【感想・ネタバレ】歴史学者という病のレビュー

あらすじ

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ぜんぶ、言っちゃうね。

このままでは日本の歴史学は崩壊する!?
歴史を愛する人気学者の半生記にして反省の記――。
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歴史学は奥も闇も深い

●「物語の歴史」と「科学の歴史」の大きな違い
●時代が変われば歴史も変わる怖さ
●実証と単純実証は断じて違う
●皇国史観VS.実証主義の死闘
●教育者の一流≠研究者の一流
●修業時代とブラック寺院
●私は認められたかった
●「博士号」の激しすぎるインフレ
●「古代+京都」至上主義の嫌な感じ
●「生徒が考える」歴史教科書はNGだった
●歴史学衰退の主犯は大学受験
●私を批判する若い研究者たちへ
●唯物史観を超えるヒント
●網野史学にも検証が必要だ
●民衆からユートピアは生まれるか
●「日本史のIT化」は学問なのか
●次なる目標はヒストリカル・コミュニケーター

本書のテーマは「歴史学者」、つまり歴史を研究するということの意味について考えること――だ。(中略)聞きようによっては、同僚や他の研究者の批判に聞こえてしまうようなところもあるかもしれないが、もちろん個人攻撃や人格攻撃などの意図はまったくない。あくまで学問的な批判だと考えていただければよい。ここまで心中を正直に吐露したのは本書が初めてであろう。

幼年時代の私は、偉人伝などをはじめとする「物語」としての歴史にハマった。だが、本格的な歴史研究者を志すために大学に入ると、そこには「物語」などではない、「科学」という、まったく新しい様相の歴史が待ち構えていた。
学生時代の私は、史料をひたすら読み込む「実証」という帰納的な歴史に魅了された。その一方で、いくつかの史実をつなげて仮説を組み立てようとする演繹的な歴史のもつ面白さにハマった時期もあった。だが、実証を好む人々からは「仮説」というものは徹底して異端視され、しばしば私も批判されることになった。
さらに学びを深めるうちに、歴史学、歴史というものは決して悠久でも万古不易でもなく、それどころか、むしろその時代のもつ雰囲気や世論、世界の流れなどによって、簡単に姿を変えてしまう、ある意味恐ろしいものなのだという現実も知った。また、受験科目としての安直きわまりない「歴史」が、数多くの歴史嫌いを大量生産し、結果的に歴史という学問の著しい衰退を招いてしまっている事実にも言及したい。
こうした機微な話は歴史の授業や歴史学の講義ではなかなか話題にならない。(「はじめに」を一部改稿)

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Posted by ブクログ

面白かった! 歴史学者本郷先生の人生のお話でした。今何かと話題の中世日本史を専門にされてる方。中世、面白い時代ね。
科学としての歴史学にロマンを求めてはいけない、歴史学とは時代の空気や世の中の雰囲気に影響されやすい、というのに納得。

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2025年05月04日

Posted by ブクログ

尖っててロマンチストで逆張り好きでプライドが高い…還暦のオジさんに、そんな友人のような親しみを抱かずにはいられなくなる一冊。

教育熱心な親に育てられ、武蔵中高から東大とエリートコースを歩みながらも、周りの「本物のエスタブリッシュメント」に比べて自分の教養は偽物だとコンプレックスを抱く。そんな若き日の本郷和人と今のぼく自身を比べて親近感を覚えたり、反対に指導教官の石井進に食ってかかるのを「アイツよくあんな失礼なこと言えるな」と冷ややかに笑ったり。

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2025年05月02日

Posted by ブクログ

935

「歴史が得意」というものの正体は、(歴史を分析するための)国語力を素地とした大局的な構想力や構成力、分析力のこと

本郷和人(ほんごう・かずと)
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事。専攻は日本中世政治史、古文書学。同史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当するほか、『吾妻鑑』の現代語訳(共訳)にも取り組んでいる。昔から愛好していた歴史的人物を科学的な脈絡の中で捉えなおす「新しい人物史」の構築にも挑む。
『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会)、『新・中世王権論』(文春学藝ライブラリー)、『上皇の日本史』(中公ラクレ)、『考える日本史』(河出新書)、『日本中世史の核心』(朝日文庫)、『日本史を疑え』(文春新書)など著書多数。

歴史学者という病 (講談社現代新書)
by 本郷和人
 1960年──激しいデモに揺れる安保闘争が最高潮を迎えたころ、東京下町、 亀有 の大家族に私は生まれた。有名企業に勤める父、専門学校で有機化学を教える母、そして祖父母と父方のおば二人に囲まれる、大人ばかりの暮らしであった。私はなぜだか家にいることばかりを好む子で、いわゆる子供言葉というものを発したことがまるでなかった。喋り出したころにはすでに大人言葉を使っていたという。日本語に対する感性はあったようで、3歳のころには町中の漢字で書かれた看板の文字が読めていた。

そう。私は極度に「死」を恐れる子供だった。

私は思い立った。自分のように喘息に苦しむ人を救いたい。  そうだ、医者になろう、と心に決めた。

野口英世に憧れる一方で、「偉人伝」というジャンルの書籍も読みふけった。特に偕成社から刊行されたシリーズが大好きで、明治時代の治水事業者・金原明善 の物語や、儒学思想の影響下にある清貧の「母子もの」に夢中になった。

病に苦しむ母を見舞うため、住み込みの塾から百里の道を歩いて故郷に駆け付けるも、これぐらいのことで帰るな、おまえは勉学の身ではないかと、一夜のみの宿泊を許されたのち泣く泣く塾に戻った……という江戸時代の陽明学者・中江藤樹の物語などを一心に読みふけった。ひたすら社会貢献する人びとの物語に心惹かれ、偉人伝のシリーズを切り口として名作文庫を耽読したのだ。

思えば私は幼少期から、ずっと〝人物や物語をめぐる歴史〟というものに興味があった。それは後述するように、大人になって〝科学としての歴史〟を心掛けるに至っても、根底は揺るがぬものなのだと思う。

父は私を溺愛してくれたが、その父に対して、幼心にも知的素養として物足りないものを感じてしまった。大会社に勤めていることもあって経済面での不自由はまったくなかったが、「小さな子供」扱いをされつづけたことに対する反発心が、そのような思いに至らせたのかもしれない。

一方の母はといえば頭脳明晰で、アカデミックな職場を腕一本でのし上がっていくような、人間としてとにかくエネルギッシュな人だった。  大学教員を目指して寮監を務めていたが、事情があって専門学校の教師に転じ、女性不遇の時代に獅子奮迅の仕事ぶりを見せた母。だが、父はそんな母をできるだけ家のなかに留めておきたい、囲い込みたい欲求を持っているようだった。家にいろ、とさえ命ずるような向きもあった。

私は、生家のある東京・亀有という下町から、1時間もの電車通学をして千代田区の名門とも呼ばれた麴町小学校に越境入学することとなった。そこには私にできる限りの勉学をさせたい、という「孟母三遷」を地でいくような母の意向が強くはたらいていた。

 喘息持ちの小学1年生に長い通学は酷でもあったが、規則正しい運動と生活が奏功したのか、うまい具合にその病をおおむね克服することにもつながった。  体力がつき、身体も徐々に大きくなる。そんな私を見た母は、やたらと習い事を重ねさせた。7歳になったころから週5日は塾に通わされ、プラスで習字にピアノと絵画教室がノルマとなった。そんなギリギリの生活のなかで私はまたも友人を作る機会を逸し、相変わらず一人で過ごす時間が多かった。

重くのしかかる習い事漬けの生活のなかで、やがて私は「才能とは恵まれるものなのだ」と気付くことになる。部屋に貼られた「努力」のパネルをにらみながら私は刻苦勉励を続けたのだが、たとえば絵画の才能に恵まれた子は、勉強などできなくともいともあっさり、素晴らしく写実的な絵を描けていた。  努力は美徳だが、努力ではどうにもならないことが世の中にはある、そして自分には天賦の才能はないようだ、という、冷たい現実を突き付けられた。私はごく普通の人間なんだ──と強く思い知らされたのがこのころである。

 そこで私は数々の仏像や仏閣と運命の出会いを果たす。  京都の広隆寺が所蔵する 弥勒菩薩 半跏思惟像 の、哲学的なふくみを持つアルカイックスマイルに見惚れること幾ばくか、気付くとあたふたと母が私を探しにやってくるではないか。結局、私があまりにも時を忘れていたためか、バスが先に行ってしまったのだ。

その後も奈良の薬師寺で、アメリカの東洋美術史家・アーネスト・フェノロサから「 凍 れる音楽」と呼ばれたという東塔に感銘を受け、本堂においては黒光りする薬師三尊に身も心も迎え入れられた。言い知れぬ感動が肉体の隅々まで沁みわたった。その後も、興福寺の阿修羅像や、胸部から上しか現存しない阿修羅の仲間である五部浄に心底から感嘆した。

