あらすじ
岸田首相が提起した「新自由主義からの脱却」「分配と成長」「新しい資本主義」。
いずれも重要な方向性だが、これらを実現するための条件は何か。
本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。
自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。
グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。
コロナ禍を機に、先進諸国がこぞって積極財政に転換、社会主義的ともいえる政策を実施するにいたった状況をどう捉えるべきか。
東洋経済オンラインの人気シリーズ「令和の新教養」などをもとに大幅加筆し書籍化。
気鋭の論客が、2020年代の重要テーマを論じつくす。
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Posted by ブクログ
中間団体はグローバルと新自由主義に対抗するために必要な存在。
本来自民党はこうした中間団体を守るための政治をしていた。
聞く力は必要なこと。
しかしあらゆる意見を聞くということは、その実現が叶わなかった場合の責任が問われてしまう。
相手の意見を聞くよりも、自分の意見を通そうとする強烈な指導者としての魅力とは、関わる者の思考を止めさせ、目的に協力させることが出来る。一般人の教養を失わせしめるリスクはあるものの、分かりやすく、明確に目的を達成するためには、ある程度、意見の配慮より、実現の早さを目指す度胸も必要。
岸田総理には、有権者の意見を聴きながらも、確かに自己表明を貫く度胸を期待したい。
p.62
グローバリズムではなく、インターナショナル(国際協調)を提案する。文化や税制度などはそのままに、庶民に暮らしやすい環境を作る。突然、各国ごとに制度が違えば、外交も政治も面倒になる。しかし、本来エリートとは、そうした面倒や手間を庶民に代わって行うからこそ、尊敬されるものではなかったか。すくなくとも今後はそうあって欲しいと願う。 施氏
不合理の中に合理性がある。
イノベーションとは偶然による産物。それを必然にしたいのなら、偶然を起こせる環境を増やすしかない。必要のなさそうな研究や投資を容認する。そうして数多くの偶然の出会いが、思いがけない成果を生み出す。
一つの達成のためにその他の大勢が衰退するよりも、人の社会は複合的なものなのだから、それぞれが半端以上に達せられるのなら十分ではないだろうか。※エドマンドバーク フランス革命の省察より
経済成長や豊かさのみを目標にするのではなく、研究や投資を増やすことで結果として経済成長「してしまう」ぐらいでちょうどいい。
貨幣経済の仕組みとしての納税と人類社会の仕組みとしえの納税とはまた別物。自分が国に貢献するという意識が国家を豊かにするのも事実。
大袈裟に言えば、40%未満までならインフレは大した問題ではないらしい。戦争でも起こさないとまず起こり得ない膨大な数字で議論していることもまた不毛である。
個人主義の限界を迎えたとき、私たちは再び中間単体のしがらみと恩恵の時代に戻れるのだろうか。そう信じたいが、大学生をはじめとした若者への質問の回答を見ると、どうにもそう簡単ではなさそうである。難しい決まり事は、大勢で話し合って決めるのではなく、そういうことを理解している一部の人間が決めてくれればいいと考える若者が多いからだ。
しかしそう悲観するべきでもないだろう。
社会正義でも、中間団体時代への羨望でもなく、自己の内面に向かうという心の指向性は、やがて精神的な熟達に結びつくことが期待できるからだ。いつだって時代の変化は、大勢の同時革命によるものではなく、価値観の保守と共にある緩やかな前進である。
グローバリストとナショナリストという見分け方の他にも、ちょうどそれによく似た、Anywheres or Somewheres というものがある。
日本語にすれば、さしずめ「どこでも族」「どこかに族」と呼ばれようか。その名の通り、どこでも族は生活圏にこだわりがなく、土着の伝統や習慣を軽視しがちである。どこかに族はその名の通り、どこかに帰属することに強いこだわりを持ち、伝統や習慣を重んじる傾向がある。
現在はもっぱらイギリスでこれらが話題になっており、資産家や政治的発言力がある立場の者は軒並み、どこでも族であり、一般の市井は逆にどこかに族が多い。この構図は日本と大変によく似ており、それは島国だからというよりも、もはや世界規模で起きている、国家単位の安寧や国際意識への目覚めなのではなかろうか。
と、長々、引用を交えながら記させてもらいました。
佐藤氏はエドマンドバークの本を訳したほどの人物ですが、驚くほど、メディアが紹介しているトランプ氏の人物像をなぞっています。例に挙げている国会出撃事件についても、新聞やテレビが語ったものの引用ばかり。それは、若干、この対談の日付が古いものであることを加味しても、行き過ぎの兆しを思わせます。彼の根拠の悉くが、やまたつ氏の『日本人が知らない陰謀論の裏側』に記された根拠も真逆を行くのも興味深いです。佐藤氏が例に挙げていたQアナンシャーマンの件も、“武装していなかった”事実を無視しており、まさにフレネミーによる典型的な偽旗作戦とそれを誇張報道するフェイクメディアにそっくり乗ってしまってはいないだろうかと懸念するものでした。
対して、中野剛志氏も、経済への理解は深くとも、トランプ氏への偏見の程度はなんとも歪なものを思わせます。しかし彼の場合は、時を経るにつれて、評価できるところは評価するといった具合に変化している様子が見えます。頑なに否定するばかりではないのが大変に共感できるといえましょう。
一番公正に見えるのは施光恒氏でしょうか。トランプ氏の演説を紹介し、彼の愛国心と、支持される根拠を明確にした上で、決して偏った意見を提案するわけではないと、支持でも偏見でもなく、穏やかな姿勢を見せていました。距離をおいた冷静な評価というのは、盲信でも偏見でもないものなので、信頼を置きやすいですから。
今後の世界が楽しみになる対談内容です。繰り返しになりますが、トランプ氏への執拗な偏見の様子には、彼のことを詳しく知る人にとって大変読みづらいものだとは思いますが・・・経済を語るなら、人の生活や心模様なくしてありえないように、この本は、全体を通して、人の心の歴史をなぞるような話題も多く含まれています。私たちがこれから出会う出来事に、どう向き合い、どう考えるか。そのヒントがきっとあります。
一つ余談を加えますなら、国際協調も、一見良さそうに見えるのですが、この言葉そのものが、ウッドロウウィルソンによって初めて広く知られたものです。彼の理想主義はそっくりそのままハウス大佐をはじめとした、国際金融資本に操られ、利用されてしまったことを鑑みますと、あまり正直すぎるのもリスクが高いことを知っておいてもらいたいです。とはいえ、私も、施さんが伝えようとしてくれていることには概ね賛成です。グローバルが基準になるのではなく、国家間の文化の交流による結びつきを大切にすることは、必要だと思いますから。とはいえ、それを完全に開き直ると、ナチスや中国共産党の独裁を放置することになり、そこに取り残された人は、半永久的に、現状を変える手段を失ってしまうこともまた、あまりにも残酷であり、懸念すべきことです。なかなかその着地点、妥協点を見出すことは難しいように思われます。
だからこそ、問い続け、探し続けるのが、人間なのでしょうか。仮面ライダー555が好きな人には納得していただけるはず。照