石光真人のレビュー一覧
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会津藩の武士であった柴五郎の生涯の記録。敗者となった会津のあまりにも凄惨な現実が描かれている。
戊辰戦争において、突如として「朝敵」の烙印を押された会津藩。新政府軍(薩摩)の侵攻による虐殺、強奪、強姦。一ヶ月に及ぶ籠城戦の末、薩摩の魔の手にかからぬよう自刃を選んだ大勢の婦女子たち――。柴五郎の母や妹もまた、自刃して果てた。家は焼失し、すべてを失う。
社会を変革する「革命」の瞬間、旧勢力は昨日までの正義から、突如として社会の敵へと反転させられ、容赦なく滅ぼされる。会津藩は代々将軍家に忠誠を尽くし、京都守護職として天皇からも信頼を得ていたはずだった。それがいとも簡単に「賊軍」へと仕立て上げられてしまう不条理。
さらに切ないのは、徳川(江戸)が早々に無血開城して戦線を離脱した点だ。幕府への怨念を一心に引き受ける形となった会津は、徹底的な攻撃に晒されることとなった。彼らの無念と絶望は、いかほどであったろうか。
しかし、地獄は戦争が終わっても続いた。
戦後、会津藩は青森の下北半島(斗南藩)へと藩ごと移住させられる。そこは本州の最果て、極寒と飢餓が支配する不毛の地であった。犬の死肉すら貪りながら生き延びる日々。それは単なる敗戦の罰を超え、会津の血統とプライドをじわじわと抹殺しようとするかのような過酷さである。
作中、柴五郎が薩摩を「狼藉もの」「下郎」と称する気持ちが、痛いほど理解できる。だからこそ、のちに歴史が反転した瞬間の記述が深く印象に残る。明治10年、西南戦争が勃発。かつて自分たちを蹂躙した薩摩が、今度は新政府に対する「朝敵」となり、会津の人々はその薩摩を討つために官軍として志願していった。柴五郎が日記に記した、「芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」という言葉。
現代の感覚からすれば苛烈な表現かもしれないが、あの地獄を見た彼らにとって、これは単なる復讐心を超えた「歴史の因果応報」であり、神仏の証明のようにも感じられたのではないか。
華やかな維新の裏で、徹底的に踏みにじられた人々がいたことは、知るべき歴史的事実であると思う。 -
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江戸から明治という、現代からすれば教科書の世界に生きた、しかも官軍側ではなく会津側の武士の子の記録。
涙なしに読めないと帯にあるが嘘はない。
通常薩長による明治維新から西南戦争までを英雄たちの話のように語るがそれは勝者の糊塗された歴史であり、その過程で敗者となり祖母、母、姉妹全て自刃しながらも、生き延びる姿が想像を超える苦難。
のちに義和団の乱の指揮をとり、陸軍大将にまで昇る柴五郎という人の内面がとても興味深い。
明治人の特性なのか、武士道の名残なのか、多くは語らず人の道を外れることはしない。
もちろん薩長への復讐たるはあるが、その恩讐を超えて生きる姿に感銘を受けた。 -
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明治維新前後からの、会津藩の辛苦を、被害者でありその場で遭遇・直面した柴五郎の経験から知る。
歴史は勝者のための、当時の今の政治体制のためのものだと改めて認識する。
藩の若輩の暴走によって起こった明治維新。旧藩主や重臣たちは、彼らを危惧し、漸進改革を考えていた。軽輩は、統治してきたものとは考え方が違うが、本人たちはそれに気付かず、自分たちが正義と思い込む。謙虚さや誠実さを感じない。
会津藩が藩として流刑のように下北半島に移封されてたことは初めて知ったことであり、その他にも薩長土肥藩の占有や立場の違いなど、直面した人の目と耳を通じて、初めて知ることばかり。
能力無き者が軍に多くなり、中国通を退けたことによって、収拾できないほどに拡大した先の大戦。
謙虚に、先を見通し、構想を練る。
誠実に。
今も当時と同じではないだろうか。 -
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ロシア革命後に陸軍嘱託としてブラゴヴェシチェンスクおよびアムール川を挟んだ対岸の黒河に特務機関を設置して情報収集に当たった時期について書いたもの(本文に特務機関という語はない)。
