私は息子たちにたくさん質問する。答えが返ってきたら、それに対してさらに質問をする。そうすることで、自分の考えを批判的に再検討させる。子どもたちはうるさがることもあるが、それは子育ての大切な要素だと私は考えている。
子どもが何かに興味を持ったら、親はその思いを励まして新しい世界を発見させようとする。芸術、文学、音楽に触れさせ、スポーツに親しむよう励ます。一緒に料理をする。ダンスをする。科学について教え、自然の中に連れ出す。
ところが、そんな親でも怠っていることが一つある。それは、考える習慣を身につけるよう助けることだ。そうなってしまうのは、それが子育てのテーマだと考えていないからだ。
この本では、子どもが考える習慣を身につけるための方法をたくさん紹介する。もっともシンプルな方法は、子どもに質問し、子どもが答えたら、それについてさらに質問をすることだ。親が教師役をする必要はない。むしろ、そうしないほうがいい。
私たちは、復讐が日常茶飯事であった時代の人びとより洗練されていると思いたがる。「そのような暴力的な感覚に支配されている社会では、人生は貧しく、意地悪で残酷」になると想像してしまうのだ。
だが、それは違う、とミラーは言う。実際、タリオンの掟に従う共同体では、人の命は高価だった。そこでは、人を殺したら自分も殺された。腕を切り落としたら自分の腕も切り落とされた。現代に生きる私たちは、命にも手足にも、わずかな価値しか認めようとしない。現代生活の多くの部分は、身体に被る被害に安い値段を付けることを陪審員に認めているからこそ成り立っているからだ。
ミラーが指摘するように、「交通事故による死が、加害者を殺す権利を遺族に与える」なら、だれも自転車を運転しようとは思わなくなるだろう。
そうなるのは車だけではない。飛行機、電車、トラック、動力機械など、モーターを持つほとんどすべてのものが当てはまる。「目には目を」の精神から離れ、わずかな保証でよしとすることで、現代人の暮らしが可能になっているのだ。
レックスとジェームズは、小学2年生のとき、初めて5キロマラソンを走った。二人は34分少々で走り切った。8歳男子では9位と10位の成績だった。私とジュリーはゴール地点で二人を出迎え、走り切った子どもたちを誇らしく思った。
二人を祝福しながら私は言った。
「スージーを見た?」
レックス、ジェームズ、スージーは、学校でも学校の外でも、いつも一緒の仲良し三人組だ。
「見てない。どうだった?」とレックスがたずねた。
「1着だった」と私。「すごく速かったぞ。25分でゴールしたんだ」
正確には25分を少し切っていた。
「ぼくらより先にスタートしたから」
レックスは、スージーが9分も先にゴールした理由を説明するかのように言った。
「それほど前にいたとは思わないけど」
「かなり前にいたよ」とジェームズが言った。「スタートしたとき、見えなかったほどだもの」
「ここからは見えてたけどなあ」と私は言った。「それに、ゼッケンにはタイムを計るチップが付いているから、いつスタートしたかはタイムと関係ないし」
「知ってる。でお、大勢が固まっちゃって、まともに走れなかったんだ」とレックス。
「9分間もか?」と私は訊いた。
「全力で走ったわけでもないし」とジェームズは対抗心をにじませた。
「そうだよ」とレックス。「ぼくたち、ゆっくり走ったんだ」
「そうか、わかった」と言いながら私は、スージーを祝福しようとしない二人に少しイラッとした。「でも、一生懸命走ってもあれほど速く走れなかったかもしれないぞ。スージーはすごく速かったから」
なぜ少年たちは言い訳をしたのか?
