あらすじ
アダム・スミスが研究に勤しむ間、身の周りの世話をしたのは誰!? 女性不在で欠陥だらけの経済神話を終わらせ、新たな社会を志向する21世紀の経済本。20カ国で翻訳、アトウッド絶賛。
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Posted by ブクログ
【身体を持たない経済人、人間社会全体を語れない経済学】
母親を視界から消した結果、アダム・スミスの思想から大事なものが抜け落ちてしまったのではないか。
アダム・スミスは、
市場経済の「見えざる手」で有名ですが、
実はその言葉は彼の著書『国富論』に一度しか出てこない。
でもそこから端を発し、新自由主義のロジックが社会を支配するに至っているとも言えるので、
とにかくこの強固な経済理論がいかに男性という人間を想定して作られているか、
順を追って述べられています。
・・・
経済の第一原理、利己心が世界を動かす。
人間の原動力としての利己心は尽きないし、信用できる。
一方、愛は、みんなに流通させるほどの量がない。
人を動かす法則が、アダム・スミスも関心を持ったニュートンの物理学的な発想で作られたこと。
アダム・スミスの経済理論が世に出る1世紀前、自然科学では、ニュートンが万有引力などの法則を発見します。
物事を分解し、理解を深める物理学。
人間の行動も、個人を不変な最小単位としてとして、計算にかけたらいい、と。
全て分解して代替可能な交換価値をして扱う。
これにより、人の本質を理論化しているつもり。
・・・
経済の主体は、体を持たない理性。
__経済人に女性を含め、全てを経済活動として扱う経済学の描く個人は体を持たない理性であり、そのため性別がない。だが同時に、その個人のあらゆる性質は、伝統的に男性のものとみなされてきた性質に一致する。彼は合理的で、冷淡で、客観的で、競争を好み、非社交的で、独立心が強く、利己的で、理性のままに行動し、世界を支配しようとしている。自分の欲しいものが正確にわかっていて、勇ましくそれを取りに出かけていく。
彼のものでない性質- 感情、肉体、依存、親しみ、献身、やさしさ、自然、不確かさ、 消極性、人とのつながりーは、伝統的に女性に結びっけられてきたものばかりだ。
ただの偶然だ、と経済学者は言う。 (本文より)
男性と女性の二項対立が徐々に明らかになります。
では、男性を支える女性の無償労働は、経済学では扱われてこなかったのか。
__シカゴ学派の経済学者は女性を「発見」し、あたかも男性と同じであるかのように経済モデルに組み込んだ。ただしそれはゲーリー・ベッカーが思うほど簡単なことではなかった。アダム・スミスの時代からずっと、経済人は別の人の存在を前提にしていたのだ。献身とケアを担当する人の存在がなければ経済人は成り立たない。経済人が理性と自由を謳歌できるのは、誰かがその反対を引き受けてくれるおかげだ。利己心だけで世界が回るよっに見えるのは、別の世界に支えられているからだ。 (本文より)
女性の存在は、前提…。
経済学が理論化する、理性のみの人間の主体は、それだけでは成り立たないということは、きちんと認められているのですね。
あえて、経済理論の外に置いておく。
女性はどうして男性より収入が低いのか、という現代の問いは、経済学的には論外の質問となりますね。
女性が男性と平等に労働市場に出ることは、理性である経済主体の支えを失い、経済理論が成り立たなくなる。
__労働市場は今でも、体を持たず性差もない、孤独な利益追求型の個人を前提にしている。
女性が働こうと思うなら、みずからそのような人間になるか、あるいは逆に自己犠性を前面に押しだして等式のバランスをとるしかない。
そして多くの場合、決定権は本人ではなく周囲にある。 (本文より)
カナダの無償労働をGDPに換算したら3-4割増になるとの研究結果がある。
「男性が自分の雇っている家政婦と結婚したら、国のGDPが減ってしまう」 、というのは、経済学者がよくロにするジョークのようです。
先進国の女性の幸福度は、70年代のレベルから徐々に低下している。
男性主体の経済ゲームで同じ成果を出すことが期待され始める時期と重なりますね。
「新しい女性とは、ペニスのついた女性のことではなかったはずだ」。
・・・
ゲーム理論。
行動はプログラム化されている。
戦争も合理的だから起きる。
1950年代、全体の動きをモデルに落とし込むという発想のもと、 ゲーム理論の発展で個々のプレイヤーの動きが予測可能になった。
市場を数理モデルで論じる効率的市場仮説。ランダムな市場の動きの中で、価格調整は自動。
しかしなぜ経済危機が起きたのか?
