あらすじ
もし明日、急に重い病気になったら──
見えない未来に立ち向かうすべての人に。
【濱口竜介監督 最新作】
映画『急に具合が悪くなる』
2026年6月19日全国公開
第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品決定!
哲学者と人類学者の間で交わされる
「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。
もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか?
もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。
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1便:急に具合が悪くなる
2便:何がいまを照らすのか
3便:四連敗と代替療法
4便:周造さん
5便:不運と妖術
6便:転換とか、飛躍とか
7便:「お大事に」が使えない
8便:エースの仕事
9便:世界を抜けてラインを描け!
10便:ほんとうに、急に具合が悪くなる
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宮野真生子(みやの・まきこ)
福岡大学人文学部准教授。2000年、京都大学文学部文学科卒業。2007年、京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。博士(人間科学)。専門は日本哲学史。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか──「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)、『出逢いのあわい──九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版)、藤田尚志との共編著に『愛・性・家族の哲学』(全3巻、ナカニシヤ出版)などがある。
磯野真穂(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)などがある。
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Posted by ブクログ
こんなにすごいやりとりを読ませてもらえるなんて、驚きと感動と「病」という現実が押し寄せてきています。
メールのCCに自分も入れてもらえていたような感覚で進むやりとり。
本当の意味で知的で感性の鋭い人同士が言葉を紡ぐと、こんな会話になるんですね。
タイトルにあるように「急に具合が悪くなる」事も含め、ドキュメンタリーを文字で味わったような感覚になりました。
カンヌでの女優賞も哲学者・宮野さんに届いていますように。
人類学者・磯野さんが最後に書かれている舞台裏の項は読んでいて涙が止まりませんでした。
Posted by ブクログ
なんだろう。ものすごい密度のものを読んでしまった。
こんな本があるんだ。こんな出会い方と別れ方も。
ふたりの関係がうらやましい。
「急に具合が悪くなる可能性がある」と言われた哲学者でガンを患う宮野さんが、病を抱えて生きることの不確定性やリスクの問題を、医療人類学者の磯野さんと専門的に深めていきたいと考えたところから始まった往復書簡。これを続けるうちに、宮野さんが「ほんとうに急に具合が悪くなる」。
読みながら、宮野さんが「今どうされているのか」という情報を調べたい気持ちに何度も蓋をしながらいったん最後まで読んで打ちのめされ、あらためて「はじめに」戻り、そういうことだったのかと思う。
私たちは「先が見えている」からと言って、何もせず誰とも関わらずその場でじっとしておくことができるのか。「先が見える」という時の「先」がどれくらいだったらそうするのか。そんなことを考える。
そして濱口竜介監督の映画はこれをどう描いているのか興味津々。
Posted by ブクログ
濱口竜介監督が映画化するとのことで。まさしく濱口映画のモチーフである「他者との対話と関係性」の究極のような書簡集で、完全にくらってしまった。奇しくもアルモドバル監督作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも通じる思想を感じた。
がんに侵された哲学者・宮野真生子と彼女に伴走することとなった人類学者・磯野真穂。哲学者ならではの緻密な視線で生死や己の思考を見つめる宮野さんと、驚異の真摯さと引き出し力で相対する磯野さん。お互いの知性や人間性への信頼と尊敬がなければ構築し得ない関係性。一年足らずの間にこの出会いのわくわくと喪失の恐怖が急降下しながら同時にやってくる稀有な体験を走り抜き、文字にし続けた「運命的姉妹」に心底頭が下がる。
Posted by ブクログ
死は確かにやってくる、しかし今ではないのだ。
そうだよね、、、死は必然なのに、存在しないかのように生きている。
まるでずーっと生きていられるかのように思っちゃってる。
余命わずかな哲学者と人類学者の書簡。
賢いお二人なので、ちょこちょこ難しい話が出てきて立ち止まって調べたりしつつ、、、でも書簡なので読みやすい。
ただ、全体的にずーっと考えさせられながら読んでた。
考えるんじゃなくて、考えさせられるって感じね。
約束って?多様性って?不幸って?不運って?
