シルヴィア・プラスのレビュー一覧
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苦しい作品だ。解説で「少女版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』」との謳い文句が付されていた時期があることを知ったが、言わんとすることはわかる。大都会の軽薄さへの失望、社会への反抗心、人生の実感のなさと空虚さといったものは確かに共通しているが、しかし押し潰されるような圧迫感と苦しみは、本書が段違いではないだろうか。個人的にはキャッチャー〜の主人公にはうんざりさせられたが、本書の主人公の痛みにはかなり心を寄せられるものがあった。特に両者の違いが明確なのはやはり異性との関係だろう。男性であるキャッチャー〜の主人公が自身の安全が確保された立場から女性を常に冷笑していたのに対し、女性である本作の主人公にとって、異性との関わりは常に社会の眼差しや要請に傷つくものであり、暴力により搾取される危機にも面し、また性交経験は実際的な肉体の痛み・負担を伴うものでしかなかった。この、両性におけるそもそもの立っている場所の違いが重たく胸にのしかかるし、両作品が世に出てから50年以上経過している現代においてもなお、共感できる部分が多いと思う。
新訳ということも影響しているかもしれないが、60年代の作品と言われなければわからないぐらい、現代にも普遍的な─いやむしろ現代の人間の方が自覚が多いのではと思う、息苦しさ、空虚さ、痛みが泣きたくなるぐらい率直に伝わってくる作品だった。 -
Posted by ブクログ
30歳という若さで夭折したシルヴィア・プラス唯一の長編小説。
日本で手に入る作品は詩集と、短編集である『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集』くらい。
長編はこの『ベル・ジャー』一冊だけ。訳者後書きにも記されていたが少女版『ライ麦畑でつかまえて』と言われているとか。確かにそれも頷ける作品だった。
物語は1953年の夏、ローゼンバーグ夫妻の死刑執行のニュースから始まる。
マッカーシズム旋風吹き荒れるアメリカ。国民は共産主義の影に怯える集団ヒステリー状態で、友人や家族であっても少しでも共産主義の疑いがあるなら密告し、根拠の有無を問わず告発される。
更に今以上に女性は、女性として妻として、生き方を押し付けられてきた。
自分らしく生きることが難しい社会、環境でキャリア、人生に悩み、次第に精神を壊していく若い女性の姿を本書は描いていく。
そんな時代に主人公のエスター・グリーンウッドは優秀な成績を収めて、ニューヨークのファッション誌のインターンを勝ち取る。エスター・グリーンウッドは物書きになりたいと思っており、インターンはその足がかりになるとそう思っている。
しかし、エスターは精神を壊してしまう。
その結果、希死念慮が頭から離れなくなり、何度か自殺未遂も起こしてしまう。
そして精神病院に入院するまでに……。
その理由については明確な理由があるわけではないのだが、アメリカ社会に流れている空気が、そうさせてしまったように見える。
だからだろうか、今読んでもこの息苦しさは古臭くない。
あと余談だが、本書を読んで後半部分の精神病院の場面で『17歳のカルテ』を思い出した。
影響下にあるかも、と調べてみたら『17歳のカルテ』の原作は作者スザンナ・ケイセンの実体験が元になっていた。
スザンナ・ケイセンは18歳で自殺未遂を起こし、入院させられているのだが、その病院はシルヴィア・プラスが入院させられたところと同じなんだとか。 -
Posted by ブクログ
言葉が詩的で綺麗で、特にスキー場の表現がお気に入り。表現があまりにもリアルで、何度か手に力が入らないくらい怖くなる時があった。
序盤NYの部分は、友達の容姿、お洋服の質感からレストランのテーブルに置かれたネームカード、身に纏っている香水の匂いまで、とても綺麗に描写されていて読んでいて凄く好きだった。
NYでの熱い湯船についての話も、自分が言語化できなかった感覚が綺麗に言語化されていて、読んでいてsatisfyingだった、嬉しかった。
figtreeの部分も、she explains so well like 読むのが苦しかったくらい。訳者のあとがきでの言及も良かった。
白人主義、精神病外国人等々色々な差別、時代的背景が見えた。
お気に入りの小説かも。 -
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シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』を1950年代アメリカと現代日本の女性を取り巻く社会状況の比較という観点から読むと、この作品は単なる歴史的な女性差別の記録ではなく、現代日本社会に対してもなお有効な批評性を持つ作品であることがわかる。