特に天平時代や貞観時代の仏像は、現世に生きる自分たちにもダイレクトに伝わってくる凄まじい美しさだと驚いた。比較するのも野暮だが、江戸以降の「お約束」で描かれたような浮世絵などとは違って、非常に人間的で素晴らしいプロポーションを持つのが当時の仏教美術だと思った。私には、その美しさが、…

仏教美術、とくくりながらも、私はそれらを彫刻として眺めていたのだと思う。日本のミケランジェロ、あるいは現代のコラムニスト・みうらじゅんさんが提唱するグラビアのような見方をもって、まさに美しさの虜となった。  仏像の美しさに魅入られるのと同時に、建造物の虜にもなった。「そこに在る美しさ」という実感が、己の胸に響き渡った。こうした経験から…

 私の感じた美しさには、「時間」という軸もまとわりついた。ある仏像が西暦700年代にできたものだとすると、鑑賞した当時ですでに1200年を超えた存在である。そこまで遥か昔の時代に、こんなにも美…

そこで私は5年生になったころ、人生の大目標として「お坊さんになる」という志を新たに持った。宗派や教義のちがいを学び、特に曹洞宗の開祖・道元のストイックな生きざまに強く憧れた。

かくして「医者になる、改め、お坊さんになる」というように、人生の大目標を修正した私は、中学受験を、まったく辛いこととは思わずに楽しく取り組んだ。

四谷大塚とは別に、個性的な私塾によるハードな勉強も加速させつつ本格的に取り組んだのだが、第一志望の東京教育大学附属駒場中学校、のちの筑波大学附属駒場中学校にはあっさりと落ちた。反射的に「殴られる」と怯えたが、殴る代わりに母は泣いた。こうして第二志望の武蔵高等学校中学校に私は入学したのだった。

このあたりは私の基本的な資質の問題になるのだが、小学校の時には運動ができないせいで、勉強に自分の存在価値を求めていた。しかしながら武蔵中学に上がってみれば、自己承認のよすがだった勉強すらも、さほどはできないのだと気付かされた。その後、長きにわたってわずらう自己否定のはじまりである。

それで言うなら美もまた永遠だ。なにかの具象に感銘を受けた人間がひとりずつ死んで去ろうとも、美そのものは存在を残し、あらたな人間にあらたな感銘を授ける。奈良の芳醇な仏教美術を見るがいい。感性さえ磨けるならば、1000年以上が経ってもなお輝く、美というものに永遠性をゆだねることができると私は思った。

恐怖と崇拝、両義を併せ持つ永遠なるものの内実を知ろう、と思うに至った。永遠なる存在を知るために、永遠をきざむ時間という軸の、歴史というものを勉強して、その都度、場面ごとの中身を知ろうと私は思った。死が怖い、と怯えるだけの人生から一歩前に進み、怖さの本質を見極めよう、という風に考えるようになっていった。

ありていに言えば、日本の歴史と文化を研究、演習するゼミ活動が行われる「歴史研究クラブ」なのだが、過去には第 78 代内閣総理大臣・宮澤喜一が所属していたほか、まこと綺羅星のような研究者たちを輩出していく場でもあった。

まずここで友だちになったのが、同級生の大津透や後藤治だ。大津はのちに日本古代史研究の立役者として東大教授になる人物である。後藤は、東大の建築学博士号を取得後、工学院大学の理事長となる。先輩には東大理学系の教授となる茅根創さん、東大で上代文学専門、大伴家持研究の第一人者となる鉄野昌弘さん、古代史を専門とされ東大史料編纂所の教授となる山口英男さんなど、今にして思えば錚々たるメンバーが集っていた。

才気あふれるクラブにおいて、とりわけ大津は、とんでもない抜群の知性を持った人間だった。父親はウラジミール・ナボコフやO・ヘンリーの翻訳者にして研究者・大津栄一郎という、本物のエスタブリッシュメントな家庭育ちである。驚くべきことに、彼にはまったく勉強や努力のあとが見えないのだが、開校以来とも言われるほどの秀才であった(悔しまぎれにひとつだけ自分が勝てたことを言わせてもらうと、野球だけは運動音痴な私のほうが上手かった。授業をサボ…

こうした面々と過ごすうち、私はリベラルアーツ、教養主義をこよなく是とするサロン的な心地よさを知ることになった。「自分は究極的には頭が悪い」という劣等感と、苦労してでも勉強をやりこなそうと頑張りながらも、心のどこかでは常に肯定を渇望していた気持ちを、ウェルカムと受け入れられたような気がした。  文学を読み、歴史を学び、自由闊達に語り合う。天才と凡才の彼我を突き付けられることこそあれ、…

その先生の授業というのは、一言でいえば、敗戦まで日本の歴史学に強い影響を与え続けた「皇国史観」の全否定であり、同時に、「唯物史観」を反映するような内容であった。

皇国史観とは、古代から現在に至るまで天皇の権威こそが連綿と続いていると捉える、万世一系の思想である。天皇に忠義を尽くした武士たちの「物語」の称揚を、唯物史観という武器を使って一刀両断する──そんな授業である。具体的には、社会上の近代的変化を測定する、近代化理論を牽引したエドウィン・オールドファザー・ライシャワーの著書が授業の副読本になるなど、私が「科学としての歴史学」に触れる端緒ともなった。

当時は「物語」からなる皇国史観的に近いドラマの歴史を好み、共産主義に共鳴もせず唯物史観に懐疑的だった私などは、どうしてもテストの成績が振るわなかった(この戦後歴史学のおおまかな流れについては、次章であらためて触れる)。

 本物のエスタブリッシュメントや教養を携えた仲間に恵まれたことで、自分の教養に対する「偽物」意識はどんどん加速した。そんな幼少時代をつらつらと書き連ねてきたが、若い人に向けて自分に言えることが少しでもあるとしたら、「自分には教養がない」とか「誇るべきものがない」とか、「社会の役に立たないかもしれない」とか、そんな恥や自意識が己の中にたとえ芽生えたとしても「それはそれでいいんじゃないか」という思いである。 「自分にはできないことがある」とはっきり自覚したからこそ始まる人生もある、ということだ。あの人にはできて、自分にはできない。わかった、それじゃあどうするか、という「どうするか」こそが本当に大事なのだと私は言いたい。立派でなくともいい。その人ならでは、みたいなオリジナルやスペシャルなんかなくてもいいのである。

そんなふうに考える私には、極端な話、反知性主義という在りかたも非常に分かる。知性的な人間に対するある種の恨み、ルサンチマンの発露というものも、これまた人間の 性 というか、自然ななりゆきのひとつだと思う。リベラルアーツなんて何? なんの役にも立たないよ、それよりもカネ儲けの方が大事だろう、という立場や気持ちもよく分かる。こうした方々が多勢を占める社会もよく分かる。

 怨望とは、他人を妬ましくうらやむ心のことである。自分が持たない才能、カネ、人脈などをうらやむ心をやめなさい、と福沢は説いた。この授業が我々に刺さった。級友たちの間でも怨望は流行語となり、「羨ましがるのはダサいよね」という雰囲気が横溢した。  他人をうらやむより、妬むより、正直に他人のすごさを享受し、高め合う。そうしたサロン的な風が、あのころの武蔵の空気にはたしかに流れていた。

世間をまるで知らないし、アルバイトなんてしたこともない。サークルに入るなどとんでもなく、帰宅部はおろか、自宅に閉じこもっては『水戸黄門』の再放送を眺めるばかりの暗い新入生生活が始まった。  キャンパスでは、これまでの価値観では立ち向かえない人びとが多勢であった。しかも私はお酒を一滴も飲めない完全下戸である。合コンを持ちかけられても帰りたさばかりが脳裏を占めた。時は1979年、サザン・オールスターズが『いとしのエリー』を歌った年である。軟派を決めこむか、「造反有理」の名のもとにゴリゴリの左翼的政治活動に身を捧げるか、という両極端が花形の世界であった。私にはどちらも無縁の世界だった。

「ところで本郷は歴史が得意だけど、それってどういうこと?」  訊かれた瞬間、喉が詰まった。分からなかった。友による悪意のない、むしろこちらに対して敬意をもって問われた言葉に、私は正面切って答えることができなかった。年号や出来事に通暁し、歴史に詳しいという状態は、実は単に「物知り博士」なだけではなかろうか。そんなものは、たいして評価されるものでも威張れるものでもないと自覚した。  自他ともに「歴史が得意」と認めてきた私だが、「歴史が得意」というのは具体的にはどのような状態を指すものか、考えるほど分からなくなった。「暗記が得意ってこと?」と助け舟も出されたのだが、意味としては違うと思った。

偉人伝を耽読した私にとっての歴史というのは、ごく少数の偉い人にのみフォーカスを合わせた、狭くて仰ぎ見るものだった。それは決して「みんな」のものではなかった。  石井先生が論文のなかで世に諭したように、歴史は一握りのエリートだけのものではない、「無用者」を含め、みんながいきいきと愉しく生きている時代こそ素晴らしい、という考え方に、恥ずかしながら私はこのとき初めて、しみじみと浸ることができたのだ。

