ノーラエレングロースのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
とあるPodcastで冒頭の朗読を聞いてからずっと読みたくて、地元の本屋で探したけど見つからないまま、なぜか数年が経過。
2025年、デフリンピックを見に行くことになり、ふと本屋に入ったら特集コーナーに置いてありようやく読めた。街に本屋があることって本当に大事だ。
とても面白かった。2025年に読んだ本の中で、個人的重要度トップ5に入るくらい大事な本になった。
聾がありふれているため聾も健聴も関係なく手話を話し、聾であるということが欠陥として認識されない社会。障害というのは、個人ではなく社会の側にあるということをヴィンヤード島の事例は本当に示してくれる。島の遺伝性聾の当事者はすでに全員が亡くなっているが、著者は、現地に赴き、当時を知るインフォーマントの証言を多数採集している。「あの人は漁が上手でしたよ、ああ、言われてみれば聾でしたね、忘れてました」という島民の証言は、聾がどれだけ島でありふれていて、聾の人がどれだけ普通に当然に島の社会に溶け込んでいたかを表している。裕福な聾者もいれば、貧しい人もいたという。
そもそもどうやってそんな社会ができたか。遺伝性聾の遺伝子を持った先祖からはじまった孤立した地域集団が、島という環境で近親交配を数世代にわたって続けたことで聾が顕著に多い地域社会が出来上がった。聾の発生は完全にランダムであったために、特定の人や一族のスティグマではなく、社会全体のものとして捉えられた。
(遺伝の優性劣性というワードを高校生の生物の授業以来、久しぶりに聞いた…)
20世紀になり、島が外界と交わるようになると、遺伝性聾は劣性であったために聾は減少し、聾=特異なものという概念が輸入されてくる。手話を話せる人が減っていく。また、外部からは近親交配の野蛮な社会として貶されるようになる。この時期の島の聾者が感じたであろうストレスを想像すると、「交流」がもたらしたものに対して、何とも言えない気持ちになる。
ヴィンヤード島の事例について考える時、例えば聴力以外の何らかの身体的特性の遺伝だったとしても、同じように社会として適応することができたのか、とか考える。すなわち、聴覚ではなく、視覚や、運動能力、知的特性、あるいはもっと重い身体条件に関する遺伝が頻発する社会だったとしたら、それでも(手話のような)共通の社会的適応や、「欠陥」ではなく「ありふれた差異」としての位置づけが可能だったのだろうか?そんな仮定に意味はないのかもしれないけど、なんとなく考えてみたい。
地域社会というものの可能性を知る一冊。
障害とは何か、社会とは何か、考えさせられる素晴らしい本です。 -
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「障害」とは何か?
身体の欠如ではなく、社会の想像力の欠如である。
マーサズ・ヴィンヤード島では、聾者も健聴者も関係なく、誰もが手話で話していた。
そこでは聾者は「特別」ではなく、ただの「島民」であり「人間」だった。
壁も区別も存在せず、手話が自然に日常に溶け込んでいたその社会が、たまらなく美しく感じた。
聾者の自分にとって、その暮らしは少し羨ましくもあった。
現実では、今もなお一部の人々が障害者を「半人前」とみなし、マイノリティにだけ努力を求める。
その根底には、古代から続く偏見──“欠陥としての障害”──という思想がある。
時代が進んでも、無知による差別の構造はなかなか消えない。
「障害」とは結局、身体の問題ではなく、社会の無知と偏見がつくり出した概念なのだと思う。
共生とは、「歩み寄りましょう」と言葉だけで片づけることではなく、
「知ったつもり」にならず、互いを理解しようとする努力の積み重ねなのだ。
ノーラ先生の徹底したフィールドワークは、私たちに“平等の原点”を思い出させてくれた。
この本は、社会が本当の意味で共生へ向かうための確かな一歩を示している。 -
Posted by ブクログ
障害は作られている。
本書を読んで改めて感じたことだ。
