あらすじ
眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい――。鋭敏な頭脳と表現力を無尽に駆使し、世に溢れる偽善や欺瞞を嘲る。死に取り憑かれた鬼才の懐疑的な顔つきと厭世的な精神を鮮烈に伝えるアフォリズム(「侏儒の言葉」)。自らの人生を聖者キリストに重ね、感情を移入して自己の悲しさ、あるいは苦痛を訴える(「西方の人」)。自殺の直前に執筆された芥川文学の総決算。(解説・海老井英次)
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青年期には一度はアフォリズムにかぶれるべきだ。皮肉や諧謔、矛盾と撞着、ウィットやユーモアを学ぶ機会を大人は与えてくれないからだ。それなのに、大学入試ではそれらを解するかどうかを試してくる。
2006年 京都大学の評論「『曖昧さ』の芸術」(茂木健一郎)で、科学的でない言葉を批判する意味で「そんなものは『お話』であって、意味がない」の「お話」はどういうことか、という設問があるが、これなどは「お話」の「お」に込められた揶揄のニュアンスがわかるかどうかがポイントなのだから、気づけなければ厳しい。難関大に合格できるかどうかは、実はこんな能力の有無が大きく関係する。皮肉を解する力は、読解力としては高度なのだ。
アフォリズムとは、「物事の真実を簡潔に鋭く表現した語句」の意味で、「警句」「箴言」もほぼ同じ。この本からまずは穏便なものを紹介する。「人生――人生は一箱のマッチ箱に似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である」。もう少し毒のあるものを。「天才 ―― 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である」。「醜聞」とはスキャンダルのこと。若い歌舞伎役者たちもまたこの例か。
この本は、箴言集としては、まず読んでおきたい一冊。芥川の知性の鋭さとその底に見える人間愛に感化されてほしい。この他にも、有名な『悪魔の辞典』(ビアス)が、毒が効いていておすすめ。(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2010年12月号掲載
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侏儒の言葉
伊坂幸太郎のチルドレンとモダンタイムスで引用されてたので読んだ
或仕合せ者、或夜の感想、批評学、可能、言葉、悲劇…等々ハッとさせられながら読んだ。
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芥川らしい諧謔も散見するが、その中に狭量と言うべきかストイックと言うべきか、自己に対する絶望感がありありと見受けられて、読み進めるのはおもしろくもありつつ少々息苦しい。
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ビアスの悪魔の辞典より、こちらのほうがアイロニーに富んでいる気が。特に「西方の人」はキリスト教への疑問と皮肉てんこもり。多分宗教を信仰に依らず理性的に解読しようとするとこうなるのだと思う。個人的に共感するが、幸せになりにくい思考回路だとも思う。批判的精神は必ず自己にも向かうからだ。
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おもしろい。この言葉に尽きる。様々な予備知識が要る為、いろいろ調べながら読み進めた。そういうのも含めて楽しむことができる。知識を深めて、再読したいと思う。
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何気なく父に
『一冊選ぶなら何?』
と突撃インタビューをして返ってて来た答えがコレ。
思わずノートに書き留める言葉が幾つか。
その中でも
“人生”の言葉は、気づかされるものあり。
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侏儒の言葉
芥川の思想では無いと言っても、そう受け取ってしまう言葉の数々。
又
難解な部分もあり、手放してしまおうとしてしまった言葉たち。
又
それでも、ふっと読むと何となくニヤリとしてしまう部分があり、赤線さえ引いてしまう。
又
引き込まれる世界は、やはり芥川龍之介。
西方の人
芥川によるキリスト論というか新約聖書物語?
