國方栄二のレビュー一覧
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現代は多様性の時代である。SNSや実際に人々の交流を通して国境があいまいになり、地球の裏側まで瞬時にニュースが飛び交う時代である。まさに身近なことが地球規模に影響を及ぼす、あるいは地球規模のことが身近にある、グローバルな時代なのである。しかしそれだけではなく、安定していた豊かな閉じられた世界では感じられることのなかった様々なことが露わとなり、国を超えなくともごく身近な範囲で分かりあうことの難しさを痛感するという意味でも、日々多様性を感じさせられるのではないだろうか。
ストア哲学の思想は多様性の現代にあって日に日に注目度を増している。ストア哲学が生まれた社会というのはまさに国境があいまいになり様々な文化が入り乱れる多様性の世界であった。世界市民(コスモポリテース)としての自覚は、どこのポリスに属するでもなくこのコスモス(世界ないし宇宙)のポリテース(市民)であるという自覚に由来するものである。さまざまな価値観がぶつかり合い、人が入り乱れ、ローカルなルールだけでは上手くいかない局面が増えれば増えるほど、普遍的な思考が求められていく。個々の文化によって変わることのない人間の姿を見定めようとしたのがストア思想の特徴といえるのではないだろうか。分断の社会が進展していく中で、カントの世界市民論が注目され、その根底にあるストア思想はその存在感を増している。そもそも自然法、本性、人権といった言葉の淵源にストア思想は位置しているのである。
しかしそのような重要性をもったストア思想についての学問的案内はことのほか少なく、本格的に読み進めたい人にとって確かな道引きとなるのは、原典を始めとした諸外国の文献案内を含む中央公論新社の『哲学の歴史2 帝国と賢者』であろう。具体的な引用と解説が織りなすこの哲学史は、一通りの概説では得られない深さで哲学的テクストを読み説くことを通して、その奥行きを知らせてくれる。しかし、それよりも簡潔にストア哲学の全体像を示してくれるのが本書『哲人たちの人生談義』なのである。
そもそもストア哲学を学ぼうとして「原典」に当たろうとして読者が容易に手にすることのできる体系的なストア哲学の本というのはなかなかない。というのもエピクテトスにしても、マルクス・アウレリウスにしても、彼らは思想体系の構築ではなく実践に重きを置いていたからである。それでは、実際に私たちが読むべき「原典」とは何なのか。そこから解き明かしてくれるのが本書の特徴なのである。
ストア哲学を読むとは様々な哲学的潮流の中でストア派と呼ばれる人々について語られる言説に触れることを通して、その輪郭を捉えていくことなのである。それは時にディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』を読むことであり、キケロやセネカの著作を読むことである。であるからこそ、ある程度はプラトンやアリストテレスといった主流な見解と突き合わせて理解するという作業が求められる。そのうえで読者一人一人が彼らについて残された言葉を精査していくことの内に、その体系を見出していくことが求められるのである。本書はその実例を通して、何を読むべきかの外縁を提示してくれる。
本書を読んで気が付かされることはストア思想に触れることは、あるいはプラトンやアリストテレスをよりよく理解する大きな手掛かりを与えてくれることである。古典ギリシア・ローマのテクストを読むことの醍醐味を感じさせてくれる本書は、古代ギリシア・ローマのみならずヨーロッパ世界に興味のある人にはぜひ勧めたい一冊である。 -
Posted by ブクログ
504P
ギリシアローマ時代に出来た本が素晴らし過ぎて、人類はここでもう完結してたんじゃないかと思う。
エピクテトスの人生談義に『人は起こることではなく、それをどう捉えるかで心が乱される』って言葉があるんだけど、私人からマウンティングされたことないし、裏切られたことも無いんだけど、マウンティングと裏切りって捉え方でかなり左右される気持ち悪い言葉だなと思った。こういう言葉昔から苦手。
ニーチェ、アラン、パスカル、夏目漱石も尊敬していた!古代ローマの哲学者「エピクテトス」
言行録「人生談義」は人生にまつわる悩みごとを先生が切れ味抜群に回答。夏目漱石も愛読した名著。
エピクテトスが「早く走れるようになりたいなら毎日早く走れ」と言っていて、要するに2000年近く前に答えは出てる。絵が描けるようになりたいなら絵を描く。勉強できるようになりたいなら勉強をする。他に薬などはない。これ以上「勉強法」などを売り捌く下品な自己啓発屋に搾取されてはならない。