頭ん中も、心の中もゴチャ混ぜになるけれど、読み終えた後は清々しく幸せを感じる。
Posted by ブクログ
衝撃的な重さの本だった。哲学者の癌が悪化したところから始まる、哲学者と人類学者の往復書簡。後半でモルヒネも効かないくらいに病状が悪化するあたりから、お互いの言葉が魂から発せられるように感じて、読んでいて苦しいくらいだった。強烈なラブレターを読んでいるような気にもなった。死の間際にあっても言葉を紡いだ宮野さんと、それを全て受け止め、時には鋭過ぎると感じるような言葉も投げる細野さん、2人の逃げない覚悟に圧倒された。
「不運に見舞われても、自分の人生を手放さなければ不幸ではない」
「時間とは、物理的時間と、その人が残した踏み跡の深さを掛け合わせたものの厚み」
Posted by ブクログ
巻頭の方は、「磯野さん、もう少し思いやりのある言葉選びをしてあげて」と思ったり、「宮野さん、そこまで強くなくていいのでは」と思ったり、学者同士が病気を語ると、こんなにも俯瞰な眼差しになるのか…とやや遠巻きに見ていたが、ページが進むにつれ病が進行し、2人の文体も研ぎ澄まされ魂の語りのようになっていくのが圧巻だ。以下、宮野さんの言葉。「たしかに私はガンを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。ガンになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている。制限があっても、不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で私は不幸ではありません」「けれど、病状が進んでくると、この二つのフェーズが衝突するときが増えてきます。正確にいうと、患者フェーズが私の日常フェーズにどんどん入り込もうとしてきます」「これからもっと病状は悪くなるかもしれないけれど。それは単純に「死なない」ことの約束じゃない。磯野さんが希望し、私も見たいと望む未来に対する賭けであり、そこに向かって冒険の道をくじけず歩んでゆくということの覚悟であり、なによりも、そんな言葉を投げかけてくれた磯野さんと私の今の関係への信頼なのです」「そこで感じられる自分とは、偶然の病がもたらした死の恐怖の淵に立っている存在です。病など罹ることなくありえた「にもかかわらずこのようにある」自分の存在が、痛みと死の恐怖のなかに立ちあがってきます。間違いなく怖いです。「ないこともありえた」などではない、無へと引きずり込まれそうになります。その恐怖をはらうように、私は考え、言葉にするのです。そうやってなんとか生の側に踏みとどまります」「そもそも、「生きる」って何なんでしょうね。だって、私たちは誰一人として自分の意志で生まれていません。いつ生まれるかも選べず、強制的にこのようなモノとして一個の肉塊が与えられ、点として産み落とされる。そして、「いつか必ず死ぬ、しかし今ではない」と未来へと差し向けられ、時間のなかを進んでいくことを求められる。そのくせ、寿命が尽きれば一方的に終わりが与えられ、死んでゆくしかない。消えるしかできない点。ただし、消えるしかできない点が産み落とされるのは、孤独な一人の世界ではありません。そこは、無数の点たちがなんとか自分のラインを引こうと苦戦した痕跡に充ち、もちろん今まさにラインをひく運動をしている場なのです。そうした場へと私たちは産み落とされ、生きてゆく」。最後は磯野さんの言葉から。「その人が大切な存在になればなるほど、その人に「さようなら」をいう日の手ざわりがより確かになってゆく」。
Posted by ブクログ
タイトルから、自律神経の乱れに悩んでる方々の対談なのかと思っていたら、それどころの話ではなかった…。
こんなにも生きることに対して貪欲で、切実な心情がリアルタイムで綴られた著作はなかなかないと思う。何より、手紙での交流という形式が要。自己分析だけでは出てこなかったであろうテーマや、互いに目を背けたり隠してしまっていた気持ちに話が移っていく過程が生々しくて、命を感じた。
