あらすじ
アジア初のブッカー国際賞作家による奇蹟の傑作が文庫化。おくるみ、産着、雪、骨、灰、白く笑う、米と飯……。朝鮮半島とワルシャワの街をつなぐ65の物語が捧げる、はかなくも偉大な命への祈り。
ノーベル文学賞受賞!
ハン・ガン作品、どれから読んだらいいかわからない……という方には、個人的には『すべての、白いものたちの』をお勧めしたいです。
詩のように淡く美しく、それでいて強く心をゆさぶる名作です
ーー岸本佐知子
生後すぐに亡くなった姉をめぐり、ホロコースト後に再建されたワルシャワの街と、朝鮮半島の記憶が交差する。
文庫化にあたり、訳者の斎藤真理子による「『すべての、白いものたちの』への補足」、平野啓一郎による解説「恢復と自己貸与」を収録。
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Posted by ブクログ
2026/04/16 - 2026/04/17
柔らかな綿でキュッと心を締め付けられるような苦しさと、まだ誰も踏み入れていない新雪のような静謐さがずっと交互にやってきて、ページを進める手を止めることができなかった。
ハン・ガンの本はこれが初めてで、正直、このご時世にノーベル賞を獲った人が女性であり、アジア人であった、ということが読むきっかけだった。受賞で話題になった際に、すぐに購入したが、「韓国文学について知ってからのほうがいい」などの情報が多く、勝手に億劫になり、今まで読んでいなかった。
しかし、読んでみたら、私にはとてもすんなり、まるで水が染み込むように心の中に文章や物語が溶けていった。
特に、二章の「もしも」は私にとって違和感や不明瞭がなく「ああ、あなたはお姉さんなのね」と理解できた。
ハン・ガンの繊細でやさしい文章は、世界の残酷さと、それでも美しく愛おしいということを読者に自覚させてくれる。生を自分ごとにしてくれる、そんな文章である。
p103-l8
ある記憶は決して、時間によって損なわれることがない。苦痛もそうだ。苦痛がすべてを染め上げて何もかも損なってしまうというのは、ほんとうではない。
この文章もそうだ。ハッとさせられるほどの現実の苦しさと、それでいてその中に確かに光る何かを教えてくれる。
最後の章は、涙を流しながら読むことになった。
別の本のあとがきで翻訳者の斎藤が、彼女の作品を「陽だまりとと血だまり」と書き記していたが、私がこの本で感じた苦しみと希望は、この表現にとても近い。
著者の他の作品も読んでみたいと思った。
Posted by ブクログ
まず著者名が良い。これだけで半分勝利したようなもの。アンマン、ガンマン、「ハン・ガン」。完璧な4文字。漢字も「韓江」で象徴的だ。更にノーベル文学賞受賞――もはや読まずとも名作。次にあえて読点で区切った意味深長なタイトル。これで興味を惹かないわけがない。駄目押しの神秘的かつ微妙に慈愛を醸し出している表紙は、目にした時点でうっすら感動するだろう。でも「ノーベル賞受賞」の帯は最高にダサい。せっかくのオーラを打ち消している。
詩のようで日記のようで私小説でありそれら全てを成す、流麗で無駄のない文章は惹き込まれる。
しかしある種のコンセプトが見えてくると、少しつまづく。
中途半端に意図が解るために、説得力が弱まってしまった。
これは曖昧なままの方が面白かった。
ともかく全体としては「響く」「打つ」というより、ゆっくり滲透するような文章が良い。
内容を一言でいうならピース(peace)ということだろう。
生命の尊さみたいなことは感じられるが、所詮白さを失った便所の壁の落書きな自分には理解不可能な私的領域の話ではある。
二章の「彼女」は、あるはずだった姉の生を、作者の生と同化させ姉目線でシュミレートしていると読んでいたが、どうやら誤読で姉が語り手となり、作者の人生を見守っている叙述であるらしい。
なんにせよそれは脳内で作り上げた架空の人物を下敷きにした妄想にすぎず、結局、どこまでも作者の腹話術、イタコ芸なのでは?という疑惑がある。
一度も会ったことの無い死者の気持ちなど解るはずもなく、逆に会ったことがある場合で考えても、尚更白いものではない。
その個性を白いものとするのは傲慢と偏見ではないか。
勿論相手の立場で考えることは重要なのだが、この場合は対象を想像している自分自身の声、意識の焦点が結ぶ像なのだ。
だからその意識的な感情の操作――強引な喪失感の生成疑惑と、それを使って感傷に浸る自分に酔いしれているような感じは作為的で若干鼻につくが、そこで「白いものとは何か?」という思考のあることが重要になる。
様々なモチーフから、生と死、破壊と再生、無垢、純粋、鎮魂、願い、一瞬の儚さ、永遠などのメタファーみたいなのはなんとなく、わかるのだが、これはワルシャワで見た映画のあらすじが象徴しているが、最も強く連想するのは、二度と戻らないもの、戻れない地点、失われた生命や瞬間であると思う。
誰しも最初は白いものとして誕生する。
しかし、この社会で生きていると絶え間なく人を傷付け、傷付けられる。
むしろ汚し汚されることは一般的で、あげく推奨されている。それが無理な者は退場になるほどだ。
そうして白いカンバスは、無残なことに〈やりすぎたジャクソン・ポロック〉のようになってしまうだろう。
だから白さを取り戻すべく、白いものについて考える。しかし儚く消えた生命の白さが、自己の存在を上書きし肯定してくれるとは思えない。
本作のコンセプトにある欺瞞は原作者亡き後に作られ続ける、形骸化した長期引き伸ばし作品などにも通じている。
意思を継いでいる、生きていれば褒めてくれるはずだ、こう考えるだろうと言っても、それは偽物作りの正当化であり、外野が儲けるためにやりたい放題やっている、という構図しかない。またそれを評価する者も外野である。
時を止めたものはそこで終わるしかなく、それを無理矢理に動かすというのは傲慢であり冒涜なのだ。
白いものを塗りつぶす。それが本来不可逆であるはずの、歴史というものの性質なのかもしれないが。
白いものは届かない時間の中で、白いままそこにあるから、貴重なのであって、姉や死者の白さは継承されない。失われた白さは戻らない。
人は他人で、それぞれ生き方があり、それは肉親さえもそうで、姉にも姉の人生が本来あったはずだ。
だからコンセプト的には、作者のイタコ芸になってしまうが、それと分かつ着想が「白いもの」なのだろう。
実用的なイタコ芸に「白いもの」は無駄な部分だ。しかしこの無駄なことを考える、その無意味さが意味を持つ。
到達できない座標の確認で、今居る座標が確かなものになる。
自己の足場(自意識と言って良いか)が安定することで、他の存在を認めることができる。その想像力が人を謙虚にさせ、他者へのリスペクトに繋がる。
そうやって世界はいくらか平和に近づく。
まあそう上手くは行かないだろうが、レイ・ブラッドベリが『華氏451度』で言う余暇とはそういうことではないのか。
思考の余白、その白を埋めないことの可能性。
本作品はある意味、アンチ情報供給過剰社会みたいな内容だ。
そこでは、自分に直接関係の無い情報にひたすら反応している。それは「白いもの」への思索と同様に実際的な意味では無駄といえる。
しかしその「無駄」の中身は大きく違う。
自分と関係する、しかし絶対に手の届かない領域への思い。
それは与えられた信仰ではない。自己の存在確認作業による一つの発見、創造だ。
最終的に「白いもの」は作者と別れ天に昇って行くのだろう。