あらすじ
経営コンサルタントとして数多くの企業、経営者と対話を続けてきた著者が語る経営者論。会社という「迷宮」から、経営者はいかにして自由になればよいのか。「戦略」「組織」「M&A」など、聞きなれたビジネス用語の本質を解説しながら、そのヒントを探る一冊。
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Posted by ブクログ
特にJTCの経営層に読んでもらいたいと思った名著。自分が経営層に抱えているモヤモヤを言語化してくれたように思える。
経営コンサルタントは会社という法人の医者とでも表現すべき存在かもしれないが、バブル崩壊後の失われた20年で急速に増殖したのは、経営者が自信や指針を見失っているからに他ならない。俺がコンサル嫌いなのも、老人の医者嫌いと同じで、自分で考えて自分で答えを出すプロセスに意義や意味を見出しているからかもしれない。市場(しじょう)分析とは既存事業の売上高等の情報の寄せ集めに過ぎず、経営者が見るべきなのは市場(いちば)である。雑多なものとの出会いが市場にはあり、経営者は独自の視点でその雑多性から新しい価値を見出すことが仕事である。
会社は利益を求めるだけの存在になると、その存在意義を失ってしまう。古来からの「社格(なぜその会社が存在しているのか)」に株式会社という西洋由来の外皮を纏って強化されるはずが、いつしか外皮が目的化して抜け殻になってしまった。
日本の心理学者の河合隼雄の提唱した、「組織の中空構造」が印象に残る。古事記まで遡り日本の組織のあり方を研究したもので、西洋のリーダーシップと日本は異なり、中心となるようなリーダーシップは存在しないとした。中心にリーダーがいるのではなく、周縁部にパワーが分散しており、組織内で対立する組織があっても、中空構造がバランスを取る事ができるとの事。納得感ある。
人材育成の話がされていた。ダイバーシティというが、その本質は「人の活かし方の多様性」であって、人材そのものの多様性ではない、という記述が印象に残る。ノーベル物理学賞受賞者、江崎玲於奈の「私の履歴書」での言葉も印象に残る。どういう環境で革新的な研究開発が生まれるか、という問いに対して、創造力はあくまでも個人の創発によるものであるとして、それを妨害しないマネジメントが前提にある、としている。
Posted by ブクログ
ものすごい本です。
経営論ではなく経営者論。
重厚かつ哲学的。
何度も何度も読み返すことになると思います。
パーパスやSDGsなどの流行り言葉に踊らされる
ことなく、本質を見極めて参りましょう、です。
僕は需要なページは折るクセがあるのですが
折り過ぎて本が変な形に。
それくらい大切なことが書かれています。
Posted by ブクログ
「会社」にはさまざまなステークホルダー(利害関係者)がいるが、その異なる利害がただ異なるままでは、一つの有機体として「行き先」を持つ「会社」にはならない。しかし、その異なる利害を束ねてまとめる「会社さん」という抽象的人間などいるはずもなく、代わってそれができる存在は、「経営者」以外にはいないのである。
利害を束ねるとは、単に平均値を取ったり、最大公約数を見出すというような利害調整のことではない。その意味では、民主主義的な考え方で、文字通り合議制や多数決で経営ができるなどというのは幻想に過ぎない。国家の政治ならばそこで主権の奪い合いということになるのだろうが、国家と異なり「会社」の場合には、社員にも株主にも取引先にも参入・退出の自由がある。してみれば、利害関係者が自由意思で凝集できるような求心力ある太く力強い柱を立てることこそ、利害を束ねるための唯一の方法なのである。「この指とまれ」の主宰人物となるということである。それが「経営者」の本来の仕事であり、彼が描くべきその太く力強い柱こそ、その「会社」の「行き先」に他ならない。それはその「会社」がめざす「価値」と言い換えてもよい。「会社は経営者の器以上に大きくなることはない」と昔からいわれてきたが、その真意もここにある。
改めて原点に立ち返れば、「会社」とは競争するために生まれてきたものではない。せいぜい言うとしても、こめられた夢や志を体現するために、競争しなければならなくなった、というだけの話なのである。その逆ではない。たとえ、日々どれだけ競争に翻弄され、敗北すれば死の危険に晒されている現実があったとしても、それはめざすものがあるからである。それを、気づかぬうちにそっと本末転倒させてしまったのは、まさに悪魔の所業であった。