エピクテトス
1~2世紀、ローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に仕えた。ローマ帝政時代のストア派の哲学者。小アジアのフリギア出身の奴隷であったが解放され、文章家としてネロ帝などに仕える。外的なものに左右されず、自己を確立することによって自由を得ることを説いた。その思想は、五賢帝の一人、哲人皇帝といわれるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝にも影響を与えた。
「書物は、もしそれがよりはっきりした文字で書かれたものならば、誰でもより気持よく、そしてよりたやすく、読むことができるだろう。それで言論も、もしそれが口調よく、同時に適切な言葉でいい表わされたものならば、人は誰でももっとたやすく、聴取できるだろう。従って表現能力が、存在しないなどといってはならない。というのはこれは、信仰のない人や、同時に卑怯な人のいうことであるからだ。信仰のない人というのは、それは神からの恩恵を軽視するからであって、ちょうどそれは人が視力もしくは聴力もしくは言語自身の使用を棄てるようなものだ。ところで神は君にあてずっぽうに眼を与えたのだろうか、遠方に達して対象の像を形づくるような、そういう強力にして巧妙な霊(*)を、神はそれら眼に対して、あてずっぽうに混合したのだろうか。いやどんな使者がこのように迅速で注意深いだろうか。またあてずっぽうに神は中間の空気をして、そんなに活動的に、弾力あるようにし、従ってその張り合っているものを通して、視力が通過するようにしたのだろうか。またあてずっぽうに、神は光を、つまりそれがなければ他のいかかるものも役に立たないような光をつくったのだろうか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「家であなたの好きなだけの競争をやるがいい、そして彼がネメア、ピュチア、イストミア、オリンピアの競争で勝つように、叫ぶがいい。だがしかし公の場所では人より余計に所有しようとするな、また共有のものをわがものとするな。もしそうでなければ悪口を辛抱するがいい。なぜかというにあなたが大衆と同じことをする時には、あなたはあなた自身を彼らと等しい処へ置いているのだからである。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「そのように熱病の時もしていないだろう。いやもし立派に散歩しようとするならば、散歩にふさわしいことをするだろう。もし立派に熱病を病むならば、君は熱病にふさわしいことをするだろう。立派に熱病を病むとはどういうことなのか。それは神をも人をも非難せず、出来事によって悩まされず、立派に死を期待し、なすべきことをなすことである。また医者がやって来た時、彼が何というかを恐れもしなければ、「こりゃいい」といっても、悦び過ぎることもないことである。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「寂しさとは寄るべのない人のある状態である。というのは孤独である者が直ちに寂しいのでないのは、ちょうど大衆の中にいる者が寂しくないのと同じわけである。とにかくわれわれが兄弟や息子や信頼している友人を失った時には、われわれは往々ローマに住んでいて、沢山の群衆に出逢ったり、沢山の人々と一緒に住んでいたり、時にはおびただしい奴隷を持っていたりしても、寂しく残されてしまったというのである。というのは、寂しい者とは概念的にいうと、寄るべなく、毀害を加えようと欲する人々にさらされている者を意味するからである。だからわれわれが旅をして盗賊の手に陥った時、その時はとりわけわれわれを寂しいというのである。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「アイオロスはテッサリアの支配者で子沢山だった。シシュポスはその一人で有名な盗賊で、その罪の故に、永遠に山巓へ石を転がして行き、転げ落ちてはまた転がして行くという罰を受けた。 (* 3)「イリアス」第二二巻。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「それから他のすべての気晴らしの代りに、君が神に従順であるということ、また言葉によってではなく、行為によって、知徳兼備の人の義務を果しているということの自覚から来る気晴らしを持って来るがいい。というのは自分が自分自身に対して、次の如くいうことができるということは、何と素晴らしいことだろう、「現在私は、他の人々が学校で勿体ぶって話したり、パラドックスを話したりしてると思われることを、実行しているのだ。