あらすじ
既存の枠にとらわれない新しい価値観をどのように生み出していけるのか。「個」が強調される中、信頼に足る家族・コミュニティーをいかに作り上げることができるのか。みなの声に耳を傾ける社会を実現するには、どうすればよいのか。霊長類の目があれば、自ずと答えは見えてくる。学びの基本、サル真似ができる霊長類は人間だけ?
大量発生中のイクメンはゴリラ型の父親?
「ぼっち飯」ブームは、人間社会がサル化している証拠?
現代日本の民主主義はゴリラのそれ以下?
動物の一種としての人間に立ち返り、これからの共同体・国家のあり方を問い直す。
※こちらの作品は過去に他出版社より配信していた内容と同様となります。重複購入にはお気を付けください
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Posted by ブクログ
久々に、目から鱗!
そして、衝撃的な解釈で、涙が出てしまった。
外国で暮らし、異文化を知る。
それだけなら、自分自身にもある話だけど、
筆者は、ゴリラの住む森で、ゴリラに受け入れてもらい、ゴリラと遊び、ゴリラに「友達」として認められるまでになった。
そんなガチのフィールドワークの体験に基づき繰り広げられる洞察。
比較対象が、人間の文明同士、人類の文明数千年をはるかに凌駕し、類人猿ができた数十万年前に及ぶから、圧倒的。
まず、「父親」とは、社会に認められて初めてできるもの。動物界でオスが育児に参加する種は、ゴリラくらい。「父親」役のゴリラは、雌や子供の期待に応えるようにふるまう。
ヒトは二足歩行の上頭が重くなってしまったために未熟な状態で生まれるから、育児にオスが関わることになった。
親の役割を虚構化し、子育てを共同体ですることにした。
西洋文明は、シートンのような、動物が環境の影響によって共同体を形成したり、人間と共通の特徴を持つ、といった研究を嫌ったらしい。あくまで、人間は自然から切り離されたものであり、独立したものである。ヨーロッパには、森でさえ隅々まで人の手が入っている。
一方の日本やアフリカは、手付かずの森がたくさんある。
日本には、動物がヒトとなり、家族の一員となる昔話がたくさんある。
霊長類の行動を観察し、ヒトのコミュニティの考察に応用する霊長類学は、今西錦司が提唱し、日本でスタートした。しかし、当初は、「擬人化」といって欧米からは見向きもされなかったらしい。
人間は、言葉を手にすることにより、感情をも代々伝えることができるようになった。その結果、怨念的な感情も伝えることができるようになってしまった。
ゴリラも、昔は狂暴な動物とみなされ殺された。
芥川龍之介の「桃太郎」。鬼にしてみたら、悪いことしてないのに成敗されてしまう。
個人はみんな優しく、思いやりに満ちているのに、民族や国の間で理解不能な敵対関係が生じるのはなぜか。
つくり手側から物語を読むのではなく、多様な側面や視点に立って解釈してほしい。
大学はジャングル!いろんな生物がそれぞれの個体の繁栄のための最適化をし、出たり入ったりする。