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柿崎 一郎
(かきざき いちろう、1971年 - )は、日本の東南アジア鉄道学者、横浜市立大学教授。1971年静岡県生まれ。1993年東京外国語大学外国語学部卒業。1999年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、「タイの鉄道とバンコク中心経済圏の形成 ―1897~1941年」で博士(学術)[1]。1999年横浜市立大学講師、2003年助教授、2007年准教授を経て、2015年国際総合科学部教授[2]。地域研究の手法でタイを中心とする東南アジアの交通に関する研究を行う[3]。
「みなさんは、タイという国がどこにあるかご存知ですか? タイは、ユーラシア大陸の南東に位置する東南アジアの国です。ユーラシア大陸の南東にインドシナ半島という大きな半島があり、そこからさらにマレー半島という細長い半島が突き出しています。インドシナ半島の真ん中からマレー半島の途中までがタイの領土となります。面積は約 51・ 3万平方キロメートルで、日本の約 1・ 4倍の広さです。 タイのかたちは、ゾウの顔の部分に似ていませんか? マレー半島がゾウの鼻、その上に頭の部分が突き出し、その右は耳のようにみえます。タイの国土は、ちょうどゾウが左を向いているときの顔のかたちにそっくりなのです。このゾウの顔のかたちの国土ができたのは、約 110年前とそれほど昔ではありません。 タイは大きく4つの地域にわかれます。ゾウの鼻のつけ根が中部で、首都バンコクはここにあります。頭の部分からタイ湾に向かってチャオプラヤー川という大きな川が北から南へと流れ、中部はこの川の下流域にあたります。チャオプラヤー川が何本かにわかれて流れるデルタ地帯には、平らな低地が広がっています。低地の東西には山が連なり、東側の海沿いの地域は東部ともよばれ、臨海工業地帯として開発が進んできました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「アンコール・トムからは、四方八方に道が延びていました。その道沿いには、祠や宿泊と療養のための施設がつくられます。現在でも、カンボジアと国境を接する東北部の南側にこのようなクメール様式の建物が多く残っており、そのうち 11世紀から 12世紀にかけてつくられたピマーイの遺跡(プラーサートヒン・ピマーイ)がもっとも有名です。 ピマーイ遺跡は、アンコール・ワットを小さくしたようなかたちです。初めはヒンドゥー教の寺院として建立されましたが、のちに仏教寺院に変わりました。現在でも東北部を代表する観光地として多くの観光客を集めています。 12世紀前半にカンボジアでアンコール・ワットを建造したスールヤヴァルマン 2世の時代になると、アンコール帝国の勢力はチャオプラヤー川中流域やマレー半島北部まで拡大していきます。北部の山地と平原の境界に近いスコータイなどが、その最北端にあたり、クメール様式の建物が現在も残っています。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「現在、タイにはユネスコの世界遺産として 8カ所が指定されています。このうち文化遺産は、バーンチエンの古代遺跡、古代都市スコータイと周辺の古代都市群、古都アユタヤー、古代都市シーテープおよび関連するドヴァーラヴァティ史跡群、プープラバート歴史公園、自然遺産はトゥンヤイ・フアイカーケン野生生物保護区群、ドンパヤーイェン・カオヤイ森林群、ケーンクラチャーン国立公園となっています。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「 1703年、ペートラーチャーが死去すると、息子のスアが王位を継承し、第 31代目の王となりました。彼は、ナーラーイの隠し子であるともいわれています。 スアはタイ語で「トラ」を意味し、残忍な性格から「トラ王」とよばれました。一方でスアには庶民的な面もあり、頻繁に地方に出かけて釣りや狩りを楽しんだといわれます。 また、ムエタイ(キックボクシング)も得意で、みずから新しい技を考案していたそうです。交易にも熱心で、チャオプラヤー川とターチーン川を結ぶマハーチャイ運河をつくって、船の往来がしやすいようにしました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「ベトナムでは、ラーマ 1世の時代に阮福暎が全土を統一して阮朝を興しており、カンボジアへの圧力を強めていました。当時のタイはカンボジアを属国とみなしていたため、タイとベトナムの対立が激しくなります。 