あらすじ
もし明日、急に重い病気になったら──
見えない未来に立ち向かうすべての人に。
【濱口竜介監督 最新作】
映画『急に具合が悪くなる』
2026年6月19日全国公開
第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品決定!
哲学者と人類学者の間で交わされる
「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。
もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか?
もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。
────────────────────────
1便:急に具合が悪くなる
2便:何がいまを照らすのか
3便:四連敗と代替療法
4便:周造さん
5便:不運と妖術
6便:転換とか、飛躍とか
7便:「お大事に」が使えない
8便:エースの仕事
9便:世界を抜けてラインを描け!
10便:ほんとうに、急に具合が悪くなる
────────────────────────
宮野真生子(みやの・まきこ)
福岡大学人文学部准教授。2000年、京都大学文学部文学科卒業。2007年、京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。博士(人間科学)。専門は日本哲学史。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか──「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)、『出逢いのあわい──九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版)、藤田尚志との共編著に『愛・性・家族の哲学』(全3巻、ナカニシヤ出版)などがある。
磯野真穂(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)などがある。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
偶然と運命について、描いた往復書簡。
不確実性のリスクを負いながら、患者としての役割を拒否し、今ここを生きることを選択した人の人生を鮮やかに見せてもらった。
これは折に触れ、読み返す気がする。
Posted by ブクログ
2人の学者の書簡でのやり取り。何気ない日常の会話からやがて深刻なテーマへと切り込んで行く。
相手を気づかいながらも、真摯に意見を述べ、交流を深めていく様子に引き込まれた。
急に具合が悪くなるかもしれないというのは単なる確率の問題か、それとも精神論か。
様々な哲学や科学の引用を元に議論されており、見識が深まったし、生きていく上での大切な事にも気付かされたように思う。
Posted by ブクログ
「急に具合が悪くなるかもしれません」「3週間ほどで亡くなった方もいます」と医師に言われるも、確率の罪深さ、あくまで可能性の問題だと。
また人類学者ならではの少数民族の話を引き合いに「確率」と「運命」について論じてみたりする中で、哲学者は「私がガンになったのは不運ではあるが不幸ではない」ことに考えいたる。
病はモルヒネを使っても痛みが取れない状態まですすみ、まさに「急に具合が悪くなる」
「あなたのやってきた学問は、今のあなたの病や心を助けられませんか」と問う。
ガンサバイバーの私としてはこの前半も興味深かったけれど、後半の「出会い」「偶然性について」語り「運命」という言葉に辿り着く。
やっぱり待っていたのだと。磯野という魂を分け合った人と出会うことを。
私たちはこの世界がさまざまな偶然という出会いから、自分を見出し、新しい「始まり」が生まれることを知る。
とてもスピリチュアルな内容になってしまうけれど、この2人、ほんの1年にも満たない10便の往復書簡で深まる絆、どちらにとっても素晴らしい出会いだったと思う。涙が溢れた。
Posted by ブクログ
今年の読書でもしかしたらナンバーワンの作品かもしれない。あと半年あるから明確なことは言えないけれど。映画も見たいし、もう一回読みたい作品。人生の偶然、必然性など頭の隅に思いながら生きている人生なので、どストレートに響いた本。広くさまざまな人に読んでほしい。
Posted by ブクログ