後半は磯野さんの熱いエールに胸が熱くなると同時に、それだけ宮野さんに死が迫ってきていることがひしひしと伝わってきて、怖かった。
最後まで自分の仕事や生き方、そして友人に誠実だった宮野さんは凄い方。ご冥福をお祈りします。
Posted by ブクログ
読み進め、残りのページが減っていくたびに「宮野が死んでしまう」と思った。
そわそわした気持ちになりながら、読み進めた。
6便から、宮野の病状は明らかに悪くなってきている。
モルヒネを使用するようになった。
ただし、文章の明晰さは最終便である10便まで変わらなかった。
むしろ彼女の思考はより自由により世界の真理に近づいているように思う。
普通、モルヒネを使わざるを得なくなるような終末期には、頭が回らなくなると思うんだけどなあと不思議で仕方ない。
そもそもこの本を手に取ったのは、ふたりの著者が文系研究者で、死について興味があったわたしは「研究者が自分の死について語る様子を見てみたい」と思ったからだ。
本が手元に届くまで著者について調べていたら、宮野の九鬼についての博論提出先の主査は、わたしの大学院時代の指導教官だったことがわかった。
しかも博論が提出されたのは彼女が亡くなる数ヶ月前のことだった。
知り合いの知り合いという仕方で本を読む前に彼女と繋がったわたしは、まるで他人と思えない仕方でページをめくったのだった。
特に印象に残っているのは、当事者性の引き受けについて懐疑を示すところである。
宮野は、がん患者であることがわたしを100パーセント構成するのではない、というようなことを言う。
自分ががんに罹患したとして、自分のすべてをそれに染み込ませる必要はないし、それから逃げたいと思うのは死に向かう病気という性格上、自然のことだと思う。
わたしは当事者研究が苦手である。人がやっているのを見るのは大丈夫だし尊敬するけれど、自分ができるとは思わない。
引き受けざるを得ないラベル(女性であること、母であることなど)に対する責任を引き受けたくないからである。自分はラベルが表す総体からすればちっぽけな存在にしか過ぎず、「わたしたち」という主語から導かれる自己責任の内容は、わたしにとってはあまりに大きく重たいものでしかない。
宮野はそれについて、本書で丁寧に説明している。
肩の荷が降りた気がした。
当事者性について、責任を引き受けられないことを恥じなくても良いと思えるようになった。
宮野の文章は透明で、大胆で、正確である。
彼女が亡くなる前に、会ってみたかった。
がんの終末期において否応なくやってくる痛みや苦しさへの向き合いに、疲れてしまったり弱音を吐きたくなったり何もかも投げ出したくなってしまうのは当然のことなのに、宮野は最後まで冷静である(ように見える)。
ちなみに2026年に映画化される予定だと知って調べてみたら、登場人物が違いすぎて別物だと思い込み、1度ページを閉じた。
勘違いじゃなかったらしいです。
映画を見に行こうと思う。
Posted by ブクログ
激しい痛みを伴う死の間際でこんな生き方ができるのか。最期まで自分(問うこと、関係すること)を手放さないで生ききる。それを可能にしたのは著者のそれまでの生き方によるものだろうが、最終コーナーの伴走者(ボクシングのセコンドという例えの方が適当か)である磯野の存在が言うまでもなく大きい。互いに剛速球を投げ込み合い、己の身も心も賭けて哲学を実践している。二人が死の間際の「いま、ここ」をつきつめて行く中、二人のやりとりは図らずも「あしたのジョー」のようなドラマ性をも帯びていく。ものすごい熱量に触れた感覚が読後も強く残った。
Posted by ブクログ
すごい本を読んでしまった。
内容はがんを患い死に向かっている哲学者と、そんな彼女の意志を受け止め共に踏み跡を残す人類学者による往復書簡。
読み進めるほどに重くなる内容、しかし彼女らの気迫と決意に追い立てられ、のめり込み、読むスピードは上がっていく。濃密な時間を経験する。本書を読んでいる時間は、それこそ厚みのあるもので、私の心に、彼女らのラインはしっかりと刻みつけられた。
