あらすじ
19世紀末の土耳古(トルコ)、スタンブール。留学生の村田は、独逸(ドイツ)人のオットー、希臘(ギリシア)人のディミィトリスと共に英国婦人が営む下宿に住まう。朗誦の声が響き香辛料の薫る町で、人や人ならぬ者との豊かな出会いを重ねながら、異文化に触れ見聞を深める日々。しかし国同士の争いごとが、朋輩らを思いがけない運命に巻き込んでいく――。色褪せない友情と戻らない青春が刻まれた、愛おしく痛切なメモワール。
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Posted by ブクログ
何か特別派手なことが起こるわけではないのだけれど、人種も国籍も宗教もちがう登場人物達が織り成す物語の言葉のひとつひとつが胸にささる。
トルコがまだオスマン帝国の時代、第一次世界大戦が始まる前の時代に、バックグラウンドが違う人達が一緒に暮らすのは、現代の何倍もの苦労があったのだろうと思う。
その中で完全にお互いのことが理解できるわけではないけれども、お互いの文化を尊重しあって生活する登場人物たちはすごく素敵だと思うし、私もそうありたいと思った。
ディミストリが言うように、私たちは人間で、およそ人間に関わることで、私たちに無縁なことは一つもないのだから。
Posted by ブクログ
先に梨木さんの「家守綺譚」を読んでいた。少し昔の日本家屋での、穏やかな日常を描いた作品だったので、本作とは全く別物と思っていたら、一部、同じ登場人物が描かれていて、その繋がりは嬉しい驚きだった。
本作は、イスタンブールを旅しているような気分に浸れるもの、を求めて手に取り、まさにそんな期待に応えてくれる作品だった。そして最後には、「歴史、人々の暮らし、国家のありよう」を問う、胸に迫る結末が待っていた。
私は世界史に触れる時、『各時代、各地域、そこで暮らす様々な身分の人たちの生活や心情を、自分の中で再現する』ことを心掛けており、その姿勢は、作者があとがきに書いた執筆姿勢と共鳴するものでもあって、それも嬉しい共感だった。
Posted by ブクログ
――
大満足の222頁。
久し振りに溢れるように泣いた…西武新宿線の車内でね。ええ。
自分は世界を知らないなぁ、と思いながらも頑張って読む。もっと真面目に世界史に取り組んでおけばよかった、って後悔は何度も何度もしています。これからもしていくことでしょう。勉強しろって? いやぁ…ねぇ?
19世紀末のトルコを舞台に、日本人留学生村田の日常を…と思いきや、中盤から物語は飛翔し、民俗学的な怪しさを孕みながら戦争を、理不尽を、その中で確かに息をするひととひととのつながりを、悲しく描き出してゆく。その波に心地よく揺られ、揺らされ…痺れるような若々しい痛みが芯に残る。
巧い。前半の瑞々しさはまさに青春のそれで、羽毛のような軽々しいユーモアが中東の空気を嗅がせてくれる。村田の帰国後は対照的に、じっとりと沈む物語を超えて、前半の煌めきが眩しすぎてもう、涙無しには。
2007年に刊行された小説が、あとがきにもあるように、2001年のパラダイムシフトを受けて書かれたそれが、より現実的に身に迫る刃になるというのは危機的な状況ではあろうけれど…いま読まれるべきだな、とは感じた。良い仕事です。
示唆に富むことばは沢山あった。
どうかこの小説も、純粋に小説として楽しめる日々を迎えられるように。
☆4.8
Posted by ブクログ
国や宗教が違う人たちがどうしたら分かりあえるのか、分かりあえなくても互いの考え方を尊重して共存することはできるのではないか、そんなことを模索しようとするような丁寧な筆致がとても心地よい、そんな読書時間。
第一次世界大戦勃発直前という作品の中の時代背景が、今のギスギスした世界情勢とも重なって、考えさせられるのだけど、梨木さんの文章は夏目漱石みたいなおかしみもあって本当に好き。明治時代の異国の地の、においや感覚までが伝わってくるよう。
私の大好きな『家守綺譚』の姉妹編とは、しらなんだ…
Posted by ブクログ
作品紹介・あらすじ
『家守綺譚』『冬虫夏草』の姉妹編
著者によるあとがき「あの頃のこと」を収録
19世紀末のトルコ、スタンブール。留学生の村田は、ドイツ人のオットー、ギリシア人のディミィトリスと共に英国婦人が営む下宿に住まう。朗誦の声が響き香辛料の薫る町で、人や人ならぬ者との豊かな出会いを重ねながら、異文化に触れ見聞を深める日々。しかし国同士の争いごとが、朋輩らを思いがけない運命に巻き込んでいく――。色褪せない友情と戻らない青春が刻ま れた、愛おしく痛切なメモワール。