そして彼らは坐って私の徳を説明したり、私について探求したり、私を褒めたりしているんだ。そしてゼウスは私をして私自身からこの証明を得させようとし、また自身兵士らしい兵士や、市民らしい市民を持っているかどうかを知ろうとしているのであるし、また他の人々に対しては、私を意志を越えてるものについて(真の善は意志外のものにはなく、われわれの意志にあるということ)の証人として、引き合いに出そうと欲したのである。『見給え、諸君は無闇に怖がっている、諸君は諸君が欲しいものを空しく欲している。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「また動物の場合、われわれが自由の観念をどのように用いているか考察してみるがいい。人は馴れた獅子を檻に入れて世話したり、食わしたり、またある者は連れて歩いたりする。だが誰がこのような獅子を自由だというであろうか。おとなしい生活法をしているだけ、それだけ奴隷的なのではないだろうか。もし彼が感覚や理性を持っていたとしたならば、どのような獅子がそのような獅子になろうと欲しただろうか。(あそこにいる)鳥どもを見給え、彼らがつかまえられて、籠に飼われる時、彼らは逃げようとしてどんなにもがくだろうか。そして彼らのあるものは、そのような生活を辛抱するよりも、むしろ飢え死をするし、また生きているものでも痩せ衰えてやっとこすっとこ生きてるのだ、だからもし何か穴でもあいているのを見つけるならば、飛び出てしまうのである。そんなに彼らは、自然的な自由や、独立や、邪魔されないということを求めているのだ。 しかし籠の中は君にとって何が悪いか。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「人を卑しくし、他に隷属するようにするものは、ただ官職や富の欲望だけでなく、平静や閑暇や旅行や学識の欲望もそうであるということを記憶しておくがいい。なぜかと云うに、概して外物は、どんな性質のものであろうと、その価値は他に隷属させるからである。それで議員になろうと欲するのと欲しないのとでは、何の差別があるか。官職を欲するのと欲しないのとでは、何の差別があるか。「私は都合が悪い、私は何もするものがない、いや私は死体のように書物に縛られている」というのと、「私は都合が悪い、私は読書する暇がない」というのと、何の差別があるか。というのは挨拶や官職が外的な意志を越えたものに属しているように、書物もその通りだからである。それとも何のために君は読書しようとするのか。どうかいってくれ給え。というのはもし君がそれを娯楽のためか、何かを知るためになすのであるならば、君はつまらないあわれむべきものだからである。だがもしなすべきもののためになしているのであるならば、それはゆとりを持つこと以外の何であろうか。だがもし読書が君に心のゆとりを持ち来らさないならば、それは何の役に立つだろうか。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「ある人の気に入りたいという気持からして、一度外部に心惹かれることがもし君にあるならば、君の計画は御破算だと知るがいい。それですべての場合、哲学者であることで満足し給え。だが哲学者であると思われたいならば、君自身にそう思わせるがいい、そしてそれで十分だろう。」
—『人生談義(下)』エピクテトス著
「孤独とは頼るものがない人の心の状態のことである。というのは、ひとりでいるからといってただちに孤独であるわけではないのは、多くの人の間にいるからといって孤独でないとは言えないのと同じだからである」(P77)
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Posted by ブクログ
442P
ストア派の思想
エピクテトス
1~2世紀、ローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に仕えた。ローマ帝政時代のストア派の哲学者。小アジアのフリギア出身の奴隷であったが解放され、文章家としてネロ帝などに仕える。外的なものに左右されず、自己を確立することによって自由を得ることを説いた。その思想は、五賢帝の一人、哲人皇帝といわれるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝にも影響を与えた。
