。寂しさに魅力があるのだろうか、主人公の思索がただ述べられていて会話が無いことがこの小説の静けさを生み出している?友人と怪我の程度についての会話をした回想はあるが。考えなしな行動でイモリを殺してしまう残酷な場面にはぎょっとした。ふいに命は失われるのだ。突然石が降ってきたイモリともてあそばれて苦しむネズミ。電車にはねられた私は、紙一重で生きているが死んでいても脊椎リウマチになっていても全くおかしくなかった。
Posted by ブクログ
志賀直哉さんの作品、腰をすえて読むのは今回が始めてだ。
確か中学か高校のときに国語の試験(塾の模試だったか)で
「城の崎にて」を読んで生き物の儚さというか、
変な気持ちを抱いたような記憶がある。
短編は僕の苦手とするところなんだが、この小僧の神様とその他10篇の中でも
特に印象的だったのが、「清兵衛と瓢箪」だ。
前にも書いたが、教育の成功とは生徒が自分のやりたいこと、
熱中できるものを見つけることだと僕は思っている。
この清兵衛にとって瓢箪とは彼が熱中できるものだった。
友人と遊ぶことを忘れてまで熱中できるというのはなんという素晴らしいことか。
それを教師によって清兵衛の瓢箪好きを否定され、
彼の持っている大切な何かが失われた。
教育の最大の失敗は先生や両親によって子供の興味、
創造性が破壊されてしまうことだ。
志賀直哉さんの時代からこういう事が行われており、
未だに僕はこういう慣習が似たりよったり残っていると思っている。
21世紀は20世紀の始めに比べ時代や社会のあり方が異なっているのにも関わらず、
教育のあり方というものは当時とほとんど変わっていない。
日本でi phoneやfacebookのような革新的なものが生まれない一つの原因に、
子供の興味や創造性、その他もてる無限大のエネルギーが
幼いときに破壊されてしまっていることではないかと僕は思っている。
ではどうすれば防げるか?
一つは親や教育をする者が子供の可能性を理解してあげることではないか。
子供の持つ無限大の可能性を信じ、暖かくそして忍耐強く見守ってあげること、
子供の興味を示す機会や場所を与えてあげること。
そのためには親や教師が成熟した大人でないといけない。
文中の先生や清兵衛の親は僕から見れば未成熟の大人だ。
瓢箪を取り上げられた清兵衛が次に絵画に夢中になろうとしているのに
また余計な小言が入ろうとしているから、本当に恐ろしい。
What can I do to education?
I do not know what to do but just try whatever I can do!