あらすじ
もし明日、急に重い病気になったら──
見えない未来に立ち向かうすべての人に。
【濱口竜介監督 最新作】
映画『急に具合が悪くなる』
2026年6月19日全国公開
第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品決定!
哲学者と人類学者の間で交わされる
「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。
もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか?
もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。
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1便:急に具合が悪くなる
2便:何がいまを照らすのか
3便:四連敗と代替療法
4便:周造さん
5便:不運と妖術
6便:転換とか、飛躍とか
7便:「お大事に」が使えない
8便:エースの仕事
9便:世界を抜けてラインを描け!
10便:ほんとうに、急に具合が悪くなる
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宮野真生子(みやの・まきこ)
福岡大学人文学部准教授。2000年、京都大学文学部文学科卒業。2007年、京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。博士(人間科学)。専門は日本哲学史。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか──「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)、『出逢いのあわい──九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版)、藤田尚志との共編著に『愛・性・家族の哲学』(全3巻、ナカニシヤ出版)などがある。
磯野真穂(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)などがある。
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良すぎた。まごう事なき⭐️5、手元に置いて何回も何回も読みたい本。
序盤は元気があるから、がん患者に収まりたくない!の強い気持ちがすごい。8年も癌と付き合ってたらそんな風に思うのか?全身状態も深刻じゃないみたいだし、全ての癌患者には当てはまらんなーって白けた頭で読む医療者目線の自分がいた。磯野さんも失礼だなー、なんで宮野さんを逆撫でするような事ばっかり、と思ってた。→これは患者と非患者に2人を固定して、理想の関係とのギャップに不満を感じていたから!と気づく。
〇〇の接し方、多様性の話(9便)では、ハッとすることが多かった。言語化できない違和感が輪郭を持ったように感じた。医療者として働く自分とそうじゃない自分が棲み分けられてなかったんだと理解。医療者でないときに、役割固定して点にならなくて良い、ラインを描くことこそが大事なんだ、と。
他にも選ぶこと、不運と不幸、徒歩移動と輸送どれも心に刺さった。私はこんな風に生きたいんだ、と思った。登山が苦手でハイキングが好きなのもこの理由だよー、と嬉しくなった。
どんどん具合が悪くなると、心情も刻々と変わる。あんなに強気の宮野さんとストレートを投げ続ける磯野さんではなくなって、、ただ、2人はずっとまっすぐ向き合って言葉を紡いでいた。かっこ良い。素敵な関係を2人で作っていくのがとても良かった、、
Posted by ブクログ
哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による往復書簡。
タイトル通り、急に具合が悪くなるかもしれない、というところから始まって、最後は本当に具合が悪くなっていく。
泣くに決まってる。
宮野さんの人生との向き合い方に、勇気をもらった。40歳そこそこで、あれほど俯瞰できるのかと。
ハイデガーは言う。「死はいつかはやってくる、しかし今ではない」と。
でも「今ではない」という猶予が、彼女には与えられなかった。
彼女にとっては、今なのだ。
でもだからこ、その「今」の中で、知的に、誠実に、言葉を交わし続けられたのかもしれない。
Posted by ブクログ