「うん、だがなぜ君はこの人を、彼自身の悪に気づくことから引き離すのか。彼がどこに進歩を求めるべきかわかるように、彼に徳の仕事を君は示そうとしないのか。気の毒な、君の仕事のある処に進歩を求めるがいい。だが君の仕事はどこにあるのか。それは(一)欲求したり、忌避したりすることの中にあるので、得そこなったり、避けそこなったりしないようにすることなのだ、(二)間違わぬように意欲したり、拒否したりすることの中にあるのだ、(三)まただまされぬように判断したり、判断を差し控えたりすることの中にあるのだ(*)。だが一番大切で一番必要なのは、第一の領域のものである。だがもし君がふるえたり、悲しんだりしながら避けそこなわぬようにと求めているならば、そもそも君は進歩しているだろうか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
つまりそれを招来したり、妨害したりすることのできる人々に、従属させざるを得ないということを学んだならば、更にまた朝早く起きて以上述べられたことを保持したり、見守ったり、それに忠実な者として風呂にはいったり、つつしみのある者として食事したり、同様また常に事柄に対しても、その主要なる義務を、ちょうど力走者が力走者らしく、歌の先生が歌の先生らしく骨折るように骨折るならば、この人こそ本当に進歩してる人であり、この人こそでたらめに旅をして来た人ではないのだ。だがもし読書力を養うために張り切り、そのために骨折り、そのため旅したのであるならば、私はその人に対して、即刻家に帰るように、そして家の事をゆるがせにしないようにいおう。というのは彼の旅行の目的は、何でもないからだ。しかし旅行の本当の目的は、自分の生から、苦悩とか、悲痛とか、「あゝあゝ」とか、「可哀そうな私」とか、不運、不幸とかを取り去り、死とは何か、追放とは何か、牢獄とは何か、毒とは何かということを学ぶように心することで、それは牢獄の中で「親愛なるクリトンよ、もしそれが神々の御気に召すならば、そうなるがいいのだ」〔プラトンの「クリトン」〕ということができるためで、「可哀そうな老人の私、これらのために私は白髪頭になったのだ」などということのないためなのである。誰がそれらのことをいっているか。
「理性は他のものを分析したり、完成したりするものであるが、自身また非分析的なものであるはずがないとすると、それは何によって分析されるのだろうか。というのはいうまでもなくそれは、自分によってか、他によってかだからである。ところで実は、後者もまた理性であるか、あるいは理性よりもっと高次な何か他のものであるかである、だが後者であることは不可能だ。もし理性だとするならば、更にまた何がその理性を分析するのだろうか。というのは、もし自分が自分をなのであるならば、この理性もまたそうすることができるだろうから。もしわれわれが他の理性を必要とするならば、それは無限にしてきりがないだろう。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「そうすると、教養を身につけるということはどういうことなのか。それは自然的な先取観念を、個々のものに、自然本性と合致するように、適用したり、また今後諸物のうち、ある物はわれわれの権内にあるが、ある物はわれわれの権内にないということを区別したりするのを学ぶことである。意志やすべての意志的活動は、われわれの権内にあるが、肉体、肉体の部分、財産、両親、兄弟、子供、また祖国、簡単にいえば社会的なものは、われわれの権内にない。ではわれわれは善をどこに置くことにしようか。どんなものに善を当てはめようか。われわれの権内にあるものにか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「というのは本来人間は善を奪われるのを辛抱することも、また悪に出会うのを辛抱することもできぬようにできてるからだ。それから最後に、物を変えることも、邪魔する者を盲にすることもできなくなった時は、私は座って溜息をつく、そして私の罵ることのできる者は、ゼウスであろうが、その他の神々であろうが、罵るのである。というのは、もし彼らが私を顧みてくれないならば、私は彼らとは何のかかわりがあるだろうか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「ようく似てるよ。人間の身体が滅びた、また牛や羊の身体が滅びた。人間の住家が焼けた、また鸛の巣が焼けた。何か大きなことか、もしくは恐ろしいことか。それともどうか示してくれ給え、人間の家と鸛の巣との間には、家としてどんな違いがあるか。 そうすると鸛と人間とは似ていますか。 何をいってるのか。物質の点ではようく似てるよ。一方は家が、梁や煉瓦や漆喰からできてるが、他方は小枝や粘土からできてるということは別として。 すると人間は、鸛からどんな点でも違いませんか。 そんなことはない、しかしこれらの点では違わない。 