住田祐のレビュー一覧
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比叡山の千日回峰行。
1300年続く天台宗の荒行である。
一晩に40キロ歩く事、100日を7年。60キロ、80キロ歩く年もあり、総距離は地球一周分に匹敵する。5年目のクライマックス、堂入りは断食断水不眠不臥を九日間。1300年間で満行(成し遂げた)した者は数えられる程で、人間業とは思えないまさに命がけの修行だ。
それを行うのは選ばれた僧侶だけで、名誉な事である。しかし、修行中に歩けなくなったり、実行できなくなったら、その場で自害を選ばなければならない。失敗は死。その為に死装束を纏い、短剣と紐を持参して歩く。成功して大阿闍梨になるか、失敗して死ぬかの2択なのである。
恃照(じしょう)と戒閻(かいえん)という2人の僧の確執を軸に、比叡山延暦寺の成り立ちや僧侶の仏道修行や生活、師弟を中心とした人間関係、そして千日回峰行が描かれている。
神秘的な荒行がとても興味深い。
比叡山はその昔は表に出す事ができないやんごとなき子どもが送られて来た秘密の場所でもあったのだと、初めて知った。堂入りで意識を失い失敗となった恃照は、帝の子であった為に自害を防がれた。「半行満」という名を与えられ屈辱の仏道人生を歩む。それはそれで辛い。生き延びたとは言え、生き地獄でしかない。
僧侶とは言え、嫉妬プライドもあり、人間なのだ。恃照が成し得なかった千日回峰行をエゴ向きだしの戒閻が果たして達成できるのか。
尊い仏道修行と人間の業。相反する事象が、過酷な荒行の中では無に成らざるを得ない。
生と死の境目を目の当たりにする命がけの修行は、人間の存在意義など全てを無にしてしまう。それが悟りなのか。
成し遂げられる者と成し遂げられない者の差は
一体、何なのか。
その答えがここにある気がした。
現代の俗世に生きる私は、体力も無く、30分歩く事さえ、ままならない。好きな時に好きな物を食べて、寝転んでスマホを見ながらダラダラしている。この本を読んで襟を正した。こんな風ではいけない…と。暑い夏が終わったら、ウォーキングでも始めよう!(夏は始まったばかりです)
千日回峰行を営むような方々はどんなお人なのか。俄然、興味が出てきた。ちょっとネットで見てこようっと。 -
Posted by ブクログ
江戸中期の女帝後桜町天皇の落胤恃照は叡山で難行北陵千日回峰行の終盤、明王堂参籠に挑み、九日間の断食、断水、不眠、不臥をやり遂げた後、最後の三匝(さんそう)の3周目を1間残して人事不省に陥る。
千日回峰行は行不退と言われ、満行できなければ自ら命を絶つ不文律が課せられているが、恃照は出自がそれを許さず、叡山の判断で「半行満阿闍梨」とされた。
玉照院の住持を継いだ恃照は、後桜町の跡を継いだ後桃園天皇の落胤太之助を弟子として預かり、法名を戎閻と名付ける。
自ら恃むところの厚い狷介な戎閻は、半行満の恃照を軽んじ、尽く恃照に反発する。
共通の出自ながら恥ずべき過去を持つ恃照と未来への確信しかない戎閻の確執。
学識、法識、体力に抜きん出た戎閻に、恃照の抵抗虚しく、戎閻の千日回峰行入行が決定する。
より高みを目指す戎閻は、恃照との違いを際立たすべく、より困難な冬回峰で恵光坊流に挑む。
極限まで高まった緊張が解け、半行満も解消した結末は、穏やかな余韻をもたらす。
戎閻とは対極に凡庸を自覚する良照の入行は、むしろ良照のただならぬ覚悟を示唆するか。
300ページの分量だが、濃密な文体と絞られたテーマに、読み応えは十分。
清新とされる信仰の場が舞台であるために、座主を始めとする僧たちの人間臭さがより際立つ。
千日回峰行の過酷さは想像を絶する。
歴史を紐解くと千日回峰行を3回満行した人が、しかも近年にいることに驚かされる。 -
Posted by ブクログ
読書ログとして自然な流れにしつつ、率直でユーモアのある語り口をそのまま残したスタイルです。
馴染みの薄い、江戸時代の比叡山を舞台にした物語。「日々穏やかに規則正しく生活をしながら、精神を練っていたのだろう」程度の認識であったが、どうやらそうでもないらしい。命の危険を伴う荒行を行ったりもする。
本作は二人の僧の対立が話の軸となる。ちょっと極端な対立ではあるが、行く末は想像と違っていて感動した。「怒鳴ったり、ひどい体罰をしたり、胸ぐらを掴んだり、ギラギラした野心を持ったり……全然精神が練れてないじゃん!」とは思ったが、実際の歴史や人間臭さはそんなものなのかもしれない。
あまり世間に認知されていないテーマをしっかりとした文体で書き上げており、全編を通して楽しんで読めた。これがデビュー作(処女作)で、いきなり直木賞候補になったというのも納得の凄さ。 -
Posted by ブクログ
読み方の分からない難しい漢字が多い。こういうのは読んでいてストレスになり、読書リズムが生まれにくいものです。でも、それを差し引いてもすごい本でした。
「千日回峰行」。40年ほど前に酒井雄哉さんがNHKのドキュメンタリーでその行を達成されたとき、すぐ本でも読み、深い感銘を受けました。その本はそれきり読んでいませんが、ずっと書棚の高いところに架しております。