カンボジアの王アン・チャンは、宗主国(属国の支配権を持っている国)であるタイの圧力を避けるため、ベトナムに接近します。 1812年にラーマ 2世がカンボジアへ軍勢を派遣すると、アン・チャンはベトナムに亡命しました。のちに帰国すると、都をそれまでのウドンから、よりベトナムに近いプノンペンに移します。カンボジアがタイの干渉を避けるためにベトナムとの関係を強化すると、タイとベトナムの関係はさらに悪化していきました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「また、現在は涅槃仏(寝ている姿の仏像)とタイマッサージの講習所が有名なワット・ポーの修復と拡張も行い、境内はほぼこの時期までに完成しています。なお、ラーマ 3世の命令で、マッサージをふくむタイの伝統医療の知識が記録され、この寺院に収められたことで、のちにタイマッサージの拠点となるきっかけとなりました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「タイの料理は、全体的に辛いのが特徴です。トウガラシをたくさん使うため、辛くなります。また、しょっぱさ、甘さ、さらに酸っぱさが加わった料理もあります。タイの人が辛さを好むのは、食べたあとに汗をかくと涼しさを感じられるためと考えられます。主食のコメのおかずとして食べるため、料理の味は濃くなっています。 タイ料理の代表といえば、トムヤムクンです。これはエビが入った辛いスープで、世界三大スープのひとつといわれています。ただし、もともとこれもご飯のおかずとして食べられていたものでした。そのため、白米の上にかけて食べると辛さも和らぎます。トムヤムは、酸味を効かせた煮込み料理のことで、エビ(クン)以外にも鶏肉(カイ)や魚(プラー)などでもつくられます。 もともとタイ料理は、煮る、焼くといった単純な調理法が中心でした。イサーンとよばれる東北部の料理にはソムタム(青パパイヤの和え物)、カイヤーン(焼鳥)などがあり、シンプルな調理法でつくられます。東北部と北部では、モチ米をよく食べるという特徴もあります。 また、中華料理の影響で、油で揚げたり炒めたりする料理や麺もあります。日本で流行っているガパオライス(パットカプラオ)は、バジルと豚肉や鶏肉を炒めたものをご飯にかけた料理です。 パッタイは、中国風焼きそばをタイ風にアレンジした、米粉でつくった麺の炒めものです。ベトナムのフォーのように汁に入れて食べるクイティオという麺料理も、タイの屋台では定番となっています。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「 ラーマ 3世が死去すると、 1851年にラーマ 4世(モンクット王)が即位します。ラーマ 2世の正室(本妻)の子で、ラーマ 3世が即位する直前に出家していました。そのため、政治にはいっさいかかわらず、英語、仏教、占星術など多くの学問にひたすら励む日々を送ってきました。英語も得意で、バンコクにいた欧米人と交流し、シンガポールから入ってきた英語の雑誌を読むなどして、国際情勢にもくわしくなりました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「また、モンクットは、自分の子どもに新しい学問を学ばせるために、王位に就いたあとでイギリス人女性のアンナ・レオノーウェンスを家庭教師に雇います。のちに彼女はこの経験を小説にまとめ、それを原作とした『王様と私』という映画もつくられました。映画ではラーマ 4世が聡明なイギリス人女性に啓発されるシーンが描かれ、あまり知識のないアジアの国の王とされますが、実際はタイでも有数の知識人でした。 ラーマ 4世は政治経験がまったくなかったため、アユタヤー時代からの名門貴族ブンナーク家の有力者をカラーホーム(兵部卿)とプラクラン(外務・財務卿)に任命します。さらに、政界で一定の権力を持っていた弟をピンクラオ副王として同時に即位させました。権力者の権威を利用することで、自分が政界で経験不足だった部分を補おうとしたのです。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「タイには、イギリスの綿製品をはじめとしてさまざまな商品が流れこみます。イギリスの期待どおり、タイはイギリス製品の重要な市場となりました。 このような状況に対して、タイは失った収入を補おうとして、徴税請負制度を強化しました。しかし、このやり方では政府に納められるはずのお金が、徴税を請けおった中国人たちの懐に入るだけでした。 そのため、タイは農産物の輸出をすすめ、とくにコメの輸出を大幅に拡大させていきます。東南アジアの島嶼部(現在のマレーシア・インドネシアなど)の植民地化が進み、そこでコメの需要が高まっていました。