映画を観る前に、と思って読んだが、とんでもない熱量の本でした。最初は1速。ゆっくりとしたペースで、他者のエピソードも交えながら始まった偶然性を巡る対話は、書簡を往復するごとに加速し続け、最終盤ではさながらラップバトルのように、互いに自らを差し出し合って言葉という言葉を乱打する。
哲学と文化人類学、偶然と必然、ラインと連結器。議論が抽象的な概念の間を高速で移動しているかと思ったら、次のページでは具体的な病状にグッと着地して、の繰り返し。読み終わった後、しばらく動けなくなりました。泣くかと思ったら泣かなかったし。2人の生き様をライブで追体験するような、不思議な読書体験でした。
Posted by ブクログ
来週の映画公開に向けて、おそらく5度目?の再読 言葉ひとつひとつに血と汗と涙と体重を感じて、どんどんソリッドになっていくやり取りに目を見開く 10便「ほんとうに、急に具合が悪くなる」以降の張りつめた緊張感、大切なものが目の前で結実しながら同時に手からこぼれ落ちていく混乱と奇跡にどうしても泣いてしまう 特に印象に残る箇所を引用するのは文脈から言葉を切り取ることで根の張った植物が花束に変わってしまいそうで躊躇するけど、出会い直しのきっかけを蒔くため残しておく たったの9ヶ月で魂を分け合う、そんな運命的な「偶然」に立ち会う その時間を目で追いながら追体験する 過ごした時間やその重みは負えなくても、その言葉 書簡を最初に開いて目で追っていく時間はきっとわたしのそれと変わらないはずだから
10便までの書簡を読み、終わりにを読み、付記を読み、はじめにへ帰り、また涙する
p.10
ところが、この原稿を書いている最中に「ほんとうに急に具合が悪くなる」ことが起こってしまった。そこからこの書簡は色合いを変えていきます。
いつからこんなふうに「ほんとうに具合が悪くなって」、磯野さんが私との「出会いと別れの急降下」を味わいながら、書簡を紡ぐことになってしまったのか。いつからこんなふうになるように導かれていたのか。それは単なる個然の集積なのか必然なのか。そのことも含め、この書簡のテーマです。
つねに不確定に時間が流れているなかで、誰かと出会ってしまうことの意味、そのおそろしさ、もちろん、そこから逃げることも出来る。なぜ、逃げないのか、そのなかで何を得てしまうのか、私と野さんは、折り合わされた細い糸をたぐるようにその出逢いの編へとゆっくりと(ときに急ぎ足で)降りながら考えました。
最後に皆さんに見える風景が、その先の始まりに充ちた世界の広がりになっていることを祈っています。
p.188
関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。
p.211
なぜ私の人生に、出会いのわくわくと喪失の恐怖が急降下しながら同時にやってくるんですか?
p.230
九鬼は『個然性の問題」の結論で、偶然を生きるとは「出会う」ことであり、その出会いは、「到るところに間主体性を開示することによって根源的社会性を構成する」と語っています。
この「出会い」とは、いったい何なのでしょう。何と出会うのでしょう。当たり前ですが、出会うためには、私とあなたという異なる二人がいなければなりません。でも、そこで出会う私もあなたも、この偶然の出会いによって変わってしまった二人のはずです。いま説明したように、偶然を引き受けるときに私たちは自分という存在を発見するのだから。そこで自分が産まれてくるのだから。だとすると、私は、出会った他者を通じて、自己を生み出すのです。自分というと、出来上がった存在を思い浮かべますが、そうやって、選びとり、見出される、産まれてくる自分は一人で可能になったものじゃない。出会う自己と他者は、完成した自分をもっていない。
p.231
でも、この反転を起こしたのは、磯野さんがこの出会いを引き受けて「共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気」を発揮してくれたからです。同時に、私が自分を手放さずに、出会ってくれたあなたに向き合おうとしたからです。そこで私たちは、おそらく互いに出会うと同時に自分に出会い直した。磯野さんが「そもそもこういう関係性を結ぶ場所が私の中にあることを最近まで知らなかった」というように、私は、死に接して業深く言葉を求める自分を知らなかったように。
p.235
それはなんて素敵なことなのでしょう。運命を生きるとは、こんな世界へとダイブすることであり、そのとき私たちはこの世界がさまざまな個然という出会いから、自分を見出し、新しい「始まり」が生まれてくることを知ることができます。