ボルシェビキの地域代表者や、反革命を謳う元の市長やコザック部隊、ドイツ=オーストリア(独墺)軍の捕虜から転じて赤軍に協力する部隊、独墺からの独立運動を行うチェコスロバキア兵、といった勢力が割拠するシベリアが描かれる。
長年にわたってブラゴヴェシチェンスクに在住していた日本人たちの自警団は陸軍から武器の援助を受けていたため、反革命勢力から自警の範囲を越えた協力を求められ、赤軍に包囲された戦闘で犠牲者を出す。
石光は軍属として影響力を及ぼすが、その結果を悔やむ(とはいえ、明確な指揮権はないようだ)。
結局、チェコスロバキア兵救援という名目でシベリア出兵が行われるが、反革命勢力の救援という現地の期待とは違い、ブラゴヴェシチェンスクにやってきた日本軍部隊は暴行略奪を行い失望を買う。
石光は現地の不満と陸軍との板挟みになり、ウラジオストック派遣軍の司令官に窮状を訴えるも「日本軍に忠告に来たのか」と難詰され、職を辞す。
ボルシェビキの代表者も、元市長(反ロマノフではある)も、一介の人物であり彼らとの交流は意見の相違を超えた交際であった。
しかし、ボルシェビキの代表は日本軍に捕らえられて逃走を図って射殺され、元市長も赤軍の優位が明確になり亡命し、石光も失意のまま去る。
その後の石光は錦州で行っていた事業も破綻し、三宿にあった三等郵便局長の地位も「特定三等局になったので解任」され、自費で整備した施設は二束三文の賃料で召し上げられた。
一人で子供を育て、経済的にも窮乏していた妻は身体を壊していた。
本人も家族もなんら報われることのない満州生活が終わったところで全4巻完結。
公開を予定していなかったメモだけに、生々しさに満ちている。シベリア出兵の現場感覚での無謀さとだらしなさはもちろん、石光が帰国途上にハルビンで出会った亡命ロシア人の3人娘たちの様子なども、私的メモだからこそのリアルだろう。 -
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・東京に留まることを家族から望まれながら幾度も大陸へ「帰って」いく真清の姿を鏡として、自分は家族を幸せにできているのか自問せずにいられない。食べていくに困らない給料をもらい、平日は子供が寝る前に帰宅し、週末はどこか少し遠出をして好奇心を満たす、そんな平穏な日々を過ごせている幸せを自覚した。
・シベリア出兵の政策的欠陥についても考えさせられる。領土拡張を目的とする出兵であったなら戦線を広げすぎたし、戦力の逐次投入は避けるべきであった。連合国との国際協調及び革命思想の伝播阻止を目的とするなら、ロシア反革命勢力を一貫して支援し、連合国の不信を惹起する過剰戦力の投入は避けるべきだった。そもそも、英仏は対独戦争を優位に進めるため東部戦線を復活させたかったに過ぎないのだから、これを見越してプランを練っておく必要があったはずである。明確な出兵目的の欠落が、行き場を失った兵士のモチベーションとモラルの低下につながり、現地民に対する掠奪・暴行を招いたのではないだろうか。 -
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「名著、刷新!」ということで復刻されたものです。会津の柴五郎氏の遺書を第一部に、その後や解説を第二部にまとめています(第一部は文語体ですが、徐々に慣れて読みやすくなります)。
「西郷どん」に見られるようないわゆる薩長からの視点ではなく、反対側に立った会津の視点がよくわかります。かつては京都や幕府を守り、ロシアと事が起これば駆けつけながら、最後には朝敵・賊軍と呼ばれるようになった会津。そのため、塗炭の苦しみを味わった柴五郎氏(後に陸軍大将)の真情の吐露は、旧来の歴史観だけに固まってはいけないのだと思わせます。
西南戦争での政府軍の派遣にあたっては、「芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と日記に記し、西郷・大久保ともに去ったあとには、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」と書き残しています。
明治150年も、会津地方などに配慮して、戊辰150年とも呼ぶそうですが、150年たっても人々の記憶に残るのはさもあらんと思う次第です。
歴史を見る上では、さまざまの立場への目配り、心配りが必要なのだと、しみじみ感じさせる一品です。 -