「経営者」はもう一度、悪魔から「経営」をその手に取り戻さなければならないのだ。
先にも述べたように、戦略論として分析的に語られるものは、本来すべて事後的なものなのである。ある意味でそれを筋道立てるのは、歴史家(もしくは経営学者)の仕事ともいえる。一方、それは事前においては、現実に目の前で進行する歴史的時間の中での未来に向けた構想、つまりは「こうすればうまくいくであろう」という行動の仮説として、常に、内に秘められているものであって当然である。
事後に論理的に説明されるものは、事前においては過去から未来に向けた現実の歴史的時間の中に置かれた仮説なのである。仮説という言葉がやや矮小に聞こえるとすれば、先ほどの言葉通り、(戦略的に思考された)「構想」と言い換えてもよい。「仮説構築力」などというとスタッフ次元の話に聞こえてしまうので、経営者の場合にはまさに「構想力」と呼んだほうが的確であろう。そしてそれは、「確信」と「意志」に支えられたものでなければならない。
事後的に分析し説明される「戦略」と、現実の時間の中で事前に「構想」される「戦略」との根本的な違いは、前者は広く共有されるべくわかりやすく論理立てて説明されるものであるのに対して、後者は未知で複雑な可能性を持つ将来に向けた仮説であって本源的にわかりにくいものであるという、当たり前のことである。しかし、この当たり前についての認識の溝は、思いの外、深い。
将来に向けた仮説が、業界や市場の現実に深く根差した大局観の下、豊かな発想力に支えられ、そしてよく考え抜かれ、ユニークなものになっていればいるほど、それだけ他人にはわかりにくくなるのである。優れた「戦略」であればあるほど、わかりにくい。先述の経営者の「わかってもらえない」という述懐は、このことを言っている。
真実はシンプルであるとか、よく考え抜かれたことは誰にでもわかりやすい、などというのは、前者のような事後的な整理の次元の話である。もし優れた未来構想としての「戦略」がわかりやすいとすれば、それは同じくらいよく考えた人にとってだけであろう。そういう人にとっては、思わず膝を打って「そうだ」と快哉を叫びたくなるかもしれない。
そう、極論すれば「戦略」とは、そもそも説明できないものなのである。説明できないからこそ(わかりにくいからこそ)「戦略」であるといってもよい。わかりやすい「戦略」などというのは、言語矛盾なのである。
どんなに時流に乗っている事業でも、「誰でもできること」「他社のほうがうまくできそうなこと」であれば、たまたま目先を利かしていち早く手がけたとしても、早晩、他社から追いつき追い越され、場合によってはひどい痛手を被ることになる。特に、あるときから土地神話を妄信して自社の本分を錯覚し、その後のバブル崩壊を境に没落した会社などは、その顕著な例であろう。J・P・モルガンは、「隣人が金持ちになるのを目の当たりにすることほど、人の判断を暴力的に歪めるものは他にない」と百年以上前に喝破していたが、まさにそれを地で行ってしまったことになる。しかし、このような外部からの圧力や誘惑はいつでも存在し、たとえ経営者自身の本意ではなくても、結果として自社の本分を「貫く」ことができなくなってしまうということもしばしば起こる。長寿企業には、外部の圧力から比較的自由な非上場企業が多く見受けられるのも、そうしたことに一因があるのかもしれない。
「経営者」が組織を変えようというとき、その関心は必ずしもそこだけにはない。
あるとき、売り上げ一兆円を超える大企業のクライアント経営者が、組織を地域ごとに五つに分けてそれぞれ事業部にすると言い出し、相談を受けたことがある。しかし、当該事業は単一で、地域によってそれほど本質的な特性の違いがあるわけではない。理由を問うと、「肉は塊のまま焼いてもなかなか火が通らないので、五つに切り分けてから焼く」という答えが返ってきた。彼が変えようとしたものは、事業に向き合う組織の姿勢、人の姿勢だった。組織と人の主体性、自律性を引き出すということである。その意味で「組織改革」は常に、「意識改革」でもある。
