【感想・ネタバレ】侏儒の言葉・西方の人(新潮文庫)のレビュー

あらすじ

眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい――。鋭敏な頭脳と表現力を無尽に駆使し、世に溢れる偽善や欺瞞を嘲る。死に取り憑かれた鬼才の懐疑的な顔つきと厭世的な精神を鮮烈に伝えるアフォリズム(「侏儒の言葉」)。自らの人生を聖者キリストに重ね、感情を移入して自己の悲しさ、あるいは苦痛を訴える(「西方の人」)。自殺の直前に執筆された芥川文学の総決算。(解説・海老井英次)

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

このページにはネタバレを含むレビューが表示されています

Posted by ブクログ

ネタバレ

『侏儒の言葉』
かっこいい言葉、というのがこの本にはたくさん詰まっていた。
さらり、とした言葉たちなのに、なぜか心に響く。しびれる!しかも、しびれる言葉が1つではなく、いくつもいくつもある。
『西方の人』
高校時代にキリスト教の勉強をしておいてよかった。そう思うのはキリスト教をテーマにした作品を読んだとき。西方の人は今までに読んだことがない感じのキリスト教を扱った作品だと思った。

じっくり読んだから、さほど厚くはない本だけど読むのにだいぶ時間がかかった。たくさんある注釈を読むのも、また楽しかった。

0
2012年06月25日

Posted by ブクログ

ネタバレ

芥川龍之介。先に読んだ『歯車』の中にあった「僕はナポレオンを見つめたまま。僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは『侏儒の言葉』の中のアフォリズムだった。(殊に『人生は地獄よりも地獄的である』という言葉だった)‥」この一文をきっかけにチョイス。

芥川が対象(外なる世界)を内なる世界に取り込むために綴るコトバの数々は、広がりと奥行きを芥川の世界に与え、なにより身近に彼を感じさせてくれるが、同時に芥川の抱える根源的な問題を直視することになる。(咀嚼)消化吸収し同化するかのように計らわられる外界との調和は自己との交渉ともいえる。この作業が辛うじて芥川の正気を保ってた時に行われていたとすれば『侏儒の言葉』から『続西方の人』にいたる4篇はまさに「人生は地獄よりも地獄的である」というアフォリズムを本質とした作品群だったといえる。

0
2011年04月04日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。

 道徳の与えたる恩恵は時間と労力の節約である。道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。

 妄(みだ)りに道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄りに道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことはない。

 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依よったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに融け合あっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且つ又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹っていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘(ギリシア)人の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲くみ取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。』耶蘇さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。

 人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦(そよ)ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事のために苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛び込んだ蛙は百年の憂いを破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁いを与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。

 天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只此の一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。

 あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟「臆病な」と云うことに過ぎない。

0
2022年06月25日

「エッセイ・紀行」ランキング