ではどの点で違いますか。 探求して見給え、そうすれば他の点で違うことに気づくだろう。ほら、彼の行為が、理解によるという点で違わないかどうか、ほら、社会的とか、誠実とか、つつしみとか、注意深いとか、分別とかいう点において、違わないかどうか。そうすると、人間における大きな善や悪は、どこにあるか。違いのあるところにあるわけだ。もしそれが保持され、防備されて残っており、またつつしみも、誠実も、分別も破壊されていないならば、その時にはその人自身も保持されているわけである。だがもしそれらの中の何かが滅亡したり、征服されたりしているならば、その時にはその人自身も滅びているわけだ。そして重大な事柄はここにあるのである。ギリシア人が船でやって来て、トロイアを荒らし、そしてアレクサンドロスの兄弟たちが滅びた時、アレクサンドロスはひどく没落したわけなのか。決してそうではない、というのは他人の行為によっては、何人も没落しないからだ、いやその時には鸛の巣がこわされたのである。だがつつしみや、誠実や、客に対する友愛や、礼節をなみした時、既に彼は没落していたのである。アキレウスは、いつ没落したのか。パトロクロスが死んだ時か。そんなことはない。むしろ彼が腹を立てた時であり、女の子のために泣いた時であり、また恋人を得るためにそこにいるのではなく、戦うためにそこにいるのであることを忘れた時だ。正しい考えが取り去られる時、それが破壊される時、それが人間的没落であり、それが包囲であり、それが滅亡なのだ。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「それでは、これらの教説の結実は、何だろうか。本当に教養ある人々にとって、最も美しく、最もふさわしくあるべきものは、平静であり、無畏であり、自由である。つまりこれらについては、自由人たちのみが、教養を受けることが許される、と主張している大衆を信ずべきではなく、むしろ教養ある人々のみが、自由である、と主張する哲学者たちの方を信ずべきである。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「諸々の事物は善悪無差別なもの(どうでもいいもの)であるが、それらの使用は善悪無差別ではない。そうするといかにして人は、剛毅や平静を保つと同時に、また注意深くして、でたらめでもぞんざいでもないことができるか。それは、さいころ遊びをする人々になぞらえて見ればいい。数とり石も善悪無差別なものであるし、またさいころも善悪無差別なものである。投げて何が出るかを、私はどこから知るか。だが投げ出されたものを注意深く、うまく利用することは、それはもう私の仕事である。かくてそのように人生の場合でも、主なる仕事は、事柄を区別し、分類して、そして「外物は私の権内にないが、意志は私の権内にある。私は善や悪をどこにさがそうか。それは私の内部にである」ということである。だが他人のものにおいては決して善であるとも、悪であるとも、有用であるとも、有害であるとも、この種の何か他のものであるとも名づけてはならない。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「そうすると何か外界の事物が、自然本性にかなっているとか、自然本性に反しているとかいうことは、どうしていえるか。それは、あたかもわれわれが絶対的であるかのように思う場合だ。というのは足にとっては、綺麗であることは自然本性にかなっていると私はいうけれども、もし君が足を足として取り、そして絶対的でないものとして取るならば、それは泥の中にはいることも、いばらを踏むことも、また時あっては全身のために切断されることもふさわしいからである。だがもしそうでなければ、それはもう足ではなくなる。何かこのようなことを、われわれの場合にも考うべきである。君は何か。人間である。もし絶対的なものとして考察するならば、老年まで生き、富み、丈夫であることは、自然本性にかなったことである。だがもし君が人間として考察し、何か全体の部分として考察するならば、その全体のために病気をしたり、航海をして危険を冒したり、窮乏したり、また時あっては寿命前に死んだりすることもふさわしい。そうすると、何で君は怒っているのか。かくては前者がもう足でないように、君はもう人間でなくなるということがわからないのか。一体人間とは何なのか。それは国家の一部分である、第一に神々と人々とからなる国家の、次にまたいわゆる全体の小さい模倣で、われわれと最も近い関係にある国家の部分である。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「それからもし彼が「君は遺産を相続するだろう」というならば、われわれはあたかも彼から遺産の相続を受けたかのように、彼に感謝するのだ。