飯田亮介のレビュー一覧
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新コロナは全生態系の危機
未だ新コロナの感染が拡がる状況の中で、グッド・タイミングの出版です。物理学出身である著者の数学的な説明も簡潔で判り易く、しかしあまり数学的、或いは統計的なデータの解析を展開する事無く、人類史的・文化的・文明的な洞察に溢れています。今回のパンデミックが国境を超えた全人類の危機というだけでなく、地球上の全生態系の危機と捉えなければならないと考えさせられます。
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3年がかりで刊行された「ナポリの物語」が、遂に完結した。してしまった。最終巻を読みながら、残り少なくなっていくページが惜しくて惜しくて。ずっと、このなかにいて、リラとエレナを見ていたかった。
最終章を読み終えて、一巻の冒頭へ戻り、また反芻して。。面白い本は、読み始めて数秒でブラックアウトする感覚があり、このシリーズはずっとそんな幸せな感覚のなかで読んだ。ページを開くと、私もナポリの町に居る。貧困と、暴力と、噂話と、男達女達の駆け引きと、金と、クスリと、ありったけの生にまみれたあの「地区」へ、私も運ばれていく。
リラと私、ことエレナの手記として始まるこの長い物語。リラは極端で、野生動物のように獰猛で美しく、身を持て余すほどの知性がある。エレナは幼い頃からそんなリラに対して、憧れ、友情、嫉妬、恐れ、時には憐みと、非常に複雑な感情を常に抱きながら、1950年から現代までを離れたり戻ったりしながら共に生きる。
「本」はこの作品の重要な媒体で、リラの溢れる知性のはけ口も、エレナの生涯の糧も、「若草物語」を二人で読んだことから始まる。
本心をなかなか語らないリラ。苦学に次ぐ苦学の末、作家としての地位を確立したエレナに、自分の物語を託したのだろうか。きれいさっぱり、自分は、跡形もなく(では、なかったのは最終巻でわかる)消えることを望みながら。
この物語には、わかりやすい人間関係はない。混沌は時代の空気と土地の空気を混ぜこぜにしながら進む。悪人と善人には分つことができない人間性。時代によって、環境によって変わる価値観。愛でさえ絶対なんていうことは無い。
エレナが、母の臨終のとき、やっと分かり合える場面の描写にはぐっときた。フェミニズム的要素も多く、いかに女性は女性であるだけでかくも辛い思いをするのか、その時代にあってエレナの自立は胸を熱くする。それでも、わかりやすく原因と結果は書かれない。常に登場人物はみんな迷いの中で混沌として生きている、だからこんなにも深く入り込んでしまうんだろう。
リラとエレナはもちろん、それ以外の登場人物全ての姿形、バックグラウンド、声や話し方が頭の中で出来上がっている。それを読む者に伝える描写力が素晴らしい。全員が本当に、生きて、ある者は死に、狂い、再び返り咲きを繰り返す。
読み終えて思うのは、世の中だれのなかにも物語がある、それが形を成していなくとも。どんな人にも全て、だということ。 -
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ネタバレ【読書会参加】2026年3月15日(日)都内某所
課題本:パオロ・ジョルダーノ「素数たちの孤独」
スキー中の事故で脚に癒せない傷を負ったアリーチェ。けた外れの数学の才能を持ちながら、孤独の殻に閉じこもるマッティア。この少女と少年の出会いは必然だった。
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1.双子素数という切なくも美しいモチーフ
本作を象徴する「双子素数」。11と13、569と571、3257と3259のように、間に一つの偶数を挟んで隣り合うものの、決して重なることのない素数のペアのことです。
近しくも触れ合わない…幼少期のトラウマを抱えた主人公アリーチェとマッティアは、まさにこの双子素数のような関係でした。
アリーチェはスキー事故で脚に障害を負い、拒食症を患う。(単なる痩せ願望ではなく、身体を思い通りにしたいという思念を感じるもの)
マッティアは幼い頃に知的障害のある妹を公園に置き去りにし、失踪させてしまった罪悪感から自傷行為を繰り返しています。
この「1と自分自身でしか割り切れない」という定義は、他者を介入させられない二人の魂の在り方そのもの。孤独は欠陥ではなく、その人がその人であるための「素数的性質」であるというメッセージのように思えました。
