あらすじ
わたしは物語を作るのが好き.11歳の少女メアリーは,島のだれとでも手話で話し,いきいきと暮らしています.一方馬車の事故で死んだ兄さんのことが頭を離れません.ある日傲慢な科学者に誘拐され,ことばと自由を奪われて…….手話やろう文化への扉を開く,マーサズ・ヴィンヤード島を舞台にした歴史フィクション.
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Posted by ブクログ
1805年米マーサズ・ヴィンヤード島チルマール。
聾者と聴者が手話という共通言語で共に暮らす島が実際にあったそうだ。
メアリーは家族や友人関係など悩みを抱えながらも、想像力豊かな、普通の11歳の少女だ。
ある日、島外から来た自称研究者によりボストンに連れ去られ、聾者への凄まじい偏見差別に直面する。
メアリーがどうなるのか、不安と緊張の連続だ。
ここで描かれる差別は、障害者だけでなく、先住民、自由黒人への人種差別などもある。
「障害は本人にあるのではなく、本人を取り巻く社会の側にある」その言葉を噛みしめる内容だった。島と街の社会の違いがその事を示している。
Posted by ブクログ
読書会で、偶然、マーサズ・ヴィンヤード島に関する本を連続して取り上げた。「ケイレブ」と「目で見ることばで話をさせて」である。どちらも素晴らしい作品だった。島は観光地とのことなので、いつか行ってみたい。
「目で見ることばで話をさせて」
ろう者が多かったこの島では、独自の手話が発達し、ろう者も健常者も不都合なく暮らしていた。
ボーダーレスな社会のあり方にヒントをくれる本だと思う。
Posted by ブクログ
聾者への偏見、侮蔑、島での人種差別、兄の死でギクシャクした母娘の再生が描かれている。
科学者の聾者に対する態度は目に余るものがあったけど、後半で出てくる博士にも聾者は知能が低いと思われていたとは驚きだった。
自分も知らず知らずのうちに偏見を持ってしまっているのかもしれない。耳が聞こえないだけで普通の人と何も変わらないのにというメアリーの言葉にハッとさせられた。
多くの事に気付かされ、読んで良かった。
続編も翻訳されると良いな。
Posted by ブクログ
19世紀初頭、アメリカのボストン南東部に位置するマーサズ・ヴィンヤード島に暮らす11歳の少女メアリーが主人公。この島では、みんなが手話で会話する。耳が聞こえても聞こえなくても差別なし。ただし、先住民族であるワンパノアグ族への感情は人それぞれだ。
島の住民の4人に1人の割合でろう者がいるという事で調査に訪れた若い科学者アンドリューの偏見により、メアリーは辛い目にあう。
ボストンでは耳が聞こえない人を何もできない障害者とみなし、乞食になるくらいが関の山だと思われていた。まだまだ、先住民族にも黒人にも、人権がなかった時代。アンドリューのように考える人は多かったのだろう。
それにしてもメアリーが救出された時には安堵して、涙がこぼれてしまった。
メアリーのお父さんは人格者だなぁと感心してしまう。そして、そんなお父さんに支えられてメアリーはきっといい影響を与える大人になれるだろうと思う。
偶然にも「ケイレブ」の舞台であるマーサズ・ヴィンヤード島が舞台で、ワンパノアグ族の名前も出てきて、ビックリ!ケイレブよりも後の時代なのだが。
島中の人たちが手話で会話をし、普通に学校に行き、生活していて、「誰がろう者なのかわからなくなる」というようなセリフが出て来るが、素晴らしいと思った。また、あとがきにろう者や手話についての本なども紹介されている。
Posted by ブクログ
ろう者と聴者が手話を共通言語として使う島が舞台。主人公メアリーの、島では耳が聞こえないことを気にすることはなかったのに、ボストンから若い科学者が調査といって島に来たことで偏見を感じるようになり、その後ある事件で更に外の世界の残酷さにさらされる場面にハラハラしました。またそもそも島でも、部族や人種への差別意識を持つ人がいたり、それへの疑問をメアリーは友達や母親と共感できないわだかまりがあったりして、知らないうちに持ち疑ったことのない偏見は厄介で人を傷つけるのだと思った。
手話が共通言語の地域がありそこでの暮らしやコミュニケーションの仕方が描かれていたのも興味深かかったけど、自分の罪悪感や困難に立ち向かう一人の女の子の成長していく姿により惹き込まれました。
Posted by ブクログ
手話で話をする人々が普通に暮らす島の存在をこの本で初めて知りました。
手話をする人をどうしても珍しい目で見てしまいがちですが、それが当たり前の場所もあるというのが新鮮でした。
手話をしない人から手話をする人に対する差別、移民してきた人たちから、先住民族や自由黒人に対する差別、いろんな差別が描かれていました。
いろいろ考えさせられた物語でした。
Posted by ブクログ
☆4.5
かつてろう者と聴者がわけへだてなく、皆が手話で話をした島があるという。
名前はマーサズ・ヴィンヤード島。
なんと『この海を越えれば、わたしは』のカティハンク島にとても近い。
前半は、ろう者である主人公メアリーや島の人々の生活がいきいきと描かれている。驚いたのは、小型望遠鏡を使って手話で話をしていたこと。耳が聞こえる相手にはラッパを吹いて知らせ、聞こえない相手とは前もって話す時間を決めておく。よく考えられているし、楽しそうだ。
島ではろう者に対する差別意識はないが、先住民と島の住人との確執、自由黒人への差別や偏見がある。兄ジョージの突然の死を受け止められず苦しむ家族の思いも丁寧に描かれている。
物語が急展開する後半は目が離せない。