だから結局彼らもわれわれを翻弄することになるわけだ。そうするとどういうことになるか。欲望も忌避もしないで、(虚心坦懐に)行くべきだろうか、ちょうど旅人が、出逢った人から、(目的地へ行くのに)どっちの道を行ったらいいかと訊ねて、左の道よりも右の道の方をなどと望まないように。というのは彼はこれらのある一方を行こうとするのではなくて、目的地へ達する方を行こうとしているのだからである。そのように神に対しても、案内者と思って行くべきなのである、ちょうどわれわれが眼を使用する場合に、このようなものの方をわれわれに見せてくれるようになどと、眼に要求しないで、見せてくれるようなものの心像を(そのまま)受け取るようになのである。ところが事実はと云えば、われわれはびくびくしながら小鳥をつかまえ、そしてそれが神であるかのように呼びかけて、「主よ憐れんで下さい、どうぞ(危険を)逃れさせて下さい」などとそれに嘆願するのだ。憐れだね君は、もっと善いものがあるのに君はそれよりも何かほかのものが欲しいのか。そうすると神にそう思われるものよりも、何かもっと善いものがあるのか。なぜ君は、力の限りを尽して、君の判定者をそこなったり、忠告者を迷わしたりするのか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「それは石か、銅か、金か、もしくは象牙ではないか。それにまた、フィディアスのアテナは、一度その手を伸ばし、その上にニケ(勝利の女神)を受け取ったが最後、永遠にその姿で立っているのだ、だが神の作品は動くものであり、呼吸するものであり、心像を用いるものであり、吟味するものなのである。君はこの形成者の作品であるのに、君はそれを辱かしめるのか。何? 神はただに君をつくっただけでなく、なおまた君だけを信頼し、君に委せているのだ、君はそれを憶えていないで、かえってその信頼を辱かしめるのか。もし神が君に誰か孤児を委せたとするならば、君はそのようにしてそれをおろそかにするだろうか。彼は君に君自身を与え、そして「わしは他人を君以上には信頼しなかった、どうかこの人を本来あるように、つまりつつしみ深く、誠実で、高尚で、ぐらつかず、情念なく、平静であるように守ってくれ給え」と云っているのである。そうすると君は守らないわけなのか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「それは個人的に何らの利益もはからず、何物についても絶対的なもの(孤立したもの)としては考えないで、ちょうど手や足がもし理性を持ち、自然の仕組を理解しているとしたならば、全体に対する関係以外の仕方では意欲したり、欲望したりしないだろうが、ちょうどそのようにすることだ。だから哲学者たちは、もし賢者が未来のことを予見したとするならば、病気や死や不具に協力したことだろうとうまくいっている、というのはとにかくそれは全体の秩序から分たれたのであって、全体は部分よりも、都市は市民よりもより勝れたものであるということを知っているからだ。だが現にわれわれは予知していないのだから、選択するのに、より性分に合うものを保持することが似つかわしいわけである、というのはわれわれはそういうふうに生まれて来たからだ。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「哲学の始めは、少なくともあるべきように、そして入口を通ってそれにとりかかろうとする人々においては、必要なものに関する自分の貧弱さと、無能力とを自覚することである。というのは直角三角形とか、四分の一音とか、半音とかの観念は、本来われわれは何一つ持たずにやって来ているのであって、むしろ何か技術的なことを仕込まれて、われわれはそれらの各々を教わっているのだ、そしてその故にそれらを知らない人たちは知ってるとは思わないのである。だが善悪、美醜、似つかわしい似つかわしくない、幸不幸、ふさわしいふさわしくない、また為すべきこと為すべからざることについては、誰が、生得観念を持たないで生まれて来たであろうか。だからすべてわれわれはその言葉を用い、そしてその先取観念を、個々の事物に適用しようとしているのだ。彼は立派にやった、彼はやるべきようにやった、彼はやるべきようにやらなかった、彼は不幸であった、彼は幸福であった、彼は不正である、彼は正しい。われわれの中の誰がこれらの言葉を遠慮するだろうか。われわれの中の誰が、ちょうど線や音についてその無知者がそうするように、学ぶまでこれらの言葉の使用を延期するだろうか。