ヴァージニア・ウルフのレビュー一覧
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ヴァージニア・ウルフの短編集で、執筆年は1900年代から1930年代くらいのあいだ。
ヴァージニア・ウルフは相当昔、高校生の頃にたぶん『ダロウェイ夫人』を読んだだけだったと思う。ほぼ印象は残っておらず、自分の文学地図の中でジョイスの影に隠れてしまった印象がある。
本書を読んでみると、なかなか新鮮だった。「まさにモダニズム」なのである。
従来のコンテクストを超え、新奇で根本的価値設定を再探究するかのような味わいがあり、読んでいてワクワクする。これは音楽で言うとシェーンベルク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、初期のショスタコーヴィチ、サティ及びフランス6人組といった面々の清新な作風に通じるものがある。絵画ではもちろん、ピカソ、ブラック、マティス、未来派、シュルレアリスムなど。
もはやそれらは100年も前のムーブメントであって今では「古典」と呼ぶべき一群ではあるが、そのスパイシーさ、フレッシュさは、今なお色あせているわけではない。まさに欧米芸術の黄金時代だったのだと思う。
さてウルフのこの短編集では、様々な「試み」がなされ、それぞれに完成度が高い。従来の「物語」は破壊されて、スケッチ風のシーン、コトバの放逸な実験が繰り広げられている。たとえば20世紀後半のヌーヴォー・ロマン、シモンやブランショなどは「さらに先へ」行ったのかもしれないが、ここでウルフが投げかけた問題提起はすべて解消されたわけではなく、相変わらずそれは無限の可能性を秘めて屹立しているように見える。
このモダニズム小説は、日本で言うと初期の横光利一におおむね反映されているような気がする。
ヴァージニア・ウルフの邦訳は近年割と手に入りやすいようなので、改めて読んでみたい。 -
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今まで読んできた小説とは一線を画す技巧を凝らす作品である。物語展開で作品に引き込まれるのでなく、小説の表現方法で心つかまれる体験は初めてかもしれない。
たった二日間の出来事を登場人物たちの内省を中心に物語を組み立てる手腕はさることながら、ある人の心理描写がいつの間にか他の人の思考に置き換わり、溶け合う。さながら、長尺一本撮りの映画を観ているよう。しかし、読者が触れるのは登場人物たちの発話や表情ではなく、内なる独白なのである。この奇妙な感覚は本作との出会いに感謝せざるを得ない。
各主要人物たちは総じて魅力的だが、個人的なベストはラムジー。なんといっても女々しい。「同情を強いてくる飽くなき欲望」を体現しながら間近で深いため息をつく姿は、現代の友達いないプライドだけ熟成されたおじさんを想起させる。
その凝り固まった自尊心が寂しい、の一言を他人に告げることを不可能にする。そんな自分を顧みることなく、不当に扱われているという認識から不機嫌になる。うーん、他人事ではないなと身をつまされる。
世俗と芸術という主軸をベースに読み進めるのもよいし、私のように卓越した技巧に着目する読み方もできる。どの登場人物に一番共感するかも読者それぞれで異なるだろう。
しかしどの人物も悩み苦しみ、一時は救われたように見えても、再び同じ孤独や不安に立ち返ってしまう。そのような人生のままならなさが何度となく描かれる。そのやるせなさや寄る辺のない不安を肯定してくれるやさしさが、本書に通底する魅力なのかもしれない。 -
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1. 『ダロウェイ夫人』との幸福なシンクロニシティ
先に読んだ『ダロウェイ夫人』の、あの意識の流れを用いた斬新な作風(挑戦)が、本書で語られるような「女性と文学の歴史」に対する深い洞察や敬意、そしてウルフ自身の「執筆への凄まじい覚悟(心意気)」の上に結実したものであると深く得心がいった。2冊を同時期に読めたことで、ウルフの挑戦の重みがより立体的に理解できた。
2. 「シェイクスピアの妹」の仮定に込められた魂
