あらすじ
少年の頃に開いた書物の森で、あるいは「学校」のようだった酒場の片隅で、沢木耕太郎が心奪われるように出会ってきた作家たち。山本周五郎、向田邦子、山口瞳、色川武大、吉村昭、吉行淳之介、小林秀雄、瀬戸内寂聴など、書くことが即ち生きることだった19人の作家に正面から相対し、その本質を描き出す。誰も知らなかった顔に辿り着き、緊張感さえ孕むスリリングな刺激あふれる作家論!
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
いつもながら、沢木さんはズルい。
この本を読むだけでも
人それぞれ何かしらと並行しているのに
読んだ後にはこの本にある著者の
何某かの本を探す運命に駆られる
沢木耕太郎に出会い
深夜特急を次世代に渡してなお 自身がこれほどまで沢木耕太郎に翻弄されるとは
毒な良薬
この意味が理解できたら
貴方も立派な沢木耕太郎中毒
広がる世界を遡るもよし
この後に馳せるもよし
Posted by ブクログ
稀代のエッセイスト、沢木耕太郎が著名作家との遭遇、というよりも作家評を纏めたものである。とは言え、私は沢木耕太郎や列挙された作家達をほとんど触れてこなかったので、作家紹介本として読み進めた。
私は沢木耕太郎の見識の深さと広さ、そして作家に対する真摯で純粋な姿勢に夢中にさせられた。紹介された作家に心惹かれたのはもちろんだが、それよりも評者に興味が湧いてしまったのである。これは本書が読者に提供しようとしたものとは異なるかもしれない。しかし、それほど沢木耕太郎自身に惚れてしまったのである。
これは著者のエッセイをさらに読まなければと思い、私は書店に駆け込んだ。『深夜特急』を探したが見つからず、諦めて紹介されていた司馬遼太郎『果心居士』を購入した。結局、まんまと沢木耕太郎の策略にひっかかってしまったのであった。
Posted by ブクログ
思えば、沢木幸太郎の本を読んだことってほとんどなかった。
今回読んだのは、いろんな作家のことで、紹介分には作家論とある。あとがきを読むと、文庫の解説を集めたものだという。
どれもこれも、するどく個性的だと思った。もちろん、作家それぞれが個性的であるわけだけれど、この本を読むと、登場する本たちも読んでみたくなる。
特に印象的なのは、向田邦子。読み進めていくうちに、あれこれは?と思い、やはり、そうだったか、とはっとする。書かれた年月をじっと見る。
Posted by ブクログ
少女は小説を書く愉しみを覚えた。それは、『しんこ細工の猿や雉』の中の「おとなしい子に御褒美」という言葉を借りれば、物語を愛し、物語の力を信じた少女に、物語の神様が「御褒美」としてひとつの美しい手鏡を与えた、ということと同じであったろう。そこに映せばどのようにでも姿かたちを変えることができる、という美しい手鏡だ。少女は、思うがままに変容させつつ、そこに自分を映し、外界を映していく……。
だが、小説を書くという行為には、たとえそれがどれほど幼くつたないものであっても、どこかに「自らを視つめる」という契機を避けがたく含んでしまうところがある。手鏡は自惚れ鏡にもなりうるが、鏡台の前に座った少女には合わせ鏡にもなりうるのだ。合わせ鏡として自分の見たくない自分を見せてしまうことがある。虚構に夢を織るということを覚えてしまった少女は、好むと好まざるとにかかわらず、常に合わせ鏡で自分を見ているような、自己相対化の視線を持たざるを得なくなる。
ここに「距離の感覚」の萌芽を見出すことはそう難しいことではない。
少女は虚構という手鏡に映すことで自分を見つめることに慣れていったにちがいない。やがて少女は成長するが、しだいにその手鏡なしに自分を見ることができにくくなる。大阪文学学校に入学し、生活記録を書けといわれて戸惑うのは、虚構という仕掛けなしに自分を書く、詰まり手鏡なしに自分を見ることを要求されたためではないか、と思われるのだ。いや、自分だけでなく、外界に対してもその手鏡を通して眺める癖が抜けなくなってしまったのではないか、という気さえする。
