あらすじ
アダム・スミスが研究に勤しむ間、身の周りの世話をしたのは誰!? 女性不在で欠陥だらけの経済神話を終わらせ、新たな社会を志向する21世紀の経済本。20カ国で翻訳、アトウッド絶賛。
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Posted by ブクログ
この本の1番お気に入りのポイントは?
経済学を全く知らない人でも、経済学のこれまでであったり、今の考え方を知ることができるところがすごく良かったなと思う。
この本を選んだきっかけ
女性と経済ってあまり結びつくところがないイメージだったが、どういうふうに結びつけているのか関心が湧き、手に取った。
この本を他の人に勧めるとしたら理由はなんですか?
経済学に全く触れなかった人にまず読んで欲しい。
この本があなたの視点や考え方を変えた部分はなんですか?
いまの経済構造のまま発展していくことが、多くの人を豊かにすると言う考え方であることに疑問を感じるようになった。
普段私が感じた違和感を感じたり、嫌だなと思った事象を体系化、整理したものが本書だった。生きづらい。しんどい。と感じている人すべてに手を取ってみてほしい。今の経済のあり方が本当にこれで良いのか考えるきっかけになりそう。
Posted by ブクログ
経済人のモデルに女性が含まれていない事から始まり、新自由主義で拡がる格差の悪影響を大きく受ける女性について、経済学が女性の視点が欠落した不完全な学問として書かれている本。
原著が2012年に出版されているので、少し古い感じはするが、経済的にも心情的にも保守派の日本だとタイムリーでライブな内容だと思う。
あっと言う間に読めました。面白い。
Posted by ブクログ
【身体を持たない経済人、人間社会全体を語れない経済学】
母親を視界から消した結果、アダム・スミスの思想から大事なものが抜け落ちてしまったのではないか。
アダム・スミスは、
市場経済の「見えざる手」で有名ですが、
実はその言葉は彼の著書『国富論』に一度しか出てこない。
でもそこから端を発し、新自由主義のロジックが社会を支配するに至っているとも言えるので、
とにかくこの強固な経済理論がいかに男性という人間を想定して作られているか、
順を追って述べられています。
・・・
経済の第一原理、利己心が世界を動かす。
人間の原動力としての利己心は尽きないし、信用できる。
一方、愛は、みんなに流通させるほどの量がない。
人を動かす法則が、アダム・スミスも関心を持ったニュートンの物理学的な発想で作られたこと。
アダム・スミスの経済理論が世に出る1世紀前、自然科学では、ニュートンが万有引力などの法則を発見します。
物事を分解し、理解を深める物理学。
人間の行動も、個人を不変な最小単位としてとして、計算にかけたらいい、と。
全て分解して代替可能な交換価値をして扱う。
これにより、人の本質を理論化しているつもり。
・・・
経済の主体は、体を持たない理性。
__経済人に女性を含め、全てを経済活動として扱う経済学の描く個人は体を持たない理性であり、そのため性別がない。だが同時に、その個人のあらゆる性質は、伝統的に男性のものとみなされてきた性質に一致する。彼は合理的で、冷淡で、客観的で、競争を好み、非社交的で、独立心が強く、利己的で、理性のままに行動し、世界を支配しようとしている。自分の欲しいものが正確にわかっていて、勇ましくそれを取りに出かけていく。
彼のものでない性質- 感情、肉体、依存、親しみ、献身、やさしさ、自然、不確かさ、 消極性、人とのつながりーは、伝統的に女性に結びっけられてきたものばかりだ。
ただの偶然だ、と経済学者は言う。 (本文より)
男性と女性の二項対立が徐々に明らかになります。
では、男性を支える女性の無償労働は、経済学では扱われてこなかったのか。
__シカゴ学派の経済学者は女性を「発見」し、あたかも男性と同じであるかのように経済モデルに組み込んだ。ただしそれはゲーリー・ベッカーが思うほど簡単なことではなかった。アダム・スミスの時代からずっと、経済人は別の人の存在を前提にしていたのだ。献身とケアを担当する人の存在がなければ経済人は成り立たない。経済人が理性と自由を謳歌できるのは、誰かがその反対を引き受けてくれるおかげだ。利己心だけで世界が回るよっに見えるのは、別の世界に支えられているからだ。 (本文より)
女性の存在は、前提…。