女の子に負けたからだ。男子は女子に負けてはいけないことになっている。それは女の子にとって嬉しくない約束事だが、男の子にとっても嬉しいことではない。実際、その約束事が女の子を困らせる理由の一端は、それが男の子を困らせることにある。
男子はスポーツで女子に負けてはならないという考えは、言うまでもない理由で、女子にとっても迷惑な考え方だ。それは女子はスポーツに不向きだという認識の反映であって、長いあいだ女子をスポーツの世界から排除する理由になっていた。
スポーツでは男子の方が有利だ、という当たり障りのなさそうな想定でさえ、女子の機会を制限してしまう。スポーツが得意であることを期待されない女子は、その方面で励まされることもないし、プレーする機会も限られる。すると自己成就の予言のようなもので、実際にスポーツが得意ではなくなっていく。それに対して男の子はスポーツが得意になる。生得の能力によるのではなく、スポーツのために親が時間とお金をかけるからだ。
それがなぜ男の子にとってよくないのか? 男子は女子よりスポーツに秀でていなくてはならないという考え方のせいで、運動能力が男らしさの条件になってしまっているからだ。女子に負けた男子は、男らしくないと見なされる。男と認められないことさえある。そのメッセージが心に刻み込まれると、自分には欠陥があるとさえ思うようになる。
そこが男子にとっての悪いことだ。そして、それは女子にとっても悪いことになる。
なぜなら、自分の男らしさを守らなくてはならないと感じる男子が、女子に負けるリスクを回避するために、女子を排除してしまうからだ。あるいは、女子の成績を否定して、自分のほうがすぐれているという意識にしがみつこうとするからだ。5キロマラソンで、レックスとジェームズがスージーの好タイムを素直に認めなかったのは、自分たちに及ぶ脅威を遠ざけたかったからだろう。
しかし、少年たちを責めることはできない。そんな考えを定着させてしまったのは彼らではないからだ。それに、少年たちはその体制内で自分の地位を守ろうとしてはいるが、特権だけを享受しているわけでもない。
多くの少年は、手の届かない基準(届きたいとも思っていないかもしれない基準)に到達しなくてはならないというプレッシャーを感じている。それができなければ、特権のない女子と同列の地位に追いやられる。それどころか、そこにもとどまれない。男子からも女子からも歓迎されない存在となるのである。
ジェンダーは人との関わり方にも微妙な影響をおよぼす。よくジュリーに指摘されるが、私は女性とはソフトな声で話し、男性とは低い声で話す。知らない人と電話で話すときは、さらに低くなるようだ(これは、母親と間違われるのが嫌だった10代の頃に身につけた習慣だ)。
また、男性に対するときと女性に対するときでは、距離の取り方も違う。男性に対するときは、私は文字どおりの意味でも比喩的な意味でも、身を乗り出す。気圧されたくないからだ。
だが女性に対しては、とくに初対面の女性には、距離をとって相手にスペースを与える傾向がある。近づきすぎると、相手にどんなシグナルを発しているかが気になるということもある。
このように私たちは、相手のジェンダーがわからないと戸惑うことがある。標準的な手掛かりがないため、どんなふうに係るのが適切かわかりにくいからだ。
デンブロフは、そんなときはちょっと立ち止まり、その人と社会的関係を構築するうえでジェンダーを考慮する必要があるか問い直してほしいと言っている。男とか女とかではなく、人として関わればよいのだと。
シフリンによれば、ウソとは、正直であることが期待される合理的理由がある状況下で、自分が信じていないことを真実であるかのように述べることである。「正直であることが期待される合理的理由」という部分がすごく重要だ。
私たちはつねに相手に正直さを期待しているわけではない。お笑いのトークショーでは、出演者の話には事実ではないネタも混ざっていることがわかっている。それがお笑いというものだ。小説を読むときも、誰も作者が本当のことだけを書いているとは思っていない。
