宮野真生子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
固定しない。固定されない。人間はもっと多面体。
同名映画の原作にもなった、がん患者の哲学者・宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんの往復書簡です。たった2ヶ月間の往復書簡ですが、この短期間に人はここまで魂を分け合えた実感を得ることができるのかと、わたしには想像できないほどの驚きがあります。ノンフィクションの強さは、「本当にこんなやりとりがあった」「本当にこんな人たちがいた」「本当にこんな経験があった」という実存的な説得力にあると思います。
生と死を見つめるような哲学的な対話ですから、さぞかし重苦しい内容なのではと読む前は思いましたが、装幀はポップだし、基本的におふたりは友人同士ですから、なごやかさもあり、ピリッと緊張感が走ったり、くだけてみたり、真面目に問いを立てたり答えたりと、とても読みやすい作りでした。
この本の中で印象的だったのは、「固定化」についてです。この本の中で宮野さんは、他人が勝手に「若くして転移に見舞われた不幸ながん患者」という固定されたイメージ、一面的なレイヤーでしか宮野さんのことを見ないことへの強い不満を訴えています。宮野さんの手紙から引用するなら、「不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです」これを読んだときに膝を打つ思いでした。
その後に続く、レッテル貼りやバイアスに抵抗できずに思考停止なんてするな。固定されて、点になるな。生きた線を描くのだという強いメッセージに深く共感しました。人間はさまざまな役割や肩書のレイヤーを幾重にもおり重ねた存在です。宮野さんでいうならば、彼女は哲学者であり、女性であり、著者であり、野球ファンであり、友達であり、娘であり、パートナーであり、がん患者であり、、、無限にあるそのレイヤーの中から、がん患者だけをとりあげ、がん患者への適切な、間違いのない態度だけをとって接することは、はたして本当に誠実なことなのでしょうか。
そう考えると、なんて世の中は固定化に満ちてるんだと思えてきます。偏見、正義の主張、政治発言。そこかしこに固定化はある。でもそれは、わたしの中にも確かにあるのです。他人はもちろん自分自身をも、勝手に作り上げたストーリーの登場人物として組み込んで、固定化する。そんな経験は何度もあります。それは、ある程度のところで足場を固定しないと、次の考えに向かえないから。
でも現実に様々な気持ちを感じながら日々を生きているわたしたちは、四捨五入してバッサリ切り捨てられる数字のようにはいきません。感情の世界では、あなたの四はわたしの四と同じとは限らないからです。だから固定化せず、固定化されず、たえず揺れ続けることを怖がってはいけないと思います。細い足場の上で静止するでもなく、下に落ちるでもなく、やじろべえのようにユラユラ揺れることが自然なんだ、と。退屈と苦痛のあいだで揺れ続けるのが人間だとショーペンハウアーも言っていました。白や黒ではない、そのあいだの広大な灰色のグラデーションの領域を行きつ戻りつすることが、今を生きるうえで大事な姿勢ではないかと思います。
後半、磯野さんは相当な覚悟をしただろうという想像に難くない、あるお願いを手紙に託し、宮野さんに伝えます。重病人へのマナーというものがあるのなら、それを踏み越えるようなお願いかもしれません。病人を気遣うからこそこういうことは言ってはかわいそう、こういうことはやっちゃいけないものだという思考停止をせず、真正面から心をぶつけるような磯野さんの言葉に胸が熱くなる思いでした。一流のアスリートの凄まじいラリーを見る時、説明のできない感動が湧き上がることがあります。それと同じ感動かもしれません。「死ぬんじゃねーぞ」はややドラマっぽすぎるとも感じましたが、磯野さんが真正面からぶつかった最後の最後に照れ隠しで道化を演じたのかもしれません。もしこの場面を読んで、磯野さんが、がん患者である宮野さんに対して不躾であるように感じるなら、それは宮野さん、磯野さんを「がん患者」と「その友人」として読者である私たちが固定化していることになりえます。非・固定化の実践が試される、読み応えのある場面でした。
紙の本でこの作品を読んだ人であれば途中でハッとすることと思いますが、読み進めるうち、少なくなっていく残りのページが、そのまま宮野さんの人生の残りのページであることに気づきます。思わず息を呑みましたが、これに気づいた時、残りのページを読むことは「読む」という枠をはみだし、ひとりの人生を「見届ける」ことになったと感じました。本は人そのものであるとつくづく思います。
巻末では磯野さんが、本編では語られなかった舞台裏を振り返っています。手紙の上では「魂のやりとり」と言えるほどの濃密な対話が展開されたけれど、LINEでは宮野さんとたわいもない話も日常的に山のようにしてる、現実はもっともっと多面的だよ、と語っています。これまた読者の一方的な固定化をさらりと制止する、磯野さんの細やかさと誠実さを感じました。
宮野さんの最後の手紙より、印象にのこった言葉を最後に引用します。
「自分の人生に与えられた偶然の途方もなさに呆然とします。でも、その偶然を引き受け、私たちは生きねばならない。そのとき、自分で決めることの難しさに私たちは気づきます。」 -
Posted by ブクログ