『生家へ』の中に、受賞第一作を書こうとして、「夏には水をガブガブ呑む。それが弥助の健康法である」という一行を書いただけで行きづまってしまう挿話が出てくる。その一行から推測するかぎりでは、彼は自分から離れた外部に物語を作り出そうとしていたかに見える。だが、『黒い布』が力のある作品になったのは、父親という圧倒的なモデルが存在していたからであり、もしそれに匹敵するものを書こうとすれば、当時の若い彼にとっては自分自身を素材とする以外はなかったはずである。父親と同じかそれ以上に綿密に見つづけている存在がいたとすれば、それは彼自身しかいなかったからである。しかし、彼の視線は内に向かわず外に向かった。多分、若い色川武大には自分自身を書く準備ができていなかったのだろう。準備とは、自分をどう書くかという方法を探り当てることであり、それ以上に、曖昧なままで済んでいる周囲の人間との関係を明確にしていく覚悟を決めることである。陽の光にさらされた「関係」は、自分だけでなく他人をも傷つける。当然それは現実の生活の中で返り血を浴びることにもなるのだ。『黒い布』では、父の視点から自分を見させることで自身の内面の表白を巧みに避け、しかもそれが卓抜な自己批評にもなっているという効果を上げることになったが、真正面から自分を書こうとすれば、どういう形であれ内面が露出していき、「関係」に新たな緊張を加えることになる。だが当時の彼は、生活自体が極めて流動的であり、「関係」を明確にすることで自分が座らなければならない位置をはっきりさせてしまうことを、どこかで恐れていたのではないかという気がする。とにかく《爾来十六七年、私は小説というものから逃げるようにばかりして来た。小説ばかりでなく、あいかわらず、自分自身からも遠ざかろうとしていた》(『生家へ』)のである。それが色川武大としての筆を鈍らせた。
Posted by ブクログ
憧れの作家を挙げろと言われたら、沢木耕太郎さんを挙げるだろう。彼の書くものは、小説を除いて、ほとんど読んでいるかもしれない。本書は、以前単行本として刊行された23人の作家論だが、文庫化にあたり外国人作家が割愛され19人の日本人作家論となっている。
沢木さんの作家論を読んで、その作家について学ぼうと思う人はそうはいるまい。沢木さんの作家論を読む人は、おそらく沢木耕太郎がその作家をどう語るかを知りたいのである。
沢木さんの手にかかると、作家たちの人生は何か壮大な運命に絡め取られているかのように感じられる。お堅い作家論にはない、鮮やかなドラマがそこにある。そのように書くと全てが沢木さんのイマジネーションから生まれた論評であるかのようだが、そうではないことは明らかだ。本書を読んでいると、これらの作家論ないし、作品論を書くために、沢木さんがその作家の全作品を読み込んでいるらしいことがわかる。緻密な取材に基づいて書くノンフィクションライターらしい論評となっている。
印象に残るのは、向田邦子、近藤紘一。あとは、作家論としては取り上げられていないにも関わらず、おそらく本書で最多登場の作家である司馬遼太郎か(笑)。海外作家編も文庫化予定らしいので楽しみに待ちたい。
Posted by ブクログ
著者の分析力、評論の眼差しについつい引き込まれる。
中でも、私の敬愛する田辺聖子、向田邦子についての章が秀逸。
田辺聖子の「しんこ細工の猿や雉」は自伝的小説、その自分と他者への距離の取り方を絶賛。
「父の詫び状」の中の”ねずみ花火”の完璧なカードの切り札。再読したい本がいっぱい。
寂聴氏の「美は乱調にあり」も関心あり。
Posted by ブクログ
沢木耕太郎が言うところの…〈作家との遭遇〉は2つあり、ひとつは酒場。もうひとつは文庫の解説を書く機会と…あとがきに記す。
ひとたびその機会を得られると、著書は〈ひとりの作家について学ぶためのチャンス〉と見なし、全作品を読み通し、自分なりの『論』を立ててみようとする。
通常の文庫解説は400字×10数枚。意気込み溢れる沢木耕太郎にはそんな紙幅には収まらず、最低でも20〜30枚、時に40枚程になることもあり、文庫解説のレベルをはるかに超えた労作となる。
その創作を振り返り、大学の卒論『アルベール・カミュの世界』執筆時と同じ昂揚感を覚えたと坦懐。