途中と最後の締めくくりに登場する「もしシェイクスピアに才能ある妹(ジュディス)がいたら」という仮定とウルフの主張に、魂が込められていて激しく心を揺さぶられた。
本来、創造的なものを生み出したいという欲求、頭の中のイメージを形にしたいという「意欲や欲求」は、男性も女性も等しく備わっているもの。
にもかかわらず、男性がそれを自由に表現し生きがいにできる一方で、当時の女性の前に立ち塞がる壁は絶望的なまでに高かった。社会からも取り合ってもらえず、誰にも理解されない苦しみを、一人胸の内で握り潰すか、あるいはその葛藤に苦しめられて命を絶ってしまう構造があった事実に胸が締め付けられる。
3. ウルフの「厳しい優しさ」:慰めではなく自立の鼓舞へ
凄惨な現実に対して、ウルフは単なる「共感・慰め・配慮」といった、甘い歩み寄りの態度を取らない。
むしろ、そうした過酷な現実があるからこそ、「女性は年500ポンド(お金)と、鍵のかかる自分ひとりの部屋を持つべく努力しなさい。それがあなたの自由と幸せになるから」という、強固で厳しい主張を突きつけている。
この「厳しさ」こそが、ウルフの真の優しさ。ウルフ自身がその孤独な闘いの最前線に立ち、努力し続けていたからこそ、「お互いに慰め合っているだけでは、この冷酷な現実には立ち向かえない」という本質を知っていたのだと強く感じた。 -
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ラムジー一家とその仲間たちと、一緒に濃密な時間を過ごしている感じで読んだ。
第二部では、一家のうち3人が亡くなり、荒廃した空き家の様子が描かれている。特に家を切り盛りしていたこの小説の中心人物であるラムジー夫人を失うことは、読んでいる私にも辛かった。
第三部では、第一部から10年後、家は改修され、残された人達がかつての生活を回想しながら、新たな人生を送っていることがわかる。絵描きのリリーが、自分の描く絵に迷いがあったのに、最後に自分のヴィジョンを発見する所が良かった。
灯台へと目指す舟で、父と子3人でサンドイッチを食べるシーンも良かった。
「灯台」とは残された家族の再生の象徴なのかもしれない。
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非常に独特の文体で、使っている言葉や世界観が難しいわけではないのに難しく、何度も戻って読み返す必要があった。視点が非常に流動的で、誰視点での文章なのかを見失いやすい。しかし感情の表現が非常に繊細かつ美しく読んでいて飽きない。
事前知識をあまり入れずに読んだので、第一部の時点ではどういった物語なのか掴めず、第二部に入った瞬間に急に物語が一転し驚いた。
ドラマティックな出来事は作中のシーンでは描かれず、物語のプロローグとエピローグだけを切り出したような作品だ。そうすることで平坦でありながらも衝撃的であり、静かで落ち着いた作風でありながらも飽きさせない名作だった。 -
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ヴァージニア・ウルフは、わたしの母校で英文科を選択すると、避けて通れない。彼女のエッセンスは、すべての学びのベースになる。
文学とフェミニズムの変わり目に位置し、当時の試みや思想の体現者ではないかと。
フェミニズムの台頭と言っても 決して 男女同権のために男性を叩いたということではなく どうやって社会に向き合って自分がどの位置にいるのか 自分は何なのか、どのように生きていくのかということを常に考えて動いて発信した人そのものだと思います
文学表現においては非常に感覚的で センシティブで難しくてよく分からない部分もありますが このエッセイに関しては非常に冷静でシンプルに書かれていてとても表現が分かりやすいというのが 逆に驚き
ウルフの文学はわけわからんと思う人でも これは読んでみて欲しい
そして フェミニズムをなんだかコワイと思っちゃう方には、こっちが本当だよ というのを知ってほしい
それにしても、この本は日本での出版物にバージョンがいくつもあり、なんなら邦題も色々バリエーションがあるので、情報が分散してしまいますね。人気作だからのこその悩ましいところでしょうか。 -