映画を見なかったら読まなかった本。というのは、映画を見た頃、資本主義のシステムのなかで働くことに疲れていた。映画のなかで、全く同じ課題について自分の感じていたことが言語化されていて感激したので、改めて文章で読みたくて本書を買った。が、映画とは、二卵性双生児ですらなく、かなり歳の離れた姉妹みたいなものと思ったほうがよい。
それでも、読んでよかった。二人の学者の魂の往復書簡は、事態の緊迫とともにドライブ感が増していく。人と生きること、世界に自分を開くこと、未来に誠実につなげることができている二人の交わす言葉は、大袈裟でなく、胸を打つ。
もう一度映画を見たい。
Posted by ブクログ
同名映画を観て感動し、原作を購入。
生き様が格好良い。
人は何かしら物語を創作しないと生きていけないもの。その究極的な課題が自身の死についてであり、そこに対して書簡のやり取りを通じて向き合っていく。
一つ一つの文章を通じて、そこには確かに力強い『踏み跡』が残っていることを感じた。
Posted by ブクログ
濱口竜介監督の同名映画を観て、面白かったので、原作として購入。
内容について、とても良かった。
一便一便が短くまとまってて読みやすく、それもよかった。
2/3ほど読んだところで、各書簡の日付を確認して、時間の濃密さに驚いた。
第一便の宮野さんの、リスクと可能性を知ることによって、細分化された人生の分岐が示されたようでいて、本来の無限の可能性を見落としてしまうのでは無いか という話で、かなり引き込まれた。
医師の診断・説明を正しく理解し、そこから今後の人生の道筋を決めるのが患者の自律、自己決定であり大切だと思っていたので、別角度からのこの問いかけは、目から鱗だった。
偶然の話、運命の話、どれも面白かったが、特に心を動かされた言葉は(心は常にうごされっぱなしなのだが)、9便での磯野さんの 「関係性を作り上げることは〜〜次の一歩を踏み出してゆく。」のところ。
「ラインを引くこと」「にも関わらず」この書簡で出てきた色々な言葉、やり取りが、流動的に二人の関係性を構築したことがわかる一節。そしてこれは、10便の宮野さんの、選択した先で自分が立ち現れてくる という話と繋がったいる。
とても面白かったです。おすすめです。
Posted by ブクログ
人におすすめされた&書簡のやり取りが映画化ってどない?&別の本で磯野さんを発見したことがある
上記理由により手に取りました。
おすすめしてくれた人は、途中の死に対する温度感が変わったあたりから泣きっぱなしで〜というようなことを言っていたが、私は最後の最後にうるっときました。
やはり、人の死には弱い、、、、、、、、
この書簡の背景には数多もの軽い日常的なやり取りがあるのはもちろんそうなのだろうが、それでもこの二人の関係を見て【出会うのを諦めない】気持ちになりました。
Posted by ブクログ
話題や文体がどんどん重くなり、死を意識せざるを得ないものになっていくにつれ、お二人の学者としての矜恃と言葉への真摯さもまた強く感じられるようでした。私はこんな風に自分に降りかかった事柄と向き合えるだろうか?私はただの連結器になっていないだろうか?ラインを引き、そこに深い踏み跡を残せるような生き方ができるのか、しようと努めているのか?何者かになる、とかではなく、人間としての生き方、他者との関わり方を問い直さなければならないと思いながら読んでいました。
Posted by ブクログ
言葉への、誠実で確かな執念を感じた。文章にはずしんとした重みと眩しさがあって、姿勢を正して読みたくなるページが多かった。
たびたび引用される哲学者や人類学者の言葉は、初見にはちょっと難解だけど、読み返したくなるような忘れえぬ言葉や文化との出会いにもなった。
往復書簡なのにキャッチボールではなく、ピッチング。創作ではないからリアルといったら変なんだけど、抽象的な言葉にさえもありありと、リアルなもがきや熱が乗っていて、豪速球に気圧されるすごい文章達だった。
Posted by ブクログ
哲学者と文化人類学者の対話、約束された終わりと残り続ける軌跡。
医療・ケアについての往復書簡でこんなに胸を熱くさせられるとは。
映画は未見だけど、この内容なら人文書が映画になるのも分かる気がした。
Posted by ブクログ
涙が止まらないし、しばらく考えたいので感想は後で追記しようと思うけれど、ひとまずこの本をあの映画にした人たちへの尊敬が止まない。あの映画をみてこの本を読もうと思ったので、関わってくれた全ての人に感謝したい。
Posted by ブクログ