単純に考えれば、人が組織をつくるのは「1+1>2」となるからで、これが「=」や「<」になるのでは、組織を成す意味がないという理屈になる。しかし実際には、そういうことが往々にして起こる。一人では動かすことができない大きな岩も複数の人間が寄れば動かすことができるとか、複数の人間がそれぞれ得意なことを担当して分業すれば効率よくモノを生み出せるとか、「1+1>2」となる理屈はいくらでも考えられるが、たいがいが、まずは「1」がきちんと「1」として機能することを前提にしている。ところが現実には、ある組織心理学者に教えていただいたが、「社会的手抜き効果」という現象があるのが普通だそうだ。二人であれば目の前に相手がいるのでサボるのは難儀だが、十人寄れば大抵は手を抜く人が複数いる。百人寄れば、手を抜く人の比率はもっと高くなる。百人で六十~七十人分くらいの仕事しかしないことは普通だというのである。祭りの神輿担ぎを思い出してみれば合点がいく。担いでいるフリだけする奴や、中にはぶら下がる輩まで出てくる。「1」が平均して「0.6~0.7」の仕事しかしない場合と、「1」がストレッチして三十%増の「1.3」の力を発揮してくれた場合とでは、同じ人数でも全体の発揮能力に二倍もの差が出る計算になる。本当は、もっとかもしれない。毛利元就の「三本の矢」くらいまでならよいが、武田信玄の「二十四将」ともなると、それを束ねて力を発揮させるのは容易ならざることであったことは想像に難くない。
こうして、数人で始まった「会社」が百人になり、千人になり、一万人になるにつれて、たしかに大きな仕事ができるようにはなるが、その一方で数千人もの力を死蔵させることになっているのだ。一般的にはそれが「組織」というものである。おそらく、先ほどのクライアント企業の経営者はそれを直観的に知っていたであろう。
「組織」が、その「何か」を媒介にして固有の結びつきを形成した「人」の集団であるということの意味は、固有の「人」が固有の結びつきをしているその固有の集団を指して(結果として)「組織」と呼ぶのだということであって、言い換えれば「組織」とは、固有の歴史的存在としてしか定義できないということなのである。逆に言えば、私たちが普段そう考えているような、概念としての「組織」などというものは、実在しない。現実的には、固有の「人」を想定しないところで「組織」を考えても無意味であるし、逆に固有の「組織」を想定しないところで「組織」を考えても経営として無益である。概念として抽象化した途端に、現実の「組織」の善し悪しを決定づける要素は、大抵はほとんど抜け落ちてしまうと考えたほうがよい。
「人」は概念としての「組織」の中の「一機能」を担う入れ替え可能な部品ではなく、固有の「人」の集団としての「組織」の中で、初めてその「人」ならではの存在となるのである。「組織」もまた、その固有の「人」によって形成されて初めてその「組織」となるのであり、その意味において一体不可分なものなのである。「組織」が「人」をつくり、「人」が組織をつくる。そのことによって、「組織」は身体を持った「組織」体、二つとない固有の歴史的存在となる。
そう考えてみれば、「組織」という空間において共有されている、その「何か」を経営することが、「経営者」に課された仕事だということになろう。その「何か」によって、「人」はやる気を出しもすればサボりもする。頑張りもすれば、諦めもする。自ら進んで何かをやりもすれば、ただ指示を待ちもする。能力を持て余しもすれば、思わぬ能力を発揮しもする。チームプレーが生まれるかどうかも、それによる。現実の「組織」というものの善し悪しにおいては、その差が、何より決定的に大きいというのが実感ではないだろうか。
「阿吽の呼吸」で意思疎通し「暗黙知」で動く「組織」のあり方については、日本の特殊性が指摘され、ここ数十年「そんなものは世界では通用しない」と決めつけられて、それを卑下するような風潮さえあるけれども、常識的に考えれば、「言わなければわからない」関係より「言わなくてもわかる」関係のほうが、生物としてはずっと進化した姿であるに決まっている。その理想は、宮大工の名工、西岡常一氏の次のような言葉に集約されていると思う。そして、その理想においては、おそらく洋の東西の違いはない。
『(西塔工事に全国から集まった十七人の大工に)
「あんたたちには、心をこめた仕事を頼みたい。労働やなくて仕事や。」
労働やと思えば働く時間が優先します。時間があっても棟梁の命令を待つでしょう。そうではなくて仕事なら、大工一人一人の心の中にできあがった塔があり、自分は今どの部分を受け持っているかが分かっている。だから一つの仕事が終われば、命令されなくても次の仕事に没入できる。予定より早く西塔ができたのはこのためやと思います。』(西岡常一『薬師寺西塔の再建』〈草思社〉)
「組織」がうまくいっているときというのは、こうして、「何か」がしっかりと暗黙裡に共有されているものである。そういうときには、「組織」を構成する全員が、感覚器官ともなり、手足ともなり、脳ともなる。逆に「組織」がうまくいかなくなったときには、感覚器官と手足と脳はバラバラに分断されて機能不全となり、身体が思うように動かなくなる。変化への感応も遅れる。しかも、それは極めてデリケートなもので、些細な亀裂が大きな不具合へと知らぬ間につながってしまう性格のものである。