関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。
磯野さんのこの言葉が好きです。
Posted by ブクログ
最初は学者同士の高尚な言葉のやり取りなのかなあ〜とさら〜っと読んでいたら、途中から二人が交わす言葉ににのめり込んでいった。
特に、合理的な判断によって選択し自己責任が問われる社会において、偶然性を問い言語化してくれたことで少し心が軽くなった。また、多様性とか、人への寄り添い方とか、なんとなく感じていた違和感を問い直してくれた。
たった数ヶ月の出来事とは思えない、読み応えのある往復書簡。読んで良かった。
Posted by ブクログ
哲学者と文化人類学者の往復書簡。
死ぬという生き物として根源的で最終地点にリアルに向かっていくなかで感じられたこと、思考、を互いにわたしあう。引用の哲学は一目ではわからないものもあったけど、自分と向き合うというのは、時間がかかるし、その時点でわからないことも多い、とてもゆっくりとした営みなのだなと思った。いまここに心を向けることが、さまざまなものが溢れる現代でどれだけ難しいのか、困難の当事者関係者になったときにどれほど難しいのか。とても伝わる文章だった。自分ならあっという間に構造のなかに取り込まれてしまいそう。この本を読んで、自分の心が少しでも立体的に、隙間を産み出すことができていたら嬉しい
Posted by ブクログ
がんに冒された哲学者と文化人類学者の往復書簡。6月に公開される濱口竜介監督の映画原作。
全10回のやりとりのうちとくに前半の5回までを興味深く読んだ。終わり近くになるとちょっと俺には難しい内容になったので流し読み。
なぜ他ならぬ自分が病気にならねばならないのか、という偶然性について。
玉石混淆な治療法を勧めてくる身近な人たちの善意というノイズについて(山崎元さんも同じことを書いていた)。
不運の原因として妖術を用いるアゼンデ人の知恵について。
不運を受け入れることで始まる不幸について。
自分のためというより残された人に迷惑をかけないために行われる終活について。
このへんの話が印象深い。
自分が選んでなったわけではない病気によって死を宣告されたとき、死にゆく者があとに残す人たちへ果たす責任としての終活。しかし自分の人生に完璧な責任をとれる人などいるのか、いるとしてそれは好ましいことなのか。死を見据えた哲学者はハイデガーを引用しながらこう述べる。
「私の生は何かの途中で打ち切られざるをえない。人生は完成することなく、人間はつねに「自分の未然noch-nicht」──つまり、まだ達していない途上──を生きる存在なのです。そんな存在がどうやって完璧に責任をとるというのでしょう」
氷河期世代なので、この文章を自己責任論への反論としても受け取った。自己責任論は、お前が困っているのはお前自身に原因がある、俺の知ったことじゃない、勝手になんとかしろ、という社会の冷たさから生じたものだと思っている。
Posted by ブクログ
「急に具合が悪くなる可能性がある」と医師から言われた哲学者と人類学者の往復書簡。それは単なる偶然の集積なのか必然なのか。
今年公開予定の濱口竜介監督の映画、どんなものになるのかまったく想像ができないけど、これを映画にするのは、濱口竜介いないんだろうな…とも思う。めちゃくちゃ楽しみ。
Posted by ブクログ
その人が大切な存在になればなるほど、その人に「さようなら」をいう日の手触りがより確かになっていく
がんに罹り、医者から「急に具合が悪くなるかもしれない」と言われた哲学者と、「偶然」にも彼女と意気投合した人類学者の往復書簡。哲学者が人生の終わりに何を語るのか、みたいな大それたものではなくて「どんな感じ?」みたいな問いかけから、理知とユーモアを交えた対話が始まる。
二人の関係性が徐々に変わっていく面もあって、なんや胸がきゅっとなる。このタイミング、この関係性の二人だからこそ交えることができた言葉の数々。