このため、タイはコメの生産を増やして、これらの地域に輸出してお金を稼ごうとしたのです。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「政府や有力者たちはコメの生産を増やすために、それまで放置されていたチャオプラヤー・デルタの開拓を進めます。そして、水田に変わったデルタは輸出用のコメを生産する重要な拠点となりました。これをきっかけに、タイは世界有数のコメの輸出国となっていきます。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「ラーマ 4世の時代、タイにとって大きな脅威となったのはイギリスだけではありません。このころ、フランスもタイの東から植民地化をはじめていました。 当時、フランスは中国へ進出する際の中継点を確保するために、ベトナムをねらっていました。阮福暎がベトナムを統一したときにフランス人宣教師が協力していたことから、当初フランスとベトナムの関係は良好でした。しかし 19世紀半ば、阮朝がキリスト教を弾圧したことで、ベトナムとの対立が本格化します。 1861年、フランスはサイゴンを中心とするメコン・デルタを占領し、翌年ベトナム南部(コーチシナ)を手に入れました。これが、フランスにとって東南アジアにおける植民地政策の第一歩となります。 さらにフランスは、中国への進出ルートとしてメコン川をねらいました。コーチシナに河口があるこの川をさかのぼっていけば、やがて中国の雲南省にたどり着くためです。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「イギリスは、フランスがメコン川の左岸まで手に入れれば満足すると考え、パークナーム事件には介入しませんでした。しかし、フランスはさらにメコン川の右岸(西岸)にも植民地を拡大しようとしていました。 バウリング条約を結んでから、タイはイギリス製品の市場として役に立っていたため、タイがすべてフランスに奪われてしまうと、重要な市場をフランスに乗っとられることになります。このため、イギリスもこのままようすをみているわけにはいかなくなりました。 1896年、イギリスとフランスはタイに関する宣言をとりかわし、タイを「緩衝国」として残すことで合意しました。緩衝とはイギリスとフランスが直接ぶつからないように、間に挟まれるクッションの役割を意味します。イギリスとフランスはチャオプラヤー川流域を領土とするタイの独立を尊重し、植民地化することはないと宣言したのです。 ただし、この緩衝地帯にメコン川の右岸と、南部(マレー半島)はふくまれていませんでした。これは、フランスが東北部を、イギリスが南部を影響下に置いても、たがいに文句をいわないということでした。 イギリスとフランスがタイを緩衝国として残すと決めたことで、タイの植民地化の危機は去りました。しかし、ふたつの国が決めた緩衝国の範囲は、当時のタイが支配していた領土の半分ほどの細長いかたちで、東北部と南部についてはそれぞれフランスとイギリスに奪われかねない状況でした。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「 最初の官営鉄道はバンコクと東北部のコーラートを結ぶ区間で建設され、 1897年にまずバンコクとアユタヤーの間で開通します。この鉄道は、当時フランスの影響力が強まっていた東北部をバンコクに引き寄せる重要な役割を果たしました。 次に、北部のチエンマイにつながる鉄道とマレー半島を南下する鉄道が建設されました。これによって、それまで 1カ月以上かかっていたバンコクからチエンマイまでの移動が、わずか 1日足らずに短縮されたのです。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「このようなタイの近代化のためには、外国人の専門家に頼る必要がありました。明治時代の日本で多くの「お雇い外国人」が活躍したように、タイでも数多くの外国人を雇っていました。タイではアユタヤー朝のころから有能な外国人を利用する伝統がありましたが、ラーマ 5世の時期にその数はもっとも多くなっていました。 とくに、ラーマ 5世の総務顧問となったベルギー出身の法律家ギュスターヴ・ロラン・ジャックマンは、タイの近代法典を制定する際に活躍する重要な外国人顧問となります。 外国人顧問を雇う際、特定の国の顧問が増えすぎることに注意しなければなりませんでした。当時のタイはフランスによる植民地の拡大政策に悩まされており、ほかの大国との関係を築くことでフランスを牽制しようとしていました。 しかし、特定の国との関係が強くなると、今度はその国がタイに対して圧力をかけてくることもあるので、うまくバランスをとり、たがいを競いあわせようとします。