「かわいそう」がどれだけ無知な言葉なのか、わたしはいつも考えている。
本書では、聴覚障害があっても島の社会に溶け込み、健聴者との区別なく営まれてきた島の歴史が書かれている。
差別がないということは、誰もそのことに頓着しないということだ。
その人を思い出すとき、その人が持っているアイデンティティの中に、障害を含めないことだ。
いま、時代はゆるやかに変化し、社会のしくみが障害を生み出している、という考え方にシフトしつつある。
しかし、解説で書かれているように、聞こえる側が手話をきちんと理解しないあまり、聞こえない側の理解に頼ろうとする課題がある。
聞こえない側の社会に溶け込もうとする努力に甘えてしまっている。
これは、やっぱり「かわいそう」からくる健聴者の慢心にも原因があるのではないか、と考えてしまう。
英語圏の人と打ち解けたいと思ったら、英語を学ぶのは当たり前のことだ。
それが手話となると、なぜそうならないのか。
かくいうわたしも、手話について全くの無知で、テレビ放送などでどういった対策がされているかもわからない。
これから手話を習おうとも考えていないけれど、こういった事実がある、ということを知れてよかった。
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Posted by ブクログ
原題は“Everyone Here Spoke Sign Language”。著者のノーラ・グロースは医療人類学者、現在はロンドン大学(UCL)教授。刊行は1985年。31歳の時に書いた博士論文がもと。グロース自身も、まさかこの本がろう文化や医療人類学のロングセラーになるとは思ってもいなかったに違いない。
調査研究のプロとして、腰が据わっているというべきか。ルポライターやノンフィクション作家だとこうはいかない。300年近くにわたってマーサズ・ヴィンヤード島で続いたろうの文化、それを文献や文書にあたり、聴き取りをして明らかにし、さらには聴覚障害が遺伝したという点についてもデータにもとづいて明確にしている。
書名にあるようにEveryoneの動詞はSpokeと過去形。1920年代、島のほかから避暑客が入り込むようになって、旧来のろう文化は消滅してしまった。マーサズ・ヴィンヤード島といえば、現在はアメリカ東海岸きっての有名な避暑地だ。
過去にさかのぼるという点で歴史人類学、ろうの文化という点で文化人類学、遺伝という点で自然人類学、そうした多角的な視点でろうの文化を描き出した名品。 -
Posted by ブクログ
〈ヴィンヤード島で聾者が手に入れたステータスを最もよく示しているのはおそらく八〇代の島の女性による次の言葉であろう。あなたが小さい頃、聾というハンディキャップを負わされていた人たちはどんなふうでしたか、とたずねると、この女性は断固とした口調でこう答えた。
「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」〉
二十世紀前半まで、二半世紀以上にわたり、アメリカ全体に比べて、遺伝性の聴覚障害が多かったとされるマサチューセッツ州のマーサズ・ヴィンヤード島では、島のほとんど住民が手話で話すことができたらしい。その島の歴史や人々の触れ合いを丁寧に紐解きながら、「他者を理解するとは、本当のところどういうことか」という、一言で安易に済ませてはいけない問いを投げかけてくれるようなノンフィクションでした。 -
Posted by ブクログ
アメリカにある、1700年代~1900年代前半まで遺伝性の聴覚障がい者が多く見られたマーサズ・ヴィンヤード島の調査記録を一般向けに記載した書籍である。
特筆すべきは、社会として聴覚障害がある人を「障がい者」として全く扱っておらず、現在の社会での認識と異なる社会が自然と形成されていた事である。
以前どこかの書籍で、「視力が悪い人は眼鏡という道具で他の人と変わりない生活を過ごせている。車いすの歩けない人が他の人と変わりある生活をするのは、技術者の怠慢だ」という、技術者の指導をする人の意見を目にしたことがあったが、