特に美というものについて考えを改めた。美とは、そもそも「誰のための美」なのだろうか。そうか、みんなに美を分け与えられる状態こそ、まことの善ではないか、と思いつき、歴史の見方がガラリと変わるような気がした。そして何よりも、従来の「物語の面白さを一方的に味わう」歴史ではなく、歴史的な一つひとつの事実をもとに「誰のための」「どの視点に立った」歴史であるのかを深掘りして考える、ほんとうの歴史の面白さ、奥深さに出会ったような気がした。 「考える」というのはとても面白いことなのだ。

そして同時に、私は自分の来た道を振り返った。恵まれた子弟ばかりの麴町小学校、武蔵中高という閉じた世界のなかで育ち、多種多様な人生に触れる機会をほぼ持たずにここまで来てしまったが、それだけでは駄目なのだ、と痛烈に思わされた。

日本の歴史学の流れは四つの世代で分けると考えやすい。  第〇世代 皇国史観の歴史学  第一世代 マルクス主義史観の歴史学  第二世代 社会史 「四人組」の時代  第三世代 現在

たとえばこの時代の皇国史観の理論的支柱の一人だった 平泉 澄 先生は、土一揆、つまり室町時代に頻発した農民たちの反乱──を卒論のテーマにしたいと申し出た帝大の教え子に向かって「豚に歴史はありますか?」と発し、蔑視を向けたという逸話が残っている。これが軽はずみな言葉などではなく、皇国史観にもとづいた平泉先生の長年の考え方であったろうことは研究者ならばよく分かる。

老若男女を問わずに広く人口に 膾炙 する偉人たちの物語こそが重要であり、そもそも偉人になれないような人間など研究対象にさえならなかった。皇国史観の名のもとでは、豚は何頭いようが知ったことではなかったのだ。  実際、皇国史観が幅を利かせたこの時代には、民衆の歴史というものは存在しなかった。天皇を頂点として「万世一系」と現在まで繫がる歴史は、さかのぼると古代よりはるか昔、神の時代までたどり着く。では神の存在をどのように証明したのかといえばそういった方向性はとられず、「日本人ならば信じるしかない」という主旨のことを平泉先生は言っている。それはもはや学問ではなく、信仰であり宗教ではないか、と思うのだが、どうやらそういうことらしい。

 第二次世界大戦の敗戦を機に皇国史観はほぼ一掃され、それと同時に歴史学の世界でも唯物史観、マルクス主義的な色彩の濃い勢力が頭角を現すようになっていく。前章で述べたように、私の中学高校時代も左翼色の濃い人物が歴史の教師をつとめ「生産構造」「労働者」といった言葉を用いながら授業を行っていた。

マルクス主義的な歴史観とは、国家の経済を実質的に担っている労働者(下部構造) こそが歴史の主役であり、彼ら国民・民衆が団結して、いつか資本家や国家権力を打倒する日がやってくるのだと説く歴史の見方だ。

しかしながら、日本が本格的復興を果たし、高度成長期を迎えるあたりから、共産党、マルクス主義勢力の衰退がはじまり、石母田の歴史学に対する批判が行われるようになっていく(後に石母田は史的唯物論とは別の立場をとる研究者の学説を採り入れるようになったり、逆に史的唯物論系の歴史学者が石母田を批判するようになったりと、かなり複雑なことになっていくのだが、詳細は割愛する)。ここで強調しておきたいのは、石母田への批判から新しい学説や刺激的な論争が生まれ、次代の歴史学へつながっていったという事実である。石母田先生の論文や学説には数多くの批判が生まれることになったが、歴史学が発展する巨大な胚という役割も果たした。大学者というのはそういうものなのである。

史的唯物史観のような「初めに結論ありき」の、イデオロギーに近い立場の歴史学が徐々に衰退していくにつれて、東大・京大で行われていた実証主義的な歴史学が次第に勢力を盛り返していくことになる。言うまでもなくそれは、学生運動の挫折や新左翼の過激派化などによって国民の心が史的唯物論・マルクス主義から離反していったことと無関係ではない。つまり、歴史学とは、他の学問に比べて、非常に時代の空気や世の中の雰囲気に影響されやすい学問なのである(とりわけ日本人と歴史学にはそのような強い相関性があるのかもしれないが、紙幅の都合もあるので、また別の機会にじっくりと論じることにしたい)。

1973年のオイルショックを越えて日本がバブル景気を迎えたころ、「社会史」に注目が集まるようになる。社会史とは民衆を主役とする、名もなき人びとの歴史を実証的に分析したものである。かつて垂直だった歴史像をパラレルに、水平視する試みこそが当時の社会史であったといえよう。その主翼を担ったのが、歴史学界隈では「四人組」と称される網野善彦、私が教えを乞うた石井進、笠松宏至、そして勝俣鎭夫の各先生であった。  ことに、網野は戦後日本史学、第二のお祭りを担うスター研究者となる。1978年に『無縁・公界・楽』を著した網野は1970年代後半から2000年初頭まで文字どおり日本の歴史学界を牽引した。主に実証主義史学が扱ってこなかった分野を開拓し、まったく新しい歴史像を描きだしたと言える。現在の第三世代にあたる私たちが直接教わった恩師たちの時代でもあり、本書の第二章、第三章はこの時代のことを語っていくことになるので、網野先生、石井先生らを始めとするいくつかの話はこの後しばしば触れることにして、このあたりで再び、私の学生時代に話を戻そう。

 ところが中世はまったく違う。シンプルに言えば強い者勝ちの世界なのだ。強い者が勝つことが当然で、国などは弱者をまったく助けてくれないし頼りにならない。自力救済しかないのであった。  たとえば土地の権利書を持っている人間Aと、ただ力が強いだけで正当な権利などひとつも持たない人間Bがその土地の領有をめぐって戦った場合、強い者勝ちの中世の世界ではBが土地を強奪するケースが間々ある。この状態を幕府や朝廷などのお上は「Bが強くてその土地を治めているのならば、Bのものでいいよ」と正当化してしまうのだ。

私は驚いたが、その無茶苦茶さが妙に面白かった。現代の常識があてはまらないためにかえって柔軟な思考が必要とされるのは、逆に現代とは何かを教えてくれると考えたのだ。 「中世って面白いな。やってみるか」という気持ちになり、以降は中世を専門的に学ぶことにしたわけである。

再び脱線モードになるが、この桑山ゼミで私は後の妻であり、史料編纂所所長(つまり私の上司) となる小泉恵子に出会うことになった。桑山先生は彼女の能力を早くから買っており、彼女を指名のうえでしばしば発表させたが、私はその内容と読みの深さに感嘆した。ずっとホモソーシャルな狭い世界を生きてきた自分にとって、性別に関係なく学問について語り合える人がほんとうにこの世に実在した、という、殻を破ったばかりのヒヨコのような衝撃に近かった。  無用者として生きたいと願う、ある種の中二病をこじらせていた私に向かって、社会と関わりながら自分を食わせることの大切さを教えてくれたのも彼女であった。殻を破ったばかりのピヨピヨな私は、目の前で 潑剌 と社会を説く彼女を親鳥のように思ったのだろうか、ひと言にして、参ったのである。追いかけまわすような気持ちであったが、聡明な彼女には、恋愛感情などこれっぽっちもないようだった。

私がのちに非常勤講師として勤めることになる清泉女子大の 狐塚 裕 子 先生から伺った話だが、幕末も守備範囲である狐塚先生のもとには、卒論のテーマとして「坂本龍馬や新選組を扱いたい!」と前のめりにやってくる学生が大半を占めるという。現実には、坂本龍馬や新選組という存在は、ほぼ小説家・司馬 太郎の影響下にあるロマンの結晶ともいえ、多数の史料の精読を重ねるという学問の対象にしづらい。要するに史料が少なく、研究対象にならないのである。とはいえ、龍馬や土方歳三の物語にあこがれて歴史学を学ぼうとする熱心な学生を無下にしたくもない(私も彼らと同じような立場だったから気持ちはよくわかる)。このジレンマに狐塚先生は毎年のように頭を抱え、論文にまとめやすい対象を再検討するよう懇切丁寧に指導しているという。

頭脳明晰の頂点に立つ数学者という職業は二〇代が勝負だという話を聞いたことがある(都市伝説の類いかもしれないが)。三〇代を超えると頭が固くなり斬新な思考ができなくなる、というのがその理由らしいのだが、翻って歴史学者が六〇代や七〇代になっても仕事を続けられる、むしろ 齢 を重ねるほど大きな仕事を成す方々が多いのも人間社会においてじっくりと経験を積むからなのではないかと推察する(もっとも、偉そうにふんぞり返っていては歳をとる豊穣もないわけだが、それはまた別の次元の話であろう)。

最近の若い歴史研究者の中には、歴史上の人物の心の中や感情を忖度し、さもその人物の胸中を代弁するような発言をする方がいる。あえてオッサンの説教っぽいことを言わせてもらえば、そうした態度は歴史の研究者としてはとても危険である。歴史上の人物の心の中へ分け入り、「当時この人はこんなことを考えていたのだ」ということを語る──それは作家や文学研究者の仕事である。歴史学を研究する者の立ち入るべき場所ではない。