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再読。
記録によると前回は2009年2月8日に1日で読破している。その時は角川文庫からの出版だった。それから14年後、今度は新潮文庫から著者による「あの頃のこと」を加えて出版された。
村田とはこの物語の主人公。エフェンディとはトルコ語で「先生」みたいな意味。滞土録とは土耳古、つまりトルコでの滞在記録みたいな意味。だからタイトルは「村田先生のトルコ滞在記」ということになる。ちょうどこの本を読んでいる最中に、この物語の舞台であるトルコ(そして隣国シリア)で大地震があった。今日現在、死者は両国あわせて5万人を超えたとのこと。不思議な符合、と書いたら不謹慎になるだろうか。
不思議な符合はまだある。この作品の初出は「本の旅人」2002年10月号~2003年10月号に連載されていた。連載時期をみると、ちょうど9.11、アメリカ同時多発テロ事件の1年後のことになる。今回の「あの頃のこと」でもそのことや、その後のアメリカのアフガニスタン侵攻に触れている。今回新潮文庫から出版された際には、アメリカと並ぶ大国、ロシアによるウクライナ侵攻に関連して世界が不穏な空気になっている。やはり不思議な符合に思える。というかそれだけ世界情勢は昔から変わっていない、ということなのかも知れない。
村田は日本人で一応の仏教徒、下宿を営むディクソン婦人は英国人でキリスト教徒、その下で働くムハンマドはトルコ人で回教徒、下宿人のオットーはドイツ人でキリスト教徒、同じく下宿人のディミィトリスはギリシャ人でギリシャ正教徒。様々な国から様々な宗教を背景に持つ人々が同じ下宿で暮らし、生活をしている。人としての交流や、人以外の不思議なモノたちとの事件も起こるが、とりあえずは平穏に暮らしている。ただし、世界はそんな平穏とは関係なく第1次世界大戦へと向かっている。最後の章はまさに痛切。
以下、ネタバレがちょっとあります。
「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない」。これはローマの劇作家テレンスティウスの言葉の引用なのだけれど、色々と考えさせられるフレーズ。ギリシャ人でありながらなぜディミィトリスはトルコのために青年トルコ人として戦死したのか。なぜディミィトリスの事があまり好きでなかったムハンマドがそんな彼の死を信じられずに彼を探しにいったのか。なぜムハンマドが戦死した時、オットーは彼の遺体を探しにいったのか。「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない」。そこには国も宗教もない、ただの人間という存在があったからなのかも知れない。
Posted by ブクログ
100年前以上前のトルコに留学した日本人の話。
下宿先に、イギリス人、トルコ人、ドイツ人、ギリシャ人がいて、彼らの交流や、神々の神秘的な話などが面白い。けど、時代が時代、世界大戦に入り最後は下宿先の友人達が亡くなってしまうことを手紙で知るのが悲しかった…。最初に登場したオウムが、最後に村田のいる日本に来るところが良かった。
Posted by ブクログ
梨木香歩がこんなに骨のある古典的な文章を書くとは知らなかった。
あっという間に当時の土耳古に引き込まれてしまった。
民族も宗教も価値観も違う人々が、様々な感情がありながらもお互いを尊重し合って過ごした時間は、「青春」と一言でいうには濃密過ぎるように思う。他人と一緒に過ごす時間は、必ずいつか終わりが来るものなのだ、と思いつつ、それにしてもこんな別れを迎えてほしくはなかった。時代、社会情勢、国、民族、宗教、…尊重していたものに殺され、別れさせられたと言っても過言ではない。
ディスケ・ガウデーレ!ー楽しむことを学べ。
Posted by ブクログ
評価は星3つだが、この人の話の星3つは面白かったかどうかではなく、中庸であり、主張すべきところがない安定の星3つといえる。(実質星5つといえるが、その情熱が湧かないところが重要)
最終的に『家守綺譚』『冬虫夏草』と舞台が共有され、同じ世界観で描かれていることに謎の安堵感を感じる。特定の人物を好きになるわけではないのに、話に親しみが得られるのはそれだけ人の良心に寄り添った土壌が築かれているからだろう。展開はともかく、不穏な影を感じない。
人生の幸せとは、かくも流れゆく時の上に描かれた1本の線であると知る。連なりこそが味わいであり、一時的な期間がその人間の人生を広げてゆくきっかけとなる様を見せてもらった。
個性溢れた人物像にも静かな魅力が光っている。