あらすじ
酒と女に明け暮れる無頼派の作家。26歳のその妻は夫の尻ぬぐいに奔走するが……。古い価値感が失われ新しい価値観が生まれようとしている戦後の混乱の中、必死に生き抜こうともがく男と女の愛のかたちを繊細に描いた表題作。その他太宰晩年の好短編を多数収録。
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Posted by ブクログ
## 感想まとめ
太宰は意外と家族のことを想っていたのだなあと思う。
家族を想い、仕事に苦しみ、そして家族との関係に苦しみ、自分を追い詰める。
それが作品にも滲み出る。
太宰治の作品は最近少しずつ読んできているが、『人間失格』の息苦しくて暗い雰囲気から、『富嶽百景』の爽やかな雰囲気まで、色々な作品が書ける素晴らしい作家さんだなと思う。
しかし、素晴らしい作品を生みだせる感性は他人とは違うものがあるからこそだと思うが、それがあるからこそ世間からは浮いてしまって生きづらさがあるはず。
そう思うと、素晴らしい作品を届けてくれる芸術家の皆さんたちの苦労には頭が上がらない。
そしてその作品を何十年経ってもこうして読むことができるのも、出版社をはじめ、たくさんの人の努力あってこそ。
たくさんの素晴らしい仕事の上に、世の中は成り立っている。
この本の解説の中で、「太宰治の作品は『罪悪感』を宿している」とあって、納得した。
太宰治の作品から私が感じた、家族への申し訳なさ、開き直り、だらしなさ、憤り、これらをまとめて、『罪悪感』と言えば腑に落ちた。
この短編集の中にある複数の短編から、『生きづらさ』を感じる。
生きている上で、人は誰しも何かしらの罪悪感を抱え、生きづらさを覚えるのかもしれない。
だから、太宰の作品には惹きつけられるものがあるのかもと思う。
## 親友交歓
突然やってきた親友を名乗る平田。
平田は太宰秘蔵のウイスキーをがぶがぶ飲み、妻を呼びつけお酌をさせ、迷惑をかけまくる。
こういう無遠慮な人、お酒で暴れる人はたくさんいるし、たくさん見てきた。
太宰の冷めた物言いが面白い。
高いウイスキーを惜しく思ったり、昔の偉人の忍耐伝説を思い出して「やっぱり俺には無理だわ」と考えたり、太宰の人間らしいところに共感できる。
私なら即座に追い返している。
## トカトントン
恐らく太宰宛てのファンからの手紙という文章。
こんな小説の書き方もあるのかと面白く思う。
途中、マラソン選手を見た男の語りがある。
マラソンを「無報酬の行為」と言う。
たしかに、職業になるほどのプロでない限り、誰から何を求められるでもなく走っている人は大勢いる。
みな、それでも走る。気持ちいいから。自分を試したいから。また理由はないかもしれない。
ただ楽しいからやる。報酬をもらえなくてもやりたいからやるということがあるのは豊かだと思う。
また、伯父に「人生とは何か」を聞いた返しの
> 「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ」(p62)
>
は、なかなか真理だと思った。
## 父
子がいながら浪費に走ってしまう男の胸の内が語られる。
たぶん太宰治本人の気持ち?