まさに、「障がい」とは、社会(上記の場合であれば社会の中で持ちうる技術)が定義することである、とまざまざと見せつけられた。
また、当書籍では上記の事実を、当時を知る高齢者の証言、および公的記録から記述しており、主観による意見だけでなく、客観的な指標からも「聴覚障害がある人を「障がい者」として全く扱っていない」という事実を証明している。文化人類学者によるフィールドワークとはこういったやり方なのかと知ることが出来た。 -
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ネタバレ遺伝性の聾者がかつて高頻度で存在していたアメリカのマーサズヴィンヤード島に関するノンフィクション。
遺伝性聾の発祥に関する考察も興味深いが、なにより、島のコミュニティでは聾者が特別視されず、社会的役割や地位も健聴者と変わらなかったという点を興味深く読んだ。
また、訳者の方による注やあとがきも素晴らしかった。
伊藤計劃氏『ハーモニー』でこの島のことを言及されていたのが本書を読んだきっかけ。
島における遺伝性聾の人は本書執筆時点では全員亡くなっていたため、聾者の人数や家族関係などが分からなくなってしまっていた。そもそも遺伝性であるかどうかも当初ははっきりとしていなかったが、著者が住人にインタビューしたり各種書類を検証したりすることによって、聾であった住人の名前が明らかになっていった。その過程で、電話の発明者として知られるベルが関わっていたというのは面白かった。こうした検証から、島における聾は潜性の遺伝によるものであることが分かり、またそのルーツについてもある程度たどることができた。
狭い地域の範囲内でコミュニティが完結し、結果的に近親交配が頻繁に行われたことで、潜性遺伝の聾形質が広まったらしい。
聾者が多数いたことにより、島では健聴者も手話を使えるのが当たり前で、聾者であるとないとにかかわらず地域で役割をはたしていた。というか、住民はふつう、ある人が聾者であるかどうかを意識せず、聾であることをとりたてて大きな特徴とは見なしていなかった。
聾者が加わった会話の場では、たとえ健聴者が多数派であっても、手話によって会話がなされた。ちょうど、海外の人がいる場での会議だと、日本人主体でも英語で話されるのと似ているなと思った。
とはいえ、聾者が多かったとはいっても割合として十数%などだったらしく、他地域と比べると圧倒的に高頻度だったとはいえ、決して多数を占めていたというわけではない。そういった中で聾者が「当たり前」としてみなされていたのには、当時としては発達していた手話の存在など、いくつかの要因が重なり合っていたらしい。
本書では、近代になるにつれて本土の聾に対する視点が持ち込まれたり、島外出身者との婚姻が進むことで次第に聾者が減少していったことも述べられている。
訳者あとがきでは、「手話の島」以外の側面としてのマーサズヴィンヤード島について(映画に登場していることなど)や、聾にまつわる事柄(「聾者」と「ろう者」は意味が異なることなど)が紹介されており、興味深く読んだ。訳注も、数は少ないが、ハッとさせられる記述が多かった。
自分が本書を読んだきっかけは伊藤計劃氏の小説だったが、その友人だった円城塔氏が本書を推薦したことがきっかけで文庫版の再発刊になったらしい。 -
Posted by ブクログ
非常に示唆に富んでいてとてもおもしろかったです。文句なし星5。1991年刊行とのことですが、色褪せるところはなく、今読むべき本でした。
ヴィンヤード島は聾というステータスを持つ人にとっては理想的な共同体であり、多様性うんぬん、差別うんぬん、うるさい現代において、色々な意味で学びがある事例かと思います。特に印象的だったのは、ヴィンヤード島がこのような共同体であった理由の1つとして挙げられていた、”ただ単に聞こえないという事実が共同体内においてなんの影響もなかっただけである”というような趣旨の一文です。これは本当にその通りで究極の状態だと思いますが、同じように実現することはとてつもなく難しいことだと思います。理想を語ることは簡単ですが、それの実現に何が必要なのか、理解はしておきたいと思いました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレかつてマーサズ・ヴィンヤード島には
