エリザベスムーンのレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ幼少時の治療で自閉症の完治が実現した未来で、主人公のルウはその治療が間に合わなかった世代。独自のこだわりがあったり、意思疎通の汲み取りや咄嗟の対応ができなかったりしつつ、大手企業で特性を活かして仕事をし、一人暮らしをし、自活している。
会社の外でも、フェンシングクラブに参加し、女性に好意を抱いたり・・言葉が適切かわかりかねるが、普通の人間とはそうは変わらない生活を送っているように思える描写もある。
一方で、差別的な目線を向けられたり(ルウ本人はその点には気が付かなかったりする)、普通の人間とは違う視点を持ってしまう認識がある描写も。
あることから、大人であっても自閉症が完治する新治療の治験があることを知る。ルウは今のままでも困っていない、万が一今の自分の記憶がなくなったら?好みが違ってしまったら?など、当初は前向きでは無い。
新治療や脳の仕組みのことを調べるうちに、学ぶことや自分が変わることに楽しさを見出す。そして、もっと学びたい、好きな女性に好意を伝えられるようになりたいという思いで治験への参加を決める。結果は成功で、一時的に幼児程度の知能に戻ったものの、博士号を取り、宇宙飛行士になるまでにもなる。
だけど、その女性のことを好きだった記憶はあるが、今の(普通になった)ルウはもう好意を持っていなかった。でもそこに対して、今のルウは悲しいともなんとも思わない。それはそうだ、自分が好意を抱いていたわけじゃ無いんだから。
苦手なことができるようになり、学びたいことを学んで、社会的な地位も上がった今のルウは、一方で昔のルウの感じ方や気持ちは忘れてしまう…というか、感じ方が変わってしまったのかな。
とても良い本だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレタイトルに惹かれて読んでみた。
原題の"THE SPEED OF DARK"を『くらやみの速さをどれくらい』と訳したセンスが素晴らしい。
ルウ目線の文章と健常者目線の文章がはっきりと違いが分かるように訳されていてすごい。文が破綻している訳でもないのに、これは"普通"の人が書いたものではないなと分かる。
書いていることの中身が違うというのはもちろんあるが、前後の文のつながりが薄かったり、短文が多かったりと"普通"の人と文章構成が全然違って、とても読みづらかった。
読みづらかったがこういう風に考えている人も社会にはいるんだろうなあという想像が広がったので、よい読書体験だったなあと思う。
後半はすっかりトムに感情移入してしまって、悲しさを覚えながら読んだ。 -
Posted by ブクログ
タイトルも著者名も美しいネビュラ賞受賞作。裏表紙に「21世紀版『アルジャーノンに花束を』」とありますが、なるほど同じ訳者なんですね。
自閉症の療法が飛躍的に進化した近未来。治療の適齢を過ぎた最後の世代であるルウは、製薬会社に勤めていて、クラシックを聴いたり、仲間とフェンシングをするなど、充実した日々を送っていました。そんなある日、会社に新任の上司が着任し、ルウたち自閉症者を集めたセクションに、解雇をちらつかせながら、自閉症治療の実験台になることを迫られます。ルウは、ノーマルな人たちが普通に感じ取れる微妙なニュアンスや、他人の表情や仕草から感情を読み取れないことを気に病んでいました。それでもフェンシングは楽しいし、好きな女性がいるなど、今の自分を変える必要があるのか、ルウの視点から語られます…。