 頼朝はなぜ、弟の義経を討ったのか──俗に言われるように「実は弟が嫌いだった」の かもしれない し、「才能に嫉妬した」の かもしれない。「かもしれない」を否定はしないが、それらの説は人間の内面に踏み込む行為である。切り分けよう。  歴史学的に義経の死を捉えるのであれば、「なぜ義経は失敗してしまったのか」という点から考えを起こすべきである。これは義経が「何か」に失敗したからこそ兄に討たれてしまった、と考えるのが自然だからだ。

 自分が腹を痛めて産んだ男子二人を「殺した」のはなぜか──この鮮烈な事象には数々の見解がある。フェミニズムの論客でもある歴史学者の田端泰子先生は「政子は夫と共に作った鎌倉幕府を守るために、自分の子供たちを犠牲にして血の涙を流したのだ、私は政子という人間をとても尊敬する」という趣旨のことを踏み込んで書いている。  一方、母親が自分の子供を殺すというのはなかなか起こりがたい状況である点に着目し、政子は弟の義時や父の時政たちの意志に翻弄されてしまった哀れな女性だ、という理解を示す先生もいる。  私には両者の意見が極端に思えたものの、どちらも結局は「感情=個人の内面の話」になってしまうので、両方の学説ともに距離を置く立場をとっていた。

「学説」と呼べるレベルに達しているものはたった一つ、「四国説」しか存在しない。これは四国の長曾我部氏をめぐる信長と光秀の対立を指し、この対立が本能寺の変の遠因だったのでは──と古文書の史料をもって、後付けで説明することは可能だからだ。

それでも私は歴史学者としての良心を失うわけにはいかない。「人間の内面に踏み込まない」という厳密なルールを守っているので、信長に対して光秀がどう思っていたかなどという感情の話は語れない。光秀がどう思っていたのか、という点と、いかに行動したのか、という点はきちんと区別しなければルール違反だ。人の感情というのは「裏取り」ができない。証拠にならないものをいくら集めても、学説は作れないのである。

そして、それだからこそ私は、今日、歴史系のテレビ番組などに出演する際に、この「人間ドラマありき」なテレビというメディアや番組の特性を踏まえたうえで臨むようにしている。よく「あなたのような東大の先生が、あんないい加減なテレビに出て適当なことをしゃべっていいのか」「そんなに名前を売りたいか」などといったような批判をいただくことがある。

「大人になるということは、自分に詰め腹を切らせることだ」  保守思想家の西部邁の至言である。自分に詰め腹を切らせる、つまり、自身の顕示欲は後回しにし、自分を殺す=自分の意にそぐわないことでも時にはやらなくてはいけないことがあるのだ。それが大人の責任というものだ。

おそらく「自分を殺す」という作業は、さまざまな学問に常につきまとう。仏教芸術の美しさを学問的に表すならば、客観視と尺度の設定、言語化の作業が決定的に必要となる。「美しいから美しい」は学問ではない。それは優れたラーメンを評論する難しさにも似ている。おのおのの好みの味、ノスタルジー、立地に店主のあしらいに……それらをごく個人的な感想に落とし込むだけでは万人に開かれた評論にはならない。自分の好みはグッと押さえつつ、自分を殺して、客観的な尺度で言語化しながら評論を行う、そんなハードルの高さを想起させる。

 石井先生のカッコよさはそこにあった。深い博識を、決してひけらかすことがない。知識は力点を置くところでもなんでもなく、一つ一つの史実から、いかに考察していくか、そこが大事なのだと導いてくれた。そのカッコよさが私を打ちのめした(後述するように、石井先生とはその後いろいろあるのだが、少なくともその時点ではそう思った)。「歴史ってのはね、暗記や知識じゃない、考えることなんだよ」と言われているようだった。

「新しい事実を発見する」という、私が今まで歴史と捉えてきたものはいったいなんだったんだろうか。参考書をめくっては大量に暗記を重ねてきた、何年に何が起きた、何月に誰が死んだ、というオレが長年にわたって蓄積し続けてきた歴史的な知識の羅列はいったいなんだったんだろうか──。「うん、それはどうでもいいこと」だったのか。

石井先生の古参のお弟子で、史料編纂所の教授から國學院大學に移られた 千々 和 到 先生からも直接伺ったことがある。「いや~、今から考えると、石井先生こそ本当の意味でのリベラルだったんじゃないかな」と。私にはそれがとても染み入るようだった。周囲の大半がマルクス主義や革命に突き動かされているあの時代にあって、石井先生は民俗学のパイオニア、柳田國男のお弟子でもあった。きっと、先生は思われていただろう。歴史の主人公は源頼朝や織田信長ではない。名もなき個々の人間こそが歴史の主人公であるべきだし、そうした歴史こそが本当の歴史なのだ──と。

こうした大切なことを石井先生は、ことさら表向きにおっしゃる方ではなかった。ただ信念を持ち、学究に打ち込まれた方なのだと私は今になってひしひしと思う。 「真のリベラル」である石井先生は、なによりも、人を肩書や経歴などで区別しない方でもあった。やたら権威に強くて弱い学会の教授陣にあっては稀有な存在であった。

いまでも鮮明に覚えているのが、東大大学院の学費が破格に安かったことである。当時の学費は1年間で 14 万4000円、ひと月およそ1万2000円、1日あたりの「入場料」としても400円という激安ぶりであったのだ。ちなみに現在は 52 万円ほどかかるから……まあ……いい時代だったのだ。

 国文学者・折口信夫の説を引用した徳政令に関する論文が著名なのだが、正直私には歯も立たず読みこなせず、小泉恵子がいきいきと読むさまを驚きながら眺めたものだ。文章の巧拙を論じられるほどの先生で、私などは「論文に文章の上手い下手とは、文章力で誤魔化しているだけではないか」とまで思ったものだが、我ながら悔しまぎれとしか言いようがない。  このように才気の集合体として破格的な存在であったこれらの先生方は、私からすると、時には、やや、うさんくさい存在にも映った。彼らの主張には実証的な裏付けが少々足りないように見えることもあったからである。  特に構成力や惹句の力をお持ちの網野先生などは、肝心の実証はどこまで厳密なのだろうかと考えさせられるような一面をお持ちであった(余計なお世話かもしれないが)。

そんな不安を吹き飛ばすように活躍されたのが石井進先生である。東大日本史研究の大物教授であり、中世史研究の第一人者と呼ばれ、山川出版社の教科書に執筆して「定説を決める」ほどの権威をあえて活かした。網野先生の仕事を絶賛しながら、まるで太鼓をドンドンとたたくようなプロデュースに奔走されたのである。私から言わせれば、奔放な網野史学の手綱をしっかりと握りつつ、御者的な役割を果たしていたのが石井先生だったと思う。

 話を戻すと、史料編纂所の試験というのは、筆記による一次試験、論文審査および口頭試問の二次試験が用意されている。  一次試験は歴史の文書や史料について「どう読むべきか」「何が読み取れるのか」と問うものが多い。崩し字などではなく普通の活字で出題される。  たとえば裁判記録の史料が問題文の場合、「史料に登場するA氏とB氏はどのような関係にあるか」「勝訴したのはどちらか」などを答えさせ、根拠となる文言を探し出して記す、といった形である。根本的な国語力・読解力を問うものであり、ハッタリがきかない。子どもの頃からいかに読書をして、文章を読みこなす力を蓄えてきたかという地道な点が重要となるので、複数回受験しても、一次試験については結果がさほど変わらない。

ともあれ、こうして小泉に遅れること1年、私は博士課程2年で大学院を単位取得退学し、史料編纂所に入所、社会人としての修業時代をスタートさせることになる。ちなみに、もしも私が修士をダブることなく、博士課程に3年間在籍し、それから編纂所に入所していたのであれば、規則により基本給が1万円プラスされていた、ということを悔し紛れに申し上げておく。セコいなどと笑うなかれ。塵も積もれば山となる。三十余年の給料はもとより、基本給を基に計算される退職金にまで大きな影響を及ぼすのだ。

当時は「知識人は『左』でなければならない」というある種のムードが、研究室の総体を支配していたように思う。私自身は誰が右でも左でもとくだん構わないし、もちろん各人の政治や思想信条の自由は担保されるべきと思うものの、それを学問の世界に持ち込むのは違うと考えていた。  実は私は、大学院生時代に、「ゼミで政治的な運動をする方は出て行ってください」と追い出しを行ったことがあった。そういう方がけっこういたからであり、「学生運動はよそでやってくれ。ここは勉強する場所だ」という明確な意思表示だった。研究と政治思想の切り離しにおいて私の労は若干ながら現在に影響を与えているのではと思う。実際、それまではしばしばゼミや研究室がオルグの場所になっていたりしたのだが、私の代からは平穏であった。