経済学が理論化する、理性のみの人間の主体は、それだけでは成り立たないということは、きちんと認められているのですね。
あえて、経済理論の外に置いておく。
女性はどうして男性より収入が低いのか、という現代の問いは、経済学的には論外の質問となりますね。
女性が男性と平等に労働市場に出ることは、理性である経済主体の支えを失い、経済理論が成り立たなくなる。
__労働市場は今でも、体を持たず性差もない、孤独な利益追求型の個人を前提にしている。
女性が働こうと思うなら、みずからそのような人間になるか、あるいは逆に自己犠性を前面に押しだして等式のバランスをとるしかない。
そして多くの場合、決定権は本人ではなく周囲にある。 (本文より)
カナダの無償労働をGDPに換算したら3-4割増になるとの研究結果がある。
「男性が自分の雇っている家政婦と結婚したら、国のGDPが減ってしまう」 、というのは、経済学者がよくロにするジョークのようです。
先進国の女性の幸福度は、70年代のレベルから徐々に低下している。
男性主体の経済ゲームで同じ成果を出すことが期待され始める時期と重なりますね。
「新しい女性とは、ペニスのついた女性のことではなかったはずだ」。
・・・
ゲーム理論。
行動はプログラム化されている。
戦争も合理的だから起きる。
1950年代、全体の動きをモデルに落とし込むという発想のもと、 ゲーム理論の発展で個々のプレイヤーの動きが予測可能になった。
市場を数理モデルで論じる効率的市場仮説。ランダムな市場の動きの中で、価格調整は自動。
しかしなぜ経済危機が起きたのか?
人間は理性だけではなく、感情や思いが経済を動かしもすれば潰しもする、ということは、
20世紀前半、世界大恐慌からの回復を主導したJ.M.ケインズも述べていたらしい。
経済学者が信じつづけるのは不完全だけど十分な経済理論。
ノーベル賞発済学者のロバート・ルーカスが エリザベス2世の疑問に答えて言ったのは、
2008年の金融危機を予測できなかったのは経済学者の落ち度ではない、
なぜなら経済学者はこの種の事態が予側不可能であることをちゃんと予側していたのである、
ということ。
理論の例外だった、ということですね。
・・・
金融市場。
1971年、ドルと金の交換を停止し、
金本位制のブレトンウッズ体制が終わりました。
通貨は金に保証されなくなった。
なので著者曰く、現在の中央銀行の役目はみんなが通貨価値を信じられるようにすること。
カルヴァンのプロテスタンティズムと資本主義。
中世の時代、カルヴァンは、
会社育てることは、作物を育てることと同じ。
リスクを扱うことで時間差から利益を生み出す。
急増する都市部の中産階級の間に説き、広まったと言います。
そして21世紀、低所得者の住宅ローンのリスクを受け持っていた銀行が、そのリスクを個人に売った。
サブプライムローンの証券化と金融危機につながる。
市場は期待で成り立っている、とも言われたりしますが、
信用で成り立つ金融市場での経済活動は、
結局感情なのか?となりますね。
・・・
衝撃の事実ー経済理論が人間の内面を変えてしまう。
他者への期待、公平さ、助け合いの善意があるのは、経験からも明らかですが、
どう説明つけるのかについて。
マイケル・サンデル教授の「それをお金で買いますか」は少し前に有名になりましたが、
行為に値段をつけること、経済学的インセンティブを設けることで、
人はもともと持っていた善意や倫理的動機を失う。
「私たちは市場になる」。
倫理が排除される、つまり本来の動機を殺す。人間を変える。
だから社会のバランスを保つために、
愛・ケア担当と、利己心・理性担当という役割分担が不可欠なのか。
一方、正当な対価であれば、お金はモチベーションを上げることが証明されてもいます。
ケア労働に女性が多いこと、また、ケア労働は、賃金低いという事実。
著者は、この、お金と愛の二項対立のせいでケアが経済的に低く見られている、といいます。
英国で失業中の女性の17%が誰かのケアにために前職を辞めていて、男性の場合は1%との調査結果もあるようです。
