石光真人のレビュー一覧
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小学校高学年になって「日本史」を学び、その最後の方に「明治維新」や「尊皇攘夷」等を習う。そして、幕末の偉人達の話をあたかも物語のヒーローの話を聞くかのように学ぶ。あとは、NHKの大河ドラマが色合いを与え、そして「あなたの日本史の理解は正しいですよ」と太鼓判を押してくれる。これで、典型的な日本人が出来上がる。だが、本当にそうなのだろうか?
この本は、ある意味そんな典型的な日本人の曇った眼を覚まさせてくれる一冊である。
「明治維新」とは、兎に角よいイメージのワードであるが、実は立派なクーデターである。薩長土肥の田舎下級武士と農民上りの武士もどきが、それまで天下を収めていた江戸幕府を滅ぼしたクーデターだ。そして、江戸幕府の中心にいた人物達は、逆襲を恐れた新政府が生かさず殺さず状態に留め、そのツケを何も悪いことをしていない会津藩の人達に払わせた。それが、このクーデターの真実である。それが、手に取るようにわかる。そのやり方が、やはり田舎の農民上りや下級武士らしい。しょせんは、臆病者なのである。
そんな連中に地獄のような思いをさせられた会津藩の人達はさぞ悔しく、無念であったことと推察する。それが筆者の言葉から十二分に伝わってくる。それが、悲しい。
また、もうひとつわかったことは、やはり「正しい生き方をした人間が幸福になり、悪いことをした人には天罰が下る」とういうことは、誠に残念ながら人間の単なる妄想であるということ。筆者の姉妹や母親等、何も悪いことはしていない。しかし、理不尽にも自刃する道を選ばざるを得なくなった。これが人間社会。人の世であるということ。その時、その後、薩長土肥の人間達は、美味しい思いをしたのだろうなと思うと、これがたまらない。
色々考えさせられる本である。
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いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢すでに八十路を越えたり。
柴五郎翁遺書冒頭の一文です
ハードSFの名作のあとにこれ、我ながら振り幅がエグいw
柴五郎とは
戊辰戦争で朝敵とされ新政府軍と戦い敗れた会津藩の生き残りであり、藩主松平容大と共に斗南藩(現在の青森県むつ市周辺)へと移住
寒冷地で極貧の生活を耐え抜き、陸軍大将にまで上り詰めた人物
清国駐留時の義和団の乱に於いて防衛戦の実質的な指揮をとり、その有能さと人柄から欧米各国からも尊敬された
そんな翁の戊辰戦争から士官学校までの半生を「遺書」という形で自ら綴ったものを編者が分かりやすく整えたのが本作です
まさに明治維新を会津の側、裏側から見た歴史的にも価値のある記録と言えます
明治を生き抜いた人が書いた文章ですので、冒頭の様にはっきり言って読みにくいんですが、なぜか非常に引き込まれました
うーん、読んでるうちにあんまり気にならなくなってるんよね
日本人の血というやつか?違うか
この明治維新の会津視点って多分初めて読んだと思うんですが、やっぱり新鮮でした
歴史を振り返るときは勝者からの視点だけでは足りないよねって感じました
かなりひどいことしてます、薩長
そして西南戦争で西郷隆盛が自害し、時を置かず大久保利通が暗殺されると「芋征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と喜んだというから、やはり恨み骨髄だったんでしょうな
歴史というのは時々の為政者つまり勝者によって都合良く記されていくというのは歴史の必然でもあるのだなぁとあらためて感じた一冊でした -
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ノンフィクションならではの迫力。明治時代にロシアと満州で日本陸軍の諜報員として働いた石光真清氏の手記を息子が編集した4部作の第2巻。
日露戦争前の緊迫した時代である。クリーニング屋や写真屋などの仮面をかぶりながら、石光氏はロシアや満州の状況を探る任務を負った。
当時、満州やロシア東部にこんなにたくさんの日本人が暮らしていたというのが驚きである。通信手段も交通手段もほとんどない時代に、小さい町に住んでいたのだ。本書の描写を読むと、暮らし向きはとても劣悪で、過酷である。特に女性は苦しい環境にあったようだが、数か国語を話して陰でサポートしていた様子がうかがえる。
途中で病に倒れたり、捕虜になりかけたりしながらも、よくも生きて帰れたものだ、と感心する。日本人は現地では第三者的な位置づけにいたらしいが、残酷なロシア軍にばれたら終わりである。
生で体験した数少ない手記だが、これだけの歴史資料があまり読まれていないのが不思議である。 -
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この本を読みながら、次の二つのことを思い出した。1つは、国による暴力装置の独占。もう1つは、教育は社会移動の装置ということ。
国による暴力装置の独占は、近代国家のあり方の基本だか、明治維新の時代は、暴力階層が過剰だったのではないかということである。武士階級は、江戸時代には、朱子学によって、何とか抑えられていたが、そこから解放されてしまい、暴力過多の状態が生まれ、それが、この本で語られる会津撲滅、西南戦争にも繋がったのかもしれないということ(意図したかどうかは別にして)。
どん底に追いやられた柴五郎少年は、開設されたばかりの陸軍幼年学校に入り、そこから、立身出世を遂げる。まさに、恵まれない階層の、しかも、賊軍出身の少年が、教育を獲得することで、社会移動を実現する。明治日本には、このような社会移動装置としての教育が機能していたということ。ただ、この機能があまりにも上手く機能したことで、社会階層を固定化する装置になってしまったのが、今の状況なのかなということを感じた。