この物語はその行についての仔細はあまりなく、その行を取り巻く人間、社寺、師弟間の内部事情といったものを描いております。
一見神聖かと想われる社寺でも、国を民を救い、おのれの精神を磨き上げるという宗教本来の姿を忘れて、わが身の保全、世間体、欲が渦巻くドロドロした世界があります。
そんななかで“行”をしたいと望む僧たち。いったいなせという疑問。やはりそこには人間の持つ“欲”が潜んでいるとも言えます。それでも、想像を絶する厳しい行に挑む僧侶たち。ただただ名誉だけのためにできるものでもないのです。
僧侶でありながら憎しみも生まれ、互いの確執、憤怒、羨望にらしからぬ言葉の応酬も描かれます。そういった現実がこの物語をさらに生々しく生きたものにしていると思います。そして苦手とする人間関係はじめ、経験することにはすべて何かの意味があることをこの本は語っています。
先に述べたようになかなか読書スピードが上がりませんでしたが、半分を過ぎたあたりからは一気読みでした。物語の展開は少し意表を突かれました。
千日回峰行など私のような凡人にはとてもできるものではありませんが、自分を律する、なにかしらの“行”をやってみたいという気にはなりました。 -
Posted by ブクログ
他には無い、特殊かつ絶対的なルールを持った、閉じられた世界を舞台にした歴史小説なんですけれど、読んでいく内に本書は特別な環境で生きることを余儀なくされている、現代の人たちにも響くものを感じながら、尚且つ生きる勇気が沸々と湧き上がってくる、そんな力があるのだと思います。
江戸時代の比叡山延暦寺にて千年もの歴史を刻み続けており、これを満ずれば大阿闍梨という高僧の称号が与えられ後進の僧侶を導く立場となる、過酷な仏道修行「北嶺千日回峰行」では、大阿闍梨となれるか死ぬかの二択のみで、決して例外など起こり得ないと思われていた中、それが起こってしまったのは『特別扱いされた』という事情があったのです。
そして、ここで言う『特別扱い』というのは、『本人にはどうすることもできない』、生まれたその瞬間、こういう生き方になってしまうしかないのだという、その自らの意志で人生を切り開くことのできない苦しみというのは、本人にしか分からないものでありながら、更にそれは江戸時代の叡山という特殊な環境下に於いて、言葉にせずとも突き刺さるような周囲の視線であったり、自ら望んだわけではない地位に立たされたことによって、まるで生き恥を晒しているような気持ちにさせられたりと、気を遣われていることが却って重石となった苦しみなのでした。
大阿闍梨になるまで、あとほんの僅かで力尽き倒れてしまった僧の「恃照(じしょう)」は、師にあたる「憲雄(けんゆう)」の思いもあり、半分だけ阿闍梨というような、これまでに例のない中途半端な新しい地位にさせてもらったことが、後に教える立場として弟子を持つことで、より苦しみを増していく皮肉な結果となった中、恃照と同じ境遇を持つ「戒閻(かいえん)」が弟子になることによって、その苦しみは癒されるのかと思いきや、反対に彼に対して激しい憎しみを増していくことになるのでした。
恃照にとっては決して触れられたくない、「北嶺千日回峰行」に挑もうとする戒閻の姿には、嫌でもかつての不甲斐ない自分を思い出してしまうと共に、恃照への挑発とも感じられそうな、誰に対しても尊敬の念を抱かぬ戒閻の自由で我が道を行く、その傍若無人とした様には誰もが嫌悪感を露わにする一方で、戒閻の何が何でも満行しようとする怖いほどに凄まじき執念には、誰にも理解されることのない彼にしか分からないものが宿っていながらも、どこか恃照に問い掛けるものを感じられたことから、本書は『運命の中で運命に抗えることはないか』を、どんなに辛く苦しい境遇であろうとも必死に探し続けることで、このような閉じられた世界に於いても自らのアイデンティティを見出そうとする、そんな生き様に魅せられるだけのみならず、憲雄と恃照、恃照と戒閻、それぞれの関係性を重ね合わせることによって見えてくるものに胸を打たれた、人と人との繋がりをも描き切っているのです。
本書は住田祐さんのデビュー作(2025年作)であると共に松本清張賞受賞作でもあり、今後が楽しみな作家さんです。 -
Posted by ブクログ
叡山の苦行、北嶺千日回峰行を為さんとする2人の僧の物語である。達成できなければ自害という過酷な千日回峰行にあと一歩というところで昏倒し失敗した恃照。女帝後桜町天皇の実子という出自のため、朝廷を恐れて自害を忌避、半行満という待遇を与えられ生き延びた恃照。その恃照の弟子として預けられたのが先帝御桃園天皇のご落胤だという太之助。ともに存在を公にはできないこの世にはおらぬはずの者だった。戒閻と名を改めた太之助もまた北嶺千日回峰行を満行し大阿闍梨となることを望んでやまない。生きた証を求め千日回峰行に囚われる戒閻と師の恃照は半目し憎みあい、しかしやがて共鳴する。
そんなお話。
過酷な修行の描写は鬼気迫って戦慄させられる。白鷺とは叡山の回峰行者を指す言葉で、白い麻の浄衣を着て山道を跳ぶように歩く姿からきているという。