「愛情やケアを保護したいなら、経済から締め出すかわりに、きちんとお金とリソースを提供すべきだったのだ。
私たちは、経済の理論に合わせて、人のかたちを変えてしまった。 」
お金と優しさが一人の人間に内在していることを、
性別にかかわらず、みなで平等に引き受けることができるのかが重要なポイントのようですね。
・・・
経済に支配される現代社会。
ミシェル・フーコーによると、
古典的自由主義は、フェアな交換が基本。
人は市民としての側面と経済主体としての側面を併せ持つ。
新自由主義は、競争が基本。
自由放任主義ではなく、 政治を経済に従属させようとする立場であることが述べられています。
実は小さな政府ではなく、市場には政府の力をめいっぱい使いたい。
新自由主義を推し進めたレーガノミクス。
富裕層の税率軽減が進められた背景にあった、
1974年のジュード・ワニスキーは、税率は高すぎてはいけないということをラッファー曲線で広めます。
1981年、ジョージ・ギルダーは『富と貧困』で、富裕層の減税は低所得層と中間層を助ける、と論じます。
・・・
人的資本、の闇…。
経済資本としての人間の存在。
それは、この新自由主義の理論の下で、
作為的に、人間への介入がなされ、動機から改編させてきていることを示す。
人間は収益への投資主体となる。すでにアダム・スミスが『国富論』で人的資本と読んでいます。
そして、『人的資本』 は、1992年にノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーの著書。
資本の蓄積元となった人間。労働者は存在しない、もう搾取は存在しない。
マルクスの意図に反し、労働と資本の対立が解消した、ー生産関係の変化を通じてではなく、人間であることの変化を通じて、と著者は言います。
「新自由主義は人間を資本に変えることで、労働と資本の対立を解決した。人生は投資であり、投資がその人の市場価格を左右する」
人間であることの意味を書き換える新自由主義。
先日読んだ、「#なぜ働いていると本が読めなくなるのか」にも通づるところがあります。
・・・
近年注目を集めている行動経済学も、中心にあるのは個人の理性。
社会がどう発展していくかは語らないし、合理性から外れた行動をとることは例外として扱う、といいます。
__人が経済人のように行動すると仮定して、そのうえで例外的な行動を探しだしているのだ。人はときどき不合理になるから、合理的意思決定を助けてあげよう、と行動経済学者は言う。正しい方向に背中を押してあげよう。国が適切なインセンティブを用意すれば、みんなよりよい意思決定ができるはずだ。(本文より)
つまり、
今日の経済学も、
自由主義の路線を貫き、
さらに新自由主義の中にあって、
経済の言葉は社会を支配するロジックとなっているが、 全体像を語れない。
肉体という不都合なものを忘れようとする経済。
依存、不安を感じないようにする経済。
感情は選好という需要に。心に揺れは存在しない経済。
扱いきれないものは女性のものに。
借り貸し勘定の釣り合いは保たれる。
・・・
人間の全体像。社会の全体像。
著者は、
注目すべきことは、
経済理論が女性について何をいうかではなく、
何を見逃しているかだ、といいます。
経済人としていきる人間も単純な個人ではない。
私たちの共通の体験は身体から始まる。
ただひとつの性しか存在しないファンタジーの世界を見つめているわけにはいかない。
このような視点は、フェミニスト経済学ともいわれるそうです。
人間社会全体を語る経済学が、だれしもの経済学となる時代を実現したいですね。
Posted by ブクログ
このタイトルを思いついただけで勝ちでしょう。
本書の骨子は「経済人」偏重の市場経済に女性の存在が無視されているという、社会のあり方に異議を申し立てる。フェミニストは上野千鶴子のようなもっと狭義のジェンダーの違いから受ける不利益にフォーカスするものであるという先入観があったので、経済との関連で論じるものはとても新鮮。新しい社会のあり方、寛容さへの期待みたいなものを感じる。(今ちょうど観終わった「不適切にもほどがある」と共通するテーマ)