「組織」が何かしっくりこない、「我が社にはムダが多い」「社員にやる気がない」「危機感がない」「人材が育たない」……などと経営者が感じるのは、すべて、その「何か」に不具合が生じた結果である。「一人一人の心の中にできあがった塔」がなくなったのである。それが共有されていないために生じる意識のすれ違いは、末端の営業マンと営業部長の間、営業部門と開発部門の間、事業部門と管理部門の間など、あらゆる箇所で……そして何より経営者と社員の間で起こる。そのストレスが蓄積すれば、「組織」内のインフォーマルなものも含めた「人」と「人」のつながりの複雑なネットワークは毀損し、場合によっては破壊されるに至る。そうした状況下では、社員の「やる気」や自発性など望むべくもなかろう。
「改革」が常態化してしまう理由は、ある意味ではっきりしている。
それは「わかっていてもできない」からである。「何をすべきか」「どう変わるべきか」つまりやるべきことが「わからないからできない」のではなくて、「わかっているのにできない」のである。勉強しなければならないとわかっているのにゲームで遊んでしまう子ども、生活習慣を改めなければならないとわかっているのに改められない大人と同じである。してみれば、そこに本当の問題がるはずだが、「わかっているのにできない」理由の根っこまでは、なかなか「改革」の手は伸びないものである。結果、やるべき課題ばかりを、手を替え品を替え、繰り返し並べ立てることに終始し、そして結局、何も「変わらない」。
なぜできなかったのかの内省がないのだから、当然である。
本当の病巣、つまり「わかっているのにできない」理由には、「なぜできないのか」→「それは〇〇だから」→「では、それはなぜ」→「それは××があるから」→「では、それはなぜ」→……と何重にも繰り返して執拗に掘り下げていかなければ辿り着くことができない。「よい商品が生まれない」のは「開発力が弱いから」ではダメなのは明白である。「開発力が弱いのは、開発部門の組織に問題があるから」とか、「営業部門との情報の連携が取れていないから」でも不十分である。では「なぜ、そうなっているのか」、さらに「そのような(ある意味で明白な)状況がなぜ放置されてきたのか」が問われなければ、まずなんの解決にもならないのである。開発部門がそうなっているのは、おそらく開発部門だけの問題ではないからである。会社を有機体と考えれば、ある箇所に症状が表れるのは複雑な構造体全体の不具合の結果である。問題の根源を押さえて全体に組み直さなければ、部分だけを変えても、「改革」の熱が冷めれば、形状記憶合金のように会社はまたすぐに元に戻る。
「なぜ、なぜ」を繰り返して最後に辿り着くのは、会社や経営者自身にとって、たいがいは向き合いたくない、耳の痛い、もしくは触れられたくないことである。しかし、無意識の中で逃げ回るその真の病巣を、執拗に、外堀を埋めるようにして追い詰めていかなければ、「できない理由」はその真の姿を顕わにしない。それでもなんとか、その「できない理由」を捕まえて、原因を潰さないことには、決して「できる」ようにはならないのである。
それは長年の営業の成功体験で染みついた旧習や取引手法かもしれない。売り上げで大きな比重を占める有力得意先との関係かもしれない。また、その得意先と長期的関係を築いてきた功労者のベテラン役員の存在かもしれない。従来の競争力の源泉であった花形部門の誇りかもしれない。この事業への参入を発案した先代経営者への配慮かもしれない。その事業を思い入れを以て推進してきた経営者自身の信念かもしれない。現在の幹部層を上に押し上げてきた評価の在り方かもしれない。創業以来脈々と受け継がれてきた経営理念や企業文化そのものなのかもしれない。いずれにしても、多くの場合、追い詰めれば追い詰めるほど、「会社」の禁忌に触れる箇所に手が及ぶ。
しかしそこに原因の根っこがあることは、経営者自身も含め、いくら目を背けていたとしても、多くの社員が実は無意識に(もしくは、直感で)知っていることなのである。逆に言えば、そこに本当のメスを入れようとするかどうかで、「改革」の覚悟と本気度を、社員全員が初めて自分のこととして知るようになるのである。そうなって初めて、「改革」は動き始める。
