あらすじ
家康が応じた密約を胸に、天下を半日で決着させた猛将・福島正則。蛍大名と侮られつつ、強かな籠城戦で西軍主力を翻弄し逆転劇に道を拓いた京極高次――。仕掛けあう豊臣恩顧の大名たち、糸を引く家康の水も漏らさぬ諜報網。戦国覇道のキャスティングボートを握った武将たちが、日本を最大震度で揺さぶった三つの謀略秘話。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
家康に関する短編集。
蛍大名と言われた京極高次の話、重要文化財で現存する高麗青井戸茶碗の名前にもなった”柴田”勝家の話、加藤清正とならび、豊臣家の行く末を最後まで気にかけていた福島正則の話の3つである。
秀吉は子をなせない胤なし男であることは噂されていたが、そんな秀吉の妻茶々が身ごもった。その茶々の夫重ねの相手は誰なのか。高次は茶々と幼馴染で、恋心を抱いていたが、父浅井長政の敵とも言うべき秀吉の妻になど何でなったのか。夫重ねの相手として噂になっていたのは、1位大野治長、2位石田三成、3位前田利長である。高次は最終的には徳川に味方し、茶々を見限ることになるが、周りからは、秀吉の温情により、功もないまま、従3位にまで昇進したので、当然、西方と思われていたようだ。徳川に味方したものの、家康は関が原の戦いで高次を助けに行けなかった。ただ、高次が、西軍大将毛利輝元の叔父・元康と、立花宗茂などの猛将の一部を引き付けておいたために、関が原で勝利を得たため、高次は3日で籠城戦に終止符を打ち開城したにもかかわらず、若狭8万5千石を賜った。
高麗青井戸茶碗”柴田”と呼ばれるその茶碗は、勝家が信長から褒美にもらったものだ。信長も茶器集めに血眼になっていたが、当時は高麗茶碗はそこまで重宝がられておらず、それがため、信長は勝家にこれを与えたのであろう。この”柴田”は、勝家がお市と最後の茶を喫するときにも用いられたようであり、現在、見ることができるその素朴な茶碗には、今も当時の悲しさが満たされているように見えるものである。明治36年にこの茶碗は見つかり、競売にかけられ、長州出身の藤田伝三郎が落札した。藤田は、維新後、藤田組を組織し、陸軍御用達の土木請負業として、西南の役で巨利を博した金満家であった。その後、昭和9年に藤田家の入札で売りに出され、12万円で鉄道王・根津嘉一郎が落札した。現在の価値で言えば3億円以上と言われる。”柴田”は日本の歴史上、最高の価格をつけた茶碗になった。