少し具体的なところでは2008年金融危機への解説が秀逸。デビット•ボウイの逸話との絡め方と専門用語なしの人間の情動的な反応による説明が、腹落ち度高い。ここだけでも読む価値あるかな。
Posted by ブクログ
経済学は「愛の節約」を研究する学問になった。社会は利己心で成り立っている。アダム・スミスの見えざる手から経済人は生まれた。愛は私的な領域へと追いやられた。社会に漏れださないように、しっかり管理しなくてはならない。そうしないと、愛が枯渇してしまうから。
経済学は愛を節約しようとした。愛は社会から隔離され、思いやりや共感やケアは分析の対象から外された。そんなものは社会のとみとは関係ないからだ。
Posted by ブクログ
タイトルが秀逸です。アダム・スミスの食事を誰が作っていたのか、誰も真剣に考えたことがありません。実はアダム・スミスは生涯独身だったので、彼の食事は実の母親が作っていたそうです。
結局、スミスの経済学では女性は完全に無視されています。合理的な経済人とは完全に男のことが想定されています。家事や育児を担っている人間のことは閑却されています。
著者のマルサルさんはスウェーデンの出身だそうですが、スウェーデンでさえやはり女性に不平等な制度、慣行が多いそうです。
男女平等度が特に低い日本は真剣に女性の地位向上に取り組むべきであると痛感しました。
Posted by ブクログ
産休育休時短勤務を通して感じた社会の理不尽について、気持ちよく言語化されていました。
あのとき感じた無力さや、怒りを思い出すと共に、自分たちが少しずつ変われば、次の世代の人々はあんな目に合わずに済むかも知れない、といつ希望も感じられました。
就活に勤しむ学生の皆さんや、出世・昇給に目が眩んでしまう人、とにかくいろんな方に読んで欲しいです。
Posted by ブクログ
「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」kawade.co.jp/sp/isbn/978430…
さすが河出だぜ。経済学からこぼれおちる労働資本と具体的な生産性の話。よくある家事の経済価値の話やフェミ論じゃないところがいい。経済の成り立ち自体を疑う姿勢はとても好きだな。なおタイトルから妻を想像したけど違ったw
Posted by ブクログ
経済学で自明のものとされる"経済人"とそれを当たり前だと思っている社会に対して、フェミニズムの観点から問い直しをしていて、とても面白かった。
難しそうな印象だったが、文章はとても読みやすい。
Posted by ブクログ
この社会の歪みを的確に、そして執拗に問い詰める一冊。「アダム・スミスの夕食作ったのは誰か?」という出発点のユニークさがあまりにも秀逸で、この時点でまんまと著者の掌の上に乗ってしまった。
確かに同じテーマについて繰り返し記述される部分はあり読む人によってはくどいと感じることもあろうが、むしろそのくどさこそ女性が置かれているしんどさを表すひとつの指標になっているのではないか。簡潔に、スマートに、シンプルに、女性が現在進行形で置かれている苦境を述べよ、などというのは全くのエゴなのではないか。
Posted by ブクログ
素晴らしい本
フェミニズム関係の本で探して読んだが、経済学の本だった。
現在の格差社会、競争社会がなぜそうなのか。
現状分析の新たな視点と考え方の必要性を順を追って分かりやすく解説している。
人間にとって何が大切か、社会はそのためにどんな風に進めて行くか、経済と共存する社会の為に何を考え行くべきか提示してくれているとても素晴らしい本でした。
Posted by ブクログ
アダム・スミスの夕食を作ったのは彼の母親だった。母はアダムの行くところにはどこでも付き添い、生活を支えていたという。しかし、アダム・スミスの思想からは経済を支える「母」あるいは「ケア」の視点はすっかり抜け落ちているように見える。それはなぜか?それは問題ではないのだろうか?この本はそのような問題意識を出発点にしている。
男性と女性、精神と肉体、論理と感情、競争とケア、など西欧の社会は世界を二項対立で捉え、どちらか一方に高い価値を置いてきた。女性は、自分たちに伝統的に充てがわれてきた低い価値の役割から高い価値の役割への転換を試みてきたが、この挑戦は正しかったのだろうか?