それは、痛い。場合によっては、激痛である。しかし、痛くなければ「改革」にならない。摩擦のない「改革」などあり得ず、その痛みが大きければ大きいほど、「改革」の持つ意味も大きいものとなる。
では、それほどの激痛を伴う「改革」に挑み通すために、必要な原動力は何であろうか。
それこそ倒産などの存続の危機に直面すれば、ためらっている余地などないが、しかし逆にそうなってからの「改革」は、ほぼ手遅れである。「改革」とは、眼前に黒船がやってくる前に取り組むもので、まだ健康なうちに取り組むからこそ「改革」になるのである。人間は現実化した危機にしか「危機感」を覚えないという意味では、ほぼ定義上、「危機感」は「改革」の原動力とはなり得ないということである。多くの経営者が「わが社には危機感が足りない」と繰り返し嘆き、いくら社内の危機感を煽ったとしても「改革」が成就せずに常態化してしまうという状況が、何よりそれを証明している。「変われ、変われ」といくら
Posted by ブクログ
ビジネス用語として広く用いられている「戦略」「市場」「組織」等の言葉を題材に、これらが本来内包する意味合いに改めて焦点を当て、現状との乖離に警鐘を鳴らす一冊。
コンサルタントとして企業経営に携わる立場として、半ば無意識に「事実に基づく客観的な分析を行えば、適切な戦略を導出できる」ことを念頭に置き、検討を進めている自分の思考の癖を自覚した(改めて、SCP/RBV/DC等の経営理論を「知っている」ことと、その知識をダイナミックに「活用する」ことの断絶を認識した次第)。
個人的に最も印象的であったのは、「「主観」から逃避する誘惑」(p.242)という小見出し。本来会社とは、その存在目的からして「主観」的な存在であり、その目的に共鳴する人材の「主観」的な判断に基づいて組織化されているものである。この本質論から目を背け、個々の意思決定の「(社内外から見た)正しさ」を担保するべく「客観」性を重視しているのが、大多数の現状ではないかと、この小見出しから解釈した。もちろん、全く客観性のない意見を述べているだけでは、社内外の人材を巻き混み、コトを成すことは難しいだろう。しかし、こと「戦略」等の会社の方針に係るレイヤーの話においては、あくまでも主観>客観の主従関係にあり、本質的な主観をないがしろにしてはならない。このことを強く実感した。
特に印象的であった箇所は以下の通り
・「「人材」の価値を決めるのが特定の「会社」「組織」と「人材」の固有の関係であるとすれば、それは本来、個別的で、相互依存的なものである。その「組織」におけるその「人材」の価値、しか定義することはできないのである」(p.187)
⇒ 人材の「市場価値」とは?を改めて問う
・「そもそも「組織」が「組織」であるシンプルな理由は「1+1>2」であるからだとすると、逆に同じことを「人材」側から見れば、「組織」にいることで自分が「1」以上の働きができるからこそ、その「組織」に留まっているのである」(p.188)
⇒ 常に自分に問いたい
・「コンサルタントは、「使う」ものではない、ということである。医者に対して、医者を使う、という言い方(捉え方)をしないのと同じことである」(p.212)
⇒ 自分は使われていないか?また使われるように「自分から仕向けて」いないか?
・「経営者が最終判断において背負っているものは、その「会社」の全存在であり、関連するあらゆる背景事象である(中略)コンサルタントとは、本質的には、その統合的判断をクライアントの立場から手助けする仕事(プロフェッション)なのである。あえて「専門家」と呼ぶなら、その統合的判断の手助けの「専門家」と呼ぶよりない」(p.216)
⇒ 本質的なコンサルタントの役割。何の専門家か?と問われた際の1つの解釈
Posted by ブクログ
経営について、本質的な考察をした本。(本質的ゆえ抽象度がかなり高く、具体的な企業事例などは一切出てこない)
会社は時価総額やらガバナンスやら、外から求められることを我先にと達成する存在ではなく、その会社の主観で信じている価値を軸に経営すべしという主張は、確かにその通りと思う。ただ最後の寄稿文にもある通り、会社規模が大きくなって経営と現場が乖離したり、創業者が引退したりするうちに、その主観は薄れ、会社も「主観を実現する手段」から「客観的な尺度で高評価を目指す装置」となり、経営者も従業員もそのための道具となっていく(いわゆる疎外)のは、ある種仕方ないことかとも思う。
なので、本書で語られていることは理想像でしかなく現実は違うという批判もあるかもしれないが、進むべき方向性を知るためにも、理想像を示すことには価値があるし、その意味でも良書と感じた。