なんて世界は素晴らしいのだろうと、私はその「始まり」を前にして愛おしさを感じます。偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに充ちた世界を愛する。これが、いま私がたどりついた結論です。
Posted by ブクログ
久しぶりに読書で食らった。
読み終わって5分程度動けなかった。癌を患った宮野さんの内容も凄いが、その回答を引き出す磯野さんも凄い。後半の2人の鬼気迫るやりとりと内容が胸に刺さった。特に点とラインの話が特によかった。
何か分かり合えないことがあった時、一方的に何かを浴びせるのではなく、分かり合えないとしても、分かろうとする態度でいること、ともに考える姿勢で歩んでいくことが自分も含めて必要なんだろうな、と現時点の僕は受け取った。
沢山のものをこの本から受け取った。読む前と読んだ後で世界の見え方が異なる。
また一年後に読みたい。そのとき自分が何を感じるのか。この本を読んで少しでも自分が思う良い方向にアップデートできていれば良いと思う。そんな本だった。
Posted by ブクログ
読んでいて、サッカーを観ることがどうしてこんなに楽しいのかとか、ガンで死ぬ前のばあちゃんとの関係性がおかしくなったこととか、様々な事が腑に落ちていった。
同じようなテーマで『エンド・オブ・ライフ』も凄まじかったが、哲学者と人文学者の往復書簡という形式は哲学の深みにずんずんと潜っていくので面白い。
7便「お大事にが使えない」は破壊力が凄くて立てなくなってしまった。
偶然の話、濱口竜介は好きそうだな〜。
Posted by ブクログ
死が近づいたとき、残された時間をどう使うことができるのか。死が近づく人と、どのような時間を過ごせるのか。
哲学と人類学を専門とする二人の若い学者。約9カ月前に初めて対面して以来、実際に会ったのはわずかに数回。それでも互いの専門性と深い信頼を土台に、一人の死が迫る中、約2カ月で10往復の往復書簡を交わした。
生と死、出会いと別れ、偶然性、時間についての深い考察。限りある生を生き切ろうとする人と、その人に正面から向き合おうとする人。二人の信頼感は深く、どこまでも真摯で、魂のこもった対話が残された。
Posted by ブクログ
往復書簡をベースにした著書は初めて読んだ。
死生観、病とその向き合い方、魂の分け合いといった自分の中には存在しない視座と叡智が詰め込まれた名著。
ただの感動モノにすることも出来たが、そうではなく宮野さんの本質的な考え方を言葉として捉え、紡ぎ出されたことは読む人の考え方を広げてくれる。
定期的に読み返したい。
Posted by ブクログ
ガンが進行し、医師から「急に具合が悪くなる」ことがあるからそれに備えるよう告げられた哲学者が、今後は起こり得るリスクを想定し、つど合理的な判断を下さねばならないというライフステージに立つことになって、ふと「急に具合が悪くなる」ことは誰にだって起こるといえば起こることなのに、ふつう分岐点や選択肢について一々意識して人生送ったりしてないよな、と、分岐点と選択を伴う人生の在り様への違和感について疑問を抱くことから、同年代の文化人類学者との間で往復書簡という方法で思索の旅が始まって行く。
違和感の正体は「分岐点でそのどちら側かを選んでも、選んだ結果としての未来を選びきることができない(選択の判断基準にした予測どおりの結果になるとは限らない)」という気付きだったのだが、そこから二人の学者の、それぞれのフィールドの知見の交換を通して、人生が予測される未来から逆算して設計されるような(たとえ死が宣告されれた病の身にあっても)運命的なものではなく、人生本来が持っている彩りに満ちた可能性を導き出していく様は感動的だ。いよいよ物理的な死がせまってきて、「さん」付けがいつの間にか呼び捨てになった二人の魂が共鳴しあう書簡の終盤の美しさ。そう、自分の人生において、他人の誰かと魂が共鳴しあう瞬間が訪れるだろう、などという人生の予測は誰にも立てられないに違いないのだ。であれば、予測した未来に向けて分岐点で選択するという人生の、なんと勿体なくなってしまうことか。