1950年代アメリカにおいては、「女性は結婚し、妻や母として生きるべきである」という規範が比較的露骨な形で存在していた。主人公エスター・グリーンウッドは高い知性と才能を持ちながらも、作家として生きる可能性と、社会から期待される伝統的な女性役割との間で葛藤する。その苦しみは、女性が社会的に許容される生き方の狭さによって生み出されたものとして理解できる。
一方、現代日本では法制度上は男女平等が保障され、女性の高等教育や就業の機会も拡大している。そのため表面上は、女性は自由な人生を選択できるようになったように見える。しかし実際には、管理職や企業役員、理工系専門職などにおける男女比の偏り、男女間の賃金格差、女性に集中する非正規雇用、妊娠や出産によるキャリア中断など、多くの構造的な不平等が依然として存在している。また、経済的自立が容易ではない状況のなかで、結婚が女性にとって生活の安定や経済的保障を得るための重要な手段として機能している側面も残っている。
このような状況を踏まえると、『ベル・ジャー』は過去の作品でありながら、現代日本の女性たちの置かれた状況とも重なる部分を持っている。しかし文学批評としてさらに興味深いのは、エスターが生きた1950年代アメリカの方が、ある意味では「敵」が見えやすかったという点である。当時は女性に対する制約や期待が明確であり、「結婚しなさい」「家庭に入りなさい」という社会の要求が可視化されていた。これに対して現代日本では、「女性は自由に生きられる」「自由を選択できる」という理念が広く共有されている。その結果、女性が直面する困難は社会構造の問題ではなく、個人の努力や能力の不足として理解されやすくなっている。
そのため現代の女性は、「自由に選べるはずなのになぜうまくいくかないのか」という形で苦しみを内面化しやすい。賃金格差や昇進格差、出産後のキャリア形成の困難さなど、本来は社会構造に由来する問題が、個人の選択や責任の問題として処理されてしまうのである。この観点から見ると、『ベル・ジャー』の題名にもなっている「ベル・ジャー(ガラスの鐘)」とは、1950年代の性別役割そのものではなく、人々の閉じ込めながらもその存在が見えにくい社会構造の比喩として読むこともできる。
私はいったい何を求めているのか、何を求められているのか。私は、私は、私は…。
出版されるにあたっての副題である〈I am I am I am〉が溺れている最中の必死な息継ぎのようだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ優秀な奨学生エスター・グリーンウッドは雑誌社のインターンに選ばれ、マンハッタンにやってきた。しかし社会の厳しさや不条理に触れ、純潔に見えたボーイフレンドは実はそうではなくてモヤつき、ライティングコースにも選ばれなくて将来の設計図がぐらつき、自殺を図って精神病院に入れられる。後半は精神病患者の目から見た周囲の人々や病院の様子が、『赤い花』とかそういう作品と重なった。優秀な女子学生の挫折と、死にたくても死にきれない気だるさと、将来への不安と絶望感を感じた。
訳者あとがきに、この作品の舞台である1953年アメリカは、ソ連のスパイとされた民間人が電気椅子で処刑されることがセンセーショナルに報じられた時代であり、女性差別や人種差別、同性愛者への差別などが入れ子構造で根強く残っていた時代だと書かれていた。精神病を治そうとして脳に電気を流すショック療法がエスターに施される様子や、その失敗からエスターがショック療法をトラウマ的に拒否する様子が描かれているけれど、結局電気椅子もショック療法も同じで、社会から異端とされた人には電気が流されて、その人を排除したり「普通」に戻そうとしたりするってことよね。そしてこの社会で貞操を守り、夫である男を盛り立てて赤ん坊を産むことが理想的かつ一般的な女性のあり方とされる中で、処女のエスターは産婦人科で避妊具をもらって初対面の数学者と関係を持つ。女子奨学生で、精神病院に入院していて、子供を持つことを拒否するエスターはこの社会のアンチであるように見える。生きていたくないのに、首を吊ろうとしても気が遠くなれば首を絞める力は緩むし、溺れようとしても力を抜けば浮き上がってしまう。社会に異端とされながらも人生からはなかなか逃げられない。
ベル・ジャーは、十五章に「ガラスの鍾」のふりがなで出てくる。常に彼女はベル・ジャーの中に座って、すえた自分の臭いをかぎながらくよくよ悩む、ということで、彼女を閉じ込めている自意識であるだろうし、あるいは「ガラスの天井」のような、彼女が囚われる見えない鳥籠でもあるんだろうか。ベル・ジャー自体は実験などで使われる上から被せる形のガラスの容器ということだけれど。エスターは幾度かのショック療法を経てこのベル・ジャーから解放されるというから、「正常」になれば解放されるものなのかもしれない。