2.ステレオタイプなイタリア人像の不在
「イタリアの小説」と聞くと、家族愛が深く、陽気でおしゃべりで、とにかく食べるのが大好き!というイメージを抱く方が多いかもしれません。しかし、本作では家族との関係がよろしくない。
アリーチェが食に関心を持てない(拒食症)ことからもわかるように、ステレオタイプな「イタリアらしさ」はほとんど感じられません。社会から疎外され、ひたすら内向的な若者たちの姿が描かれています。
そんな重い物語が、イタリア国内で200万部(日本の人口に換算すれば400万部クラスの特大ヒット)も売れたのはなぜか。読書会では、国や文化を問わず、現代人が本質的に抱えている普遍的な孤独感や「生きづらさ」を見事にすくい上げたからではないか、という意見が出ました。
陽気なイメージのある国の人々の中にも、口に出せない深い痛みが確実に存在するはず。それに多くの読者が共鳴したのかもしれません。
3.安易な大団円より自立というリアリズム
出版社キャッチコピーなど「痛切な恋愛小説」として紹介されることも多い本作ですが、いわゆるご都合主義の大団円や、甘いハッピーエンドは用意されていません。お互いに傷を舐め合って依存するのではなく、最終的に彼らは自分の「孤独」を引き受け、自分の足で生きていく道を選びます。
作中には「選択はいつもほんの数秒でなされるが、残りの時間、その報いを受けることになる」という印象的な言葉も。
それは決して絶望的な結末ではなく、ある種の「自立」を感じさせる静かな力強さがあります。無理に綺麗に終わらせないからこそ、ドキュメンタリーを見たようなリアルな余韻が心に長く残るのでしょうか。
4.まだまだ小ネタも語りたい
・理系作家ならではの独特すぎる比喩表現
キスは「陳腐なベクトルの連続」、人が手を振る動作は「ヘリコイド(螺旋面)の形を真似しているかのよう」、足が震えることを「非弾性的」。素粒子物理学の博士号を持つ著者らしく、作中には主人公マッティアの思考を通して、他の本では見ないような理系メタファーがたくさん登場しました。
・普通じゃない絆の「タトゥー削り取り事件」
アリーチェはノリで入れてしまったタトゥーを激しく後悔し、それを消そうとします。その際、彼女が頼ったのがマッティアですが「自傷行為で体を傷つけることに慣れていそうだから」という思考が透けて見えてしまう。
一般的な青春小説ではありえない、不器用で歪んだ距離感がよく表れています。それを諭すマッティアの言葉もまた良かった。
・アリーチェと写真
マッティアが数学を得意とし、一生をかけて打ち込むものとしているのに憧れがあったのかもしれない。アリーチェが「カメラを始めたい」と言い出したのはタトゥー同様の気まぐれに思えましたが、その後写真スタジオでの仕事につなげます。
わたしには実際に職業カメラマンの友人がいますが、結婚式写真などは「絶対に失敗できない」プレッシャーが非常に強く、機材運搬など体力を使うことも多いため、ストレスをためがちだとか。何年も続けていられるのは彼女のタフさが現れているかもしれません。 -
Posted by ブクログ
12.25再読。
エレナは作家として成功し、ナポリからの脱却を叶えるが、男性社会を目の当たりにして自信が揺るぐ。女性としての自分の地位、女性として社会に発言するということの意味とは、その言葉を獲得すること…それはまさに多くの女性が現代でもぶつかり葛藤することだ。
リラとの関係性は社会と育児がプラスされてさらに物語は加速するが、エレナはリラの影響下から抜け出して、自分自身に「なる」ことを試みる。
全巻を通してだが、エレナはリラを意識するあまり自分自身を見つめることができていない。
「なりたい」から「なる」へ、誰もが直面するアイデンティティの探究として、第3巻も面白かった。 -
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ネタバレミラノ生まれの作家、パオロ・コニェッティは子どもの頃から夏になると一九〇〇メートル級の山地にあるホテルを拠点にして登山や山歩きを楽しんできた。三十歳を過ぎた今も、モンテ・ローザ山麓にあるフォンターネという村に小屋を借り、その土地で目にした自然と生き物の様子やそこに生きる人々の飾らない暮らしぶりをノートに書き留めては創作の糧にしてきた。デビュー作『帰れない山』以来、作家本人を思わせる一人の男の目を通して、山で生きる厳しさと愉しさを描いてきたが、今回は四人の男女の視点を借り、山で生きる男と女の関係に迫っている。