自分は、自閉症の人の内面は、この小説で語られる内容でしかわからないですが、ルウの視点から語られる内容はとても考えさせられました。しかし、逆にノーマルの世界も、あまり褒められたものではないことに気付かされて、少し複雑な気もしました。特に嫉妬の感情とか。ルウの車に対するイタズラなどは、ちょっとした犯人探しになっていますが、ルウの思考がとても興味深かくて好きですね。
あと、ラストについては、自分はこれで良かったと思いました。
他に印象深かったシーンの覚え書き。
P271-275の自分は何物なのかということについて、脳の働きを学ぶ決意をするところ。
P471-473の心の葛藤。
P538-542での実験に対する決意と友への心情の吐露。
追記:
クラシックでバッハやマーラー、パガニーニやショパンなどが出てきますが、登場人物でジャニスとヘンドリックス博士の名前が面白いです。ロックのジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスから名付けたんでしょうね。著者も好きなのかもしれない。
正誤 (2刷)
P492の14行目:
それがだれの声がわからなかった。
↓
それがだれの声かわからなかった。 -
Posted by ブクログ
自閉症の男性が主人公。自閉症とは言え、自分に合った職業があり、フェンシングの趣味ももち、それなりに満たされた暮らしをしている。
彼の一人称で話が進む。彼が音楽を理解して感じるやり方や、他の内面世界は、一般的な自閉症者のイメージと違ってとても豊か。感情的には落ち着いていて、合理的で美学も感じるような世界観。それに加えて数学の才能も天才的。
だが、新しい上司が彼ら自閉症の従業員を自閉症治療の治験者にしようと圧力をかけてくる。
趣味のフェンシングサークルでの人間関係のいざこざもあり、その治験を受けることを決める。リスクを感じつつも決断する、その葛藤、筋道の付け方がしっかりしている。
結果的に、治療は成功して、彼は元々持っていた宇宙工学への夢を叶える。失ってしまった元の自分と、新しく生まれた自分、それが統合されて、最後は感動的。
自閉症だった彼も、そうではなくなった彼も魅力的で、その二つの立場から世界を見る面白さがある。変化に立ち向かう勇気と未来への希望に満ちている(作中には治療に失敗した同僚の存在も窺わせるものの、詳細はなく、勇気を出して治療してよかった、という印象) -
Posted by ブクログ
ネタバレ「21世紀版『アルジャーノンに花束を 』」と言われている作品ですが全然違います。アルジャーノン的な話だと思って読むと、1/3くらい読んだところで不安になってくるので、別物だと思って読みましょう(笑)
※ここからネタバレあり※※
私が感じた大きな違いは主人公・ルゥは、ただ、マイノリティである、ということ。自閉症者であるルゥは、健常者(ノーマル)の感覚や価値観とただ異なっているだけでノーマルに比べて全く劣る存在ではないのです。ですが「障がい者」というレッテルを貼られ、ノーマルに合わせることを強要されます。私も、ある立場においてはマイノリティなので、ルゥの置かれた理不尽な状況に共感が止まりません!
一方で私も(たぶん)ノーマルなので、ルゥの感じ方に「そういう考え方もあるか!」と驚き!…そうだよね、なんでいちいち挨拶とかしてんだろ…。
そんな私のメンタリティはルゥの上司のオルドリンに一番近い(笑)。悪人にもなれず、かといって表立って声を上げることもできなくて、ルゥから「助けたい、と言うということは、なにもしてないということだ」みたいに思われてる、彼のたくらみが実を結んで本当に良かった!