本書では言及していないのだが、哲学者の宮野氏が「分岐点で選択」という状況にひっかかったのは、宮野氏が野球好き(カープ女子)だったということが大きい気がする。「送りバントかヒッティングか」「変化球待ちかストレート待ちか」「前進守備かゲッツーか」、野球は局面が断続的に立ち現れ、常に「分岐と選択」を念頭に置かずにはいられないスポーツだからだ(サッカー好きな人だったらそこは重視しなさそう)。そういう野球脳だからこそ「分岐と選択」に問題意識が高かったような気がする。また、宮野氏の指導教授は「偶然の哲学」を研究していた方で、「偶然」という切り口も今回の知見として大きな役割を果たしたのであるが、それもイレギュラーバウンドの多いマツダスタジアムが育んだものなのかも知れない。
Posted by ブクログ
泣いた。めちゃくちゃ泣かされた。
ガンを患う哲学者の宮野さんと人類学者磯野さん二人の書簡集。
序盤は、ガンという病を「偶然」患うということについて、その偶然性というものに関する解釈を哲学と人類学から行う。
このあたりは実に学者同士らしい。実に客観的なもので、同じく偶然を扱うも、その偶然はあるいは統計的な誤差とか、平均からは離れた値として処理する私のような職業の者にとっては「なるほど」と膝を打つような、若干アカデミックな視点でやりとりを読む。
両者は終始このスタンスを崩さない。
崩さないのだが、書簡の中で、明らかに両者の関係が深まっていくのが見て取れる。
常に客観的なのだが、深い愛情のようなものが両者には明らかに芽生えてきている。
深い愛情が育まれていく一方で、宮野さんの病状は悪化していく。
それでも二人は決して「健康な人と患者」という立場になることなく、対等の立場で、自身の思考について解釈し、それを言葉として紡いでいく。
その一見客観的な言葉のやりとりが、お互いの関係が深まるにつれて、魂のぶつかり合いになる。
こんなにエモーショナルで客観的な文章を私は初めて見た。
いろいろ書いてみたけど、たぶんこれ以上はうまく伝えられない。
読んだらわかる。読んでほしい。人生とは何かを考えながら、涙が止まらなくなる。これだけは間違いない。
Posted by ブクログ
気迫に押されてなのか、何なのかわかんないけど涙が止まらないし胸が苦しいし頭まで痛くなってきた。受けている感動と衝撃が、出てくる言葉とあまりにもチグハグで混乱する。
これを映画でどう表現したっていうんだろう。観たほうがいいんだろうか。想像もつかない。
Posted by ブクログ
とてつもない強度に満ちた本。存在は知っていたもののちゃんと読めていなかったが、映画化タイミングで手に取って本当によかった。
毎回のやり取りで進行する病状とともに、京都学派の哲学者たちとティム・インゴルドなどにより明晰になっていく人生のあり方には、我が身を振り返らざるを得ないところが多い。濱口竜介監督が映画化原作としたのもとてもわかるというか、彼の一貫したテーマ(と私は思っている)「人生という舞台の演じ方」が終始一貫して書かれているように思う。
Posted by ブクログ
こんなにすごいやりとりを読ませてもらえるなんて、驚きと感動と「病」という現実が押し寄せてきています。
メールのCCに自分も入れてもらえていたような感覚で進むやりとり。
本当の意味で知的で感性の鋭い人同士が言葉を紡ぐと、こんな会話になるんですね。
タイトルにあるように「急に具合が悪くなる」事も含め、ドキュメンタリーを文字で味わったような感覚になりました。
カンヌでの女優賞も哲学者・宮野さんに届いていますように。
人類学者・磯野さんが最後に書かれている舞台裏の項は読んでいて涙が止まりませんでした。
Posted by ブクログ
なんだろう。ものすごい密度のものを読んでしまった。
こんな本があるんだ。こんな出会い方と別れ方も。
ふたりの関係がうらやましい。
「急に具合が悪くなる可能性がある」と言われた哲学者でガンを患う宮野さんが、病を抱えて生きることの不確定性やリスクの問題を、医療人類学者の磯野さんと専門的に深めていきたいと考えたところから始まった往復書簡。これを続けるうちに、宮野さんが「ほんとうに急に具合が悪くなる」。
読みながら、宮野さんが「今どうされているのか」という情報を調べたい気持ちに何度も蓋をしながらいったん最後まで読んで打ちのめされ、あらためて「はじめに」戻り、そういうことだったのかと思う。
私たちは「先が見えている」からと言って、何もせず誰とも関わらずその場でじっとしておくことができるのか。「先が見える」という時の「先」がどれくらいだったらそうするのか。そんなことを考える。
そして濱口竜介監督の映画はこれをどう描いているのか興味津々。
Posted by ブクログ