小説はフォンターナ・フレッダのほぼ一年を扱っている。四季の移ろいとそこに暮らす人々の暮らしぶり、狼をはじめ、鳥や動物の生きるための工夫にも事欠かない。
ミラノに住む作家ファウストは四十歳。結婚まで考えていた十年来のパートナーと別れ、人生をやり直すため、フォンターナ・フレッダに戻ってきた。部屋を借り、山道を歩き薪を拾い、九月、十月、十一月と自由の喜びと孤独の悲しみをかみしめながら暮らしてきたが、切り詰めた暮らしにも限度があった。ミラノに帰れば仕事の伝手はあったが、別れた女性との間に残された種々の問題解決に時間を取られることは確実だった。
彼は村でたった一つの社交場である『バベットの晩餐会』というレストランの経営者バベットに自分が苦境にあることを打ち明けた。彼女は料理ができるならコックとして店で働けばいいと言う。こうしてクリスマスの季節も、フライパンを振ることになったファウストはその店で住み込みで働くシルヴィアという若い娘と出会う。彼女もまたよそ者で、何かから逃げるようにここに来ていた。二人が愛し合うようになるのはある意味で必然的だった。
フォンターナ・フレッダにはスキー・ゲレンデもあった。一年の三か月間、山男たちはリフトの切符売り、圧雪車の運転手や救助隊員に姿を変える。サントルソもその一人だ。仕事終わりにはバベットの晩餐会に集まってはグラッパを飲んで皆でわいわいやるのが常だった。話好きの山男と、自分の知らないことを聞くのが好きな新米コックはすぐに仲良くなる。
中篇小説といっていい本作は三十六プラス一章で構成されている。小説のなかにも出てくる北斎の『富岳三十六景』になぞらえてのことだ。ファウストの視点が中心だが、シルヴィア、バベット、サントルソの視点で語られる章も多い。視点が変わることで山に対する思いも人に対する思いも人それぞれであることがよく分かる。それぞれの人物にはそれぞれの人生があって、それが今の自分につながっている。一篇の小説を読みながら、四人の人物を主人公にした四篇の短篇小説を読んでいるような気になった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレモンテ・ローザの麓フォンターナ・ブレッダを舞台にミラノから離婚してやってきた作家ファウストと彼を雇ってくれたバベット、元森林警備隊員のサントルソとウェイトレスのシルヴィア。この4人が関係を築き影響を与えあいながら変化していく。自然描写の息を呑むような美しさと綺麗事だけではないトイレ事情などの生活面での厳しさ。一年を山や森林の変化と狼の見え隠れする存在感で満たした文章の美しさ、ディネーセンに捧げられたよう気がしました。また北斎を意識した36章仕立て、富士山ならぬモンテ・ローザを背景に人間たちの営みが描かれユーモアにも優れています。
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Posted by ブクログ
なかなかおもしろかった
「素数は1とそれ自身でしか割り切ることができない。自然数の無限の連なりのなかの自分の位置で素数はじっと動かず、他の数と同じくふたつの数の間で押しつぶされてはいるが、その実、みんなよりも一歩前にいる。彼らは疑い深い孤独な数たちなのだ」と本文には書いてある。
そして、孤独には『積極的な孤独(Solitude)』と『消極的な孤独(Loneliness)』があり、原題では前者が使われている。
主人公はふたり。アリーチェという少女と、マッティアという少年。
アリーチェは拒食症で、マッティアは数字の天才。
子どものころ、アリーチェはいじめにあっていた。そしてマッティアは発達障害の妹を公園に置き去りにしたことがある。妹はそのまま行方が知れず、マッティアはいつもそのことを後悔している。
アリーチェとマッティアは出会う。恋愛感情はあるのだろうか。それもよくわからないが、特別な関係ではあるようだ。ふたりはそれぞれの道を歩む。それでも完全に疎遠になるわけではない。
イタリアの小説なのだが、ラテン系の情熱的な空気はまったくなくて、むしろ白夜のような寒々しいイメージがつらぬかれている。これでイタリアでは200万部売れたというのだから不思議なものだ。
恋愛小説として紹介されているのだが、首をかしげたくなる。これは恋愛なのだろうか。
むしろ、孤独な人間たちが自らの生きる場所を探して彷徨う物語のように思う。そこには恋愛の要素もあるのだが、「素数たちの孤独」というタイトルからして、推して知るべしというところ。
