著者は臨床医として1979年から「ぼけ老人・寝たきり老人」と呼ばれる人たちを診ることになり、その人々の中では何が起こっているのかを考えるようになる。
本書はある機関紙の連載として「痴呆症」が「認知症」に変えられる前から始まっていたということと、「「認知症」が用語としてきわめて不完全であることから、必要な場合には「痴呆」を残しました。その最大の理由は、われわれは皆、程度の異なる「痴呆」であるからです」ということからこの題名となった。カバーの折り返しに「終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ、そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす」とあるのが、内容をよく要約している。
2005年春から、「痴呆症」の代わりに「認知症」という呼称が使われるようになったが、それに対する著者の意見には同意できる。「「痴呆症」という言葉に、差別的意味合いがあるからといわれます……結局、「差別」をもたらす名称とは、その社会で「異質」であり、社会の多数派から疎まれる対象に貼られた「ラベル」と理解されているようです。換言すれば、多数派が好まぬ異質な特性を連想させる表象です。とすれば、差別の本当の原因は、ラベルそのものより「異質で厭わしい特性」にあります。病気はその好個の例で……差別用語を非差別用語へ変えたところで、その特質――「異質で厭わしい」という「認識」自体が変わらないなら、単なるラベルの貼り替えにすぎません。」
人の心のあり方を仏教の唯識の考え方で説明しているが、「つながりの自己」がキーワードになると思う。日本人は「家族や周囲の人に迷惑をかけたくない」と考え、また一方では「引きとめようとする周囲の力」もある。「年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている、という感覚があればその人は「健康」でありうる」のだという。実際、著者が純粋痴呆とよぶ、知力が低下した老人が他人に迷惑な周辺症状を現すことなく、おだやかにふつうに過ごすことができる例がある。
と、ここまで書いたが、本書の全体像をうまく伝えられない。読み終わって、目が開かれたような気もするが、なにやら霧がかかったまま終わってしまったようにも思える。著者は、読者を啓蒙しようとするのでもなく、認知症の扱い方を説こうとするのでもなく、自分も認知能力の中核である記憶力が衰え始めた一人の高齢者として、人の心の中で何がおきるのかにただ迫ろうとしているせいなのかもしれない。