あらすじ
「ストラーダ、一緒に逃げよう」。共に駆けるだけで、目と目を合わせるだけで、私たちはわかり合える。造船所で働く事務員、瀬戸口優子は一頭の元競走馬と運命の出会いを果たす。情熱も金も、持てるすべてを「彼」に注ぎ込んだ優子が行きついた奈落とは? 言葉があふれる世界で、言葉のない愛を生きる。圧倒的長編小説!
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Posted by ブクログ
「言葉で伝えること」の絶対性を疑う
優子とストラーダは、言葉をコミュニケーションの手段として取らないという言う点で共通している。ストラーダは馬で話すことができない、優子は自分を守るために言葉を紡がないという違いはあるといえるが。そんな2人を周りは利用しようとするように見える。双方の対比が印象的だ。ところで人間にとって言葉で伝えるということは当たり前のことで、それが良いことなのか悪いことなのか疑う余地はない。しかし、その言葉は本当を映しているのだろうか。綺麗な情景についてもそのとき湧き上がった感情についても、まさしくぴったりだ、この言葉に違いないという表現を見つけることはできない。ストラーダと優子は言葉を紡がない、だからこそ目の前に広がる情景や自身の感じたことをとにかく集中して捉えることができるのではないだろうか。双方のコミュニケーションにおいてもそうだ。表面的な言葉でコミュニケーションを取るのではなく相手をよく観察し探り合う。それがストラーダと優子が通じ合っているように見えた理由なのではないか。人間は言葉で何事も表現しようとする。私自身も物事をきちんと言語化できるようにしなければならないと考え、「言葉」を理想化している節がある。しかし言葉では言い表せないものがほとんどなのではないかとこの本から考えさせられた。
夢を見ることの主観性
優子はストラーダに夢を見る。この馬は私のことをわかってくれている、私にとって特別な存在だと。申谷も麦倉も御子柴も馬に夢を見る、または見ていた。「夢」とは一般的にポジティブなものとして捉えられることが多いように感じるが、それは非常に主観的で周りからすれば狂気すら感じられる。夢を見るとはどのような状態なのだろうか。夢を見ている時の一つの特徴として、「自他境界が曖昧になってしまうこと」を感じた。相手に対して期待をする。自分だったらこうする、こうしてほしい、こうするべきだを押し付けてしまう。無意識のうちに自分の延長線上に相手がいる感覚だ。その特徴において考えると優子が見たような夢は決して現実離れした狂気ではない。私たちは誰かに、何かに夢を見ていて狂気を秘めているのではないだろうか。
「わかりあえるはずもない男たちに向かって、私は無理やり言葉を紡いだ。言葉にすればするほど、彼と創り上げてきた大切なものが壊れていくような気がした。」
Posted by ブクログ
作中の「馬は、私たちに夢を見せるの」という言葉が胸に残りました。
私事で恐縮なのですが、わたしも馬に乗ることが好きです。といってもたくさん乗ったことがあるわけでもなく、今乗っているわけでもないのですが、子供の頃に観光地で乗った馬の記憶をずっと覚えています。乗ってみると想像より高い視界に、思ったより早く進む馬に驚いたことを今のように覚えているのです。
大人になってからは乗馬を習ってみたいと思いつつ、乗馬クラブが遠方だったり費用の点でなかなか難しく実現はしていませんが…。
そう思っていたので、今回のお話すごくドキッとしました。夢を見せられている、そうか私は馬に夢を見せられていたんだそう思うことができました。御子柴さんはわかっていたのですね。これは夢であると。優子さんは夢と現実の区別がつけられなくなってしまっていたのでしょうか…?現実だとわかっていたら、自分用にバッグは買わなかったのではないか、そう思いました。
私たち人間は分かり合えない時がある。
そんな時、人間は動物に救いを求めてしまう。
彼らが言葉を話せないからこそ、きっと自分と同じ考えをもっていてくれる、そう思い込んで心の拠り所にしてしまうのかなと思いました。