興味深い言説は色々あったんだけど、一番は関係性のラインの話。例えば病気の人に相対するシチュエーションにおいては「適切な受け止め方(否定しないとか、むやみに励まさないとか)」がたびたび推奨されるけど、そこには結局、カウンセリングのような点と点の関係性、害のない言葉の連結しか生まれない、と本書では説かれている。点と点ではなく、互いが変わり続け動き続ける「ライン」としての関係性を模索していくことで、そこには不和や戸惑いがあるかもしれないけど、新しい未来を創造する動きが生まれていく。本書自体がそれを体現しているので、説得力がある(252頁★4.0)
Posted by ブクログ
余命わずかな哲学者と人類学者の手紙のやり取り。哲学の難しい議論もありつつ、なぜ(how でもwhy でもなくなぜこの人、この私が)この状況にいるのかが問われる。また病人という役割になってしまい、その他の自分が失われる危険について語られる。
この人の場合、哲学者という立場でのアウトプットを続けることに救われているようだ。でも何も語る手段を持たない一般人はこういう時どうしたらいいの、とも思ったが、人それぞれ病人以外の自分を保ち続けることを模索すべきなのかも。
冷静で論理的なやり取りの影に、友人としてのLINEや妄想に近い思い入れ、切迫した最期の様子が垣間見られ、感傷を許さない中で友情の深さが心を打つ。
Posted by ブクログ
お二人とも、文化人類学と哲学を専門的に研究されていた方なので、正直「ええと?」となった部分はあれど、最後は泣きそうになりながら読んだ。
死、という淵に向かっている宮野さんは、その現実から決して目を逸らそうとせず、磯野さんとのやりとりを通じて、「その時の自分の心」と向き合い、言葉を繋ごうとする。そして磯野さんも。死に向かう宮野さんを見守る自分と向き合い言葉を繋げる。宮野さんの余命宣告がなければ、決して紡がれなかった言葉たちに敬意を払い、その残滓だけでも胸に刻みたいと思った。
Posted by ブクログ
自らがガンを患う哲学者宮野真生子さんとと文化人類学者磯野真穂さんの、病気になった人(当事者)とその周辺についての往復書簡。
死というものがあまりにもリアルなとき、当事者とその周りにいる人々に何が起こるのか、それはなぜ起こるのか、違う関係性の作り方はあるのか、みたいなことが書かれている。
対話の内容として気づきみたいなものももちろんあるけれども、後半になるにつれて宮野さんの具合が本当に悪くなっていって、その時に近づいていくリアルさがある中で、ご本人から綴られる言葉、磯野さんから贈られる言葉の凄みのようなものが印象に残った。
宮野さんが本当に最後の最後まで本書の校正やチェックなどをしていた様子も描かれており、それほど最後まで気概を持って自分のやるべきことをしていたのだなと感じる一方、きっとそうではない絶望に打ちひしがれ、死を恐れる気持ちになる時もあったのだろうと思い、そういう一人の中でも多様な心持ちのあり方に想いを馳せると、リスペクトというか、純粋にすごいなと感じた。
Posted by ブクログ
ガンで余命いくばくもない哲学者の宮野さんと、人類学者の磯野さんの往復書簡。互いがキャリアを積んできた哲学や人類学の知見を交えながら、病を抱えて生きることにまつわる偶然と必然や運命論などなど、対話を重ねて行く。この対話、もっといつまでも続いていてほしかった。宮野さん、最期までかっこ良すぎる。磯野さん、ボールを受け止め続けたこと、尊敬します。
Posted by ブクログ
この手の本は読んでいて苦しくなりそうだと警戒し事前にレビューをチラ見してから恐る恐る買った。表紙の印象から軽いエッセイか何かのつもりでうっかり読むと、たぶん驚く。
結論、怖い本じゃなかった!むしろ力強い美しさを保った本だと感じた。
哲学者って難しい言い回しをするなぁ、と思いながらも何とか読み進めた。話し言葉に近い文の構造もちょっと難しかった。
それでも言わんとする繊細なイメージを言語にできるのはすごい。運命とは偶然とは生きるとは。
この本をどうやって映画化するのだろう、期待。
Posted by ブクログ