メアリーは科学者アンドリューに誘拐され、無理やりボストンに連れてこられた。島から一歩出た世界では、ろう者は劣った存在と見なされ、自分の言葉まで奪われてしまう。メアリーは〈ちがいのある人がどのような扱いを受けているか〉を初めて知った。〈偏見はどうしたらなくせるのか?〉を考え始めた瞬間だと思う。
以前の生活を取り戻したメアリーに父親が言った言葉が印象的。「人を批判せず自分の内面を見つめなさい。最良の人間になるよう努力すれば、それがほかの人の手本となるのだから」
手話の説明がある箇所では、知らず知らずのうちに手を動かしていた。続編も翻訳されたら是非読んでみたい。
Posted by ブクログ
私は今、手話を勉強している。その中で「異文化理解」が大切であることを学んだ。
本作品の舞台であるマーサズ・ヴィンヤード島では健聴児の多くが英語と手話という2「言語」を完全に併用しつつ大人になっていった、と言う。障害者のハンディキャップを取り除くための示唆がこの島にはあったということ。
実在の島を舞台にしたフィクションであるが、障害者との向き合い方のみならず、アメリカが今も抱える差別の問題も提起しており、内容が濃い。小説としても良くできており、ヒール役の科学者からの脱走劇にはハラハラさせられた。訳者も書いているが、ヒール役が酷い奴なので我々が障害者に対して持ちがちな偏見に気付かされる仕組みになっている。
本書を読んで、私は引き続き「異文化理解」を深め、日本語と手話のバイリンガルを目指してがんばろうと思った。
Posted by ブクログ
実際に手話で会話をしていた島があった、という事実に基づいたフィクション。11歳のろう者であるメアリーの視点で綴られる。児童書のため、かみ砕いた表現になっており読みやすいが大人にも読んでほしい1冊。障害とは内ではなく外にあるものというが、まさにそうなんだと思う。
Posted by ブクログ
1800年代の米国、ボストン沖にある小さな島には耳の聞こえない遺伝性のろう者の割合がとても多かった。島に住む人々は、聴者もろう者も独自の手話で会話をしていた。そんな歴史的事実を踏まえたフィクション。
11歳のメアリーはろう者だが、手話を使った会話で不自由なく暮らしている。そんな島にろう者が多い島の調査に若い科学者がやって来る。
前半は、島で友人や家族と普通に暮らすメアリーを描く。それは、いつの時代にもある11歳の少女らしい楽しみと悩みのある日々だった。後半、人さらいのようにして科学者に連れ去られてしまったメアリーの脱出劇に、手に汗握る思いで読んだ。
ろう者に対する偏見と誤解が今以上だった時代。それでも、心ある人たちの理解に支えられ、島へと帰ることができる。科学的な理解が進んでいなかった時代とはいえ、若い科学者の態度に呆然とする思いだった。振り返って、現代でも似たような偏見は本当にないのか、あらためて気をつけなくてはと思う。
Posted by ブクログ
耳の聞こえない人と聞こえる人が声と手話で何の問題もなく暮らしていたという島の話。
設定は実話だそうだ。
障碍があるということ、耳が聞こえないということは聞こえる人より聞こえるということがないこと、劣っているととらえるか、難しい。
聞こえないよりは聞こえるほうがいいかも、聞こえなくても何不自由ないって言いきれるんだろうか…
差別ではなく、違いととらえることができれば、いろんな事実が変わると思うけれど。
カズオ・イシグロの「私を離さないで」を思い出した。クローンに知性はあるかという、
昔の人は障碍のある人は知性がないととらえていたかも、島の聞こえない人たちは島を出て生きていけるのだろうか。なかなかの難問。
Posted by ブクログ
マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィンヤード島に住む聴覚障害者で11歳のメアリー・ランバートの体験する障害者や先住民に対する偏見と人種差別を描いた物語。著者自身が聴覚障害者故の繊細な心理描写に多様性の認識の大切さに気付かされる。
耳が聞こえる人と会話をするとき、自分の考えを伝えるのがむずかしいと感じるときがある。ふだんは通訳しながら話すけれど、何人かで話していると耳が聞こえる人同士だけで会話が進むこともあるから。いじわるをするわけじゃなくて無意識に起こる。耳が聞こえる人たちは話す速度を落としてわたしを仲間に入れるのを忘れてしまうんだ。
Posted by ブクログ
19世紀初頭、アメリカ・ボストン南東部にあるマザーズヴィンヤード島は住民の25人に一人が遺伝性難聴による聾者だった。
聴者も手話を使い、聾者だからと差別されることも全くなかった。
これだけ知るとパラダイスのようだが、差別がなかったわけではない。イギリス系住民は、原住民であるワンパノアグ族、黒人、アイルランド人(映画「コミットメンツ』でアイルランド人の若者が「俺たちはヨーロッパの黒人だ」と言ってたのを思い出した)を同じ人間として扱わず、土地の所有をめぐって、そもそも「所有」の概念がないワンパノアグ族と争っている。(もちろん白人に有利な社会構造である。)
主人公と父は友人として付き合うが、母や親友は明らかに下に見ている。
人は差別をせずにはいられない、というか、多分差別をしている人たちも差別しているという意識はなく、単に「私たちとは違う人」と思っているのかもしれない。が、実はそれこそが差別であることには気付いていない。
後半の展開より前半の様々な意識の差を描く部分が興味深かった。
かつて脳性麻痺の人たちが知的能力が低いと思い込まれて差別されていたという物語(『ピーティ』)を読んだが、聾者や盲者は書いたり話したりできるからそんな偏見はないものと思っていたが、そうではなかったのだなと思った。多数派の人は少数派の人に鈍感なのだろう。興味がない、よく知らないというのも差別に結び付くということがわかる物語だった。