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「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾(ろう)というだけでした」(本文より)アメリカ・ボストンの南に位置するマーサズ・ヴィンヤード島。20世紀初頭まで、遺伝性の聴覚障害のある人が多く見られたこの島では、聞こえる聞こえないにかかわりなく、誰もがごく普通に手話を使って話していた。耳の聞こえない人も聞こえる人と同じように育ち、社交し、結婚し、生計を立て、政治に参加した。「障害」「言語」そして「共生社会」とは何かについて深く考えさせる、文化人類学者によるフィールドワークの金字塔。解説:澁谷智子(成蹊大学教授、『ヤングケアラー』『コーダの世界』著者)
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Posted by ブクログ
とあるPodcastで冒頭の朗読を聞いてからずっと読みたくて、地元の本屋で探したけど見つからないまま、なぜか数年が経過。
2025年、デフリンピックを見に行くことになり、ふと本屋に入ったら特集コーナーに置いてありようやく読めた。街に本屋があることって本当に大事だ。
とても面白かった。2025年に読んだ本の中で、個人的重要度トップ5に入るくらい大事な本になった。
聾がありふれているため聾も健聴も関係なく手話を話し、聾であるということが欠陥として認識されない社会。障害というのは、個人ではなく社会の側にあるということをヴィンヤード島の事例は本当に示してくれる。島の遺伝性聾の当事者はすでに全員が亡くなっているが、著者は、現地に赴き、当時を知るインフォーマントの証言を多数採集している。「あの人は漁が上手でしたよ、ああ、言われてみれば聾でしたね、忘れてました」という島民の証言は、聾がどれだけ島でありふれていて、聾の人がどれだけ普通に当然に島の社会に溶け込んでいたかを表している。裕福な聾者もいれば、貧しい人もいたという。
そもそもどうやってそんな社会ができたか。遺伝性聾の遺伝子を持った先祖からはじまった孤立した地域集団が、島という環境で近親交配を数世代にわたって続けたことで聾が顕著に多い地域社会が出来上がった。聾の発生は完全にランダムであったために、特定の人や一族のスティグマではなく、社会全体のものとして捉えられた。
(遺伝の優性劣性というワードを高校生の生物の授業以来、久しぶりに聞いた…)
20世紀になり、島が外界と交わるようになると、遺伝性聾は劣性であったために聾は減少し、聾=特異なものという概念が輸入されてくる。手話を話せる人が減っていく。また、外部からは近親交配の野蛮な社会として貶されるようになる。この時期の島の聾者が感じたであろうストレスを想像すると、「交流」がもたらしたものに対して、何とも言えない気持ちになる。
ヴィンヤード島の事例について考える時、例えば聴力以外の何らかの身体的特性の遺伝だったとしても、同じように社会として適応することができたのか、とか考える。すなわち、聴覚ではなく、視覚や、運動能力、知的特性、あるいはもっと重い身体条件に関する遺伝が頻発する社会だったとしたら、それでも(手話のような)共通の社会的適応や、「欠陥」ではなく「ありふれた差異」としての位置づけが可能だったのだろうか?そんな仮定に意味はないのかもしれないけど、なんとなく考えてみたい。
地域社会というものの可能性を知る一冊。
障害とは何か、社会とは何か、考えさせられる素晴らしい本です。
Posted by ブクログ
「障害」とは何か?
身体の欠如ではなく、社会の想像力の欠如である。
マーサズ・ヴィンヤード島では、聾者も健聴者も関係なく、誰もが手話で話していた。
そこでは聾者は「特別」ではなく、ただの「島民」であり「人間」だった。
壁も区別も存在せず、手話が自然に日常に溶け込んでいたその社会が、たまらなく美しく感じた。
聾者の自分にとって、その暮らしは少し羨ましくもあった。
現実では、今もなお一部の人々が障害者を「半人前」とみなし、マイノリティにだけ努力を求める。
その根底には、古代から続く偏見──“欠陥としての障害”──という思想がある。
時代が進んでも、無知による差別の構造はなかなか消えない。
「障害」とは結局、身体の問題ではなく、社会の無知と偏見がつくり出した概念なのだと思う。
共生とは、「歩み寄りましょう」と言葉だけで片づけることではなく、
「知ったつもり」にならず、互いを理解しようとする努力の積み重ねなのだ。
ノーラ先生の徹底したフィールドワークは、私たちに“平等の原点”を思い出させてくれた。
この本は、社会が本当の意味で共生へ向かうための確かな一歩を示している。
Posted by ブクログ
障害は作られている。
本書を読んで改めて感じたことだ。
「かわいそう」がどれだけ無知な言葉なのか、わたしはいつも考えている。
本書では、聴覚障害があっても島の社会に溶け込み、健聴者との区別なく営まれてきた島の歴史が書かれている。
差別がないということは、誰もそのことに頓着しないということだ。
その人を思い出すとき、その人が持っているアイデンティティの中に、障害を含めないことだ。
いま、時代はゆるやかに変化し、社会のしくみが障害を生み出している、という考え方にシフトしつつある。
しかし、解説で書かれているように、聞こえる側が手話をきちんと理解しないあまり、聞こえない側の理解に頼ろうとする課題がある。
聞こえない側の社会に溶け込もうとする努力に甘えてしまっている。
これは、やっぱり「かわいそう」からくる健聴者の慢心にも原因があるのではないか、と考えてしまう。
英語圏の人と打ち解けたいと思ったら、英語を学ぶのは当たり前のことだ。
それが手話となると、なぜそうならないのか。
かくいうわたしも、手話について全くの無知で、テレビ放送などでどういった対策がされているかもわからない。
これから手話を習おうとも考えていないけれど、こういった事実がある、ということを知れてよかった。
Posted by ブクログ
原題は“Everyone Here Spoke Sign Language”。著者のノーラ・グロースは医療人類学者、現在はロンドン大学(UCL)教授。刊行は1985年。31歳の時に書いた博士論文がもと。グロース自身も、まさかこの本がろう文化や医療人類学のロングセラーになるとは思ってもいなかったに違いない。
調査研究のプロとして、腰が据わっているというべきか。ルポライターやノンフィクション作家だとこうはいかない。300年近くにわたってマーサズ・ヴィンヤード島で続いたろうの文化、それを文献や文書にあたり、聴き取りをして明らかにし、さらには聴覚障害が遺伝したという点についてもデータにもとづいて明確にしている。
書名にあるようにEveryoneの動詞はSpokeと過去形。1920年代、島のほかから避暑客が入り込むようになって、旧来のろう文化は消滅してしまった。マーサズ・ヴィンヤード島といえば、現在はアメリカ東海岸きっての有名な避暑地だ。
過去にさかのぼるという点で歴史人類学、ろうの文化という点で文化人類学、遺伝という点で自然人類学、そうした多角的な視点でろうの文化を描き出した名品。
Posted by ブクログ
〈ヴィンヤード島で聾者が手に入れたステータスを最もよく示しているのはおそらく八〇代の島の女性による次の言葉であろう。あなたが小さい頃、聾というハンディキャップを負わされていた人たちはどんなふうでしたか、とたずねると、この女性は断固とした口調でこう答えた。
「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」〉
二十世紀前半まで、二半世紀以上にわたり、アメリカ全体に比べて、遺伝性の聴覚障害が多かったとされるマサチューセッツ州のマーサズ・ヴィンヤード島では、島のほとんど住民が手話で話すことができたらしい。その島の歴史や人々の触れ合いを丁寧に紐解きながら、「他者を理解するとは、本当のところどういうことか」という、一言で安易に済ませてはいけない問いを投げかけてくれるようなノンフィクションでした。
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