私も子を持つ父だが、父になったからといって、体に何かの変化があるわけではないし、一人の人間だから、自堕落な部分は大いにある。
親も万能ではない、ただの人間。
しかし、こうした昔の文芸作品を読むと、男は今の価値観で言えばかなり破天荒だ。時代が変われば良しとされる価値観は変わるものだなあとつくづく思う。
## 母
> 「わざと身をやうして行くのです。水戸黄門でも、最明寺入道でも、旅行する時には、わざときたない身なりで出かけるでしょう?そうすると、旅がいっそう面白くなるのです。遊び上手は、身をやつすものです」(p89)
>
わざと汚い服装で太宰を訪ねてくる小川新太郎の言葉。なんだか粋な雰囲気。
> 「日本の宿屋は、いいね」「なぜ?」
「うむ。しずかだ」(p101)
>
おしゃれな締め方。
若い帰還航空兵が電気を付けようとして女中が拒む。それを盗み聞きする主人公の先生。
この短編集は全体的に戦争の気配を感じさせるものが多い。
戦争が与えたのはただの経済的なダメージだけでなく、文化的にも大きな影響を与えている。
## ヴィヨンの妻
先にある『父』を読むと、その妻目線の話かなと思える。今は父親も家事育児を共同で行うのが当然というような価値観が作られつつあるけど、この時は破天荒な父親はたくさんいたし、それが格好いいとさえ思われていたかもしれない。
めちゃくちゃな飲み方をして周りを不幸にしていく大谷さん(太宰?)。とにかくモテるのか色々な女性と飲み屋に来てはただ酒を飲む。なかなかロクでもない。
> 「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
「お仕事が、おありですから」
「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」(p138)
>
太宰治自身の胸の内なのかも、と思う言葉。
辛い、死にたい、でも死なない。
作品を書くことは止められないが、その評価は人が決めることで、自分ではどうしようもない。
そんな夫に妻が言う。
> 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きたいさえすればいいのよ」(p145)
>
強い言葉だ。
どんなに辛くても、他人からどう思われようと、ただ生きていればそれでいいと。
この話に出てくる妻への私の印象は、強いところと弱いところが混ざっている。
夫が飲み歩く店で働き出すことを名案と言い喜んで働く姿はたくましい。
しかしその前の夫の仕事について書かれたポスターを電車で見かけたときに流した涙は、色々と辛いものが溜まりに溜まって、堪えきれなくなったのかも、と思う。
夫婦は違う人間同士が共に生活するのだから、相容れない時が必ずあるものと思う。
しかし、その中で折り合いをつけていくものでもある。
この妻の場合は夫は折り合いをつけてはくれなかったが、自分が変わることで、結果的に関係を変えられることになった。
お互いが歩み寄る姿勢が大切だ。
## おさん
> 男の人って、死ぬる際まで、こんなにもったい振って意義だの何だのにこだわり、見栄を張って嘘をついていなければならないのかしら。(p168)
>
妻と子どもを残して、「ジャーナリストだ」「革命だ」と手紙を残して愛人と心中した夫の手紙を読んだ妻の言葉。
「本当につまらない馬鹿げたこと」とバッサリ切り捨てる。
妻は、ただ夫が家にいてくだらないことや取り止めもないことで笑い合って生きていられればよかったのに、大義のためと嘯いて死んだ夫に呆れている。
ほんとうに大切なのは、近くにいてくれる家族だ。
## 家庭の幸福
> 家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。(p183)
>
と言っておきながら、最後には「家庭の幸福に全力を尽くす余り、知らぬうちに他人の不幸を招いてしまった」という短編のアイデアを出す。
恐ろしい。
誰かの幸せの裏には、誰かの不幸があるかもしれない。