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この内容がほぼ100年前に書かれていた事に驚いていると、ヴァージニアウルフの語る主人公が自室に入る前に立ち止まり、100年後の世界を想像する場面が出てきて、こちらを覗く著者を想像する事ができた。
また、女性の作家が作品を書く上で、差別に対する怒りを表現する事を、作品を捻じ曲げてしまうとして良しとしない内容の記載については、最近の映画や小説において社会問題を扱うものが多くあるが、それらの表現は捻じ曲げられてしまっているのだろうか?一概にそうは思えないが、今後は作品の内容や表現と根差している問題意識のバランスのようなものを考えながら読んでみたいと思った。 -
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名著であり、100年前に書かれた驚き。あげられた理想は現代でも同じく課題になっているため、今読むにじゅうぶん値する。
「自分の人生を生きよう」とウルフは女性に呼びかけ、あらゆることに阻まれることなく自由な経験を女性たちができるようになれば、世の中にどれだけ素晴らしい小説が女性の手によって生み出されるだろうか、と述べている。
そのために必要なのはお金(ある種の余裕)と、1人になれる自分の部屋を持つこと。
小説家を目指さなくても、そんな、女性が真に自由に生きられる世の中が来れば、社会も変わっていくだろうという、未来への期待が込められた批評。メアリー・ビートンという架空の人物に語らせた、物語風なのが面白い。 -
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さすがの名著。女性と文学の歴史を主軸に、女性が教育や社会経験、そして経済的独立から遠ざけられてきたことが何を意味するのか。そして世に多くの書物はあれおよそ男性の目を通した「女性」しかほとんど描かれないことがどんなに歪んでいるか…などなど、フェミニズムについて明快に語っている。すごいと思うのは、その的確な着眼点と分析もさることながら、そうした諸問題への怒りや恨みを諌め、皮肉まじりだろうが同時代の男性識者の女性蔑視発言まで貴重なご意見として朗々と紹介するその余裕とちゃめっ気だ。まあ、言い換えれば、そのような「中立さ」を示しておかないと男性社会に受け入れられるのも難しかったのだろう。
読んでいて思ったのは、作中でも紫式部だけ軽く紹介されているが、平安女流文学について。彼女たちが同時代のヨーロッパとは異なり(ギリシャローマにまで遡れば女性詩人はいたが)、女性でありながら優れた文学作品を世に送り出せたのは何故だったのだろう?作者が女性作家が活躍するに必要なものとしてあげる二つの要素、安定した収入と「自分だけの部屋」、前者はあっただろうがそれ自体はヨーロッパでも女官はいたはずだ。後者…もしかすると、平安時代の通い婚システムが貢献したのだろうか。多くの女性は、婚家ではなく実家で暮らせたはずで、それがより時代の下ったゴリゴリの家父長制下よりは自由が多い、執筆環境を生み出せる「自分だけの部屋」に繋がったのだろうか…?などと考えながら読んだ。紫式部や清少納言の実際の暮らしについてはよく知らないので、合っているかはわからない。
本作から約100年。ウルフが現代を見たら何を思うだろうか。文壇での女性の活躍については、なかなか満足いただけるのでは。一方で、他の職業、たとえば棋士だったり、クラシック音楽だったりの世界では、私自身の寡聞の問題もあるがまだその限りではない気がする。他にも、彼女の語った社会的歪みで、まだまだ「あるある」として頷きながら読んだものは多い。それでも着実に、年500ポンド(概念)と「自分だけの部屋」を持っている女性は増えているし、私自身もそうだ。私自身が何かを生み出せているわけではないが、バトンを繋いでいくことで、「シェイクスピアの妹」を殺さない社会を作っていくからね、そうやって先人たちに手を振りたい気持ちだ。 -
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代表作「キュー植物園」など20篇を収録した短篇集。