登場人物たちの気持ちというか、素数として生きる感覚はよくわかった。誰でもそうなんじゃないかと思ったが、よくよく考えてみると誰もが素数なのではなく、合成数もいるのかもしれない。そして小生は合成数の気持ちはわからない。うまいタイトルだ。素数はどこまでも孤独な素数なのだ。 -
Posted by ブクログ
4部作を一気に読んだ。長く濃密な旅路だった。
世界的ベストセラーになったのは、あらゆる境遇の人の共感を得やすいからだろうか。二人の主人公と言うべきエレナとリラは共にナポリの貧しい地区出身で、中学にすら行く子供が珍しい環境で育つ。しかし、共に素晴らしい頭脳を持ちながら、教育を受ける機会を獲得し都会に出て徐々に知識人・中流階級へ仲間入りしていくエレナとは対照的に、リラは進学を阻まれ10代で商店主と結婚し、以降の人生もナポリの地に根を生やし続ける。しかし2人の友情は、互いへのごく繊細な愛情・羨望・憎悪・嫉妬をない混ぜにしながら、一種の複雑な共依存の様相を呈し、生涯にわたって続くことになる。
一巻の後書きには「女の友情」を特有のものとして触れる文もあったが、私はこうした関係が女性同士に特有なものとは思わない。深い愛情と敵対心と相手の上の立場にありたいという見栄や欲望が両立した複雑な「男の絆」を描く作品は古来より数多いではないか。一般的に女性は男性よりも人間関係への観察力や洞察力が発達する傾向にあるため表層の仕方に性別による差異はあれ、女の友情は醜い、ドロドロしている、という手合いの話は大嫌いである。
高い教育を受け、作家として成功し、有力な政治家一家と婚姻し、インテリ階級の一員になってからも、ナポリ出身地区の「階層」にアイデンティティのかなりの部分を有しているエレナの視点は、土着の故郷を持たない身には新鮮であり、地方出身者と東京出身者の視点の違いについても考えさせられた。
それにしても、エレナの結婚生活の顛末の何とも言えぬリアリティよ。インテリ階級出身で紳士的、高い教養と知性を持ちリベラルな思想に共感を示すが、実は根が保守的なピエトロには、思わずあるあると呻いてしまった。一方で、博識で(一面的には)フェミニストで人間として非常に魅力的だが、配偶者や父親としての責任はほとんど果たすことがないクズ男のニーノ。「正しい選択」とは何なのか、エレナの選択を追いながら自分でも考え込んでしまった。人生は難しい。しかし、結局のところピエトロとニーノのその後を比べると、誠実さと責任感が最も肝要なのだろう。 -
Posted by ブクログ
コロナ禍(2020年の流行初期)のイタリアにいる著者のエッセイをまとめたもの。
大学での専攻は素粒子物理学とのことで、冷静に、数学的に今回のコロナ禍を見つめているような文章。
このようなウイルスは、人間の行う環境破壊や今までにない生物の乱獲などが原因でまわりまわって出現してきたと書かれていて、そんなことは考えてもみなかったので驚いた。
自分が生きている間はもう、このような世界的ウイルス流行はないと勝手に思っていたけれど、全くそうではない可能性があると知り危機感を覚えた。あまりに表面的なことしか見ていなかったなぁと反省…
全ては人間の行いに繋がっているという側面で、コロナ禍が過ぎたあとに、何に元に戻って欲しくないかを今のうちに考えておこうという言葉で締め括られている。 -
Posted by ブクログ
今から2年も前の出版物とは思えないほど、現在の私たちに当てはまることが多く、この2年で随分変わったように思えても、結局は同じことを繰り返しているのだと気付かされた。
見えないものとの戦いは私たちを疲弊させる。痺れを切らした私たちは、自粛や感染症対策についての「甘い」情報を理由にして規制を緩めてしまう。一方で「厳しい」情報もあり、なにが正しくてなにを信じたらいいのか定まらない。
科学は日進月歩だから、情報には新しいものも古いものもある。それを私たちはどう見極めればよいのかというと、なかなか難しい。
この作品はわかりやすい比喩と、わかりやすい数字を用いて私たちの行動や気持ちに訴えてくる。
また、著者あとがきとして掲載された新聞記事の文章では、コロナによって起こった全ての事象を「僕は忘れたくない」の言葉で何度も訴えかけてくる。次に起きてしまう可能性のあるパンデミックや混乱に対して、私たち一人ひとりが考えていかなくてはならないということ、そしてゆくゆくはみんなで考えなければならないことも強いメッセージで訴えている。
この作品は過去の作品ではなく、現在にも必要とされている作品であると思った。