この原因は、人はこの領域のことを、既に、自然によって、いわば教わってから、この世にやって来たということである、そしてそこが始まりとなって、われわれはその上に自惚れを取ってつけるわけなのだ。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「これらの言葉に従って、いつ彼はこの勉強をしたのか。それでは何でなおも君は、彼が学んだ処では他の人々にまさるが、勉強のできてない処では多くの人々と同じだということを変に思うのか。それはちょうど竪琴を弾いてうたう人が弾き方を知り、立派にうたい、立派な舞台着を持っていながら、それでも舞台にあがると震えるようなものだ、というのはこれらのことは知っているが、大衆とは何かということは知らないし、また大衆の叫び、大衆の嘲笑の何かも知らないからだ。いや不安というものさえ何であるのか、われわれのしわざなのか他人のしわざなのか、それはとめられるのかとめられないのか、ということも知らないのである。だから彼は褒められると、驕り高ぶって退場するが、嘲笑されると、あの高ぶり顔は面目を失ってくしゃくしゃになってしまうのだ。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「すべての習性と能力とは、それに対応する活動によって、維持され、増進される、(例えば)歩行のそれは、歩行することにより、疾走のそれは、疾走することによって、維持され、増進される。もし君が朗読家になりたいならば、朗読し給え、作家になりたいならば書き給え。だが三十日間ずっと朗読しないで、何か他のことをやる時、君はどういうことになるかわかるだろう。そのようにして、もし君が十日間寝ていて、それから起きて、長距離の道を歩行して見給え、そうすれば、いかに君の脚が弱くなったかがわかるだろう。そこで、一般に、もし君が何かをなそうとするならば、常習的にやり給え。もしあることをなすまいとするならば、それをなさないで、その代りにむしろ何か他のことをやるように慣れるがいい。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「学校へ行ってるのは、ただ物語を学んだり、以前に知らなかった書物を理解したり、またもしそういうことがあれば、他人にもそれを説明したりするためなのか」と自分自身に注意するのが正しいと思う。ねえ君、君は家では奴隷と喧嘩したり、家をかきまわしたり、隣人を混乱の中に捲き込んだりしたのだ。ところが今は賢者のようななりをして、私の処へ来ているのか、そして坐って、私が文をどう解釈したか、私が思い浮ぶものを一体どうしゃべったかということを判断しているのか。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
「 そうすると残るところは、彼らが一所懸命になってるのは、善いものだけについてだということになる。またもし彼らが一所懸命になっているのであるならば、彼らはそれを愛しているわけだ。それで誰にもせよ、善いものについて知識のある者は、また愛することも知っているだろう。だが善いものを悪いものから、またいずれでもないものを両者から、区別することのできない者は、どうしてなお愛することができるだろうか。そういうわけで愛するということは、賢者だけがなし得ることなのだ。」
—『人生談義(上)』エピクテトス著
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Posted by ブクログ
自分の力が及ぶもの=意思と理性のみを重視し、力の及ばないもの=肉体、役職、財産、他人等には一切期待しない。そして意思を誘惑する様々な心象≒欲望を避ける訓練法などを勧めながら、逆に外的なものに意思を依存した人間の末路や有様が刻々と語られる…
「外的なものに一切依存しない」という姿勢は、リスク回避という後ろ向きな目的ではなく、意思を完全に自由にするためには捨てなければいけないものなのだ、と理解した。
上巻と下巻を通して読んだが、やっぱり思想の全体感を掴むには難しい。と思ったら、下巻最後の「要録」に40ページ程で全体の要約があった笑
なんだ、最初にこっちから読んでおけば良かった! -
Posted by ブクログ
古代ローマのストア派の代表的哲学者として伝わる「エピクテトス」の講話を弟子がまとめたものとされる本である。
旧訳本を1度読んだが、新訳が出るに及んで、再度読み直した次第である。
一貫している内容は、ストア派的世界秩序をベースに、真に自由に生きることを目指し、以下の内容を説く。
「求めて得損なわず、避けて避け損なわず。」
「権内にあるもののみが君の自由になるもの。権外にあるものは一切自由にならないもの。」