映画を見に行こうと思いつつ、先に原作(原案?)を読んでしまった。往復書簡で読みやすいのだけれど、読み飛ばしたくなくて行きつ戻りつした。あまり好きな日本語ではないのだけれど、お二人によって「言語化」されていく内容がすごかった。
それぞれが取り上げられていた書籍も読んでみたい。
Posted by ブクログ
最初の方は研究者二人の雑談を聞いているようで、こんな考え方もあるのか、自分の考え方はこういう風に説明できるのか、と面白がって読んでいた。具体的な死が近づくにつれて話す内容が死に関するものになり、今の感情の話になり、読むのが苦しくなった。
後半の方は正直ちゃんと受け止めて読めた気がしていないので、機を改めて読みなおそうと思う。
Posted by ブクログ
書簡ってテキストなのに、会話みたいに温度の変化が表れるの面白い。
いい本に出会った時の気分って、自分がずっと思ってたことをうまく言語化してくれてるっていう感覚に近いって聞いたことがあるけど、まさにそれがある。後半の"タイミング"の話であるように、偶然は無為に起こるようで、たしかにそこに自分が介入して掬い上げてる。例えばある映画に何も感じない人もいれば、人生に大きな影響をもたらされる人もいるということに近い気がする。たしかにその映画を見て感銘を受けて、新しい歯車がまた人生を駆動させていく。その映画は自分にとって何の記憶にも残らない可能性があった"にもかかわらず"、たしかに自分は感動したのだという事実。素晴らしい映画を見たときに心から生きててよかったと感じるが、その感情の内訳にはもちろんその映画の素晴らしさもありつつ、その映画にここまで深く感動できる自分へのこれまでの人生の肯定感も大きく含まれていると思う。そういった感覚をより明晰に教えてくれた気がする。
また、それとは逆ではっとすることもあって、自分の未来が良くなるようにあれこれ考え、コントロールすることは、その世界に自分しかいないことが前提であるということ。それは、まるで現代社会の中であらゆるものをテンプレート化し、わかりやすく整理して平面的に捉えることととても近い。そしてそれは確かに傷つかないのかもしれないが、その先に果たして何があるのだろう。
「多くの点たちが降り立つ世界を想像し、遠い未来を思いやること、そのとき、私たちは初めてこの世界に参加し、ラインを引き、生きていくことができるのではないでしょうか。」
本当にその通りだと思った。ただ、この世界に存在するのではなく、世界と関わって生きねばという力をくれる言葉だった。
最後に。原作より先に映画を見てしまったのだけど、原作を読んで映画の凄さがよりわかってしまった。やっぱりあの出会いのシーンが本当に凄まじい。2人が一緒に過ごした時間の長さなんて関係なく、あのときあの場所での会話だけで、ぐっとお互いがお互いにとってのかけがえのない存在になるのだと急に気付かされる。あの奇跡を映像化してくれて本当にありがとう!
Posted by ブクログ
52.
魂の分け合いを通じて
魂のぶつかりを見た
そしてそれは溶け合うように見えた
往復書簡という形式の本を初めて読んだのだけど
ここまで心を揺さぶられることになるとは
そして思いがけず夏の本だった
Posted by ブクログ
「リスクの話をしましょう。病気を得た人は、常にさまざまなリスクと可能性の語りのなかにいます。」
それぞれに引き出す勇気を持ち、偶然を必然として、引き受ける覚悟を持って出会えたからです。だから、不可能だったかもしれない偶然が生まれた。偶然を「邂逅/出会わせた」のです、私たちのそれぞれの勇気と覚悟が。
具合が悪い人の日常は、具合が悪いことだけで埋め尽くされているわけではなく、そこに異なったものが入るスペースが残されています。それは具合が悪くなるにつれ、どんどん少なくなるかもしれないけれど、具合の悪い人と、そうでない人たちが、互いの間でそれを守り続けようとすること。そこに出会いの中で生きることが意味がある。私はそう感じます。
Posted by ブクログ
インゴルドの線の話が自分の考えていたことを言語化していてとても印象に残っている。
内容はかなり抽象的な話も多く、何度か読み返しながら頭を使って読んだ。なんとなくわかるからこそ、しっかり理解したいと思って時間がかかった。装丁の緩さから判断すると痛い目を見る難しさはあると思われる。
Posted by ブクログ
無意識のうちに相手を「病人」という枠に当てはめ、勝手に「不幸な物語(線)」を思い描いてしまうかもしれない。そんな自分自身の内面にある危うさに気づき、そうなりたくないと思った。
この本は病気や社会と激しく対立するようなものではなく、病という偶然の「点」を抱えながらも、最後まで「私とあなた」として対等に言葉を交わし、自分らしい「線」を紡ぎ続けようとした二人の対話。