遺伝性の聾者が非常に高い割合で存在し、
聞こえる人も聞こえない人も、
誰もがごく普通に手話で話していた。
その共生社会を、文化人類学者が丹念なフィールドワークで掘り起こしたノンフィクション。
印象に残ったのは、
「私は聾のことなど気にしていませんでした。
声の違う人を気にしないのと同じです」
という言葉。
当り前のことだから気にもとめない。
ハンディと位置づけるのは社会の側なのだなと思う。
聾だから嫌なことを聞かずに済む、というのも興味深かった。
小さい時、お母さんと話せるようになる前に
耳の聞こえない父親と話せたというのも面白いエピソード。
手話が言語であることを再認識できる。
上手く回っていた筈なのに、
外から来た人が口を出してきて
聾の人に結婚や出産を認めるべきではないと言い、
そうした偏見によって徐々に共同体から疎遠になる。
外の価値観に侵食されていく流れは重い。
日本が黒船に乗り込まれるまでは
清貧で明るい妖精たちの国だったことを彷彿とさせる。
今もなお、昔の癖で無意識に手話を使う人が島に残っているという。
耳が聞こえる聞こえないで区切ることなく
手話を使いながら話していたその文化を
外の人間たちが壊してしまった。
島の人たちが受け入れたせいでもあるのだが
外の普通を知ったことが正解だったのか否か。
寂しい気持ちになる。 -
Posted by ブクログ
1991年に発行された単行本を文庫化したもの、文庫化されたこの本自体の発行が2022年なので、30年ぶりに復刻したといっても良いかもしれない。
解説によると長らく絶版で、手話の歴史を学ぶ人間ならば知ってて当然の書籍だったという。
岩波ジュニア新書『手話の世界をたずねよう』にも引用されていたこともあり、読み始めた。厚みはたいしたことはない訳者あとがきを除けば、250ページである。しかし、センセーショナルな導入もなく、ただひたすらに誠実書かれたこの本は刺激に慣れている読者には、かなり 手強い感覚がある。
当該の島であるマーサズ・ヴィンヤード島の自体の解説に歴史、島に暮らしていた聾者を含む島民の血統や歴史、その背景である世界の歴史、こうした前提となる部分を丁寧に説明しているので、おおきな起伏がなく歴史に素養のない私にはかなり難しいところがあった。けれども後半になると、島の聾者たちの生活についてが生き生きと描写されていて、それがどういう背景によって成されたものなのか、そしてそれがどういった形で失われていったのかが詳細に説明されていた。長らく絶版であったが、強く復刻が望まれていた理由がわかる。
ハンディキャップは、そのハンディキャップの持ち主が所有しているものではなく、社会が所有しているものだという話は見聞きする。30年前、その言葉はおそらくは画期的な視点だったと思う。しかし今となって、その視点は画期的なものではなくなっている。それなのに、現実はハンディキャップによる壁と柵と、断絶ばかりが目についている。長く続いていた偏見は、いまだに払拭出来ていない。否、紀元前から続く偏見を30年そこそこでなんとかしようというのが無理というものなのかもしれない。先は長いが、そのささやかな一歩に貢献したいと思った。 -
Posted by ブクログ
アメリカ北東部マサチューセッツ州にあるマーサーズ・ヴィンヤード島では、耳が聞こえる/聞こえないは関係なくコミュニケーションの一つとして手話が使われてきた。むしろ口語よりも手話の方が便利な場面すらあり、また聾者はとくに差別されることもなく普通に暮らしていた。
ヴィンヤード島の主要産業は漁業や牧畜業であり、1644年にイギリス・ケルト地方から移民がやってきて以降約3世紀12世代に渡って聾者が共同体の中に存在してきた。それは遺伝的な要因で、島という閉じられた共同体において婚姻が繰り返された結果と考えられており、10-20%という高い割合で聾者が生まれてきた。しかし現業を中心とした仕事をするのには耳が聞こえなくてもあまり差し支えなく、むしろ海上や牧草地などでは手話を使った方がコミュニケーションしやすいといった利点もあり、この島では当たり前にすべての住民が手話を使っていた。