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日露戦争とその後の満州浪人時代について、これも率直に書いている。
開戦により召集されて臨んだ日露戦争については、戦記としては既知のことばかりだが、具体的な場面の記述については凄惨さ、苦戦ぶりを率直に書いている(公刊されたのは戦後、遺族によって)。
終戦後は除隊し、一般社会で生きていく道が探せずに満州浪人になった経緯をこれもあけすけに書いている。明治も末になって陸軍も規則づくめの組織になって、「何者だか不明な元軍人」が出入りするのは容易ではなくなったことで、満州浪人は文字どおりの浪人であった。
大した成果もなく帰国し、特定郵便局長の地位を得て生活し、明治天皇の崩御を迎えるまでが書かれている。
この時代において、実情を率直に書いていることに価値があると思うが、地味だし、気勢は上がらない。読んでいても明るい気分にはならない。しかたなけど。 -
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ネタバレこの本は書評よりも実際に読んでほしい、そんな書です。書評として要約して描くには一貫して感情にあふれ、濃密です。
本書は2部で構成されており、第1部が柴五郎の遺書、第2部は本書の編者である石光氏による柴五郎と彼の生きた時代の概観となります。
第1部が本書の中心を成しますが、第2部も編者の目を通して柴五郎の人となりに触れられるのでとても興味深いです。
例えば柴五郎が編者に日記の整理をお願いするくだり
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翁(柴五郎のこと)はこれを私に貸与するにあたって、きわめて謙虚慇懃に添削、訂正を求められ、私は恐縮当惑するばかりであった。
「私は少年時代に戊辰戦争のため勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、十分な教育が得られませんでした。
・・・
幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。
・・・
そのような基礎教育を十分に受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。
ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。余計なことをお願いして済みませんが、添削してください。
書き足りないところ、疑問に思う個所についても指摘してください。」
このような謙虚な言葉に私は恐縮した。
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柴五郎といえば、大正期に陸軍大将までのぼりつめ、軍事参議官にも任じられた重鎮。それがこのような謙虚な態度で接するのは氏の人柄をよく表していると思います。
柴五郎の遺書は、戊辰戦争前の会津での暮らしの描写から始まります。高級武士の子弟として満ち足りた境遇にありましたが、その躾は厳しかったようです。
しかし徳川慶喜の大政奉還後、次第に不穏な空気が東北に立ち込め、会津に戦争の足音が近づくにつれて日記にも緊張感があらわれてきます。
会津では兵員不足のため、農民や猟師だけでなく力士、修験者、僧侶までも編成に加えた言及があり、総力戦で戦いに臨んだことがわかります。
官軍が会津に進軍する中、五郎は姉の誘いを受けてしばし城下を離れます。その誘いに母親もすぐに賛同し、上等な洋服や小刀、手拭い、懐紙など一通りそろえて五郎に持たせています。おそらく五郎を戦火から逃れさせるために一芝居打ったのでしょう。
その後城下が戦場になった折に、祖母、母、姉、妹は全員自害することになります。
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これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。
嗚呼思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。
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この時の家族との死別は柴五郎の心に大きな傷を残したのでしょう。
第2部に、編者が五郎から話をうかがっている描写においても以下のようなくだりがあります。
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思い出すままぽつぽつと語られ、時折言葉が途絶えてしまう。気が付くと翁はひそかに腰の手拭いを手にして両目をおおわれていた。その心境が少年時代をただ懐かしむ懐旧の情だけではないことを、本書をお読みになった方にはお分かりいただけると思う。
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このとき五郎の脳裏に浮かんだのは、戦時に死別した家族の顔だったのではないでしょうか。
戊辰戦争において会津は薩長軍に敗れ、斗南藩に移封されます(※)。
(※)この斗南藩での状況は『斗南藩ー「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(星亮一/中公新書)が詳しいのでぜひ読んでみてください。
斗南藩での暮らしは過酷の一言。
氷点下10~15度にもなる極寒の中、寝る際にも掛ける布団がなく、粥も石のように凍る世界。餓死か凍死かの極限の世界の中で生活することになります。特に驚いたのが、厳冬の中においてさえも「裸足」で過ごさなければならなかったという点!