以前から唱えている〈ヴァージニア・ウルフ=少女漫画説〉が、この短篇集を読んでより自分のなかで強固なものになった。小動物や植物、世間的には取るに足らないとされる小さなものたちにシンパシーを感じ、そこに個人的な象徴や啓示を見いだしていくモチーフの使い方。ディテールに注ぐ偏執的な凝視。言葉になる前の不定形な感情をとらえようとしてあふれだす、言いさしのような未然の文体。
これらはみな、萩尾望都や大島弓子などの作品にある謎めいたほのめかしや、わかりきれないけど「わかる」と思わされてしまうモノローグの魅力にとても近いのではないか。漫画家が絵と言葉を組み合わせて表現するものをウルフは言葉だけで表したと思えば、目指していた場所はかなり接近しているという気がする。文章で「バナナブレッドのプディング」を書いたような人だということだ。
たとえば表題作「青と緑」は、マントルピースの上に飾ったものたちの世界を異様なクロースアップで幻想を交えながら描写する。「乳母ラグドンのカーテン」ではカーテンのなかに世界が広がり、「壁の染み」ではたったひとつの染みに対して数多の可能性が検討される。空想というより妄想と言うべきその世界は、家という静の空間で自らも静の存在となって対象を凝視している語り手の窒息感みたいなものが伝わってくると思うのだ。
最初に置かれた「ラピンとラピノヴァ」は新婚カップルの蜜月期を描いたユーモラスな作品だが、ラスト一文の切れ味といったらない。ロザリンドはアーネストと一緒に窒息感からの逃げ場所を作ったのに、それが崩壊してももはやアーネストはひとりで新聞を広げて読みだすだけ、という完全な断絶に、ロザリンドと同じく読者も絶望する。
男が新聞を読む描写は他作品にもくり返し現れる。女性がこまごまとしたインテリアを見つめて意識の〈内〉の世界へ飛んでいくとき、男性は新聞やホイッティカー年鑑を読んで〈外〉の世界へ飛んでいる。この断絶。だが、「堅固な対象」の主人公は男性でありながらも小さくてくだらないものの側につく。そのために彼は政治という世間的な価値のある世界からは離れていく。
前時代的な家観に息苦しさを感じながら動けずにいる人びとを書く一方、「外から見たある女子寮」は恋の予感に浮き足立つ少女の一夜を描いた瑞々しい作風で他と違う印象を残す。この作品はシチュエーションも含めてかなりストレートに少女漫画っぽい。女性同士の同性愛という、従来的な"家"からは逸脱する関係をほのめかしているということも重要だろう。
あるいは、他の誰かになりかわることが一種の解放をもたらすこともある。「サーチライト」では、偶然漏れ聞こえてきた声すら即興的に取り込んでしまうほど巧みな語り部が、サーチライトと望遠鏡の類似に幻惑されて自分が語る話のなかに入りかけてしまう。語っているのか語られているのか曖昧になり、演者自身が自分の台詞を信じ始めてしまうような演劇空間の神秘が、サーチライトに照らされた夜の庭に幻出したのだ。少し乱歩の「押し絵と旅する男」を連想させるところがある。
訳者解説によるとウルフの作風は「不安を惹起させる Unsetting」と評されているという。たしかに、一匹の蝸牛をねっとり見つめたかと思うと来園者の話に聞き耳をたて、最後には天高い視点から植物園を睥睨する「キュー植物園」の語り手は語りの対象との遠近感がめちゃくちゃで得体がしれないし、死者と生者が鏡合わせのように語られる「憑かれた家」も、不思議なあたたかさがありつつ落ち着かない気分にさせられる。土地の精霊[ゲニウス・ロキ]的な存在が人や生き物に自由に出入りして思考をのぞいているようだと言えばいいのか。読心ができたら世界はこんなふうなのかもしれない。
原題がそのままSympathyな「同情」という一篇からもわかるように、ウルフは知的でありながらも自他境界をたやすく踏み越えてしまうような女性もよく描く。共感力の高さによって浮遊霊のように人や動物やものたちに乗り移り、その意識に同調する。それが〈意識の流れ〉という方法でウルフが捉えようとしたものなのではないだろうか。そしてそういう魂を持った人が社会的にあるいはジェンダー的に自身の肉体に縛られている苦しみと虚しさ、それが私には昭和の少女漫画家が身を削って描きだした世界の在り様と完全に重なって見えるのである。