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1971年の初版から改版も含めると60版になる、このようなロングセラーがあることを知らなかった。柴五郎は、会津藩士の子として生まれ、10歳の時に戊辰戦争が起こった。父や兄たちは戦場に向かった。そして祖母・母・姉妹(妹は7歳!)等は、会津の籠城戦前に自刃している。五郎は家系を残すため、それとは知らされず親戚に預けられていた。
戊辰戦争の終結後、会津藩のみ処罰的ともいえる現在の青森県への移封がなされる。実際は流刑ともいうべきもので、生活は辛酸を極めた。「野垂れ死に」を期待するかのように。しかし武士の意地で、薩長を見返すために生きた。犬の肉を無理やり飲み下すというくだりでは、望月三起也「ワイルド7」で、飛葉が小便まみれの腐った肉を食うシーンを思い起こした。目的があるなら、何としてでも生きるのだ。
そして現代と違って「自己責任」で片づけない、困窮している人がいれば助けるのを是とする人たちの支援で、陸原幼年学校に入学を果たす。長州閥が幅を利かす陸軍で閑職に補されることもあったが、最後は大将まで昇進する。晩年、「近頃の軍人は、すぐ鉄砲を撃ちたがる、国の運命を賭ける戦というのは、そのようなものではない」と語っていた。昭和17年秋には既に「この戦争は負けです」とも。昭和20年12月没、享年87歳。 -
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心に深くしみる名作。武士の誇り高さを感じるとともに、この精神性を失ってしまった日本を見て、果たして維新は本当に良い選択だったのかと、疑問に思う。
厳しさの中にも、深い愛情がある柴家。苦境の中でも家族や仲間を思いやる場面は、涙なくしては読めない。
歴史は常に勝者の側から書かれていることを思い知らされた。維新の歴史は、薩長の活躍ばかり描かれているため、会津藩は旧体制にしがみつく抵抗勢力だと誤解していた。
本作は、古い文体で書かれているが、文体に慣れていなくても、音読すると、読みやすい。
また、柴翁の幼少期の回顧録として書かれており、所々に、翁幼少期の可愛らしいエピソードが盛り込まれているため、読んでいて飽きることがない。
日本人として読んでおきたい一冊だ。 -
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ある明治人の記録と言うことだが無名な方ではなく会津藩出身の元陸軍大将、軍事参議官などを務めた方の物語である。ただしこの方の生き方や生き様、若い頃の苦労は涙なくしては語れないほどの刻苦精励さ、隠忍不抜、臥薪嘗胆といった内容が、その単語を使わずとも滲み出ている日記録である。若い頃のとてつもない苦労と誠実さが文面より溢れ出ている書籍であり、本来公にするものではない日記録であった。これは当時の柴五郎と言う方の直筆の記録であり江戸幕府から討幕、維新を迎える頃の会津藩出身の一武士の物語である。
最終的には日本にとって莫大な功績を残した人物と言えるのですがほぼ知られていないのが、悲しい所です。日本の歴史の中で偉大な人として称賛に値される方でしょう。 -
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明治元年熊本に生まれ昭和17年に没した元陸軍軍人の残した手記。明治維新から敗戦までの期間の短さと明治人の気概が伝わってくる一冊は名著の予感。
全四巻中の一冊。あまり前知識なく読み始める。ロシア関係の諜報活動に従事した方らしい。
少年時代を故郷熊本で過ごし神風連の乱や西南戦争を体験、その後幼年学校から陸軍軍人となり日清戦争に従事、対露諜報活動の必要性を痛感しロシアに渡るまでが第一巻。
作家でない一般人の作品ではあるが文章に情緒が感じられる。個人の資質かはたまた漢文に精通した明治人ならではなのか。
日本の歴史の中で明治維新ほど日本人の生活もメンタリティも変えた事件はなかっただろう。激動の中で中で生きていく没落士族そして薩長に負けない明治人の気概。
決して出版を望んだわけではなかった遺稿を遺族がまとめたものだとか。
4分の1通過時点で早くも名著の予感。 -
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日清戦争後にロシアに対する危機感を持った石光が対露諜報を志してシベリアに渡ってからの話。