治験を受ける前の秋の公園のシーンは物悲しくて美しかったですね。マジョリティならば決して取る必要のないリスクを取って、結果として、失うものはあっても、たくさんの可能性を手に入れられたルゥ、本当に良かったなと思いました。傑作です! -
Posted by ブクログ
進駸堂書店×早川書房コラボカバー作品。
自閉症者枠で高度な仕事についているルゥが新たな治療の被験者となることを選ぶまでの彼の世界があまりにも豊かで瑞々しく、深く、そして美しすぎて、ずっとその世界にいて欲しいと思ってしまう。けどそれはあくまで部外者の気持ち。
ノーマルなルゥとして新しい人生を歩き始めた彼の、その人生は「元ルゥ」の人生よりも先にある暗闇だったのか、あるいは逆か。
「自閉症」という病気だから読者の気持ちは大きくぶれる。別の病気だったらだれもが生まれ変わった彼を祝福するだろう。
本当は、どっちが幸せなのか。それは誰が決めるのか。 -
Posted by ブクログ
自閉症の治療が開発されたとき、彼らは何を決断するのか。結末はとても意外だったし、主人公ルゥを応援するような気持ちで読んでいた私には切ないような気がしたが、彼の生活を体感してきたかのような物語のあとではルゥの決断以外にあり得ないような気もする。それが彼にとって幸せだったのか、読み終わってからも分からない。
SF小説のジャンルになっているが、自閉症の(となっているけどアスペルガーと思われる)ルゥの一人称で書かれる物語は、彼らが世界をどう知覚しているのかが肌で感じられてとてもリアル。
ルゥがノーマル(正常)な人に抱く感情はとても共感するものがあって、読めば読むほど、なにが自閉的で、なにがノーマルなのか分からなくなってきました。それは私がルゥの性質に近いからなのか、それとも実際のところノーマルと自閉にそれほどの差がないからなのか、分からないけれど。突き詰めるほど、ノーマルな人の方が行動原理がナゾだなぁと思えてくる…。 -
Posted by ブクログ
もしも自閉症の完全な治療が可能になったら。
最先端の臨床試験と精神遅滞の主人公をとりまく世界を描いた小説、と聞いたら多くの人はダニエル・キイスの名作『アルジャーノンに花束を』を連想することと思います。
「あんたは、健常者の友だちといつもいっしょにいる」エミー
「隠喩だと言うなら―鯨は砂漠のシンボルとも言えるわね」ルシア
エリザベス・ムーンの近未来小説『くらやみの速さはどれくらい』は、自閉症である主人公が同じく自閉症の仲間たちと彼らが言うところの健常者(ノーマル)との生活の狭間で突如新たな治療法の実験台となることを薦められる物語。
「むかしむかし、機械は二たす二もできなかった」クレンショウ
「彼らは知的障害者じゃない」オルドリン
そこにあるのは主人公と新しい世界との出会いではなく、自分という人間を捨ててでも変わるべきかどうか滔々と苦悩する姿。主人公目線で描く細やかな感性からはそういう”生き辛さ”みたいなものが目立たない形で顔を覗かせてるんですが、これって良く考えたら自分たちの生活となんら変わらないのかもしれない、と思ったりもします。
「ちがうということは悪いことではありません」エリック
「ノーマルになんかなりたくない。あたしはあたし。それで幸せ」リンダ
日本国内だけで約120万人いるとされている自閉症患者。その数と同じだけの意味を持ち過ぎた言葉に翻弄される中で主人公は最終的にどういった決断を下すのか。
「暗闇はもっと速いかもしれない―いつも光より先にあるから」ルウ
「<こんちは-あたし-シルビア>」シルビア
将来なりたい自分を思い描くことは容易ですが、それを実現するためにはまず今の自分を見つめ直すことが大切なのかもしれません。
『アルジャーノン~』と同じネビュラ賞を受賞し、同じ訳者によって日本語化されたこの小説はいろんなことを考えさせてくれるはず。
そんなお話。 -
Posted by ブクログ
21世紀版『アルジャーノンに花束を』なんて嘘である。
作者の狙いは自閉症者の視点から人間社会を描くことのようだからである。
近未来、自閉症が幼少期の治療により治癒する時代。ルーはその治療の恩恵に浴せなかった世代で、コミュニケーション技術のトレーニングにより、社会参加はできているものの、「正常者」とのコミュニケーションに困難を抱えている。会社の上司が替わり、自閉症の障害を改善する実験的な治療を強要されそうになる。というのがストーリーだが、ルーを取り巻く人間たちがルーの一人称で語られるのが本書の味わい。