濱口竜介監督が映画化するとのことで。まさしく濱口映画のモチーフである「偶然と必然」「他者との対話と関係性」の究極のような書簡集で、完全にくらってしまった。奇しくもアルモドバル監督作『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』にも通じる思想を感じた。
がんに侵された哲学者・宮野真生子と彼女に伴走することとなった人類学者・磯野真穂。哲学者ならではの緻密な視線で生死や己の思考を見つめる宮野さんと、驚異の真摯さと引き出し力で相対する磯野さん。お互いの知性や人間性への信頼と尊敬がなければ構築し得ない関係性。一年足らずの間にこの出会いのわくわくと喪失の恐怖が急降下しながら同時にやってくる稀有な体験を走り抜き、文字にし続けた「運命的姉妹」に心底頭が下がる。
Posted by ブクログ
衝撃的な重さの本だった。哲学者の癌が悪化したところから始まる、哲学者と人類学者の往復書簡。後半でモルヒネも効かないくらいに病状が悪化するあたりから、お互いの言葉が魂から発せられるように感じて、読んでいて苦しいくらいだった。強烈なラブレターを読んでいるような気になった。死の間際にあっても言葉を紡いだ宮野さんと、それを全て受け止め、時には鋭過ぎると感じるような言葉も投げる細野さん、2人の逃げない覚悟に圧倒された。
「不運に見舞われても、自分の人生を手放さなければ不幸ではない」
「時間とは、物理的時間と、その人が残した踏み跡の深さを掛け合わせたものの厚み」
Posted by ブクログ
読み進め、残りのページが減っていくたびに「宮野が死んでしまう」と思った。
そわそわした気持ちになりながら、読み進めた。
6便から、宮野の病状は明らかに悪くなってきている。
モルヒネを使用するようになった。
ただし、文章の明晰さは最終便である10便まで変わらなかった。
むしろ彼女の思考はより自由により世界の真理に近づいているように思う。
普通、モルヒネを使わざるを得なくなるような終末期には、頭が回らなくなると思うんだけどなあと不思議で仕方ない。
そもそもこの本を手に取ったのは、ふたりの著者が文系研究者で、死について興味があったわたしは「研究者が自分の死について語る様子を見てみたい」と思ったからだ。
本が手元に届くまで著者について調べていたら、宮野の九鬼についての博論提出先の主査は、わたしの大学院時代の指導教官だったことがわかった。
しかも博論が提出されたのは彼女が亡くなる数ヶ月前のことだった。
知り合いの知り合いという仕方で本を読む前に彼女と繋がったわたしは、まるで他人と思えない仕方でページをめくったのだった。
特に印象に残っているのは、当事者性の引き受けについて懐疑を示すところである。
宮野は、がん患者であることがわたしを100パーセント構成するのではない、というようなことを言う。
自分ががんに罹患したとして、自分のすべてをそれに染み込ませる必要はないし、それから逃げたいと思うのは死に向かう病気という性格上、自然のことだと思う。
わたしは当事者研究が苦手である。人がやっているのを見るのは大丈夫だし尊敬するけれど、自分ができるとは思わない。
引き受けざるを得ないラベル(女性であること、母であることなど)に対する責任を引き受けたくないからである。自分はラベルが表す総体からすればちっぽけな存在にしか過ぎず、「わたしたち」という主語から導かれる自己責任の内容は、わたしにとってはあまりに大きく重たいものでしかない。
宮野はそれについて、本書で丁寧に説明している。
肩の荷が降りた気がした。
当事者性について、責任を引き受けられないことを恥じなくても良いと思えるようになった。
宮野の文章は透明で、大胆で、正確である。
彼女が亡くなる前に、会ってみたかった。
がんの終末期において否応なくやってくる痛みや苦しさへの向き合いに、疲れてしまったり弱音を吐きたくなったり何もかも投げ出したくなってしまうのは当然のことなのに、宮野は最後まで冷静である(ように見える)。
ちなみに2026年に映画化される予定だと知って調べてみたら、登場人物が違いすぎて別物だと思い込み、1度ページを閉じた。
勘違いじゃなかったらしいです。
映画を見に行こうと思う。
Posted by ブクログ
偶然なんて存在しないと思っていた。
けれど本書を読んでいると、必然には勇気と覚悟と偶然が必要で、そうして初めて必然になるのだと感じた。だから偶然は存在し得るのだ。
まるで マルティン・ハイデガー や 九鬼周造 の哲学が、驚くほどわかりやすく言語化されているようだった。
そしてそれが往復書簡という体をなしているのがまた凄い。