## 桜桃
> 私は家庭に在っては、いつも冗談を言っている。それこそ「心には悩みわずらう」事の多いゆえに、「おもてには快楽」をよそわざるを得ない、とでも言おうか。いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を観る事に努力する。そうして、客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。いや、それは人に接する場合だけではない。小説を書く時も、それと同じである。
私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰という作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。(p192)
>
太宰治の本心が滲んでいる気がする。
芸術家と自身を称する短編もあったが、作品を生み出すという仕事においては苦しみもがきながら奉仕の気持ちで取り組み、家庭においては必死に楽しい雰囲気作りに努める。
そうして、いわば自身を犠牲にしているうちに擦り減ってしまうのかもしれない。
> ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである)(p195)
>
辛さから酒に逃げる太宰治の、酒に対する考え方。自分の思っていることを主張できる人はヤケ酒なんか飲まないというのは、なんだか納得できる。
## 知らない言葉
- 空空漠漠(くうくうばくばく)
- 上州(じょうしゅう)
- 寸善尺魔(すんぜんしゃくま)
Posted by ブクログ
新潮社の太宰治の『ヴィヨンの妻』。最晩年の作品群です。太宰治の作品はいろんな出版社から出されているのですが、落ち着きのある体裁の新潮社を選んでみました。
「親友交歓」
昭和21年9月初め、疎開先の津軽で静かに過ごしていた「私」のもとへ、突然、小学校時代の同級生・平田と名乗る男が訪れてきます。顔にかすかな記憶はあったものの、ほとんど面識のない相手でした。 平田は小学校の「クラス会」開催の相談と称して、酒や金を要求します。最初は好意的に迎え入れた「私」ですが、平田の傍若無人な振る舞い、軽薄な自慢話、不愉快な態度に徐々に苛立ちを覚えていきます。 何時間も酒を飲み、妻にも無遠慮にちょっかいをかける平田の振る舞いに、「私」は我慢を重ねつつも心の中で軽蔑と呆れが募ります。 ようやく帰る気配が見えると、「私」は最後のウイスキーを差し出し、平田を見送るはめになります。玄関先で平田は耳元でこう囁きます。「威張るな!」
「トカトントン」
「私」は26歳の青年で、青森県の花屋の次男として生まれ、中学卒業後は横浜の軍需工場で事務を3年間、その後軍隊に4年間所属。敗戦を迎え、故郷・青森に戻り、祖父が局長を務める郵便局で働きながら日々を過ごしています。
ある日、「私は」を取り巻く世界に変化が起きます。兵舎で玉音放送を聞き、戦争終結という現実と直面した瞬間、「トカトントン」という「金槌で釘を打つような音」がどこからともなく響いてきます。その音を耳にした途端、彼の胸に迫っていた生きる緊張や感情がすっと消え、すべてが白々しく感じられるようになります。
それ以来、彼は何かに熱狂しようとする度に、同じ「トカトントン」の音が聞こえてきてしまいます。小説を書こうと原稿を執筆していたときも、仕事に打ち込もうとしたときも、恋愛に胸をときめかそうとしたときも、音が響けば途端にすべてがどうでもよくなり、熱意が一気に失われてしまいます。
例えば仕事中は、郵便局での円貨切り替えの多忙さに全力を傾け、 “半狂乱のように”働き続ける集中力を発揮するものの、まさにそのピークの瞬間に「トカトントン」が聞こえ、翌日は何もかもが急にどうでもよくなってしまいます。
また、片思いの女性・花江さん(小さな旅館の女中)との触れ合いでさえ感情が昂まる直前に「トカトントン」が響き、たちまち気持ちが冷めてしまいます。このように、人生のあらゆる場面で彼の熱意は音に打ち消されてしまうのです。
そこで「私」は、自分をよく理解している存在、「無学無思想の作家」として尊敬する人物に宛てて手紙を書き、相談をします。この手紙の中で、幻聴のような「トカトントン」について訴えます。
その作家からの返事は次のようでした。
「真の思想は智恵より勇気を必要とするものです。マタイ10章28、『身を殺しても霊魂を殺せぬ者を恐れるな』この言葉に霹靂(へきれき)を感じることができれば、君の幻聴はやむはずです。」