又
解説がついているが、「マタイ伝のどこそこ」というような書かれ方をしているため、手元に聖書があると、内容がさらに理解しやすいであろう。
又
もとより、聖書の話を理解してから、読んだ方がより一層楽しめる。
三浦綾子などの聖書入門書を読んでからでもよいが、新訳聖書の「マタイの福音書」を通読してからだと、趣深い作品となろう。
又
芥川の切支丹ものをまた読みたくなった。
又
畢竟、彼の作品は素晴らしい。
又
私にとっては学生時代以来の芥川龍之介作品であった。
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凄い好きです…!ただ侏儒の言葉のインパクト強すぎて西方の人の内容が脳内から吹っ飛んでるという不義。
知性不足でおっつかない部分もあったけどかなり影響されたのは間違いないです。
侏儒の言葉・輿論・鴉・或仕合せ者あたりが凄い印象深い。ゾッときたのは若楓・彼の幸福・わたし。
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めっちゃ好き
皮肉ってるけどユーモアで自分のツボだった。
人生 瑣事 可能 二宮尊徳 が記憶してる限り、好きだったなぁ。
定期的に読むことで、グッとくる部分がまた発見できそうや
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侏儒の言葉には覚えておきたい言葉も惹かれるフレーズも多くあった。生前に掲載されたものと遺稿に分かれるが、どちらを読んでも文学者としての目指すところや考え方に触れることができるように思えたし、これを読んだ後にその作者の自殺について考えるとなんとなく頷けてしまうのが正直なところ。
芥川のイエス論である西方の人は、イエス・キリストにも聖書についても知識が乏しい私にはいまいちぴんとこなかった。聖書からの引用も多いし、説いてるのがイエス・キリストの話なので。かといって、当分は聖書を読む気もないのでこのままで放置に決定。またいつか、聖書を読めた際にでも読み直してみたい。
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芥川龍之介さん、ものすごい口悪い。
例えば、「小児」の項(言葉遣いは意訳)――
軍人は子どもに近い。英雄らしい身振りで喜んだり、栄光を好んだりするのは特に。機械的な訓練を大事にしたり、動物的な勇気を重んじたりするのも小学校だけに見られるこの。殺戮を何とも思わないところなんかはもう子どもとしか言いようがない。特に子どもにそっくりなのは、ラッパとか軍歌とかに鼓舞されれば、なんのために戦うかも考えずに喜んで敵に挑むところ。
だから、軍人が誇っているものだって必ず子どものおもちゃにそっくりだ。派手に飾った鎧兜なんて成人の趣味にあうものじゃない。勲章だって・・・本当に不思議だと思う。酔ってるわけでもないのに、どうして勲章なんかを付けて歩けるんだろう?
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『侏儒の言葉』
かっこいい言葉、というのがこの本にはたくさん詰まっていた。
さらり、とした言葉たちなのに、なぜか心に響く。しびれる!しかも、しびれる言葉が1つではなく、いくつもいくつもある。
『西方の人』
高校時代にキリスト教の勉強をしておいてよかった。そう思うのはキリスト教をテーマにした作品を読んだとき。西方の人は今までに読んだことがない感じのキリスト教を扱った作品だと思った。
じっくり読んだから、さほど厚くはない本だけど読むのにだいぶ時間がかかった。たくさんある注釈を読むのも、また楽しかった。
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人生マッチ棒話が有名。金言を持ち出す分、ある阿呆より説教くささで評価下がるが、考えとしては楽しい「侏儒の言葉」。「西方の人」では、キリストのデリカシーのなさなどを取り上げ、太宰よりもキリスト教でリラックスして遊んでいる。衰弱になるくらい、繊細な人ゆえ、ネーミングセンス極めてる。
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芥川龍之介。先に読んだ『歯車』の中にあった「僕はナポレオンを見つめたまま。僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは『侏儒の言葉』の中のアフォリズムだった。(殊に『人生は地獄よりも地獄的である』という言葉だった)‥」この一文をきっかけにチョイス。
芥川が対象(外なる世界)を内なる世界に取り込むために綴るコトバの数々は、広がりと奥行きを芥川の世界に与え、なにより身近に彼を感じさせてくれるが、同時に芥川の抱える根源的な問題を直視することになる。(咀嚼)消化吸収し同化するかのように計らわられる外界との調和は自己との交渉ともいえる。この作業が辛うじて芥川の正気を保ってた時に行われていたとすれば『侏儒の言葉』から『続西方の人』にいたる4篇はまさに「人生は地獄よりも地獄的である」というアフォリズムを本質とした作品群だったといえる。
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色んな言葉に対する芥川氏の見解が述べてあるだけといえばそうだが、何故かおもしろい^^
皮肉がきいてる
それこそ侏儒の私でさえ理解し共感し笑える短いレビュー作品だと思った
Posted by ブクログ
芥川龍之介の金言集(?)