たとえば、鉄道建設ではタイを植民地化する気がなかったドイツに頼って、ドイツ人技師をたくさん雇いました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「第一次世界大戦のあと、タイはアメリカやヨーロッパ諸国に対して不平等条約の撤廃をよびかけます。しかし、これにすぐ反応したのはアメリカだけでした。そのアメリカも、関税自主権の回復は認めたものの、治外法権についてはタイの近代法典が完成するまでは領事裁判権を一部残すという条件をつけます。 その後、タイはヨーロッパ諸国と個別に交渉を進めるために使節団を派遣し、フランスはアメリカとほぼ同じ条件での撤廃に応じました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「ピブーンは国民信条(ラッタニヨム)という指針を発表し、タイ人としてのあるべき姿を示そうとします。まず、 1939年6月にその第 1号を公布し、国名を「シャム」から「タイ」に変えました。「タイ」はタイ人が自分たちを表すよび名(自称)で、自由という意味であるといわれています。英語名は「タイランド」となり、「タイ人の土地」という意味が強調されました。 このタイ・ナショナリズムのなかで、中国系の人びとが攻撃の対象になります。ラーマ 6世と同じように、ピブーンは中国人を非難することでタイ人を奮い立たせようとしていました。このころになっても、中国人がタイの経済を動かしている状況は変わっていなかったのです。 ピブーンは多くの国営企業をつくり、それまで中国人が行っていた経済活動を代わりに担当させました。これらの会社の名前に「タイ」という単語がつけられることが増え、それまで「シャム」という語を使っていた民間企業も、「タイ」に変更しました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「タイ国内には中国系だけでなく、さまざな民族がいたことから、彼らを「タイ人」にまとめていくための同化政策にとり組む必要がありました。たとえば、政府は中国人の学校や中国語の新聞を廃止に追いこみます。また、中国の影響力を減らすため、パッタイ(タイ風焼きそば)のような新しいタイ文化も考案しました。毎日、朝と夕方に国歌を流し、国歌とともに国旗を掲げたり降ろしたりしている間、人びとが起立して敬意を表するようになったのも、この時期からです。 ただし、この「タイ人」への同化政策は、中国人に「タイ人」としての意識を持ってもらうことを重視しており、中国人を排除する目的はありませんでした。中国人であってもタイ国籍を得れば「タイ人」になることは可能だったため、タイ人と中国人の混血が進んでいくきっかけともなったのです。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「同じころ、タイ軍の代表団はセイロン島(現在のスリランカ)のイギリス軍の東南アジア司令部を訪れました。そこで、イギリスからタイ軍の連合軍による管理や、コメを無償で提供することなどの条件を突きつけられます。 これは非常に厳しい内容でしたが、タイ側はアメリカにこれを伝え、イギリスを説得してもらう作戦を選びました。この結果、翌年にはイギリスと平和条約を結ぶことに成功します。コメを無償で 150万トン提供するという条件は残っていましたが、のちに代金を支払うことに変更されました。 タイは国際社会に復帰するうえで、フランスの態度を気にしていました。フランスは、タイが手に入れた「失地」を返すよう要求し、これが実現しないとタイが希望する国際連合への加盟を拒否するとおどします。タイは「失地」を得たのは戦争より前だとして、返還には応じない姿勢を示しました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「プリーディーがフランスに抵抗する組織への支援をはじめると、しばらく政権の座から離れていた陸軍は、プリーディーがタイを共産主義の国にしようとしているのではないかと警戒しはじめます。ついに 1947年 11月に陸軍はクーデターを起こし、ルアン・タムロン政権を倒しました。 陸軍はクアンをふたたび首相に任命し、戦争犯罪人として逮捕されたあと釈放されていたピブーンが、陸軍総司令官になりました。クアン内閣は順調に任務をこなして支持を集め、 1948年1月の総選挙でもクアン率いる民主党が第 1党となります。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「共産化していたベトナムやラオスは深刻な経済危機から逃れるために、ソ連のペレストロイカ(政治・経済体制の立て直し)をまねて市場経済(個人が自由にモノをつくって売ることができる経済)を導入します。