結局、二項対立のどちらか一方に価値を置き、その価値観自体を問わないのであれば、苦しみは再生産され続けるのだろう。ただ、問題は見えても解決策はなかなか見えない。
Posted by ブクログ
経済学が前提とする「経済人」ー合理的な選択をし続ける抽象的な人格ーはこれまで女性が期待され、抱えてきたもの、すなわちケアの観点が抜けている。そして経済学はケア労働を生産性のないものとして透明化してきた。
筆者はケアや共感、感情といったものが「個人の自由な選択」という名の下に押し付けられ、そして価値のないものとしてラベリングされてきたと指摘する。
最近は「女性活躍」の名の下に女性の労働参画が進んではいるものの、経済学が作り上げてきた男性中心社会に女性を「入れてかき混ぜれば」解決するわけではなく、そこでも結局ケアの問題が残る。
そのような「経済人」神話にしがみつく私たちと現代社会を皮肉を交えながら批判している。
私が仕事で関わっている国際的なジェンダー平等推進の場においてもケア労働の認識・評価・再分配の重要性が盛んに議論されている。介護や保育業界の給与水準が低いのはそれが政府によって決められており、女性が担ってきた仕事として軽視されているからに他ならない。私たちが「合理的に判断」したら誰もやる人がいなくなってしまうし、現にこうした業界は人手不足に苦しんでいる。賃金や待遇の改善は必至だろう。
でも給料の大半が保育料に消え、その給料を稼ぐために残業し、子供と遊ぶ時間もろくに取れないのだとしたら、それはそれで何のため?とも思う。
我が国でもワークライフバランス不要を唱える首相が就任し、同調する声も一定あるようだが、そろそろ次のステップに行かないといけないのでは?
1%しか勝者のいない強制参加の競争に参加してぶっ倒れるまで走るより、フツー人が仕事やケアをしながら思想や芸術、そしてユリの花を愛でる余白が持てる社会になってほしい。
そうなると鍵はやはり週休3日制やベーシックインカムになるのかしら。
さくっと読める割に自分の生き方や人生の選択についても考える機会をくれた良書でした。
Posted by ブクログ
経済学系の本を読んだのは初めてだったが読みやすかった。
経済学者から見た女性のありかたやお金と倫理の関係が知ることができて良かったです。
『ゲーテ』『オスカーワイルド』『ナイチンゲール』の事も引用されていた。
経済人とは…ということも。
Posted by ブクログ
男性は経済人として認められるのに女性は認められない。利益のために働けば経済が回ると言ったアダム・スミスですが、彼の世話をしたのはだれか。タイトルの通り女性と経済の本です。
Posted by ブクログ
「我々が食事を手に入れられるのは肉屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を求めた結果である」というアダム・スミスの、そして現在経済理論の根幹に対して「ところで、そのステーキは誰が焼いたんですか?」という極めてシンプルかつ衝撃的な問いで始まる本書は、長年に亘って無視されてきた経済における女性の存在に目を向ける。
子育てを含む主婦労働をサラリーマンの給与にすると年収二千万円に相当するというような記事が出回った時期があったが、金額の多寡は別にして、それだけの労働と生産が GDP にも編入されず、経済理論にも登場せず、したがって経済政策にも反映されないというのは確かにおかしな話だ。結果として、性差別の問題は「女を入れて掻き混ぜる」ことによってのみ解決しようとされており、従来女性ロールが担ってきた労働の価値は忘れられようとしている。
そんな世の中に一石を投じた著作…ではあるのだが、行動経済学の発見によっても一瞬も揺がなかった効率的市場仮説が何らかの影響を受けている節はない。結局、世の中を近似するのに「経済人」より最適な代替案が提示されていないということだ。
Posted by ブクログ
訳者あとがきにあった
「フェミニスト経済学の考え方をベースに、既存の経済学をバサバサと斬っていく爽快な読み物です」
のとおりの本。面白かった。
Posted by ブクログ
性別役割分担の解消について語るとき、〜男性が「まともに取り合ってもらう」ために花柄の服を着るべきだ、と主張する人は見かけない。〜でもビジネスの世界で活躍する女性に対しては、控えめな格好をすることが未だに求められている。〜ニュートラルな服装、つまり、男性っぽい服装だ。男性の身体に合わせてつくられた世界に、女性は自分を合わせなくてはならない。
〜