Posted by ブクログ
カンヌ国際映画祭のニュースを見ていて知った作品。
まさか哲学者と人類学者の死を前にした往復書簡だと知らずに手に取りました。
学問として哲学はどうしても遠ざけてしまう。
わからないから。
でも、この往復書簡はどんどん胸が締め付けられて最後には涙なくして読むことができなくなっていた。
哲学者は難しいことを言っている様だけど、一つ一つの言葉を丁寧に扱うんだなと、思いました。
ぜひ、映画を見たい。
Posted by ブクログ
医療従事者にぜひ読んでほしい。少なくとも私は読んでよかったと心から思う。自分の看護観がいかに一方通行なのか思い知らされるような感じがした。でもそれが決して押し付けがましくなくて、論理的に書かれているからじんわりと受け止められる。
患者さんの意思を尊重する、このワードを医療従事者はある意味都合よく使っていることを実感を伴って自戒した。その上で医者がある程度の道筋を決めてあげる、この案には同意できるところもある。いかに患者さんが狭い選択肢の中で決断を強いられているか、そこに医療従事者がたてる道筋がどう介入するのか、今一度よく考えたいと思う。
後半になればなるほど、おふたりの関係性が深まっていくのが手に取るようにわかる。お互いの領域をいい意味で踏み抜き、鼓舞しあう姿が印象的だった。
Posted by ブクログ
固定しない。固定されない。人間はもっと多面体。
同名映画の原作にもなった、がん患者の哲学者・宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんの往復書簡です。たった2ヶ月間の往復書簡ですが、この短期間に人はここまで魂を分け合えた実感を得ることができるのかと、わたしには想像できないほどの驚きがあります。ノンフィクションの強さは、「本当にこんなやりとりがあった」「本当にこんな人たちがいた」「本当にこんな経験があった」という実存的な説得力にあると思います。
生と死を見つめるような哲学的な対話ですから、さぞかし重苦しい内容なのではと読む前は思いましたが、装幀はポップだし、基本的におふたりは友人同士ですから、なごやかさもあり、ピリッと緊張感が走ったり、くだけてみたり、真面目に問いを立てたり答えたりと、とても読みやすい作りでした。
この本の中で印象的だったのは、「固定化」についてです。この本の中で宮野さんは、他人が勝手に「若くして転移に見舞われた不幸ながん患者」という固定されたイメージ、一面的なレイヤーでしか宮野さんのことを見ないことへの強い不満を訴えています。宮野さんの手紙から引用するなら、「不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです」これを読んだときに膝を打つ思いでした。
その後に続く、レッテル貼りやバイアスに抵抗できずに思考停止なんてするな。固定されて、点になるな。生きた線を描くのだという強いメッセージに深く共感しました。人間はさまざまな役割や肩書のレイヤーを幾重にもおり重ねた存在です。宮野さんでいうならば、彼女は哲学者であり、女性であり、著者であり、野球ファンであり、友達であり、娘であり、パートナーであり、がん患者であり、、、無限にあるそのレイヤーの中から、がん患者だけをとりあげ、がん患者への適切な、間違いのない態度だけをとって接することは、はたして本当に誠実なことなのでしょうか。
そう考えると、なんて世の中は固定化に満ちてるんだと思えてきます。偏見、正義の主張、政治発言。そこかしこに固定化はある。でもそれは、わたしの中にも確かにあるのです。他人はもちろん自分自身をも、勝手に作り上げたストーリーの登場人物として組み込んで、固定化する。そんな経験は何度もあります。それは、ある程度のところで足場を固定しないと、次の考えに向かえないから。
でも現実に様々な気持ちを感じながら日々を生きているわたしたちは、四捨五入してバッサリ切り捨てられる数字のようにはいきません。感情の世界では、あなたの四はわたしの四と同じとは限らないからです。だから固定化せず、固定化されず、たえず揺れ続けることを怖がってはいけないと思います。細い足場の上で静止するでもなく、下に落ちるでもなく、やじろべえのようにユラユラ揺れることが自然なんだ、と。退屈と苦痛のあいだで揺れ続けるのが人間だとショーペンハウアーも言っていました。白や黒ではない、そのあいだの広大な灰色のグラデーションの領域を行きつ戻りつすることが、今を生きるうえで大事な姿勢ではないかと思います。