往復書簡集。磯野さんも宮野さんも、最初から結末がこうなるのはわかっていたと思う。そのうえで「負けねーよ」「勝ちに行くぜ」と言い合っている。死を克服して生き延びるのではなく、確実にくる最期まで生き抜こうぜという掛け声の交換だったのだろうと思う。最初から運命や確率を話題として始まった往復書簡は、宮野さんの専門の一つであった九鬼周造を参照しながら「(前略)偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに充ちた世界を愛する(後略)」(p235)という宮野さんの結論で幕を閉じる。宮野さんはここで、勝ち負けというモードから自身と他者の生と死を愛するモードへ歩みを進めたのではないか、と感じた。
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井上慎平さんの「弱さ考」で引用されていて手に取った一冊。
「弱さ考」では、人生で未来から逆算した選択をするのは可能なのかという流れで、その時のベストの選択をする他できないという考えのヒントとして取り上げられている。
全編読むと、人の一生とその中にある関係性、その関係性を選択する過程には、必ず説明しきれない偶然が作用しているというのが芯にあるのだと捉えている。
「にもかかわらず」というフレーズ、まさに人生はそのフレーズの繰り返し。
「にもかかわらず」の積み重ねで歩んだ道、その道々がラインとなり、踏み跡の深さが厚みを生む。
共著者である宮野さんと磯野さんの関係性、魂をぶつけ合うやり取り。
そんなラインが結べた二人が羨ましい。 -
Posted by ブクログ
「かもしれない」を前提に進められる弱い運命論は便利だなと思います。
だって、宮野さんが元気に京都に帰れたら「何も起きなくて幸運だった」と言えるし、何かあったら「そんな体でなんて選択をしたのだ、リスクをもっと考えるべきだった」と言えるから。でもそういうことを言う人たちは、意思に基づいた選択を迫られる人たちの混乱には思いが行き届いていないのではないか。あるいは、自分なら機械みたいに判断できると確信しているのではないか。
そう思うことがあります。
私が特にそれを感じるのが、がんの代替療法をめぐる専門家や識者の警鐘を目にする時であり、それが今日、宮野さんに聞いてみたいことです。
話したことを書いてもいいですかと聞いたら、「それは磯野さんにあげたものですからいいですよ」と言ってくれました
人はやれるだけのことをした後、やってきてほしい未来を物の中に託します。
必死に勉強した受験生が、センター試験の時に合格鉛筆を持って問題を解くこと。
今を具体的に生きる人たちが、手元にあるささやかなものの中にやってきてほしい未来を見出し、そこに願いをかける。
確かに私はがんを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。
がんになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている。それががん患者であることを100%受け入れていないということの意味です。
そうしてこうした生き方を取ることで、私はそれなりに充実した人生を送ることができています。制限があっても不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で、私は不幸ではありません。
「子を亡くしたかわいそうな母親」という共有可能な物語を、周りの人々に喚起するかもしれません。
その物語の中で、母親は不運に怒ることなく、理不尽を訴えるのでもなく、「不運でかわいそうな存在」に押し込められていないか、私は心配になります。
結果的に会話の中で私は 100% 患者として語ることになり、聞き手側は非患者という役割に固定されることになります。
それは同じ平面で言葉を手放し受け取るキャッチボールというよりも、決まった役割の中で、しかも患者とそれ以外という圧倒的に不均衡な役割配分の中で、ボールをしっかり手に握ったまま間違えないように相手に手渡すだけの行為です。
素朴な問いを投げたいと思います。そもそも生きるって何でしょうね。
だって私たちは誰一人として自分の意志で生まれていません。いつ生まれるかも選べず、強制的にこのようなものとして一個の肉塊が与えられ、点として生み落とされる。そしていつか必ず死ぬ。
しかし今ではない未来へと差し向けられ、時間の中を進んでいくことを求められる。そのくせ寿命が尽きれば、一方的に終わりが与えられ、死んでいくしかない。
消えるしかできない点。ただし、消えるしかできない点が生み落とされるのは、孤独な一人の世界ではありません。そこは無数の点たちが何とか自分のラインを引こうと苦闘した痕跡に満ち、もちろん今まさにラインを引く運動をしている場なのです。
そうした場へと、私たちは生み落とされ、生きていく。
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Posted by ブクログ
生き抜く力みたいなのを感じた。往復書簡で死にゆく人に対して、患者ではなく一人間、一哲学者としての尊厳みたいなのを呼び覚ます文化的議論が圧倒的にリアリティがあった。抽象論がここまで実際的な生に結びついて、勇気を静かにそして整然と与えてくれるのは読んでて心地よかったし、今後の人生の栄養になりそうな気がする。人生は圧倒的な不安定の上に成り立ち、その偶然性が巻き起こる世界に身を投じて、出会いや成功や失敗を引き受ける勇気がどれだけ自分にあるのか。どんな自分だったら許せるのか。結局、僕みたいに不幸を固定化しかけている延長線上の人生には不幸でいることが安定になってしまうからこそ、一歩偶然性に身を投げるのはとても理にかなった、解放させてくれると感じて結構刺さった