この本は書評よりも実際に読んでほしい、そんな書です。書評として要約して描くには一貫して感情にあふれ、濃密です。
本書は2部で構成されており、第1部が柴五郎の遺書、第2部は本書の編者である石光氏による柴五郎と彼の生きた時代の概観となります。
第1部が本書の中心を成しますが、第2部も編者の目を通して柴
...続きを読む五郎の人となりに触れられるのでとても興味深いです。
例えば柴五郎が編者に日記の整理をお願いするくだり
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翁(柴五郎のこと)はこれを私に貸与するにあたって、きわめて謙虚慇懃に添削、訂正を求められ、私は恐縮当惑するばかりであった。
「私は少年時代に戊辰戦争のため勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、十分な教育が得られませんでした。
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幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。
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そのような基礎教育を十分に受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。
ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。余計なことをお願いして済みませんが、添削してください。
書き足りないところ、疑問に思う個所についても指摘してください。」
このような謙虚な言葉に私は恐縮した。
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柴五郎といえば、大正期に陸軍大将までのぼりつめ、軍事参議官にも任じられた重鎮。それがこのような謙虚な態度で接するのは氏の人柄をよく表していると思います。
柴五郎の遺書は、戊辰戦争前の会津での暮らしの描写から始まります。高級武士の子弟として満ち足りた境遇にありましたが、その躾は厳しかったようです。
しかし徳川慶喜の大政奉還後、次第に不穏な空気が東北に立ち込め、会津に戦争の足音が近づくにつれて日記にも緊張感があらわれてきます。
会津では兵員不足のため、農民や猟師だけでなく力士、修験者、僧侶までも編成に加えた言及があり、総力戦で戦いに臨んだことがわかります。
官軍が会津に進軍する中、五郎は姉の誘いを受けてしばし城下を離れます。その誘いに母親もすぐに賛同し、上等な洋服や小刀、手拭い、懐紙など一通りそろえて五郎に持たせています。おそらく五郎を戦火から逃れさせるために一芝居打ったのでしょう。
その後城下が戦場になった折に、祖母、母、姉、妹は全員自害することになります。
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これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。
嗚呼思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。
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この時の家族との死別は柴五郎の心に大きな傷を残したのでしょう。
第2部に、編者が五郎から話をうかがっている描写においても以下のようなくだりがあります。
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思い出すままぽつぽつと語られ、時折言葉が途絶えてしまう。気が付くと翁はひそかに腰の手拭いを手にして両目をおおわれていた。その心境が少年時代をただ懐かしむ懐旧の情だけではないことを、本書をお読みになった方にはお分かりいただけると思う。
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このとき五郎の脳裏に浮かんだのは、戦時に死別した家族の顔だったのではないでしょうか。
戊辰戦争において会津は薩長軍に敗れ、斗南藩に移封されます(※)。
(※)この斗南藩での状況は『斗南藩ー「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(星亮一/中公新書)が詳しいのでぜひ読んでみてください。
斗南藩での暮らしは過酷の一言。
氷点下10~15度にもなる極寒の中、寝る際にも掛ける布団がなく、粥も石のように凍る世界。餓死か凍死かの極限の世界の中で生活することになります。特に驚いたのが、厳冬の中においてさえも「裸足」で過ごさなければならなかったという点!
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氷点下十五度を降ること稀ならず、常に足踏みしてあるか、あるいは全速力にて走るほかなし。
足先の感覚を失いて危険を感じ、途中の金谷村の三宅方に駆け込んで少時暖をとり、夏のままの衣類を風に翻して、また氷雪の山道を飛ぶがごとく馳せて・・・
父上、兄上もこれを見て、履物を工面戦とセルも容易ならず、ある日、余は耐えかねて野口叔母を訪ね、履物の借用を願いたるも、貸す余裕なしと断らる。
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このような境遇において子供心においても薩長を憎まないわけがない。
しかしこの境遇から脱するきっかけを作ってくれたのは図らずも薩摩出の野口豁通で、全体を見ても柴五郎の人生の潮目が変わったのはこの人物との出会いだったと思います。
彼は薩摩出にもかかわらず東北各藩の救済に奔走し、彼が取り立てた書生からは後藤新平や斎藤実などの傑物が数多く輩出されています。
柴五郎は西郷隆盛や大久保利通に対して辛辣に評価し、彼らの死にも一片の同情も表していない一方で、野口豁通に対してはその温情への感謝を重ねて表しています。人との出会いの大切さがよくわかります。
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野口豁通の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を見るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず、常に温顔を綻ばすのみなり。
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柴五郎が陸軍幼年学校(の前身)に入校できたのも野口豁通の力が大きいでしょう。
この第1部(柴五郎の遺書)自体はこの幼年学校在籍時の途中で終わります。そのため不完全燃焼というか、中途半端感があります。
しかし若いうちに過酷な経験をした一人の会津人の気概や悲哀に、当人の言葉で触れられるのは読んでいて新鮮です。
また当時の時代状況(国軍創立や西南戦争など)を当事者視点の描写も参考になります。