ところが男の子の服装については、なにもいわれなう。ピンクのバレリーナみたいな服装に顔をしかめる保育士も、男の子がサッカー選手の格好をするのは問題ないと考えているようだ。
p.210-211
すごい。目から鱗が落ちた。少し読みにくいところもあったけど、読んでよかった。自分の無意識に気づくことができた。
Posted by ブクログ
シカゴ学派やゲーリー・ベッカーが「人のあらゆる活動は経済モデルで分析できる」として、女性は非生産的だから賃金が低い、女性の稼ぎが少ないのは、女性は高い賃金に値しないからと、堂々巡りの論を展開し、賃金の少ない女性が家事を担当するのは当然だと、偉そうに言うところ、腹立たしく読んだ。
しかし、全て数式で生産性は割り切れるわけはないと、ゲーリー・ベッカーを喝破してくれるので、腹立ちもカタルシスとなってクセになる(笑)
当たり前だが、全て数式で生産性は割り切れるわけはないのだ。
世の中は全て合理的にできているから市場は常に正しいとするシカゴ学派が新自由主義を生み、今もなお、多くの国の経済を低迷させ、格差を生み続けている。
「アフリカの人口の少ない地域では環境汚染が不当に少ない。所得水準の最も低い国に有毒廃棄物を移動するのは経済合理性のある話」なんて寒気のする言説がまことしやかに公の場で話されたりすることになる。
作者の言うように、もし先進国が産業廃棄物の責任を引き受けたら、将来を見据えた技術的な解決策が見出されるかもしれないのに…。
現代の課題を安易に現代の技術のみで解決できる合理性で片付けると、そこからは何も生み出されない。停滞だ。ゲーリー・ベッカーにノーベル賞を与えてしまったのは、痛恨のミスだ。
「コンゴに住む女性が缶詰3個を手に入れるために武装組織の男性と寝ることも、チリの女性が危険な農薬をたっぷり使った農園で働き脳に障害のある子どもを産むことも、モロッコの女性が工場に働かに出るため長女に学校をやめさせて幼い妹や弟の面倒をみさせること」
これら全て合理的な意思決定ということの残酷さ。
他者からの支え、ケアがないと社会は成り立たないことは自明のことだ。その点を無視する経済が成立すると思うことがあまり賢いことではないだろう。
これからの経済学がどうあるべきか、よくわかる本だ。
Posted by ブクログ
アダム・スミスが研究に勤しむ間、身の周りの世話をしたのは誰!?女性不在で欠陥だらけの経済神話を終わらせ、新たな社会を志向する、スウェーデン発、21世紀の経済本。格差、環境問題、少子化――現代社会の諸問題を解決する糸口は、経済学そのものを問い直すことにあった。
アダム・スミスは経済学の授業で習ったけれど、そこにジェンダーの問題を組み合わせて考えたことは一度もなかった。でも言われてみるとここまで女性の存在が無視されていること・主に女性や貧困層が担っている『家事労働』の価値が非常に低いことは経済学者たちが定義してきたことで、根本的に変えていく必要がある。具体的にどうしたらいいのか、この本が書かれた当時(2012年)から10年たつにも関わらず明確な答えは出ていない。だけど、経済人にならないために、ひとりの力は小さいとしても今後も声を上げ続けたい。
Posted by ブクログ
すごい考えさせられる本だった。
たしかに、昔から経済は男性視点での話ばかりだったし、歴史的に見ても、男性が国や地域を占めるということがほとんどだった。
それが現代経済でも引き継がれていて、その経済に率直な疑問をぶつけたのがこの本だと思う。
僕は今、雇い主が女性で、その方は企業で活躍されて、今は独立している。「女性だから〜」とかそういう一言で片付けるのは大変失礼だし、女性だからこその魅力をたくさん持っている。
「家事や育児は女性がやるもの」という考えは古い。確かに、身体の大きさや腕力といった部分は男性のが強いのは明らかだけど、頭の良さやリーダーシップ、人間性は男性も女性もフラットだし、男性よりも優れた能力を持つ女性はたくさんいる。
そして、「女性が首相になったら戦争が起きなかったのではないか?」という疑問は、僕は激しく同意する。女性が核兵器を作って、国を破壊し合うというのが僕には想像できない。それこそ、激しい口論で、バチバチとやって解決するのではなかろうか。
今の世の中を見るための、新しい視点をくれる本でした。
Posted by ブクログ
ある状況から利益を得るために人はどう行動するか?
それが経済学だと考えられているが本当にそうなのか?利益を得るために利己的に動けば全体がうまくいくように見えざる手が調整してくれるのか?