義和団事件の余波からブラゴヴェシチェンスクでの清国人大虐殺(アムール川事件)を目撃し、満州への進出を本格化させたロシア軍を追うべく北満に侵入する。
あるときは馬賊の仲間になり、あるときはロシア軍の出入り業者になる。そして現地にいた日本人女性を助けたり、助けられたり。
すごい波乱万丈。あまりにも劇的なので実話なのか怪しく思わないでもない(本人の複数の手記で一貫していない部分もあるし)。本書の原型は戦中に公刊されているので、脚色が必要だったのかなと思ったりもする。
ともかく、ただただ圧倒される。
日露開戦で帰国したところまでが本書の範囲。第3巻で日露戦争やらが描かれるのか。 -
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ネタバレ古い文体でだいぶ読みにくいが良書。下記に適宜、付箋を貼った個所を記そうと思う。
二部構成になっていたので、二部の感想をここで。柴翁に日記の原稿を見せてもらった本書の著者の記述。昭和の人らしく、先の大戦への自虐的反省が時代を感じた。付箋を貼るような箇所はなく、著者の思い出と歴史観の記述。
第一部は星五つ。感動もあった。第二部は星三つ。本書の-部分。
下記には付箋を貼った個所の要約:
26-27:柴五郎翁の晩年(先の大戦中の本書執筆のころ)には、すでに会津戦争の嘘がまかり通っていたらしく、心を痛めている。曰く、会津は武士階級のみの戦闘であったなどは事実とだいぶ違い、自由意志による農民町民の応募兵が数千人規模でいた、との事。それだけ藩が慕われていた。
51:会津戦争のさなか、御山という場所には、敵味方を問わず負傷者を見る病院が開設されていた。会津側か、新政府側か、それとも他藩か個人か、どの勢力の病院かは記載なし。
56:敗軍の将兵として会津から江戸(東京)に護送されるさなか、他藩の武士とすれ違う時、彼らは目礼をするか一切興味なしといったふうで接した。武士としてのたしなみと感じたとの事。
76:下北半島に配流され、貧農生活をしている時の父の言葉。「会津のあだ撃つまでは、ここも戦場なるぞ」と心得た、とのこと。
86:薩長の下郎どもに一矢報いる、との執念で日々の仕事、縄を編む仕事に没頭した。
129:縁あって草創期の陸軍幼年学校に入学。そのさなか、西南の役が勃発。学友に薩摩のものもいて帰郷するしないで騒動。多くの者、帰郷。柴五郎も戦闘配備に回され、歴史が動く時の証言者としての記述をしている。
137:草創期の幼年学校は色々と不備や不公平があった。それに黙っておらず、生徒らはいまでいうところの学生争議のようなことを大いにしたもよう。然しながら晩年の著者は、それでも出世には影響なく、みな出世していたと述べる。
第二部は柴五郎から記録を受け取ることになる、石光氏の記録。
146:昭和17年のまだ緒戦のころ、柴翁は「この戦争は負けだよ」と見抜いていた。石光氏がいくら状況を説明して、勝てると述べても、柴翁は負けると分かっていたとの事。 -
Posted by ブクログ
本書は薩長藩閥政府が華やかに維新を飾り立てた歴史から、全く抹殺された暗黒の一節である。それは生き残った会津人柴五郎、上級武士の5男として生まれ、少年期から陸軍大将まで昇りつめた生涯の遺書となった。10歳の時、会津戦争で祖母、母、姉妹は会津城で自刃し、落城後に江戸に俘虜として収容され、その後2年間、氷点下20度を超える下北半島の火山灰地に移封、飢餓生活を余儀なくされ、脱走、下僕、流浪の果てに兄の伝で青森県庁で給仕、15歳から軍隊に、31歳で清国、42歳で北京駐在武官で総指揮官として活躍、陸軍大将、台湾軍司令官などを歴任、軍事参議官を最後に65歳で退役、87歳で没。新政府では薩長の「軽い者」が権力の座につき専横、巨額の俸給など浪費に明け暮れた激動の時代と解説、それにしても会津藩出身者(主に少年と農民)への処罰は正に「飢餓させるための移封」(下北半島の極寒の厳しさと農作物が育たない火山灰地帯)であり怨みを持ったからこそ飢えにも寒さにも耐え生き延びた強靭な精神は想像を絶する。印象ある言葉は「薩長の下郎どもが何かをなすかを見届けよ、もし辱めを受けくれば、江戸にても何処にても斬り死か、腹掻っ捌いて会津魂を見せてくれようぞ」
「軽い者」脳のない輩たちが権力を持つ世界はどの国も、どの時代も同じだ、と痛感する。