人間は理性だけではなく、感情や思いが経済を動かしもすれば潰しもする、ということは、
20世紀前半、世界大恐慌からの回復を主導したJ.M.ケインズも述べていたらしい。
経済学者が信じつづけるのは不完全だけど十分な経済理論。
ノーベル賞発済学者のロバート・ルーカスが エリザベス2世の疑問に答えて言ったのは、
2008年の金融危機を予測できなかったのは経済学者の落ち度ではない、
なぜなら経済学者はこの種の事態が予側不可能であることをちゃんと予側していたのである、
ということ。
理論の例外だった、ということですね。
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金融市場。
1971年、ドルと金の交換を停止し、
金本位制のブレトンウッズ体制が終わりました。
通貨は金に保証されなくなった。
なので著者曰く、現在の中央銀行の役目はみんなが通貨価値を信じられるようにすること。
カルヴァンのプロテスタンティズムと資本主義。
中世の時代、カルヴァンは、
会社育てることは、作物を育てることと同じ。
リスクを扱うことで時間差から利益を生み出す。
急増する都市部の中産階級の間に説き、広まったと言います。
そして21世紀、低所得者の住宅ローンのリスクを受け持っていた銀行が、そのリスクを個人に売った。
サブプライムローンの証券化と金融危機につながる。
市場は期待で成り立っている、とも言われたりしますが、
信用で成り立つ金融市場での経済活動は、
結局感情なのか?となりますね。
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衝撃の事実ー経済理論が人間の内面を変えてしまう。
他者への期待、公平さ、助け合いの善意があるのは、経験からも明らかですが、
どう説明つけるのかについて。
マイケル・サンデル教授の「それをお金で買いますか」は少し前に有名になりましたが、
行為に値段をつけること、経済学的インセンティブを設けることで、
人はもともと持っていた善意や倫理的動機を失う。
「私たちは市場になる」。
倫理が排除される、つまり本来の動機を殺す。人間を変える。
だから社会のバランスを保つために、
愛・ケア担当と、利己心・理性担当という役割分担が不可欠なのか。
一方、正当な対価であれば、お金はモチベーションを上げることが証明されてもいます。
ケア労働に女性が多いこと、また、ケア労働は、賃金低いという事実。
著者は、この、お金と愛の二項対立のせいでケアが経済的に低く見られている、といいます。
英国で失業中の女性の17%が誰かのケアにために前職を辞めていて、男性の場合は1%との調査結果もあるようです。
「愛情やケアを保護したいなら、経済から締め出すかわりに、きちんとお金とリソースを提供すべきだったのだ。
私たちは、経済の理論に合わせて、人のかたちを変えてしまった。 」
お金と優しさが一人の人間に内在していることを、
性別にかかわらず、みなで平等に引き受けることができるのかが重要なポイントのようですね。
・・・
経済に支配される現代社会。
ミシェル・フーコーによると、
古典的自由主義は、フェアな交換が基本。
人は市民としての側面と経済主体としての側面を併せ持つ。
新自由主義は、競争が基本。
自由放任主義ではなく、 政治を経済に従属させようとする立場であることが述べられています。
実は小さな政府ではなく、市場には政府の力をめいっぱい使いたい。
新自由主義を推し進めたレーガノミクス。
富裕層の税率軽減が進められた背景にあった、
1974年のジュード・ワニスキーは、税率は高すぎてはいけないということをラッファー曲線で広めます。
1981年、ジョージ・ギルダーは『富と貧困』で、富裕層の減税は低所得層と中間層を助ける、と論じます。
・・・
人的資本、の闇…。
経済資本としての人間の存在。
それは、この新自由主義の理論の下で、
作為的に、人間への介入がなされ、動機から改編させてきていることを示す。
人間は収益への投資主体となる。すでにアダム・スミスが『国富論』で人的資本と読んでいます。
そして、『人的資本』 は、1992年にノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーの著書。
資本の蓄積元となった人間。労働者は存在しない、もう搾取は存在しない。
マルクスの意図に反し、労働と資本の対立が解消した、ー生産関係の変化を通じてではなく、人間であることの変化を通じて、と著者は言います。
「新自由主義は人間を資本に変えることで、労働と資本の対立を解決した。人生は投資であり、投資がその人の市場価格を左右する」
人間であることの意味を書き換える新自由主義。
先日読んだ、「#なぜ働いていると本が読めなくなるのか」にも通づるところがあります。
・・・
近年注目を集めている行動経済学も、中心にあるのは個人の理性。
社会がどう発展していくかは語らないし、合理性から外れた行動をとることは例外として扱う、といいます。
__人が経済人のように行動すると仮定して、そのうえで例外的な行動を探しだしているのだ。人はときどき不合理になるから、合理的意思決定を助けてあげよう、と行動経済学者は言う。正しい方向に背中を押してあげよう。国が適切なインセンティブを用意すれば、みんなよりよい意思決定ができるはずだ。(本文より)
つまり、
今日の経済学も、
自由主義の路線を貫き、
さらに新自由主義の中にあって、
経済の言葉は社会を支配するロジックとなっているが、 全体像を語れない。
肉体という不都合なものを忘れようとする経済。
依存、不安を感じないようにする経済。
感情は選好という需要に。心に揺れは存在しない経済。
扱いきれないものは女性のものに。
借り貸し勘定の釣り合いは保たれる。
・・・
人間の全体像。社会の全体像。
著者は、
注目すべきことは、
経済理論が女性について何をいうかではなく、
何を見逃しているかだ、といいます。
経済人としていきる人間も単純な個人ではない。
私たちの共通の体験は身体から始まる。
ただひとつの性しか存在しないファンタジーの世界を見つめているわけにはいかない。
このような視点は、フェミニスト経済学ともいわれるそうです。
人間社会全体を語る経済学が、だれしもの経済学となる時代を実現したいですね。
Posted by ブクログ
男性は経済人として認められるのに女性は認められない。利益のために働けば経済が回ると言ったアダム・スミスですが、彼の世話をしたのはだれか。タイトルの通り女性と経済の本です。
Posted by ブクログ
性別役割分担の解消について語るとき、〜男性が「まともに取り合ってもらう」ために花柄の服を着るべきだ、と主張する人は見かけない。〜でもビジネスの世界で活躍する女性に対しては、控えめな格好をすることが未だに求められている。〜ニュートラルな服装、つまり、男性っぽい服装だ。男性の身体に合わせてつくられた世界に、女性は自分を合わせなくてはならない。
〜
ところが男の子の服装については、なにもいわれなう。ピンクのバレリーナみたいな服装に顔をしかめる保育士も、男の子がサッカー選手の格好をするのは問題ないと考えているようだ。
p.210-211
すごい。目から鱗が落ちた。少し読みにくいところもあったけど、読んでよかった。自分の無意識に気づくことができた。