自閉症者は言葉に騙されない。字義的にしか捉えられない傾向があるため、正常者たちの用いる常套的なレトリックが理解できない。ルーの受けたトレーニングは、レトリックをルーが対処可能なようにいわば翻訳して受け止めることである。ルーの目を通したとき、いかにわれわれが虚飾に紛れた世界で嘘をつきながら生きているのかが突き付けられる。正常者からしたら、自閉症者はコミュニケーションの機微がわからない困った人たちなのだが、彼らの視点からみたとき、彼らほど純粋で高潔な人々はないと思えてくる。本書を読んでいる間、私は自閉症になる。自閉症でいて幸せである。私は自閉症のように感じ、自閉症のように考え、自閉症のように愛する。
話はルーの日常生活の些事である。そこからするとこれはSFではない。しかし、異星人や未来人の目から現代の社会を異化しつつ描くというSFの伝統に乗っているともいえる。「くらやみの速さ」とは作者の自閉症の息子が実際に言った言葉らしい。光に速さがあるなら、その光が到達する前にある闇は光よりも速いのではないか。いかにも自閉症的な紋切り型の思考なのだけれど、そこからルーをめぐる光と闇に思いがめぐらされるとき、この言葉は詩情をもって立ち現れる。
自閉症でいて幸せなルーがこの実験的治療を受けようと思う心理的過程にも、治療後の顛末にも暗闇の速さが関係しているのだ。 -
Posted by ブクログ
自閉症であるルウは症状と付き合いつつ、仕事に趣味と自分なりに充実した日々を過ごしていた。しかしある日ルウは、彼の職場の上司から、自閉症治療の実験台になることを要求される。
語り手となるのは自閉症患者のルウ。この語りが非常に繊細です。普段自分たちが会話している中では考えもしていないようなことがルウの語りでは描かれます。そこには自閉症というテーマとしっかりと向き合った著者の努力が表れていると思います。
そしてフェンシング場での人間関係や社内政治、ルウに対する何者かからの嫌がらせなど、そうした出来事を通し、ルウは自閉症の自分と”ノーマル”の人たちの違いは何なのか。
また治療を受け自閉症でなくなった自分は、それは本当の自分なのか、という自らのアイデンティティの問題と向かい合うことになっていきます。
異常と正常の境目ほど分かりにくいものはないと思います。状況や時代によっては普通の人が異常者や犯罪者扱いされたり、またその逆もありました。
現代も現代でなんとなく社会が思う異常と正常の境目はあると思うのですが、それも曖昧模糊としたもの。そのあいまいさをルウは自分が自閉症の”異常者”と自覚したうえで、素直な疑問として読者に問いかけてきます。
それはルウの視点だから視える世界なのでしょう。彼の問いかけは一読の価値があると思います。
終盤はルウが治療を受けるかどうかの決断に話がうつっていきます。彼の決断の是非、それによって手に入れたもの、失ったもののどちらに価値があったのか。
この話の結末は読む人によってそれぞれ意見が分かれそうな、とても微妙なものだったと思います。治療を受け”ノーマル”になり新たな可能性を見つけるという決断も、自閉症の自分も自分であると受け入れ生き続けることもどちらの決断も人として間違っていない決断だからだと思うからです。
21世紀版『アルジャーノンに花束を』と評されている
作品ですが、二つの共通点はあらすじうんぬんより”ノーマル”でない視点から改めて「人間とは」「自分とは」という問いかけがされてくるという点だと思います。
そしてルウが『アルジャーノン』の主人公チャーリィと異なっているのは、チャーリーは物語の展開上自分で決断ができなかったことを、ルウは自分の決断で自らの最後の道を選びとったことだと思います。
物語はテンポは非常にゆっくりであくまでルウの日常描写が中心です。でもその日常描写があったからこそ見えてくる”ノーマル”の人間の姿、アイデンティティの問題、そして彼の最後の決断と彼を取り巻く様々な人たちの意見や思いが伝わってきます。
そしてそれぞれの描写がルウが最後の決断を下したとき非常に意味のあるものだったのだと気づかされます。
ルウの問いかけ、そして最後の決断は”ノーマル”である自分にもいろんなことを考えさせてくれました。