 さて、そんな私が就職したのが、まさに「追い出したはずの『左』の方々」がずらりと待ち構える史料編纂所であった。  見知った顔を眺めて蒼ざめたのは言うまでもない。先述した入所試験の二次審査で、もしもこれらの先輩方が試験官であったら、即ハネられる可能性もあったのだ(幸いにも彼らはまだ助手であり、審査に加わる立場になかったことで難を逃れた)。  ヤバい。やっぱりオレは出世とは無縁な社会人生活を送るのだろうか──当時はそう思ったし、実際、昇進するには苦労をした。「ゴマをするなら先生ではなく先輩だ」と痛感したのであった。

テレビというのは、アカデミアとはまったく違う価値観で動いているわけで、それじゃあテレビによく出る研究者って、どんな理由で出てるんでしょう?  実は共通点があるんです。  一つ目は、大学など、職場に居場所がない人たち。  二つ目は、学問ができなくなって学会に居場所がない人たち。

『新・中世王権論』が世に出てからすぐに、文藝春秋、新潮社、講談社という3社の編集者から、ぜひ本を出して欲しいとオファーをもらい、続けて書籍を出す機会に恵まれた。世に出るきっかけを作ってくれた新人物往来社の担当を含め、この4社の最初の担当者については、心の底から命の恩人だと思っている。なぜなら、やる気を失いつつあった私を最初に認め、絶望の淵から救い出してくれた人たちだからだ。

「本郷よ、エリートではないお前は、エリートが羨ましくて仕方ないのだろう」 「お前は東国国家論の立場に立っているから、権門体制論が主流と唱える『京都』や『天皇』を攻撃したいのだろう」  そうかもしれない。  京都至上主義的なものに対して私が強く反発していたのは事実だ。「京都あっての天皇」という主張に、ある種の生得的な反感を覚えていたのかもしれない。そして、それは自分自身が、財産も世襲も何もない生まれ育ちであったことに起因していたかもしれない。  それでも、二つ言いたい。  その1 京都に焦点を合わせた定点観測では、生きた歴史像は浮かび上がらない。  その2 エリートの押し付ける歴史なんて××(2文字自粛) くらえ。私は本当の歴史を知りたいし、もっと多くの人びとに伝えていきたいのだ。

こういうことを書いていくと、どんどん「敵」が増えてしまいそうだが、あえてもう一点踏み込むと、日本の文系における大学教育の大きな特徴、すなわち「法学部の優越」といった要素も、歴史学に少なからぬ影響を与えているのではないかと思うことがある。「古代至上主義」「京都至上主義」と並んで「法学部至上主義」と言っていいかもしれない。

一部のエリートから押し付けられた単一の見方ではない、もっと生徒たち自身で歴史を考えてもらえるような理想的な教科書を創ろうと考えた。  私が教科書執筆に燃えた理由はもう一つあった。暗記重視のくだらない、つまらない教科書を変えてみせたいという切なる思いである。

日本史を教える現場にいる者として非常に残念に思うのは、今日の高校生の大半がどれほどまでに日本史を嫌っているか、さらには他の科目に比べて日本史をどれほど下に見ているか、ということだ。  たとえば、数学という科目は常に理論的だし高校数学において答えは一つである。常に1+1は2であるし、2+1は3になる、といった具合で、数学が好きな生徒はとことん好きになれる。代数であろうと幾何であろうと、もちろん公式などは暗記すべきものもあるが、あとは自分の力で解いていく。「できた!」と解決する喜び、がそこにはある。

「本郷先生、これは使えません。全部書き直してください」  原稿は高校の先生方から却下された。 「そんなに、つまらなかったんでしょうか」と驚いた私は彼らに問うと一刀両断された。 「いや、おもしろいんです、おもしろいんですけど、無駄が多すぎるんです」  さらに彼らは、こう続けた。 「僕たち高校の教員は、教科書に書いてあることは原則的に全部覚えなさい、と指導しています。本郷先生が書いたものは、生徒に考えさせようとするあまり無駄が多すぎる。つまり『全部覚えなさい』と、生徒に言えない原稿なんです。はっきり申し上げて、教科書としては不適切なので書き直してください」

とはいえ私も教育者のはしくれなので、彼らに言えることがあるとしたら、「知ってた? 実証! 実証! と叫ぶ者ほど、歴史学のセンスのない研究者が多いんだよ」という忠告ぐらいだろうか。彼らの多くは大学や大学院で実証作業だけをなんとか自分のモノにしたあと、そのまま残って研究を続ける。彼らにとって実証とは最先端であり、彼らの唯一の武器なのだ。一般の読み手と自分を分ける道具が実証しかないために、彼らは口をそろえて「司馬 太郎はバカだ」とかのたまう。「司馬は史料に基づいてない。実証がまったくわかってない」という理屈だ。しかし司馬 太郎ほどの力量があれば、ちょっと歴史研究のトレーニングを積めば、実証作業など軽々とこなしただろう。

 世に言う「愛国心は悪党の最後の砦」ではないが、「実証主義は愚かな研究者の最後の砦」だと考える次第である。  もちろん私は「実証」を真っ向から否定したいわけではない。単純に書き写ししかできない「悪い実証」もあれば、史料から得られる知見から思考と洞察を繰り返して形成される、本物の「良い実証」もある、という当たり前の主張をしたいだけなのだ。私が 謦咳 に接した「良い実証」実践者の代表格が前述したお二人──史料編纂所所長を務められた新田英治先生と、所長職を後継された百瀬今朝雄先生──である。

唯物史観は共産主義的、イデオロギー色の強い考え方だということもあり、そこまで染まりたくないな、という研究者も結構いた。唯物史観に対抗できるような新しい歴史観を構築できればよかったのだが、簡単なことではなかった。そこで彼らは明治以来の伝統を持つ、分厚い実証主義に戻っていくしかなかった──と現在の私は考えている。  だからこそ、唯物史観を超えるような新しい史観、歴史学が今こそ求められているのではないか。そのヒントは、私がこれまで論じてきた、幾多の実証を組み合わせ、分析して大きな構図を描き、新しい物語につながっていくような、そんな方法があるのではないか、従来の「調べる」だけの実証ではない「考える」実証もあるのではないか、と、これが最終的に私の申し上げたいことだ。

 私はカール・マルクスを非常に優秀な哲学者だと思うし、敬意も持っている。だが、共産主義には「人間の欲望」というパラメータが欠け落ちていたのが誤算だったのではないかと思う。妬み、 嫉みを含めた人間の欲望は果てしなく、人間の力を過信した共産主義の国家ではしばしば大規模な虐殺が起こった。 20 世紀でもっとも多くの人を殺めたのは毛沢東か、スターリンであろう。〝小物〟のポルポトですら180万人を殺してしまった。

 現在の学者に必要な資質とは何か。研究者としての(ある程度の) 実力はもちろんだが、それだけでは駄目だ。必要なのは、「競争的研究資金を得る」、つまり「自分は研究するために幾らのカネが必要だ」ということを胴元である文部科学省にうまくプレゼンテーションできる能力である。  そしてもう一点、「学校の内外で仲間をうまくつくれる能力」も大事なのだ。なぜなら、文科省は、「あなたの研究にはお仲間の先生がいますか」「お仲間の先生方は多様な大学から選んでいますか」といった点を重視するからである。どんなに優れた研究であっても、おそらく私一人が申し込んだところで話にならないし、東大の同じ部屋で研究をしている数人に「名前だけ貸して」といって申請しても即撥ねられる。

理系の先生方は長年にわたり、こうした研究費の獲得プロセスを当然のこととして運用してきたが、それは理系研究室の論理として受け入れやすい方法だったからだろう。言ってしまえば理系の先生方は、一人ひとりが研究室を経営する中小企業の社長のようなものだ。プロジェクトのリーダーは「じゃあ君はこの部分を担当して。あなたはこの実験ね。そっちの君はここを」といった具合に、分業の指示を出しつつ、連名で研究成果や論文をアウトプットする。大学院を出るときには、指導教授が就職の世話までしてくれる。あらかじめトップダウン型の組織が機能しているのだ。

昨今では文系の学問にも「何某のデータを集めたら報酬をいくら支払いますよ」という細かい仕組みができつつある。かくして研究一筋・一匹狼型の学者は次々と退場を余儀なくされ、学問の質もガラリと変わっていくことになる。

おまけに近年、歴史学は非常にダサい学問になっている。いまの時代は誰がどうみても歴史学が世にもてはやされているとは言い難い。その期待の低さは政府が歴史学全体に配分する予算にも露骨に表れていて、歴史学はどんどんカネを削られ、ポストを削られ、といった負のスパイラルに陥っている。  歴史学を愛し、歴史学に身を置く人間からしてみると、歴史学にはもっと頑張ってほしい。頑張ってほしいし、みんなに好きになってほしい。愛してほしいのだ。  ではどうしたらいいのか。  歴史学の魅力について、新しい枠組みをつくり、わかりやすく伝える、社会に還元するような人間が必要ではないか──それが私の出した結論だった。

たとえば、いま私が実に面白いと思っていることの一つが、「コテンラジオ」という歴史系ポッドキャストとの共同作業である。無類の世界史好きの若きビジネスパーソンで、「深い洞察力と人文知こそが私たちを救う」と考えている深井龍之介さんという方に注目している。彼は、歴史学こそ人文系の華であり、人間の諸問題は歴史が解決すると考えているので、ビジネスパーソン向けに歴史学にちなんだ有料コンテンツを配信している。彼のような起業家は、歴史学をマネタイズするノウハウを持っている(もちろん彼がカネの亡者であったら話は別だが、そういう人ではない)。たとえば、生活に苦労している若い歴史研究者に歴史資料の現代語訳、翻訳をしてもらい、私が歴史像に組み立てる。深井さんのような人が実社会に発信することでカネを生んだら、その利益を若い研究者たちに還元できる。世の中にも「もっと面白い歴史」がたくさん流通することになる。

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2024年06月16日

購入済み

歴史学者の偽らざる『告白』。

2023年11月読了。

著者は最近、テレビ等の媒体でもよくお見掛けするし、著作や連載等も楽しんできた一読者であった。
だから本書も「何か歴史学のトリビアが…?」くらいの気安さで読み始めたのだが、読んでビックリ!
これは、一人の日本史の歴史学者の嘘偽りない懺悔であり告白であり、尚且つ『このままでは歴史学が形骸化してしまう!』と云う告発の書ではないか!!