後半、磯野さんは相当な覚悟をしただろうという想像に難くない、あるお願いを手紙に託し、宮野さんに伝えます。重病人へのマナーというものがあるのなら、それを踏み越えるようなお願いかもしれません。病人を気遣うからこそこういうことは言ってはかわいそう、こういうことはやっちゃいけないものだという思考停止をせず、真正面から心をぶつけるような磯野さんの言葉に胸が熱くなる思いでした。一流のアスリートの凄まじいラリーを見る時、説明のできない感動が湧き上がることがあります。それと同じ感動かもしれません。「死ぬんじゃねーぞ」はややドラマっぽすぎるとも感じましたが、磯野さんが真正面からぶつかった最後の最後に照れ隠しで道化を演じたのかもしれません。もしこの場面を読んで、磯野さんが、がん患者である宮野さんに対して不躾であるように感じるなら、それは宮野さん、磯野さんを「がん患者」と「その友人」として読者である私たちが固定化していることになりえます。非・固定化の実践が試される、読み応えのある場面でした。
紙の本でこの作品を読んだ人であれば途中でハッとすることと思いますが、読み進めるうち、少なくなっていく残りのページが、そのまま宮野さんの人生の残りのページであることに気づきます。思わず息を呑みましたが、これに気づいた時、残りのページを読むことは「読む」という枠をはみだし、ひとりの人生を「見届ける」ことになったと感じました。本は人そのものであるとつくづく思います。
巻末では磯野さんが、本編では語られなかった舞台裏を振り返っています。手紙の上では「魂のやりとり」と言えるほどの濃密な対話が展開されたけれど、LINEでは宮野さんとたわいもない話も日常的に山のようにしてる、現実はもっともっと多面的だよ、と語っています。これまた読者の一方的な固定化をさらりと制止する、磯野さんの細やかさと誠実さを感じました。
宮野さんの最後の手紙より、印象にのこった言葉を最後に引用します。
「自分の人生に与えられた偶然の途方もなさに呆然とします。でも、その偶然を引き受け、私たちは生きねばならない。そのとき、自分で決めることの難しさに私たちは気づきます。」
Posted by ブクログ
最後、死に向けて話題を片付けていってしまうのが寂しかった。もっとたくさんの気になる話を、喉に骨が刺さったみたいに残してほしかった。まるで準備をしているみたい
Posted by ブクログ
先に映画を見たので、このやりとりからあの映画に昇華させることがすごいと思った。あらためて映画を見たくなった。
原作であるこの書簡のやりとりは、出会いの偶然の意味を、通常は病気の人には言いにくいことさえも、しっかりと言葉にしていく。当人たちも辛いだろうが、読んでる方もなかなかに辛かった。
淡々と書いているのに魂の熱量が高いやりとりだった。
Posted by ブクログ
少し哲学的で難しい部分もあるのだけれど、それをすべて理解する以前に、双方の書簡からとんでもない熱量が押し寄せてくるのを読んでいて感じる。言葉からものすごい炎がどばーっとぶつかってくるような感覚は本を読んでいて初めてだった。
偶然の中における他者との出会い・選択を通して自分が立ち現れてくる、自分とはそういうものだ、というのはとても印象的だったし、生きていくとは、「受取勘定をどれほど遠い未来に延ばし得るか」(三木清)ということも、すごく刻まれた思いがした。
Posted by ブクログ
哲学者、人類学者と補足しているのはなぜだろう。こんなふうにめんどくさく理屈っぽく言語化しているのは学者だからですよ、一般的にはしませんよね、あまり考えませんよ、という前提の故なのだろうか。
学者じゃなくても考えるよ、きっと。それぞれの言葉でそれぞれの解を出そうとしているはず。
Posted by ブクログ
往復書簡集。磯野さんも宮野さんも、最初から結末がこうなるのはわかっていたと思う。そのうえで「負けねーよ」「勝ちに行くぜ」と言い合っている。死を克服して生き延びるのではなく、確実にくる最期まで生き抜こうぜという掛け声の交換だったのだろうと思う。最初から運命や確率を話題として始まった往復書簡は、宮野さんの専門の一つであった九鬼周造を参照しながら「(前略)偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに充ちた世界を愛する(後略)」(p235)という宮野さんの結論で幕を閉じる。宮野さんはここで、勝ち負けというモードから自身と他者の生と死を愛するモードへ歩みを進めたのではないか、と感じた。
Posted by ブクログ
井上慎平さんの「弱さ考」で引用されていて手に取った一冊。