カンボジアからのベトナム軍の撤退も進んだため、カンボジアの内戦にも終わりがみえてきました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「通貨危機は、経済ブームで成長を続けていたタイ経済に大きな打撃をあたえます。 プラザ合意以降、投資の拡大とアーナン政権以降の規制緩和と自由化政策によって、タイには外国からたくさんのお金が入ってきました。とくに、タイの通貨であるバーツの価値はアメリカのドルとほぼ一定に保たれていたので、外国のお金をバーツに換えて投資をしても、バーツの価値が下がって損をする可能性が少なかったのです。 このため、タイには必要以上のお金が入ってくることになり、それはやがて土地や不動産への投機に使われるようになります。こうして、日本と同じようにタイの経済もバブル経済となっていきました。 ところが、 1990年代なかばになると、タイの輸出が増えなくなり、タイの経済成長が終わりかけているのではないかと考えた外国人の投資家が、タイからお金を引きあげる動きが出てきます。この動きは 1997年になると急速に広がり、為替市場(通貨を売買する市場)ではバーツがたくさん売られるようになりました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「ムエタイ選手からボクサーに転向したカオサーイ・ギャラクシー(本名スラ・セーンカム)は北部ペッチャブーン県の出身で、 14歳から本格的にムエタイの練習をはじめます。 1984年に世界ボクシング協会( WBA)の世界スーパーフライ級のチャンピオンになりました。 1988年、双子の兄であるカオコー・ギャラクシーも世界バンタム級チャンピオンとなったため、史上初の双子の世界チャンピオンとして、世界中で有名になります。 カオサーイはサウスポーで、「タイのタイソン」ともよばれました。 19回連続でチャンピオンの座を守りましたが、 19回目の防衛を決めた 1991年の試合後に引退を表明しました。 引退したあともタレントとして活躍するなど人気が高く、現在でも映画やテレビドラマに出演するかたわら、ムエタイの教室も開いています。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「このように大きく変わりはじめたタイは、これからどうなっていくのでしょうか。 おそらく、 21世紀に入ってから激しくなった階層間の対立は、そう簡単には解消しないでしょう。 最初は都市中間層やエリート層からなる上層がタックシンを支持しない黄シャツ派、農民や農村から都市に出てきた下層がタックシンを支持する赤シャツ派でした。ところが、この対立の構図はラーマ 10世の時代に入ってより複雑となり、王党派と民主派の対立は変わらないものの、それぞれの支持層は入れ替わってきています。 経済面では、 1997年の通貨危機までは順調に経済成長を遂げ、東南アジアではシンガポールやマレーシアに次ぐ経済レベルに到達しました。経済成長は 21世紀に入ってからいったんは回復しましたが、国内での政治対立が激しくなった 2000年代後半以降は経済成長率も伸び悩んでおり、「中進国」のレベルで停滞しています。それでも、日系企業の生産拠点としてのタイは当面安泰でしょう。 タイはすでに工業国となっていますが、依然として農業で生計を立てている人も多く、かつて「世界の台所」というスローガンを掲げたように、食料の生産や加工の基地としても重要な役割を果たしています。「世界の台所」としてのタイの立ち位置は、世界の食料需要の高まりとともに今後より重要になっていくでしょう。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著
「首都バンコクの発展も留まるところを知りません。次から次へと高層ビルが建ち、大規模なショッピングモールが相次いで開業しています。市内や郊外を結ぶ電車もどんどん増えており、近代的な都市への脱却が急速に進んでいます。その一方で、昔ながらの市場や路地にならぶ屋台は減っているので、バンコクの魅力であった喧噪と活気にあふれた街並みは、だんだんみられなくなっていくと思われます。 また、タイは世界有数の観光大国でもあります。新型コロナウイルスが流行する前の 2019年には、年間約 4000万人もの外国人がタイに来ていました。タイはスコータイやアユタヤーの遺跡に代表される歴史遺産、北部の山地や南部の海岸などの自然景観、そしてショッピングやタイ料理などさまざまな観光資源をもっており、世界中から多くの観光客が集まってきていました。」
—『一冊でわかるタイ史 世界と日本がわかる 国ぐにの歴史』柿崎一郎著