「歴史」特に「日本史」と云うものは、小説や漫画で読む分には楽しいものの、「学校の教科」として見れば《年号の暗記ばかりでちっとも楽しくない科目》であるのは、誰一人として否定しないと思う。実際「古文書等を調べて、コツコツと実証していく地味な学問」だと、自分も思っていた。
「司馬遼太郎らが書いてるのは大衆文学」等と研究者は背を向け、更に世の若者の探究心を削いでいる現状を見れば、一般市民が「研究者に期待すること」等も全く無いと思っていた。

しかし本書を読んで、著者の、いや本郷先生の《本気度》に触れて、いつの日か「日本の歴史観」がしっかりと地に根を張る日が来るのではないかと、心躍る様な気分で読み終えた。

本書は歴史書ではなく、歴史学者に依る「歴史観への挑戦布告」の書であると言いたい。

システマティックに予算配分したり、上の意向に沿って「英語とIT」を日本史研究のテーマに据えようと思っている文科官僚は、本書を読んで《自分達は国の税金を使って、一体何をしようとしているのか》を国民に正々堂々と説明出来るのか、良〜く考えて欲しい。

本書は『自分の国の歴史』への責任感を、しっかりと感じ取れる良書である。特に、若い人達には読んでいただきたい、

#笑える #アツい #共感する

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2023年11月04日

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歴史学者、本郷和人氏の自伝的エッセイ。

庶民の私から見たら本郷氏もどうみてもエリートなんだけれど、東大及び史料編纂所にはそれ以上の天才が数多いるらしく雲の上を垣間見ることができて面白い。

佐藤進一、網野義彦、石井進など20世紀を代表する歴史学者に対する本郷氏の印象や彼らとのエピソードも面白い。特に本郷氏が恩師であると自認している石井進氏に対する愛憎が入り混じったようなお話は面白く、名前しか知らなかった歴史学の権威の人間臭さを知れて良かった。

皇国史観を代表する歴史学者、平泉澄の名言「豚に歴史はありますか?」はとても衝撃的であり、歴史に対する考え方は世相や時代に反映されているというくだりを読んだときは、E.H.カーの『歴史とは何か』を想起した。史料編纂所の所員でありながら「実証への疑念」「史料への疑念」を呈する本郷氏の姿勢も同様にそれを想起させる。

歴史及び歴史学に対して興味をそそらせる良い本だった。

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2023年01月22日

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本郷和人さんは「世界一受けたい授業」で初めて拝見した時にアイドルの高城亜樹さん推しという妙なキャラで軽く引いていた(アイドル推しに引いたのではなく番組見たらわかるよ)のだが、東大教授なのだから当たり前だがガチ中のガチの人だな

高校歴史教科書を変えようとしたり

引用
「非常勤残酷物語」とか言うが、私から言わせれば、学問の一定のレベルに達していない人間が大学に残ろうとしてもそれはうまくいくはずがないよ、ということであり
本来は、指導する先生が研究者として見込みがない人間に対してはリスクについて説明した上で「君は実社会で頑張ったほうがいい」などと引導を渡すべきなのだ。大学の方針だからといって、自分の可愛い教え子を貧困のどん底に落としてどうする。
引用終わり

言うねー帯にある「ぜんぶ、言っちゃうね。」って大抵こけおどしなのだけど本書は言っちゃってる。上記は序の口で歴史学の根本についても言っちゃってる。
目の離せない人だ。

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2022年12月04日

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見城徹の「編集者という病」を想起させるタイトル。

日本の文系の学問というと師弟関係や学会の定説にがんじがらめ、というイメージだがその例にもれない歴史学について「そこまで言っていいのか」というところまで踏み込んだ一書。

 皇国史観主義が敗戦により一挙にマルクス主義的な視点にふれた。著者は「どちらでもない、新たな分析主観が必要、もうその時期に差し掛かっている」とする。

 著者は東大史料編纂所の本郷和人氏。

 東大史料編纂所は国学者の塙保己一により設立された組織で日本の国試編纂を100年以上続けている。日本書紀など六国史以来編纂されていない、日本国史編纂を目的とし地道な作業を続けている。一部刊行されたものがあるがこのペースだと完成まであと800年かかる、という。こんな大事業が静かに進んでいたことに驚愕。

 崩し字を読み、現代文に直すことが歴史学ではない、と明確に切り捨てる。埋もれていた古文書を読み解き、その時代に光を当てる、磯田道史氏のような活動も無意味とは思わないが、本郷氏から見れば、

 「古文書を読み、読み解き、それらを再構成して歴史の本当の姿を浮かび上がらせる」ことこそが本来の、そしてこれからの歴史学。

 歴史学の泰斗たちの短評が散りばめられ、本書は歴史学会に大きな影響を及ぼしたのではないか。

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2022年11月17日

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ネタバレ

個人的には大変面白い。
誰もが面白いと感じられるかは疑問符がつく。

興味を持って面白いと思う人は以下のような方であろうか。

・歴史に興味があり、これから歴史学を志す人
・大学で歴史をかじった人
・過去、歴史学を履修したことがある人
・蛸壺のような学会政治に興味がある人

まず、歴史学と歴史は全く別物と認識する必要がある。

歴史学科に入った時の違和感は以下に代表される。
三国志、戦国時代、幕末が好きなのに自分の好きな○○は研究対象にならないということである。

歴史は物語であり、歴史学は実証を元に構造化するということである。

とはいえ、歴史学も物語主義と実証主義かという2つの軸のバランスで学会は成り立っている。
学会は古文書などを元にした実証主義が大勢をしめ、実証主義もただ資料を現代語訳するだけ
となっているという実勢に批判が入っている。

現代までの歴史学の流れは以下になっているという。

1皇国史観の歴史学 (主な学者 平泉澄) 
2マルクス主義、唯物史観の歴史学 (主な学者 石母田正) 
3社会学史的アプローチの歴史学(主な学者 網野善彦 佐藤進 勝俣鎮夫 笠松宏至)

90年代の歴史学は唯物史観は影を潜め、網野史学を代表とするアナール学派が評判となっていた。
歴史学は抽象化、構造化が苦手な性質をもっており、社会学のフレームワークを持ってきて結論ありき
実証は後回しの状況には危惧をしていた。
網野史学への違和感は民衆は平和や自由を追い求めるという面をクローズアップするあまり、
結論に実証を紐づけるきらいがあった。
(極端な話 学会の趨勢がマルクス主義が社会学史に置き換わったような印象もあった)

歴史学は資料をもとにした実証的すぎる立場(物語性なし)、ある立場にしたがった物語的歴史学(実証少なめ)
どちらかに偏っていたように思う。

筆者は以下の手順を取って歴史学を論じるべきといっているように思う。

資料を元にした事実の確認→事実を元にした他の資料との整合性の確認→抽象化・帰納化→解釈

上記のような考えであれば統一理論的な解決はできないと思われる。
ボトムアップ的な考えで、「この条件であればこうという」「この考えは全体の一部」という
歯切れの悪い結論となると思われる。
しかし、ビジネス界隈では当然用いられる手法であり、歴史学でも取り入れられてしかるべきである。

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2022年09月04日

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どうやって東大生になったのか、幼少期から先生のことが語られていて非常に興味深かったです。

先生がなぜテレビによく出演されているのかが、楽しかったです。

そして、歴史を丸暗記科目にしてしまった理由。私は歴史を学ぶ前に、面白い歴史本に出会っていたから、歴史が好きになったんですよね。
受験科目から歴史をなくすのは面白いけれど、そうなると確実に歴史の授業が消えますね。それは悲しい。
では、どうすればいいか?
東大型の入試にすればいいとは思うけど。
そうなると、採点が大変ですよね。

と、やはり解決策は見当たらず。

ひとまずは、本郷先生が頑張ってテレビに出演されたり、本を執筆されることで、歴史の楽しさを教えてください!