とにかく、読みたい読み切りたい、言葉の節々に死が見え隠れする文章が、これ以外に見つかるのだろうかと思う。死が溢れている文章は夏目漱石のこころとか、色川武大の狂人日記とか、思い当たるのだけれど、向こうのほうの左に曲がる角からちらっと見ている死、こんな文章があるのかしらん。なんというか、でも、そうやって見られている文章だから没入すると私までそこに取り込まれそうで、どうしても飛ばし飛ばしで読んでしまうよ、再読しなくては、な。
Posted by ブクログ
往復書簡、お手紙のやりとり、ができる相手がいるっていいなーと思った。
著者のお二人は、直接会ったこともないような間柄だった中、最後には姉妹なのではないか、とお互いをそんなふうに思うまでに、何だか素敵な関係でした。
「急に具合が悪くなるかもしれない」と医者に告げられた宮野さん。いろんな言葉や人間の存在に影響されて、私たちの人生は思ってもみなかった方向に進んでいく、そんなことが往復書簡の中で言葉にされている。
・・・
中途半端に生きるよりきっと、自分の感覚とか、求めることの可能性を全身で信じて取り組んで、あとは今に懸ける勇ましさを持った人生でありたいなーとあらためて思う。
Posted by ブクログ
哲学者と人類学者の「病」「生」を語る往復書簡。
プライドと本音をぶつけ合う様子から、古くからの知人に違いないと思ったら、共に過ごした期間はびっくりするほど短かかった。魂が引き寄せあったかのような始まりからの濃密なやり取りは、内容が内容だけに読んでいて辛くなる部分も。
でも、自分の心の奥底にある思いや考えをこんな風に伝える相手がいるというのは、幸せなことだと思う。しっかりそれを受け止め、妙な遠慮はせずに投げ返していく磯野さんにも誠実さを感じた。
読み終えてとても重たい気持ちになっているのに、もう一度読み返してみよう、そうしなくてはいけないと思ってしまう本。
Posted by ブクログ
偶然の出会いから始まった二人が、互いの意思で関係を築いていく姿が印象的だった。
病気になると、自分自身を「患者」というカテゴリに当てはめ、その枠の中で安心しようとしてしまうことも可能だが宮野さんはそうしなかった。自分は病気ではないものの、どこかで「〇〇な人」という立場に自分を収めてしまっている感覚があり、その折り合いをつけることの難しさを改めて考えさせられた。
二人のやり取りや距離感がとても自然で温かく、互いを尊重しながら関係を深めていく様子が心に残った本だった。
Posted by ブクログ
映画化すると聞き、積読になっていたものを急いで読んだ。
プロジェクトヘイルメアリー然り原作知っておきたいタイプ。
とにかく「すごいものを読んだ」という気持ちになった。
あれを読んでこんな激浅な一言でしかまとめることができない自分の語彙力、表現力の無さを恨みたくなる。
哲学に生きる人が、人類を研究する人が、研究人達が、死を身近なものとして捉えたとき
こんな発想や考え方になるんだなというのを見せて頂いたような感じがした。
哲学者や人類学者の引用もよく出てくるのだけれど、理解・共感できるものもあれば
私の知識では全く解釈が難しいものもあった。
往復書簡の中でこんな重厚感のあるやり取りをしてただなんて信じられない。すごすぎる。
恐怖に飲み込まれそうになる時、そんな時にこそ自分の人生を考え、言葉にする。
真に哲学者で、本当にかっこいい生き様だ。
本書を読んで思ったのは、人間は死に近づいた時こそこれまでの生き様が出るのだろうということ。
私の生き様は、どんなだろう。
全てのことは自分が選択したものである
あの日あの場所に行こう、会ってみようと選択したのは自分
“自分だから”その選択をしたのではなくて、“選択したから”今の自分がいる
解釈があっているのか分からないけれど、
本書を読んで私が心に留めておきたいと思ったこと。
Posted by ブクログ
【目次】
1便 急に具合が悪くなる
2便 何がいまを照らすのか
3便 四連敗と代替療法
4便 周造さん
5便 不運と妖術
6便 転換とか、飛躍とか
7便 「お大事に」が使えない
8便 エースの仕事
9便 世界を抜けてラインを描け!