正直であることが期待されていない状況を、シフリンは「期待停止文脈」と呼ぶ。これにはひと言注意が必要だ。いつもウソをついている人はだんだんと正直であることを期待されなくなるが、シフリンが言っているのはそういうことではない。
シフリンが関心を持っているのは、言う側にも言われる側にも、本当のことでなくてもかまわないという、もっともな理由がある状況だ。彼女はそれを「正当な期待停止文脈」と呼ぶ。そのような状況下では真実を伝える義務がない、と彼女は言う。つまり、事実と違うことを言ってもウソにはならないということだ。
正当な期待停止文脈というのは案外多い。人と会ったとき、私たちは当たり障りのない社交辞令を口にする。「会えて嬉しい」「万事順調だ」「素敵なヘアスタイルね」。これらは「社会的文脈が要求する」コメントだとシフリンは言う。ざっくり言えば、互いの存在を認め、関係を肯定するために交わすことばだ。
しかし、「わきまえのある聞き手」は、この種の言葉が「本当だと思ってもらえると期待されていない」ことを知っているとシフリンは指摘する。だから、本当のことを言わなくてもかまわない。散歩の途中で出会った人に、不運続きなのに「万事順調!」と言ったとしても、それはウソではないということだ。
「正当な期待停止文脈」という用語が仰々しければ、「罪のないウソ(ホワイト・ライ)」と言ってもよい。どう呼ぶかはともかく、その種の嘘はついてもかまわないということには同意できるだろう。
要は「ウソ」にもいろいろあるということで、大切なのは道徳的観点だ。正当な期待停止文脈では、思っているのと違うことを言ってもかまわない。
ここで、私がレックスにした最初の問いに戻ろう――ウソをつくこととふりをすることは、どこが違うのか?
そこで私は、すべてのウソはふりをすることだと言った。しかし、多くのふりは、正当な期待停止文脈で行われる。たとえば、スーパーヒーローや魔法使いのふりをして子どもと遊ぶ親は、正直であることへの期待を一時的に棚上げして、空想の世界で遊んでいる。私が、1年生のときのクラスにデュオブラキウム・スパークセイがいたと言ったのは、ハンクと遊びたかったからだ。
子どもたちは長いあいだ、私のつくり話を楽しんでいた。彼らはいまでも自分たちのつくり話を語るが、その回数は少しずつ減ってきている。子どもの成長にともなって、感じるいちばん悲しい部分だ。
グエンの考え方の注目すべき点は、「認識論的(エピステミック)バブル」と「エコーチェンバー」[反響室]を区別するところにある。
グエンによれば、認識論的バブルとは、「外からの適切な意見を遮断し、排除する情報ネットワーク」のことだ。
現代人はますますこのようなバブル〔閉鎖空間〕の中で生活するようになっている。現実の地理的空間を見ると、属性の似た人びとが集まって住み、同じような考えの人に囲まれて暮らしている。ネット空間では、ソーシャルメデイアのフィードに似たような考えを持つ人々が集まり、アルゴリズムがユーザーの好みに合わせて何を見せるかを調整している。
それが認識論的バブルで、好ましいものではない。中にいる人びとの見解に反する情報を遮断し、過信に陥らせる。真実からかけ離れた考えであっても、みんながそう考えていると思い込ませる。問題の存在そのものを隠してしまうことさえある。
しかしグエンはこれをさほど気にしていない。バブルは、その中にいる人びとが「見逃していた情報や議論に触れる」だけで簡単に破れるからだ。
グエンはエコーチェンバーのほうを心配している。認識論的バブルと同じように見えるが、重要な違いがある。エコーチェンバーは、「外から入ってくる適切な意見の信頼性を積極的に失墜させようとする社会構造」だ。エコーチェンバーの問題は、情報を遮断することではなく、情報源の信頼性を蝕むところにある。
ジュール・コールマンはあたしの数十年来の友人でありメンターでもある。ロースクール時代には私の先生だったが、私がこれまでに学んだことのなかで、もっとも重要な教訓の一つを教えてくれた。