ハッとさせられたり、う~んとうならされたり、妙に納得させられたり。
でもやっぱり、イマイチわからなかったり。
ひとつわかったのは芥川はやっぱり稀代のインテリ作家だな、と。
もう一個の西方の人は正直8割意味わかりませんでした。
キリスト教をもう少し勉強します。
Posted by ブクログ
★3.5
"人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦々々しい。重大に扱わなければ危険である。"
"弱者とは友人を恐れぬ代わりに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。"
Posted by ブクログ
30数年ぶりに読んだ。
僕は芥川龍之介の経験することのなかった年齢を生きているわけだが、それでもはっとするような言葉がいくつもある。若い頃こうした作品に心奪われたのも、よく分かる気がする。
Posted by ブクログ
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
道徳の与えたる恩恵は時間と労力の節約である。道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。
妄(みだ)りに道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄りに道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことはない。
わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依よったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水と淡水とのように、一つに融け合あっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且つ又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹っていたらしい。
我我の行為を決するものは昔の希臘(ギリシア)人の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲くみ取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿れ。』耶蘇さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟荊蕀の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦(そよ)ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事のために苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛び込んだ蛙は百年の憂いを破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁いを与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只此の一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟「臆病な」と云うことに過ぎない。
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「侏儒の言葉」
ここまで人や世界が見てしまうと、そりゃぁ自殺したくもなるわなぁ…という感想。
「西方の人」
キリスト教的な前提知識が無きに等しいこともあり、晦渋過ぎて意味が全くわからなかった。
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『侏儒の言葉』は日常の事柄を別の視点からみた短文を収録してある。ハッとする文章あり。
『西方の人』は芥川のキリスト観を記述。難解ではあるが、解説が秀逸なため勉強になった。
Posted by ブクログ
『チルドレン』(伊坂幸太郎)で引用さてれいた本。
以下 気に入った文
文書の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ
道徳は便宜の異名である。 左側通行と似たものである
敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である
………
他にも気に入った文はあります。
ただほとんど 意味のわからなかったものばかり。知識と経験が足りないなー。
西方の人は 聖書を読んでから読み直したいと思います。
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事をなそうとする人には、逆説が有用な警句を与える
しかし怠け者には、逆説が言い訳をもたらす
「侏儒の言葉」は、いろんな意味で芥川的だ
後世の批評を、ほとんどこれで先取りしてると言っても過言ではあるまい
「西方の人」「続西方の人」
芥川は若いころから聖書を愛読していたらしい
しかし、キリスト教の信徒というわけではなかった
彼が愛したのは、あくまでイエス・キリストとその物語で
「悲しき天才」としてのキリストに、どうものめりこんでいたフシがある
…しかし悲しき天才ということで言うならば
たとえば、イエスに洗礼を与えたバプテズマのヨハネも悲しき天才だったし
芥川に言わせれば、ゴルゴダにおいてイエスを罵った盗賊や
殺戮者バラバも同じく悲しき天才だった
キリストとは、世界変革の可能性を持って生まれ
それゆえに世間から葬られてきた「悲しき天才」たちのことであり
それは歴史上に何人も存在すると芥川は言う
それら多くのキリストたちと、イエスをはっきり区別するのは
マリアの存在であると言えるだろう
すなわち、処女の母親である
イエスは、マリアにとって必ずしも「愛の結晶」ではなかった
なにせ、行為もなにもなく、いつのまにか身ごもっていた子供なのであるから
そしてまた、自らを聖霊の子と自覚したイエスは、両親に対して冷たい態度を隠さない
そのようなイエスの家庭環境に
芥川が、自らの複雑な少年時代を重ね合わせたとしても、まったく不思議はあるまい
イエスを「古代のジャアナリスト」と呼ぶに至っては、もう完全になりきっている
しかしその夜郎自大にも見える語りは
芥川自身の、生きてゆくむなしさを吐露しているようでもあるのだった
Posted by ブクログ
「道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である」(修身:p11)
「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も―わたしには実際に不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」(小児:p19)
「最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」(処世術:p99)
「わたしは金銭に冷淡だった。勿論食うだけには困らなかったから」(わたし:p120)
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夫と読書会しました。
なんか細切れで散逸的で、
ちょっとちらかったかんじでした。
ただ、たまに芥川らしいはっとするかんじもあって、
やっぱり好きだなぁと思いました。
Posted by ブクログ
芥川によるイエス論である『西方の人』。彼はキリシタン物の作品も多く残してるんだよね。作者はこの時期、確実に自殺を考えていたはずだけど、文字通り自殺したユダにはそこまで思い入れはなかったようで、「殺された」もしくは「死ぬ運命にあった」イエスと自己を同一視している様子なのが興味深い。芥川の考えでは、誰でも裏切り者になる可能性は大いにあったけれど、それがたまたまユダだった、ということなのだろうか。あと、この作品に出てくるマリアはすごく悲しい存在に描かれていて印象に残った。注釈も細かくて参考になります。