10便 ほんとうに、急に具合が悪くなる
がんの転移により死に直面しながら生きる哲学者と、人類学者の往復書簡。
ほとんど交流がなくても、なぜか通じる人というのはいる。言葉を大事にする二人が、言葉を紡ぎ続ける。約束は相手への信頼。二人の出会いは僥倖かもしれない。
Posted by ブクログ
病に面した哲学者、宮野真生子と人類学者、磯野真穂の往復書簡。人は何のために生まれ、どう生きるのか、どう死んでいくのか、人間の根源的な問いと答えが、死を前にした2人によって深く語られて行く。どんどん難しくなって行く2人の問答は、正直ついていけないところもあったが、2人が魂の奥深いところで言葉を紡いでいる迫力に押されながら読み進めた。
印象に残っている表現は、
ガンになったのは不運ではあるが不幸ではない。不運は点であり、不幸は線である。不運をどのような線に伸ばして行くかが大事
というところ。
Posted by ブクログ
宮野さんは患者という役割になることなく、磯野さんは患者として接することもなく、お互いに真剣に相対する関係がうらやましい(とはいえ、そうなりたいという羨望の意味はなく)と感じた。
正直、抽象的なところは良く分からなかったけれど、誰かと出会う、つながる、ということを改めて考えてみたり。
印象に残ったところは以下
・選ぶとは
それはあなたが決めたことだから、ではなく、選び、決めたことの先で「自分」という存在が産まれてくる。
選択とは偶然を許容する行為で、選択において決断されるのは、当該の事柄でなく、不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方。
偶然を受け止めるなかでこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になる。
以下メモ
・不運を妖術のせいにする(アザンデ人)
不運の原因に怠慢や過失、非倫理的な行為が見られる場合、その不運を妖術のせいにすることはできません。それは個人の責任です。妖術は、しかるべき努力や準備をしてもなぜか起こってしまった不運の説明のために使われるのです。
・分からないもの、コントロールできないものに不安を感じる。なので私たちは、分かろうとする、因果をはっきりさせようとする。そのストーリーの中に組み込もうとする。哲学は分からないままでいて、それを問う。
・不運は点、他にもありえた可能性を横一列に並べて指さすことで作られる
不幸は線、起こった出来事を過去と未来の中に位置づけ、そこに意味を与えた結果の産物
・病を語ること、100%の患者になりがち。病でない人は、口を出せない気遣いのルールが発生する。
そうではなく、日常会話に病をどう入れ込むのか。余分な要素を入れて、ほどほどの患者になる。
・多様性とは。それを支える関係性とは。
関係性をつくりあげるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描きながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として次の一歩を踏み出してゆく。
Posted by ブクログ
往復書簡というかたちで展開される、哲学者の宮野真生子と人類学者の磯野真穂のやりとり。
毎回のお手紙のタイトルのユーモアがよい。
主治医に今後の治療方針について「もし先生(の家族)が同じ状態だったらどうするか」
という質問を投げかける母親に、それはルール違反だと腹を立てる宮野真生子は、医者にとって良い患者。聞きたくなる質問ですよね、これ。医者としての意見じゃなくて、一人の人間として主治医に。
専門セクター(医者)、民間セクター(家族や友人)、民俗セクター(代替療法)の間で振り回される患者は、身の回りでも見たことがある。これは自分の身に起きた時ぜひとも思い出したい。
病気になったことは不運ではあるが、不幸ではない。と宮野さんは書く。
不運は点、不幸は線。
手紙のやり取りが進むと同時に、宮野さんの病状も悪くなり、まさに急に具合が悪くなってくるのです。
その上で、手紙のテーマに「死」について触れていく事になるのですが、二人とも学者ですから淡々と学術的な語りであったりするわけです。それでも自らに迫りくる死を語るにはどうしたって熱を帯びてきてるのがわかります。それがなんとも読んでいて辛くて…。
人はみな死ぬので、読んでおくと、その時の支えになるかもしれない本です。
Posted by ブクログ
末期のガン患者でもある哲学者とその哲学者に指名された人類学者の往復書簡。
最初は迫ってくる死や病気とリスク、可能性、偶然、必然、哲学的な話だったり人生観だったり、最後のほうは二人の友情が濃く出ていた。
70近くの母親が自分の主治医にした質問が許せないというエピソードがあるだが、「どうにか娘を救ってほしい」と願う年老いた母親を冷静に見られない著者が現れていてとても印象的な話だった。
また、「お前のガンはお父さんのせいやったんやな」と悲しむ父に、「そんな腑に落ちやすい物語に私を巻き込まないで欲しい」と著者が真っ向から否定するエピソードがあり、これもまたとても印象深かった。安易な物語におさめられたくないと怒る気持ちがわかる一方で、他人の持つ物語を誰かが否定するのも難しいと思った。
著者で哲学者の宮野さんは九鬼周造の研究者で、偶然性や必然性について考えてきた人。研究者としての自分がいる一方で「なぜ自分がガンになったのか」、「なぜ今なのか」、死に直面をしながら自分が今生きていること、人類学者の磯野さんと出会い、手紙を送りあっていること、ずっと考えていたのではないかと思う。
この本を読んだ後、九鬼周造の『偶然性の問題』を読みたいように思ったが、難しすぎて買えないままでいる。