「父」
語り手は旧約聖書のアブラハムとイサクの話を取りあげます。アブラハムは神への信仰(“義”)のために息子を犠牲にしようとしたが、直前で止められたという出来事です。語り手はこれを通して、「義」のもつ過酷さに思いを馳せます。
次いで、日本の伝承にある佐倉宗五郎(宗吾郎)が、渡し舟で子どもと別れる場面を回想します。涙を堪えながら渡し場を離れていく宗吾郎の姿は、「義」と「慈しみ」が交差する瞬間として、語り手の心に深く刻まれています。
その後、語り手は自身の経験と重ねて語ります。幸福の予感は裏切られるのに、不快な予感ばかり当たる、と。
39歳になった私は遊びをやめられません。地獄のようなやけ酒と、恐ろしい女たちとの浮気です。
べらぼうに金をかけて、家族に迷惑をかけています。どうしても炉鍋の幸福が怖くてたまらない。父はどこかで義のために遊んでいます。地獄の思いで遊んでいます。戦果のあと苦しい生活の中でさらに子供が生まれるというのに。
前田さんという女性が訪ねてきます。そして遊びにいきます。おでん屋に飲みに行き、今度は前田さんのアパートに飲みにいきます。友人たちと前田さんのアパートで飲む中で、こたつに潜り込んで寝て、帰ろうとしません。
日々の生活の中で繰り返される別れや失敗は、まるで宗吾郎と同じように、「義」によって縛られているかのようだ――と自嘲的に振り返ります。
「母」
語り手は終戦後、津軽の生家で約1年3ヶ月間疎開生活を送っていましたが、ほとんど家に閉じこもっていました。友人の小川くんの招待で、ようやく小旅行として津軽半島の港町に出かけ、ある旅館に一泊する機会を得ました。どうも女中が客を取っていることに語り手は気づきました。そこで、夜中に隣室から漏れ聞こえてきた男女の会話を聞いてしまいます。
隣室で話していたのは、戦争から帰還したばかりの若い兵士と、その宿の女中でした。主人公は思わず聞き耳を立ててしまいました。そして女中が「お母さんは、いくつ?」と尋ねたとき、兵士が「三十八です」と答える声を耳にします。女中はその年齢が自分の年齢と重なり、一瞬ショックを受けたことに語り手は気づきました。
翌朝、主人公はこの出来事を小川くんに伝えて彼を狼狽させるつもりでしたが、結局やめてしまいます。そして静かにこうつぶやきます。「日本の宿屋は、いいですね」「うむ。しずかだ」と。
「ヴィヨンの妻」
戦後間もない東京で、若い妻「私(さっちゃん)」は、放蕩癖と借金癖を持つ詩人の夫・大谷、そして病弱な幼い息子と共に、貧しく不安定な暮らしを送っていました。大谷は酒や女に溺れ、家にはほとんど寄りつかず、時折戻ってきては金をせびり、また出ていきます。
ある晩、近所の小料理屋「椿屋」の夫婦が訪ねてきました。大谷と一悶着を起こしたとのことです。大谷が店の金を持ち逃げしたというのです。
さっちゃんは翌日、「必ず返しますから、それまで私を働かせてください」と申し出て、料理屋の手伝いを始めました。皿洗いや配膳をしながら、彼女は客たちの様子を観察しました。酒を飲み、愚痴をこぼす男たちの顔には、それぞれ何らかの罪や影があるように見えました。自分もまた、その一人だと感じていました。
数日後、クリスマスの夜に夫がふらりと現れ、豪遊してきた様子のまま椿屋に金を返し、また姿を消しました。さっちゃんはそのまま働き続け、椿屋の看板女中となりました。
時には椿屋を訪ねてきた大谷と共に家に帰ります。大谷は女には幸福も不幸もないと言います。男には不幸だけがあると言い、いつも恐怖と戦っていると語りました。
ある夜、終電を逃した客を泊め、酔いと成り行きのまま関係を持ってしまいました。しかし、さっちゃんは翌朝は何事もなかったように店に立ち続けました。
やがて、夫の記事が新聞に載りました。そこには「人非人」という文字が踊っていました。夫はその記事を見て弁解しました。妻はそれに答えるように、「人非人でもいいじゃないですか。私たちは、生きていさえすればいいのですよ」と静かに言いました。
「おさん」
物語の主人公は戦後の混乱した時代に生きる女性。彼女は夫と結婚し、共に生活していました。しかし、いつも夫は音もなく家から出て愛人の家に行きます。娘のマサコには、いつも夫の出かける理由について嘘をついています。