「ベル・ジャーの中で、死んだ赤ん坊みたいに無表情で動かなくなった人間にとっては、この世界そのものが悪い夢だ」
そういえばエスターが医学生の恋人バディのもとで、瓶に入れられた胎児(ホルマリン漬け?)をいくつもみる場面があったけれど、エスター自身がその胎児に重ねられているのか。医学生が検体や瓶詰めの胎児を雑に扱うように、社会の中で物のように尊厳なく扱われているしその程度の価値しかない(と自己認識している)対象(オブジェクト)としてのエスター。
バディと一緒に出産を見届けた女性はトモリッロという名前だが、精神病院で隣のベッドに来たのもトモリッロさんで多分同じ人なんだろう。彼女は我慢ならない姑が訪ねてきたことで「めちゃくちゃになって」精神病院に収容されたと語るが、エスターが自殺未遂者だと知ると彼女を無視し始め、医者に頼んで二人の間に白い隔てのカーテンを引く。トモリッロさんは生を絶対善とする「ザ・女」であり、エスターのネガ(いやポジ?)的な対極な存在なんだろうけど、二人ともが精神病院にいるのって男性社会において象徴的、ただトモリッロさんはすぐ退院したのかベッドは空になって次の患者が入っている。 -
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ネタバレ1960年代に書かれ、すでに一度邦訳されているアメリカの小説。昨年(2024年)、この新訳が出版され話題になっていた。
1950〜60年頃のアメリカ文学には、時代を超えて読まれてきた有名な作品も多いが、個人的には少し苦手意識がある。それは、社会に適応しきれない若者の肥大した自己意識を、どこまでも一人称の自分語りで書き連ねていくようなタイプ。この小説もまさにそんな作品だった。文中(原文)に出てくる「I am, I am, I am...」という象徴的な一節は、この訳書を第一弾とする海外文学シリーズのシリーズ名にもなっている。
社会の入り口に立って精神のバランスを崩してしまった女子大学生が主人公。見えないベルジャー(ベル型のガラスの蓋)に閉ざされてしまった彼女の心情と、その目に映る周囲の出来事がヒリヒリするような筆致で描かれる。随所にみられる文学的に美しい表現に心惹かれたが、決して読み心地のいい小説ではない。自傷行為や希死念慮の具体的な描写もあり、現に今、精神の状態のあまり良くない人には、読むのをおすすめできないかもしれない。それほど真に迫る力がある。それでも最後に希望がみえるのが救い。 -
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明るい未来は、たわわに実ったイチジクの樹から好きなだけその果実を取れるように容易に手に入れられると思っていたエスターは、手に取る前にそれらが落ちていくディストピアの現実社会に気付く。ニューヨークのファッション雑誌でインターンをし、作家になる夢に向かい歩き出したエスターは、1950年代のアメリカの期待される善良で勤勉でいい男と結婚するという「女性」の役割を強制されることに抗い続ける内にベルジャーの中に閉じ込められ精神が壊れ始める。この物語が作者プラスが30歳で自ら命を絶つわずか数週間前、まさに死の淵を彷徨いながら急いで、しかも美しい詩的な表現で執筆し出版された事実を知ると、ベルジャーの中で絶望に泣き、もがき続けるプラスの姿が浮かび辛くなる。
「イチジクの木の幹の分かれ目に座り、飢え死にしそうになっている自分の姿が見えた―どのイチジクを選んだらいいか決められないのだ。あれもこれも欲しくて、ひとつを選んでしまったら、残りすべてを失うと思っている。そうして決められずにいたら、イチジクにしわが寄って黒くなり、ひとつ、またひとつと、足元の地面に落ちていった。」“ I saw myself sitting in the crotch of this fig tree, starving to death, just because I couldn’t make up my mind which of the figs I would choose. I wanted each and every one of them, but choosing one meant losing all the rest, and, as I sat there, unable to decide, the figs began to wrinkle and go black, and, one by one, they plopped to the ground at my feet.”
「ベル・ジャーの中で、死んだ赤ん坊みたいに無表情で動かなくなった人間にとっては、この世界そのものが悪い夢だ。」“To the person in the bell jar, blank and stopped as a dead baby, the world itself is a bad dream.”