何も利益を生み出さないからといって女性の働きが無視されている。経済学の定義外にあるたくさんのことを見なかったことにして経済学を論じても仕方ないのでは。想定する人間が単純化しすぎている。それで人間を本当に理解できるのか?
を問いかけている。
Posted by ブクログ
話題になったのは3年も前。
気になっていた本書をようやく読むことができた。
タイトルにあるように、おもに女性が担ってきたケア労働が無償ゆえに経済学の中で無視されてきたことについての本。
面白かった。
しかし後半はちょっとダレてしまい、ズルズルと惰性で読んだ。
アダムスミスの母、従姉妹、偉いよなあ…
女性たちがあげ始めた声、発展途上国の躍進、世界はもっといい方へ行こうよ。
大学でほんのわずか経済をやったとき、えー、ニンゲンはこんなことしないよー、と思った不満を思い出す。
みんな同じことを思っていたんだなと安心できた。
以下、印象に残った箇所を引用。
ある人は1日に200回手を洗い、ある人は車を運転するとき何がなんでも左折を避ける。スポーツを10時間連続で見つづける人もいれば、バスルームの床を15時間磨きつづける人もいる。あなたの頭は応援するチームの勝ち負けでいっぱいになり、あるいは床のばい菌でいっぱいになる。人生に苦しんで自殺する人もいる。それは経済の合理的なロジックにおさまらないできごとだ。鍵のかかった箱に入れられ、誰からも見えないところに隠されるできごとだ。
精神疾患がある人の多くは、自分だけが正気なのだと考えている。私の強迫行為は狂っする正常な反応だ。病棟の明かりが消え、あなたは恐怖に叫びだす。喉の奥から絞りだされるその音は、しかし単にひとつの要求である。世界は決められたコースに沿って進んでいく。悪魔の回転木馬は回りつづける。費用対効果を考えろ、無駄なことをするな。一列に並び脇目も振らずに行進する軍隊のなかで、あなたはひとりぼっちだ。ひとつのロジック、ひとつの世界、誰にも顧みられずにひとりで死んでいく人。
これが私たちのすばらしい世界だ。
Posted by ブクログ
経済には心がないという言葉に衝撃を受けた。確かにそう思うと、自分を取り巻く理不尽な環境に納得がいく。
女性が排除された経済の世界。自分が漠然と思っていたことを論理的に説明がされていて、世の中の捉え方について勉強になった。
Posted by ブクログ
フェミニストの語りや経済について基礎的なことが学べる1冊。2012年に書かれたものなのでやや論調が古いかもしれない。定常社会や厚生経済学については触れられておらず物足りない人もいるかもしれません。
Posted by ブクログ
最初はとても引き込まれただけど、翻訳ものにありがちな、同じような内容の繰り返しが多く。。
著者の視点の鋭さやジェンダーに対する論理はすごく納得いくものの、じゃあどうすれば?っていうのがなく、ふーんなるほどね!で終わった。
そういう意味では勉強になった。
特にデビッドボウイの話が面白かった。
Posted by ブクログ
古典派経済学の父と言われ、個人の利益追求が社会の利益追求につながることがあると説いたアダム・スミス。利己的な「経済人」像の確立に大きな影響を与えたスミスは生涯独身で、食事をはじめ身の回りの世話は母親に頼っていた。でも、彼の経済学からは、主に女性が担ってきたケア労働のことがすっぽり抜け落ちているのでは?
作者はアダム・スミスの話をつかみに、経済学が長らく無視してきたケアの問題、カウントされない経済行為の問題に踏み込んでいく。ケアは無償で行うべきものだという誤った捉え方が、常に国家の富に貢献してきた女性の労働を、ひいてはその地位を貶めていると指摘する。
うまいタイトルだなと思う。このタイトルに心を奪われて、手にとってしまった。
原著はリーマンショック後の2012年にスウェーデンで刊行された。刊行から10年経っての翻訳だが、2012年当時の日本ではまだ受け入れられなかったかもしれない。この間、国際的に日本の女性の地位の低さが指摘され、国内的にもケアという言葉が注目されるようになってきた。労働にはそれに見合った対価があるのが当たり前。経済活動に組み込まれるべきだろう。社会でバリバリ働く女性がいていいし、ケアに従事する主夫がいてもいい。働き方や性別で区別する意味はない。