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2025年05月28日

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著者の自伝として読みながら、歴史を扱うとはどういう事かを知ることができる。
時代が変われば歴史も変わるという話は、イギリスの産業革命の有無がイギリスの景気で変わるという話と近い物があって面白い。
歴史において真実の情報だけを集めること、そこからつなげて叙述を作り出すこと。このせめぎ合いがとても難しいバランスで安易に新しい発見や面白い解釈を信じてしまう自分としては気をつけねばと思った。

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2023年10月30日

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すごく面白い。

いつのまにか学問は、「研究」ではなく「仕事」になっている。実証にこだわるあまり、考えなくなっている。あらゆるところで、アレントが言う「行為」の空間は削られているのだ!

そこに危機感を持って、素朴に社会へ発信しようとする著者の公共精神にしびれる。現代の知識人とは、大学の研究者のことではない。著者のような「社会のために」をしっかりと考えてきた知の担い手のことである。

東京・亀有の大家族に生まれたという生い立ちの振り返りからして面白い。戦後歴史学のおよその流れとして、第〇世代「皇国史観の歴史学」、第一世代「マルクス主義史観の歴史学」、第二世代「社会史「四人組の時代」」、第四世代「現在」というまとめも、実に分かりやすい。著者の歩んだ研究者人生と、戦後歴史学とがクロスして、実感として頭に入ってくる。

ある程度やり遂げた40代。仲間作りを始めるといったくだり。実によく分かる。業界のマウント取りが、ばからしくなるころだ。気づくと周りは、その特定の業界や組織の論理を反復するだけで、考えなくなっている。くだらない。著者の怒りはよく分かる。京都定点観測の歴史像、エリートの押し付ける歴史への批判(p183)なんかも、実に共感できる。

著者が体験した教科書づくり。「暗記」の脱却を目指す試みは見事に挫折。結局は先例にならったものができあがる。なぜか? ことはそう簡単ではないからだ。教科書は高校の先生が扱う。高校の先生には生徒を合格させるというミッションがある。そして大学受験は「暗記」でできている。そう、戦う相手は日本の教育システム全体だったのだ!

実証をめぐる著者の思い。ただ上から下へ自動的に落ちるような作業を「牛のよだれ」(p196)と痛烈に批判するが、結局、研究という知的行為も、いつのまにか自動的な「労働」に成り下がっている!!調べるだけで「考える」がないのだ(p202)

といって網野史観への指摘もバランスがいい(p210)。神聖視するのも間違っているが、民衆を持ち上げすぎるのもどうか、と。

最後。「あなたが居座ろうと思っている今の歴史学界隈はこのまま存続できると思ってますか?」)(p220)この指摘は重い。
いつのまにか、居座っている人たちが多い。その人たちはいつまでも更新しない。外とつながろうとしない。だからこそ、著者のような存在が際立つ。研究者や、あるいは、ある程度年を重ねた社会人は、本書を読んで、自らの行為がここでいう「研究」ではなく「仕事」に置き換わっていないか、自問すべきだろう。名著。

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2023年05月16日

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「半生記にして反省の記」という帯のノリにどれくらい乗っかって良いものか・・・
前半はご自分の生い立ちや学生時代などをユーモアを交えて書かれているが、終盤に近づくにつれてマジになり、専門的な話になり、私の頭脳では消化できなくなってくる。
(まあ、頭脳は消化器官ではないわけだが)

本郷先生は、時々テレビにも出演されているから顔と名前が一致する学者さんで、とても面白い方だということも分かっている。
「東京大学資料編纂室」という肩書きも知っていたが、そこが何をするところなのか知らなかった。
たとえば誰もが知っている「日本書紀」みたいな歴史書を編纂しているのだという。
驚いた。
そして、そこでの上司が奥様であり、本郷先生がどれだけ奥様を尊敬していらっしゃるのかも分かった。

歴史は、理系のように答えがはっきり出るものではなく、時代や研究者によって考え方が違ってしまうのだという。
例えば、戦前までの「皇国史観」
印象的だったのは、皇国史観ゴリゴリのとある先生が、農民一揆をテーマに卒論を書きたいと言って来た教え子に「豚に歴史はありますか」と言い放ったということ。
歴史はエリートのものだというのだ。
逆に、歴史は名もなき人々のものだという考えの先生もいる。
なかなか難しい。
いろんな先生たちのことを書きすぎている気がするが大丈夫なのか(笑)

資料があって、それを研究して、「考える」ということが必要なのに、試験で良い点を取るためには「暗記さえすればいい」と言われ、つまらない科目だと思われているのが悔しいという。
歴史学はどんどん研究予算も削られている。
テレビに出たりするのは、歴史学の魅力をもっと広く知らしめたい、という動機らしい。
私たち市井の歴史好きは、十分楽しませていただいているけれど、もっと上つ方にアピールできないと、予算にはつながらないんでしょうねえ・・・

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2023年01月19日

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大学で歴史学を学んでいた者にとって、歴史学の奥深さ、闇深さを感じて面白かった。物語ではない科学としての歴史、実証史学とはなにか。歴史を研究するということの意味について考えることができる。①一つの国家としての日本は本当だろうか、②実証への疑念、③唯物史観を超えていく。の3つの柱は興味深い。

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2023年01月09日

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ブタに歴史はありますか? なんたるパワーワード!
平泉澄、ヤベェな。
それはさて置き、本筋は以下。
まるで熱血実証史学者群雄伝だね。
戦前の皇国史観との抗争と敗北から始まり、戦後の唯物史観の隆盛と崩壊、そして今も続く訓詁学的実証史学原理主義者との内ゲバ的な闘争が、魅力的な史学者達のキャラクターとともに物語られる。
私達の愛読する歴史小説や歴史本の参考文献に列記されてる、名前だけはお馴染みの、あの学術書群の著者達の、歴史です。
歴史好きのキミ!面白いから読んどきな♪
今までと違う角度で読書が進むこと間違いないから。

そして、何者でも無かった私達と同じような歴ヲタ少年が、いかにして実証史学のプロフェッショナル(プロフェッサーともいふ)を志し、惑い躓き、それでも歩み続け、ついに己の天命(←ヒストリカルコミュニケーター)を知るに至ったか。
そんな素敵なビルドゥングスロマンにもなってる。
一粒で2度美味しくコスパ最高ね。
あの石井進教授との愛憎半ばする師弟関係なんて、雑魚からすると『あんな先生、いなかったなぁ』と羨ましい限り。

ところで、本書の著者の本郷和人教授は 逃げ上手の若君(松井優征:暗殺教室) や 新九郎奔る(ゆうきまさみ:究極超人あ~る) や 雪花の虎(東村アキコ:海月姫) の監修をされてる事を今さっき知りまして、もちろん雑魚も愛読してまして、もしや昨今のメジャー誌界隈での歴史漫画のプチブームの仕掛け人は本郷教授であったかと思い至った訳で。
史学復興計画、順調みたいですね♪

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2023年01月09日

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実証の位置付け等から考える、本郷版の「歴史とは何か」。

筆者の自伝的な内容。生い立ちから歴史との関わり合い、そして現在に至るまで。日本史学界を時に強く批判しつつ、筆者の思想の遍歴から、歴史とは何かを考える。

ちょっと筆者の他の作品と毛色が違うので、単なる歴史マニア受けはしないかもしれない。

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2022年12月26日

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「歴史学ほど時代に流されやすい学問はない」「実証主義と単純実証主義は断じて違う」・・・・人気歴史学者の半生記にして反省の記。

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2022年10月31日

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ネタバレ

「第二章 『大好きな歴史』との訣別」pp.93-94より
 学説を大切にしながら、ものの見方というものは非常に純粋でなければならない。ブレてはいけないし、不純物が混じってはいけない。その一事を肝に銘じ、自分はその一点をきちんと踏まえられる人間だ、自分に詰め腹を切らせることができる人間だ、という一点に自信を持てた人間こそ、「私はこう思う」と伝える資格をもつ。

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2022年10月09日

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著者は、磯田道史と同様によくTVに出演する東大史料編纂所の教授で、東大教授らしからぬヌーボーとした雰囲気で人気があるようだ。
「歴史学者という病」という仰々しいタイトルや、表紙の深刻そうな著者の顔とは裏腹に比較的軽い感じで読み進められる。

内容は著者の半生記とそれに絡めて、東大(というか日本の)歴史学の流れが述べられている。その中でのメインテーマは、「歴史を研究するということの意味について考える」という硬派のものであるが、そこへ時おり、大学院時代に奥さんに惚れ込んだ話や、現在の自分の上司が奥さんという自虐ネタを織り込んだりして、硬軟織り交ぜ内容を柔らかくもみほぐして読みやすい内容に仕上げている。

日本では、飛鳥・奈良・平安の3時代にかけ、時の律令政府の手によって「日本書紀(720年)」を始め、6つの国史が編纂・作成された。
その後の日本ではずっと国史の編纂が行われなかった。具体的には、宇多天皇が即位する887年から、幕末の1867年までを対象とする約980年間の国史はなく、明治34年以降、東大ではその間の日本の歴史をまとめようという壮大なプロジェクトが行われている。それを行っているのが、著者の所属する東大史料編纂所である。