『急に具合が悪くなる』とは、本来は偶然ではなく必然の出来事なのだろう。けれど、その出来事をどこかで偶然と思い込みたい。そんな希望が、この本全体に通低音のように鳴り続けている
Posted by ブクログ
偶然を必然として引き受ける覚悟について。
約束とは死の可能性や無責任さを含んだうえで、本来とれるはずのない決定的態度をそれでも今表明すること。未来であり、あなたへの信頼が約束のベースであり、運命を手繰り寄せるのだということ。
Posted by ブクログ
カンヌ国際映画祭で話題になった映画の原作本。哲学者の宮野真生子さんと文化人類学者の磯野真穂さんが交わした往復書簡。
宮野さんは乳がんを患っており、その病気が進行していく中で、『急に具合が悪くなるかもしれない』ことを軸に「生きること」「死ぬこと」「病気になること」「他人との関係」などについて二人が率直に語り合っていた。読む前から宮野さんが42歳の若さで亡くなっていたことは知っていたので、闘病記的なものかな、と思っていたら全然違ってて、人はどうやって他者と生きるのか、みたいな内容だった。ただ、哲学者と文化人類学者のやりとりだけあって、文章が難しかった。
しかしながら全体を通して医療従事者との関わり方や「励ますこと」への慎重さなども書かれていて、すごく身近に感じたし、考えさせられることの多い読後感だった。
この話がどんな風に映画化されるのか、とっても興味あるからぜひ観に行きたい。
Posted by ブクログ
濱口竜介監督の映画が話題で読んでみた。末期がんを患う哲学者と医療人類学者の、死の1−3か月前の往復書簡。磯野真穂さんといえば、「コロナ禍と出会い直す」が話題で、医療者の常識に対して医療人類学の観点から批判的に捉えている人だと思っていたが、本作はとても面白かった。どうしても出版されているものなので綺麗事に感じるやり取りも多かったのだけれど、明らかに具合が悪そうな人を目の前にした際に、私達が陥るアンタッチャブルなコミュニケーション不全を分析し、その先へと思索を重ねていく往復書簡はとても臨場感があって、ライン=動的な応酬であった。濱口監督の映画の中で、どのように表現されているのか、映像の中に宿る表現が今から楽しみである。
書簡が進むにつれ、宮野さんの体調がどんどん悪くなっていくので、最後の方は文章にも力がないように感じてしまったのだが、個人的には6便で、病者と周囲との対話には、どんどん遊びがなくなっていき、会話が書き言葉のようになり、慎重な振る舞いに疲弊する、100%患者であることを引き受けなければいけなくなっていくという語りが印象的だった。ここに死の孤独と恐怖があるのだろうと思った。死は、生きながらにしてコミュニケーションを奪うのだ。幸いにして病を得ていない立場として、また今後自分が当事者になった際にどう振る舞うことができるのか、何度か読み返したい。
アーサー・クラインマンの医療人類学は一度精読しなければならんかなあ。
Posted by ブクログ
乳がん末期の哲学者と文化人類学者の往復書簡。
少し前にポッドキャストエキスポというイベントに行き、たまたま磯野さんがお話しされいるのを聴いたのだがそれが面白かった。その後に興味を持ち磯野さんのポッドキャスト、からだのシューレを聴いてみたところ、本が映画化されカンヌ映画祭で賞を獲ったというお話をされていた。気になって読んでみた。
哲学者の視点で、患者になりきってしまうことへの抵抗、出会いのこと、死に接しても未来を見て生きること、お互いの関係性の大切さが書かれていた。宮野さんの専門である偶然性を軸に、偶然であるが故に、出会いとは、生きるとはなんなのかということが書かれていた。
時間が限られて来ているにも関わらずお互いの関係が深まっていく。そこで交わされる言葉に胸を打たれた。
最後は死の直前で書き抜かれた文章で、鬼気迫るものがあった。しかし悲壮感というより未来や希望を感じされられた。前向きに生きた方だったのだろうと思う。映画も観てみたい。
Posted by ブクログ
先月のカンヌ国際映画祭で女優賞を獲った「急に具合が悪くなる」の原作本です。
がん患者で哲学者の宮野真生子さんと人類学者の磯野真穂さんによる10回の往復書簡、そこには鬼気迫るものがあった。この映画、絶対見てみたい。
Posted by ブクログ
最初は学者同士の高尚な言葉のやり取りなのかなあ〜とさら〜っと読んでいたら、途中から二人が交わす言葉ににのめり込んでいった。