ある日、廊下で彼を見かけた私は、哲学の質問を持ち出して彼に話しかけた。何について質問したのか覚えていないが、質問にかこつけて自分の考えを伝えようとしたことを覚えている。
「私の見解では……」と言いかけたところで、彼は私の話をさえぎった。
「きみは自分の見解を持つにはまだ早すぎる」とコールマンは言った。「疑問や好奇心やアイデアを持つのはいい。何らかの傾向を持ってもいい。だが、見解はだめだ。きみはまだ見解を持つ準備ができていない」
そのとき、彼は二つのことを言いたかったのだと思う。
第一に、「見解を持つのは危険だ」ということ。なぜなら、それを守ろうとして塹壕を掘ってしまうことが多いからだ。そうなると、ほかの人の意見を聞くことができなくなる。哲学者コールマンの美徳の一つは、自分の意見を進んで変えられる姿勢だ。それは、彼が答えより問いに重きを置いているからにほかならない。彼の望みはただ理解することであり、そのためならどこへでも――たとえ後戻りでも――ためらうことなく進んで行く。
第二に、「見解は努力して自分のものにする必要がある」ということ。自分の見解を擁護し、その論拠を示し、それに対する反論の間違いを説明できないうちは、自分の見解など持つべきではない。コールマンは私に、見解を持つには若すぎると言ったが、これはたんに年齢の問題ではない(そのとき私は26歳だった)。私がまだ哲学を始めたばかりだと指摘したのだ。
アリストテレスをはじめ、哲学者はしばしば科学の最先端を行った。実際、科学が哲学とは別ものと見なされるようになったのは比較的最近で、科学はその歴史の大半において、「道徳哲学」や「美学」といった哲学の諸分野と並んで「自然哲学」と呼ばれていたほどだ。
現在、私たちが科学を哲学とは別のものと考えるおもな理由は、科学が哲学とは違う方法を用いるためにある。科学者は、注意深く考える点では哲学者と同じだが、彼らが世界を調べる方法は観察と実験である。
哲学者もその種の方法を使うことがあるが、それほど頻繁ではない。哲学者が最も香味を抱く問題の多くは、実験で解明できるものではないからだ。
どんな実験によっても、正義が何かはわからない。愛とは何か、美とは何かもわからない。いつどんなときに罰が正当化されるのか、復讐が正当化されるのかも、実験ではわからない。どんな実験も、人間にはどんな権利があるのかも、知識とは何かも教えてはくれない。それらが実験でわかるようになるかどうかも、実験ではわからない。
この種の問いに答えるためのおもな手段は、注意深く考え、対話を積み重ねることだ。そこがひっかかるのか、哲学が知識の源であるということを疑問視する科学者もいる。哲学はただのおしゃべりにすぎない、というわけだ。
しかし、哲学が知識の源でないなら科学もまた然り、ということは言っておきたい。
究極的には、実験というものはすべて世界を知るための方法である。そして、実験の結果を解釈するためには議論しなくてはならない。
先にも述べたが、科学者も哲学者と同じように注意深く考えなくてはならない。議論をおろそかにしたら、どんなに立派な実験を行ってもいいかげんな結果しか生まれない。科学も哲学と同じで、注意深い思索と対話の上に成り立っているのだ。
要するに、もっとも深い意味において、科学と哲学は同じ営みだ。どちらも、それぞれの課題に適したツールを用いて世界を理解しようと努めている。数学、科学、哲学は、異なる学問分野と考えられているが、すべて同じ幹から伸びた枝なのだ。
哲学者は、自分が取り組んでいる問題について、ほかの学問のほうが問題解決に適していると判断したら、問題をその学問に引き継ぐ。
宇宙の大きさについてのアルキタスの問いで、その引継ぎが行われた。
私たちの科学によって、宇宙の奥深く――そして過ぎ去った時間の奥深く――に目を向けることができ、宇宙の果てにまで考えをめぐらせることができる。運動に関するゼノンのパラドックスも科学で解明された。数学は無限という概念を理解するのに役立ち、科学は宇宙の構造を明らかにしつつある。