「弱さ考」では、人生で未来から逆算した選択をするのは可能なのかという流れで、その時のベストの選択をする他できないという考えのヒントとして取り上げられている。
全編読むと、人の一生とその中にある関係性、その関係性を選択する過程には、必ず説明しきれない偶然が作用しているというのが芯にあるのだと捉えている。
「にもかかわらず」というフレーズ、まさに人生はそのフレーズの繰り返し。
「にもかかわらず」の積み重ねで歩んだ道、その道々がラインとなり、踏み跡の深さが厚みを生む。
共著者である宮野さんと磯野さんの関係性、魂をぶつけ合うやり取り。
そんなラインが結べた二人が羨ましい。
Posted by ブクログ
「かもしれない」を前提に進められる弱い運命論は便利だなと思います。
だって、宮野さんが元気に京都に帰れたら「何も起きなくて幸運だった」と言えるし、何かあったら「そんな体でなんて選択をしたのだ、リスクをもっと考えるべきだった」と言えるから。でもそういうことを言う人たちは、意思に基づいた選択を迫られる人たちの混乱には思いが行き届いていないのではないか。あるいは、自分なら機械みたいに判断できると確信しているのではないか。
そう思うことがあります。
私が特にそれを感じるのが、がんの代替療法をめぐる専門家や識者の警鐘を目にする時であり、それが今日、宮野さんに聞いてみたいことです。
話したことを書いてもいいですかと聞いたら、「それは磯野さんにあげたものですからいいですよ」と言ってくれました
人はやれるだけのことをした後、やってきてほしい未来を物の中に託します。
必死に勉強した受験生が、センター試験の時に合格鉛筆を持って問題を解くこと。
今を具体的に生きる人たちが、手元にあるささやかなものの中にやってきてほしい未来を見出し、そこに願いをかける。
確かに私はがんを患っています。でも、それは私という人間のすべてではないのです。
がんになった不運に怒りつつ、なんとかその不運から自分の人生を取り返し、自分の人生を形作ろうともがいている。それががん患者であることを100%受け入れていないということの意味です。
そうしてこうした生き方を取ることで、私はそれなりに充実した人生を送ることができています。制限があっても不運に見舞われていても、自分の人生を手放していないという意味で、私は不幸ではありません。
「子を亡くしたかわいそうな母親」という共有可能な物語を、周りの人々に喚起するかもしれません。
その物語の中で、母親は不運に怒ることなく、理不尽を訴えるのでもなく、「不運でかわいそうな存在」に押し込められていないか、私は心配になります。
結果的に会話の中で私は 100% 患者として語ることになり、聞き手側は非患者という役割に固定されることになります。
それは同じ平面で言葉を手放し受け取るキャッチボールというよりも、決まった役割の中で、しかも患者とそれ以外という圧倒的に不均衡な役割配分の中で、ボールをしっかり手に握ったまま間違えないように相手に手渡すだけの行為です。
素朴な問いを投げたいと思います。そもそも生きるって何でしょうね。
だって私たちは誰一人として自分の意志で生まれていません。いつ生まれるかも選べず、強制的にこのようなものとして一個の肉塊が与えられ、点として生み落とされる。そしていつか必ず死ぬ。
しかし今ではない未来へと差し向けられ、時間の中を進んでいくことを求められる。そのくせ寿命が尽きれば、一方的に終わりが与えられ、死んでいくしかない。
消えるしかできない点。ただし、消えるしかできない点が生み落とされるのは、孤独な一人の世界ではありません。そこは無数の点たちが何とか自分のラインを引こうと苦闘した痕跡に満ち、もちろん今まさにラインを引く運動をしている場なのです。
そうした場へと、私たちは生み落とされ、生きていく。
Posted by ブクログ
生き抜く力みたいなのを感じた。往復書簡で死にゆく人に対して、患者ではなく一人間、一哲学者としての尊厳みたいなのを呼び覚ます文化的議論が圧倒的にリアリティがあった。抽象論がここまで実際的な生に結びついて、勇気を静かにそして整然と与えてくれるのは読んでて心地よかったし、今後の人生の栄養になりそうな気がする。人生は圧倒的な不安定の上に成り立ち、その偶然性が巻き起こる世界に身を投じて、出会いや成功や失敗を引き受ける勇気がどれだけ自分にあるのか。どんな自分だったら許せるのか。結局、僕みたいに不幸を固定化しかけている延長線上の人生には不幸でいることが安定になってしまうからこそ、一歩偶然性に身を投げるのはとても理にかなった、解放させてくれると感じて結構刺さった