夫は雑誌社で働いていましたが、戦後職を転々とすることになります。家庭は戦禍の中でほぼ全てを失い、崩れかけた家を補修して使っていました。
夫は戦前は優しい人でありましたが戦後は人が変わったように心が家庭になくなります。いっそ発狂してしまった方が楽だと言います。ある時、家を出て「温泉に行ってくる」と告げて出かけますが、その後、長野県の諏訪湖で心中を遂げます。妻は夫の死を知り、子供を連れて呆れ返ったような気持ちで、死骸を受け取りに行きます。
「家庭の幸福」
家庭を顧みずいつも外で遊んでいる語り手。ある日家に帰ると、妻が子供のためにラジオを買ってきていました。ケチな語り手は、文句を言いつつラジオに夢中になります。
ある日ラジオでは、政府の官僚と民衆が意見を交わす番組が放送されており、語り手は官僚の要領を得ない態度に憤りを感じます。そして官僚の人柄を夢想します。
彼の夢想の中で、官僚は東京都の町役場で戸籍係として働く主人公・津島修二(太宰の本名)です。彼は必死に家族のために働く官僚。彼は常に家族のため必死に働き、壊れたラジオも手配していました。そのラジオが家に届く夜、出産届けを持参した女性が津島に受理をお願いするも、彼は急いで帰宅したいためその手続きを断ります。その女性はその後、自ら命を絶ちますが、津島はそのことを知らず、家族と共にラジオを楽しむことに没頭します。
語り手は、自分の夢想から「家庭の幸福は諸悪の本」と結論づけます。
「桜桃」
主人公「私」は小説家で、妻と3人の子どもと暮らしています。家庭では冗談ばかり言い、育児も家事もすべて妻任せです。執筆も進まず、家庭の外に「女友達」がいます。妻にはどこに汗をよくかくかと聞くと、乳と乳の間の涙汗と答えられます。長男には知的障害があると示唆されており、夫婦はその事実に向き合えず、話題にすることすら避けています。
ある日、妻との夜の子供の番をどちらがするかという口論がきっかけで、主人公は家を飛び出します。妻は病気の妹を見舞う予定で、主人公が子どもの世話をするはずでしたが、それを放棄して逃げます。彼は原稿料の入った封筒を持ち、馴染みの酒場へ向かいます。
酒場で「女友達」に桜桃(さくらんぼ)を出されます。主人公は「子供は桜桃なんて見たこともないだろう」と思いながら、まずそうに食べては種を吐き出します。その行為は、子どもへの罪悪感と自己嫌悪を象徴しているようです。
そして心の中で虚勢のように呟く──「子供より親が大事」。
桜桃を雑誌『新潮』に発表した1カ月、太宰治は愛人山崎富栄と玉川上水で心中します。桜桃は遺書のような読まれ方をすることが多い作品です。
太宰治を読んでいると悲しくなります。
その衝動性、強烈な感情、逃避、そして自己破滅的な行動。「幸福や安定を維持する」より「壊れること」を選択してしまう人生。
誰もここから逃げ出したい、愛人と旅に出かけたいと思うことはあると思いますが、それを極端に赤裸々に実行してしまう弱さに、逆に圧倒されます。なんて物語的な人生を生きた作家なんだろう、と。
Posted by ブクログ
暗いし死の影も見える一方で、ダメな自分を女性視点で描く冷静さもあるのが面白い。それでも罪の意識やうまく生きていけない自分への苛立ちが全体に滲み出ていて、本当に生きづらかったんだろうなと思った。共感できる部分もあって、晩年の作品は好みのものが多いと思った。ヴィヨンの妻、おさん、家庭の幸福、桜桃、と続く後半の流れが好きだった。
トカトントンは分かりすぎた。夢中になっていたはずなのにふとした瞬間に急に冷めてしまう。そんなことばかり。できないことがあった時に勇気を出せず逃げているだけだったのか。
そして斜陽然り、おさん然り、太宰の描く女性が捉える革命がかっこいい。太宰が捉えている破壊や死に繋がるような革命との対比?
"革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。(中略)気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。"
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