アメリカ本土では、独立戦争や産業革命の影響で社会構造が変化していき、民主主義国家として国民を教育・訓練することで労働者にしていくプロセスが発展していく。19世紀になるとヴィンヤード島からも本土にある聾学校に5-10年程度入る子どもたちが出てきて、彼らは聾者でありながら文字を理解し識字率の低い島民にとってはむしろ知識階級としてその帰りを迎えられてきた。
20世紀に入ると、ニューヨークやボストンからも近いヴィンヤード島は避暑地として政治家や学者などの別荘が立ち並ぶようになる。これらの人々に「見つかって」しまったことで、ヴィンヤード島は文明化させるべき未開の地としてセンセーショナルに取り上げられることとなる。観光や遠洋漁業などの産業構造の変化によって多様な人々が流入するようになり、やがて聾者はこの島から姿を消していったのだった。 -
Posted by ブクログ
読ませるドキュメンタリーではなく、文化人類学者のフィールドワークの研究結果としての本。だから多分に記録媒体としての部分もあるのだが、その事実や住民の声の記録が面白い。
アメリカ・マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィンヤード島では、かつて聞こえない人だけでなく、聞こえる人も当たり前のように手話を使っていた。場合によっては聞こえる人同士でも手話で会話する。聞こえないことがハンディキャップではない。手話は単なる第二言語のような扱いだ。
今ではもうこんなパラダイスな環境は失われているのだが、英語と手話のバイリンガルだ。多言語国家で公用語と第二言語を使い分けるようなものだ。
その歴史を移民前のイギリスにまでたどり、膨大な資料を研究し、生き残りの住民に話を聞き、この本を仕上げた作者。面白過ぎる。
私は元々外国語の勉強(趣味)が好きで、その延長として手話や点字にも興味を持っている。障害とか、そう言った文脈ではなく言語としての興味・関心だ。あいにくまだ興味のみで、手を出せていない。
数ヶ月前に書店でふと見つけた本だが、読んで良かった。そんなパラダイスを実際に体験してみたかったが、今はもう叶わない。叶わない代わりにこの本が体験させてくれる。 -
Posted by ブクログ
世間では合理的配慮や多様性などの言葉が取り立たされているが、これによって、障害を持つ人たちは暮らしやすさを感じる世の中に変わっているのだろうか。私一個人として、まだまだ身の回りの配慮の必要な方が様々な場面で苦労を強いられてる状況は変わっていないと思う。
今回この本を読んで、本人の器質的な障害は変わらずとも、周りの状況次第で本人の障害は障害では無くなるとゆう事ことを見事に立証するこの島の実話に深く感銘した。
この島では耳が聞こえない事は周りにとっても本人にとってもさほど重要視される事では無い。手話を誰もが使いこなせる為、コミュニケーションになんら影響がない。聞こえる人はそうして違和感なく言語の使い分け行い、生活していたとゆう事である。
他にも興味深かったのは、ろう者の元に生まれたろう者と、聞こえる両親の元に生まれたろう者とで、どちらがその後、社会的地位のある仕事に就き働いていたかとゆう研究の結果、前者の方が手に職を持ち、生き生きと働いている人が多いとゆうことだ。
以前YouTubeの対談で、早期英語教育は必要か否か、とゆう動画をみた。登壇者はいずれも不要だと答えていた。
小さいうちはまずは、母国語である日本語をきちんと獲得することに重きを置くべきだとした。
その基礎が無ければ中身のない発音だけ立派な英語を話されても、誰も聞いはくれない、と
手話は言語であり、まさにこれに当てはまるのではないだろうか。母国語となる手話を基礎として身につけ、そのうえで日本語を獲得する。
ろう者に対して、手話より日本語が先と決めつけ、口話主義を推進していた歴史に改めて違和感を感じた。
学びの多い1冊だった。