その東大の歴史編纂の中で、時代により歴史の見方の変遷があり、著者は明治以降の歴史学の流れを四つの世代に分けている。  
第0世代 皇国史観の歴史学  
第一世代 マルクス主義史観の歴史学  
第二世代 社会史「四人組」の時代(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫)
第三世代 現在
そして第三世代の現代では、「実証主義」オンリーで、思考停止になっているとの批判が渦巻いている。

また現在の学者に必要な資質とは何かというと、研究者としての実力はもちろんだが、それだけでは駄目だめで、必要なのは、文部科学省を始めとして各方面から「競争的研究資金を得る」能力だという。
これは歴史学だけの問題ではなく、どの分野の研究者にも関係することだろうけど、歴史学は、古文書を隈なく調べ「正解がない」地道な学問で、成果の見えにくさはやはりあるのだろう。
それにしても近年目にするのは、歴史学者の呉座勇一や與那覇潤等がSNS上で炎上したり、それが元で呉座は職場から追放されたりと(個人的な資質かも知れないが)、ストレスの多い仕事なのかなとも思ってしまう。

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2022年10月07日

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遠藤誠という白髪混じりの豊かな黒髪を無造作に撫でつけた文士然とした弁護士がいた。帝銀事件の弁護団長や『ゆきゆきて、進軍』の奥崎謙三の弁護人、山口組の顧問弁護士を務めた。その遠藤氏が〈右翼と左翼の違い〉について語った記事を、確か『噂の真相』で読んだ記憶がある。

〈右翼は先の戦争を聖戦と見なし、左翼は侵略戦争とみなす〉。明快な見解を述べるご本人はバリバリのマルクス主義者。またイデオロギーの対極にあるヤクザや右翼団体の弁護も請負った。その理由は『同じ反体制だから…』。渾沌と信念が同居してるような方だった。

…そんなことを、ページを繰りながら古い記憶が蘇った。自国の歴史についての見解についてもしかり。学者の立ち位置によって異なる。日本史教科書の近現代史の記述なんて、その最たるもの。必ず自虐史観か否かが議論され、そもそもニュートラルがどこにあるかさえ定めきれずの状態で、どちらかに偏るのは致し方ないにもかかわらず、右派は口角泡飛ばし、しばらく不毛な議論が展開される。

私見を述べるなら、近現代史においては右派と左派の教科書を見比べながら学ぶのがいいんでは。どう判断するかは学ぶ側が決める。

まぁ、現代史は大学受験にほとんど出題されないし、相変わらず卑弥呼から順番に辿り、タイムオーバーは必至。こと〈受験の日本史〉であれば山川の教科書1冊で事足りる。

〈教養としての日本史〉教育に重きを置くのなら見解の相違をありのままに提示し、歴史学の複雑さを知る上でもプラスだと思う。

さて、本書。
学者というのは、研究する分野において膨大な資料を渉漁し、フィールドワークや実験を行い、その一連の行為を通して浮かび上がった事実を繋ぎ合わせ、ある仮説を立てる…というのが理系文系問わず共通する姿と思っていた。

しかしながら、本書で語られる『歴史学者』は、必ずしもそうとは限らないんですな。

このことが、本書の主題『歴史学者という病』に繋がる。現在では〈歴史学は科学〉と認識され、資料をひたすら読み込み、事実のみを拾い出す『実証』がメインストリーム。

ただ、そこに至るまで日本の歴史学は時代の波に翻弄され続けてきた。戦前は皇国史観オンリー、敗戦後は唯物史観(マルクス主義史観)がニューウェーブ。そんな変遷を経て実証史学主観に至る。

それだけあちこちにうつろう史観に学者たちも浮沈の憂き目に遭う。国史って実体がありそうでいて、 その実、かなり相対的で振り幅の大きい不安定な学問であることを知り、驚く。

著者は実証史学に対し疑問を目を向ける。資料資料と言うが、そもそも恣意的に作られたものが多く、そこに解釈に様々な考えが入り交じる現実から、著者は事実から仮説を導く演繹的解析を行う手法を採用。

また実証主義学者は『司馬遼太郎はバカだ!』と宣う。理由は司馬遼太郎は資料に基づいておらず実証がまったくわかっていないから。

確かに司馬史観については意見は分かれるが、司馬遼太郎は執筆となれば、神保町の古書店からある特定分野の書物が払底すると言われるぐらい資料収集は徹底。

作家は集めた材料を発酵熟成させ、歴史小説に仕立て上げるのが仕事…と、学者は見なさず偏狭な意見を垂れる。このあたり『象牙の塔』と揶揄される所以ですな。司馬遼太郎や山岡荘八らの数多の作品は冒険活劇の匂いを放つものもあるが、それが歴史好きを産んだのは紛れない事実。

著者も偉人たちに通底する歴史ロマンを愛し、偉人伝に心を揺さぶられてきたひとりであるが、東大で国史を専攻するうちに、自身が信奉してきた『物語の歴史』と訣別しなければならず、科学としての実証史学を突きつけられ、葛藤と懊悩の結果、『正統な歴史学のメソッドを体得する!』という方向に大きく舵を切る。

具体的には、こつこつと『史実』を復元し、復元された史実をいくつも並べ、俯瞰する『史像』を導き集積した史像からの『史観』という歴史の見方を生み出していく。史実という土台が堅固であれば、史像や史観ならば、それは実証史学の範疇であると。

著者は3年後に東大資料編纂所教授の定年を迎える。現在の心境は、歴史学は今やダサい学問になり下り、依然として、受験の日本史が数多くの歴史嫌いを大量生産していると嘆き、憂う。

はたして、自分に出来ることは?
その命題に対し歴史学という学問の魅力をわかりやすく伝える、『ヒストリカル・コミュニケーター』になろうと誓い、次々と歴史解説本を上梓し、テレビに出演し、すでに活動を開始。

本書は私家版『私の履歴書』である。大好きな歴史学に身を置いたものの、現実との乖離を思い知らされ、自意識をかなぐり捨て、正統な歴史学のメソッドを体得するまでの長い旅路を描く。

半生記でありながら反省記でもあり、軋轢・衝突・失態を通して得た成長物語としても読める好著。

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2022年10月01日

Posted by ブクログ

<目次>
はじめに
第1章  「無用者」にあこがれて
第2章  「大好きな歴史」との訣別
第3章  ホラ吹きと実証主義
第4章  歴史学者になるということ
おわりに

<内容>
歴史学者・本郷和人の半生記。彼は近年やたらと教養書を書いている(一方で研究書は少ない、というかかなり少ない)。まあ、東大教授と言っても史料編纂所の教授なので、通常の学者とは少し違うのだろうが、異端と言ってよい。「なんで?」という疑問も含めて読んでみた。自分も歴史好きから文学部史学科に入った口なので、大学入学時の話はうなずけた。彼はとても優秀な感じなので、そこを乗り越えられたわけだが、今の異端の位置に就くまでの過程も面白かった。学界の様子も垣間見られ、どこも役立たずがのさばっている様子が分かった。その職場で生きていくに必要な能力のある者は少なく、意外とそういう人がその職場を引っ張ることもない。彼のような強心臓?ならば、意に関せず(たぶん結構のストレスだと思うが)に我が道を行けるのだろうが…。歴史学界の「実証主義」の行き過ぎ(むろんきちんとした史料の読み解きは必須なのだが、そこから先が「歴史」なのだと自分も思う)の弊害を説いている。こうした本を書かざろうえないところに、歴史学界のみならず、日本全体の衰退が感じられた。

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2022年08月28日

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ネタバレ

学問的な新書ではないから、こんなことを言うのもどうかと思うが、オビのような要約は果たして意味があるのだろうか。これは「奥も闇も深い」ことを支えているのか?
 
 史学の学者の回想記といえば良いのだろうが、できれば最後に示されている3点について、新たな新書を一冊と望む。
 ①「一つの国家としての日本」は本当だろうか。
 ②実証への疑念
 ③唯物史観を超えていく

 第四章が一番学ぶところが大きい。 
 調べることと、考えることは違うということも再認識する。

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2022年08月19日

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今回は歴史の話もあったけど、学者としての裏話というか業界に入った経緯も含めた1冊で、それなりに面白かった。この手の道を選択しなくてよかった。真理の追求は「面白い」だけではやっていけない。

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2023年05月28日

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筆者自身の経験から語っているので、さらっと読めるし、面白い。しかし、内容は実は深い。物語としての歴史と、科学としての歴史。歴史における実証とは。恥ずかしながら初めて理解できた。大学で学問としての歴史をしたいと志す高校生が読むのにも適しているのではないか。

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2023年04月30日

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本郷先生の個人史かつ戦後の日本史学の流れの概観といった趣の本だが、歴史好き(物語好き)と歴史学(実証主義)との違いなど、意外に知らないプロとアマの違いなども分かり、面白かった。

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2022年12月14日

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