ネビュラ賞 -
Posted by ブクログ
全600ページ。
フェンシングとか、
脳神経とか、
クラシック音楽とか、
宇宙とか。
他の人とのコミュニケーションが少しだけ苦手で、
他人の言動をちょっとだけ気にしすぎて、
極めて素直で真面目で純真な主人公の話。
"自閉症"って病気の名前がそもそもどうなのかとも思うが、
"ノーマル"って言い方がそもそもどうなのかとも思うが、
世間では"ノーマル"ではないとされていると本の中では描かれている
"自閉症"の人たちの話。
『アルジャーノンに花束を』よりは現代的で読みやすかった。
とはいえ外国の作品なので、
特有の雰囲気はあるけれど。
最後の50ページぐらいがなかなか考えさせられた。
本のタイトルも深い意味。
文庫本のくせに1000円もしやがるが、
その価値はある。
素晴らしい本だと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこの作品はハッピーエンドなのだろうか……と考え込んでしまった。この話を読みながら私は主人公のルウを好きになった。努力を怠らず、周囲の人々と仲良くして、パターンを見つけるのが得意なルウ。でもそのルウはもういない。自閉症が治るとともに失われてしまった。そのままのルウでよかったのに、と私は軽々しく言ってしまいそうになる。だけどそれは酷いことだ。だってルウ自身が言うのだ。みんなと違うのは嫌です。普通になりたいです、と。そのままのルウを愛しているというのは、「私のためにそのまま苦しんでいてくれ」というのと一緒では無いのか。そう思うと胸が詰まる。どうすれば良かったのだろう。自閉症のルウ、ピザの好きなルウ、フェンシングの上手いルウ。彼はもういない
-
Posted by ブクログ
「光の前にはいつも闇がある。だから暗闇のほうが光よりも速く進むはず」
自閉症と診断を受けている主人公のルゥはそのアイデアを胸のうちで温めている。
裏表紙のあらすじで「光の前にはいつも闇がある。だから暗闇のほうが光よりも速く進むはず」という言葉を読んだだけで、内容もまったく知らないうちから、深く感動して泣いてしまいそうになる。なぜ感動したのか自分でも思うわからない。それどころかそのセンテンスが果たしてなにを意図しているのかさえもわからぬまま、泣きそうになる。そういったことが、この小説のなかにはあふれている。
ルゥの語りによって物語は進む。『アルジャーノンに花束を』に似ているとのことだったが、実際には似ているところもあればそうでないところもある。この物語は、新開発の自閉症の治療法を、ルゥが受けることにするかどうか、その過程に重きをおいている。『アルジャーノンに花束を』のように、自閉症の状態と、自閉症でなくなった状態がどう違うかに重きをおいた作品ではない。
自閉症とはなにかということをルゥは突き詰めていく。自閉症であることによってなにを失ってきたのか、自閉症でなくなることによってなにを失うのか。自閉症であることはノーマルであることとどう違うのか。ノーマルとはどれだけノーマルなのか。はたして私たちは治療されなければならない存在なのか。その問いは果てしのないものだ。そして切実だ。
作中での描写や発言の意図を完全に理解するのは難しい。理解することが難しいことが、この本の持つ魅力になっている。そして理解するのが難しいことはルゥが自閉症だからだという人もいるだろう。一方で他者の言動からその人の思考を推測することはつねに不可能なことなのだともいえる。一見繋がっているようにみえる論理も、一見充溢しているようにみえる意味内容も、果たしてこれまで一度でも本当の意味で理解されえたことはあっただろうか? この問いかけは、作中で繰り返し扱われる、ノーマルは自閉症性をいっさい排除しているのか、ノーマルと自閉症のあいだで誰がどうやって線を引いているのか、自閉症は異常なのか、という問いかけに呼応する。意味はつねにひとつのアナロジーであり、理解とはアナロジーによって生み出されるものだ。意味の理解とはひとつの構造であるはずだ。ゆえに、ルゥの語りの「真意」を知ることはできずとも、私たちはその文章を理解することができる。そこに、祈りを読みとることができる。翻って、意味がわからないということそのものが、そのまま、ある祈りなのだ。