本書には19名〈井上ひさし・山本周五郎・田辺聖子・向田邦子・塩野七生・山口瞳・色川武大・吉村昭・近藤紘一・柴田錬三郎・阿部昭・金子光春・土門拳・高峰秀子・吉行淳之助・檀一雄・小林秀雄・瀬戸内寂聴・山田風太郎〉が俎上に載る。
幼き頃に貪り読んだ柴田錬三郎・山田風太郎の時代小説作家、職業作家となってから読み込んだ色川武大・吉村昭らの作品、作品のみならず私的好誼を結んだ吉行淳之助らのエピソードトークも入り混じり、クールな筆致の中に沢木耕太郎の素顔も垣間見れる濃淡溢れる作家論が楽しめる。
読み終えて嘆息と驚嘆が交錯する。プロの作家はかくも深く本を読むのか。はたして作家の性がそうさせるのか、沢木耕太郎の一貫した〈前のめり〉な読み解きがそうさせるのか。
どの稿も作品を論じつつも作家の『その人』を炙り出していく。取り上げる作家への相対ぶりは極めて真摯。ケレンを弄さず読み手の前にその姿がたゆたう。
例えば、山本周五郎。膨大な作品群の中で『青べか物語』は小説という結構に宿る生々しいリアルさに着目。そこに若き日の浦安での山本青年の赤貧ぶりを見ると解き、国民的作家の原点は青べか物語であると。異彩を放つ作品を山本周五郎の青春と絡めた深い考察を展開。
本書はブックガイドとしても十分に読める。ただそれは著者の意図するところではないのではないか。
本書の醍醐味は著者の開陳する読み解きの妙。職業作家だから当然と見なすのは大損。『いかに読むか』その視座をさらりと読み手に差し出してくれる。
『想像力と数百円』は糸井重里さんの新潮文庫キャンペーンのコピー。僕は『読解力と630円』。これを感想文の結句としよう。
Posted by ブクログ
沢木耕太郎(1947年~)氏は、横浜国大経済学部卒のノンフィクション作家、エッセイスト、小説家。『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞(1979年)、『一瞬の夏』で新田次郎文学賞(1982年)、『バーボン・ストリート』で講談社エッセイ賞(1985年)、菊池寛賞(2003年)、『凍』で講談社ノンフィクション賞(2006年)、『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞(2013年)等、数々の受賞歴あり。また、1986~1992年に刊行された『深夜特急』は、バッグパッカーのバイブル的な存在となった。
私は、最も好きな書き手は誰かと問われれば、迷わず沢木氏の名前を挙げるファンであり、多分の例に漏れず、『深夜特急』に始まり(私は1980年代後半に欧州をバッグパックを背負って旅した)、その後も、『敗れざる者たち』、『バーボン・ストリート』、『世界は「使われなかった人生」であふれてる』、『凍』、『キャパの十字架』、『流星ひとつ』、『旅の窓』等、色々なタイプの著作を読んできた。
何故好きなのかと言えば、私自身旅が好きなこと、本の中でもノンフィクション物やエッセイが好きなこと等があるが、それに加えて、沢木氏の生き様に惹かれるからなのである。
『敗れざる者たち』の新装版(2021年発行)の解説に、報知新聞記者・ノンフィクションライターの北野新太氏は、次のように記している。「沢木耕太郎という人は、今までの自分が知り得ていた世界、あるいは想像し得た世界にいる誰とも似ていなかった。会いたい人に会うこと。行きたい場所に行くこと。書きたい何かを書くこと。誰とも群れず、何にも属さず、しかし、あらゆる世界や人々と柔らかく繋がっている。」 そして、沢木氏の作品には、当然ながら、それが色濃く反映されているのだ。
本書は、井上ひさし、向田邦子、塩野七生、山口瞳、近藤紘一、吉行淳之介、小林秀雄ら19人の作家の作品の文庫版の解説として書かれた「作家論」をまとめ、2018年に発刊されたものを、2022年に文庫化したものである。
沢木氏は「あとがき」で、文庫の解説を引き受ける際のスタンスとして、「私はそれをひとりの作家について学ぶためのチャンスと見なした。具体的には、あらためて全作品を読み直し、自分なりの「論」を立ててみようと思ったのだ」と書いているのだが、その通り、本書の各篇は、通常の文庫の解説に留まらず、沢木氏にとっての(それぞれの)作家論となっている。
沢木氏ならではの、興味深い、作家論集といえる。
(2022年5月了)