特に、合理的な判断によって選択し自己責任が問われる社会において、偶然性を問い言語化してくれたことで少し心が軽くなった。また、多様性とか、人への寄り添い方とか、なんとなく感じていた違和感を問い直してくれた。
たった数ヶ月の出来事とは思えない、読み応えのある往復書簡。読んで良かった。
Posted by ブクログ
哲学者と文化人類学者の往復書簡。
死ぬという生き物として根源的で最終地点にリアルに向かっていくなかで感じられたこと、思考、を互いにわたしあう。引用の哲学は一目ではわからないものもあったけど、自分と向き合うというのは、時間がかかるし、その時点でわからないことも多い、とてもゆっくりとした営みなのだなと思った。いまここに心を向けることが、さまざまなものが溢れる現代でどれだけ難しいのか、困難の当事者関係者になったときにどれほど難しいのか。とても伝わる文章だった。自分ならあっという間に構造のなかに取り込まれてしまいそう。この本を読んで、自分の心が少しでも立体的に、隙間を産み出すことができていたら嬉しい
Posted by ブクログ
がんに冒された哲学者と文化人類学者の往復書簡。6月に公開される濱口竜介監督の映画原作。
全10回のやりとりのうちとくに前半の5回までを興味深く読んだ。終わり近くになるとちょっと俺には難しい内容になったので流し読み。
なぜ他ならぬ自分が病気にならねばならないのか、という偶然性について。
玉石混淆な治療法を勧めてくる身近な人たちの善意というノイズについて(山崎元さんも同じことを書いていた)。
不運の原因として妖術を用いるアゼンデ人の知恵について。
不運を受け入れることで始まる不幸について。
自分のためというより残された人に迷惑をかけないために行われる終活について。
このへんの話が印象深い。
自分が選んでなったわけではない病気によって死を宣告されたとき、死にゆく者があとに残す人たちへ果たす責任としての終活。しかし自分の人生に完璧な責任をとれる人などいるのか、いるとしてそれは好ましいことなのか。死を見据えた哲学者はハイデガーを引用しながらこう述べる。
「私の生は何かの途中で打ち切られざるをえない。人生は完成することなく、人間はつねに「自分の未然noch-nicht」──つまり、まだ達していない途上──を生きる存在なのです。そんな存在がどうやって完璧に責任をとるというのでしょう」
氷河期世代なので、この文章を自己責任論への反論としても受け取った。自己責任論は、お前が困っているのはお前自身に原因がある、俺の知ったことじゃない、勝手になんとかしろ、という社会の冷たさから生じたものだと思っている。
Posted by ブクログ
偶然の出会いから始まった二人が、互いの意思で関係を築いていく姿が印象的だった。
病気になると、自分自身を「患者」というカテゴリに当てはめ、その枠の中で安心しようとしてしまうことも可能だが宮野さんはそうしなかった。自分は病気ではないものの、どこかで「〇〇な人」という立場に自分を収めてしまっている感覚があり、その折り合いをつけることの難しさを改めて考えさせられた。
二人のやり取りや距離感がとても自然で温かく、互いを尊重しながら関係を深めていく様子が心に残った本だった。
Posted by ブクログ
映画化すると聞き、積読になっていたものを急いで読んだ。
プロジェクトヘイルメアリー然り原作知っておきたいタイプ。
とにかく「すごいものを読んだ」という気持ちになった。
あれを読んでこんな激浅な一言でしかまとめることができない自分の語彙力、表現力の無さを恨みたくなる。
哲学に生きる人が、人類を研究する人が、研究人達が、死を身近なものとして捉えたとき
こんな発想や考え方になるんだなというのを見せて頂いたような感じがした。
哲学者や人類学者の引用もよく出てくるのだけれど、理解・共感できるものもあれば
私の知識では全く解釈が難しいものもあった。
往復書簡の中でこんな重厚感のあるやり取りをしてただなんて信じられない。すごすぎる。
恐怖に飲み込まれそうになる時、そんな時にこそ自分の人生を考え、言葉にする。
真に哲学者で、本当にかっこいい生き様だ。
本書を読んで思ったのは、人間は死に近づいた時こそこれまでの生き様が出るのだろうということ。
私の生き様は、どんなだろう。
全てのことは自分が選択したものである
あの日あの場所に行こう、会ってみようと選択したのは自分
“自分だから”その選択をしたのではなくて、“選択したから”今の自分がいる
解釈があっているのか分からないけれど、
本書を読んで私が心に留めておきたいと思ったこと。