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氷点下十五度を降ること稀ならず、常に足踏みしてあるか、あるいは全速力にて走るほかなし。
足先の感覚を失いて危険を感じ、途中の金谷村の三宅方に駆け込んで少時暖をとり、夏のままの衣類を風に翻して、また氷雪の山道を飛ぶがごとく馳せて・・・
父上、兄上もこれを見て、履物を工面戦とセルも容易ならず、ある日、余は耐えかねて野口叔母を訪ね、履物の借用を願いたるも、貸す余裕なしと断らる。
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このような境遇において子供心においても薩長を憎まないわけがない。
しかしこの境遇から脱するきっかけを作ってくれたのは図らずも薩摩出の野口豁通で、全体を見ても柴五郎の人生の潮目が変わったのはこの人物との出会いだったと思います。
彼は薩摩出にもかかわらず東北各藩の救済に奔走し、彼が取り立てた書生からは後藤新平や斎藤実などの傑物が数多く輩出されています。
柴五郎は西郷隆盛や大久保利通に対して辛辣に評価し、彼らの死にも一片の同情も表していない一方で、野口豁通に対してはその温情への感謝を重ねて表しています。人との出会いの大切さがよくわかります。
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野口豁通の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を見るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言をもってせず、常に温顔を綻ばすのみなり。
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柴五郎が陸軍幼年学校(の前身)に入校できたのも野口豁通の力が大きいでしょう。
この第1部(柴五郎の遺書)自体はこの幼年学校在籍時の途中で終わります。そのため不完全燃焼というか、中途半端感があります。
しかし若いうちに過酷な経験をした一人の会津人の気概や悲哀に、当人の言葉で触れられるのは読んでいて新鮮です。
また当時の時代状況(国軍創立や西南戦争など)を当事者視点の描写も参考になります。 -
Posted by ブクログ
この本の本編部分は著者の息子さんが遺稿を整理して世に出したものだが、巻末に「思い出の記」として著者オリジナルの原稿からの抜粋が収められている。これが興味深いもので、本編の内容がかなり脚色されていることが窺われる。そこから推測すると、おそらく西南戦争での薩軍との交流の記述あたりなども、編者がたいした悪気もなく「盛っている」のではなかろうか。
それはそれとして面白いし、明治という時代の息遣いを感じることができる。ほんとうに人が若くして病気で亡くなる。
ところで西南戦争のくだりで谷干城が「美髯の老人」として描写されるが、谷は当時40歳くらいである。当時は40歳だと立派に老人だったのだろうか、それとも後の記憶で上書きしてしまった結果だろうか。今の40よりだいぶ老けていたには違いなかろうが。 -
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明治時代に中堅武士の過程に生まれた石光真清の手記を息子の真人がまとめたもの。武士といっても、時代はすでに明治時代。真清の青年時代に西南戦争があり、彼の人生に大きな影響を与えたようだ。
歴史小説はたくさん読んできたが、この本がすごいのは、実際に明治・大正・昭和(1巻は明治のみ)の世の中を体験してきた本人が書いているところだ。つまり、リアルなのである。
昔は本当に優秀な人が多くいたのだな、と感じる。兄弟たちも立派だが、皆九州から上京して商社に勤めたり陸軍の学校に入ったりしている。
本書では、著者が日ロ戦争を前にロシア語にのめり込むようになったいきさつが書かれている。