本書の内容は上記の内容を繰り返し説くものと言える。
本書からは仏教書に通じる何かを感じる。
所々になんとも言えない親しみやすさを覚える。
これが何かは、まだうまく言語化できない。
権内にあるのは、「今」、自分の意思や肉体を、神に感謝して、心象を正しく用いて、行動することだけである。その結果は権外であり、一喜一憂するものではない。
年を経ても変わらない真理の一つであろう。
自分の中にエピクテトスの説くことのベースは刻まれた。
自分が、彼の教えを実践できる素質の人間だとは思わないが、折に触れて本書を読み返し、この一つの真理を、人生と言う航海の、灯台の灯りとしたい。 -
Posted by ブクログ
期せずして、本書の通読講義を受けることができた。
今回で『語録』部の通読を終え、残すところもわずか。この機会がなければ”ストア派”に親しむことはなかっただろうし、講義では『Epictetus: A Stoic and Socratic Guide to Life』(A. A. Long)の紹介ー外国語はまったくだめは私にとっては救いーもあり、一気に距離を縮めることができたように思う。
本書で「意志」と訳されている語は、今日わたしたちが日々使用する「意志」との隔たりは大きい。そこにはストア派ーそしてエピクテトス特有の倫理「Theos=Cosmos=logos」「決定論+運命論」が色濃く反映されており、魂が「自由」であるとはどういうことか、を反省的に考えることができた。
講師がサルトルの命題「人間は自由の刑に処せられている」を引用された。「自由」とは選択肢の多さと自己決定に規定されるというドグマのなかにいることが反省させられた。真に希求されるべき自由、自由意志を見失ってはいないだろうか?繰り返し繰り返し説かれる『語録』の場面から、今日と同様の課題が、当時の社会にも課されていたのかもしれない。
『語録』には人生のお手本としてソクラテス、シノペのディオゲネスがたびたび登場し、「よく生きる」ことについて語られる。ここでは、悲観的な印象であった決定論、運命論が、むしろ、積極的に生の肯定の色彩を与えてくれた。同時に「外的なもの」への態度は、圧倒的なメディア社会の中にあっての処世術を教えてくれ、厳しい反省を促された。
講義ではたびたび『語録』の語られた場面、著述そのものについても考察され、文献学の面白さも知ることができた。 -
Posted by ブクログ
ストイックに生きるということについて。
100分で名著の自省録はこの本を参考にしていたのかもしれない
…ストア派によれば、正しく理性を働かせて行った行為が徳のある行為で、そうでない行為は悪徳だということになる。
正しく理性を働かせて徳を持った状態、この状態こそが「幸福」な状態である。
健康・美貌・財産・名声はそれ自体として考えた場合に、善でも悪でもない。そうしたものは外部的な条件にすぎず、それらをどのように用いるか、そしてそのためには理性を正しく働かせることが肝要である。どんな態度をとるかで善悪が分かれる。
善を悪と見誤ったり過誤を引き起こし、知性の力を弱めるのは情念
禅との違いは、禅は知を働かせることは悟りの妨げになると考えるが、ストア派の場合は知を働かせることによって可能となるとするところである。
そうした状態の人間をストア派は賢者とか知者と呼んだ
オイケイオーシス(親和性)というところからストア派の倫理学が築かれる
動物はまずは自己保存への衝動を持ち、それゆえ自分を保存してくれるものに向かい、破壊するものを忌避するような生まれ持った傾向性を有する。生き物である限り、当然のことで本能に基づいて自己を守ろうとする。
高次の倫理的な行為においては自己中心的ということにもなる
子供を助けたとして、それは子供のためではなくむしろ子供を助けることが自分にとっては善き行為だから。それゆえ子供が助からなかったとしても、自分はその子供を救うために最善の努力をしたのであるから少しも悔やむ必要はないことになる。
ーー人のためではなく、自分のために人助けしている。そう考えると見返りや結果は求めなくてすむ? -
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ストア哲学の入門本としてお勧めできる一冊.
「哲学は外部にある何かを得ることを約束するものではない」
「間暇は学びがなければ死に等しく,いける人間の墓場でしかない」
「優れた裁判官は不正を罰するがこれを憎むものではない」
「どんなことでも予期しているものにはその分打撃は少ない」
「人々を不安にするのは事柄ではなく事柄についての思いである」
「自分のものでないものを何一つ求めない」
富や健康,名声そのものは善でも悪でもない.
「心象よ,少し待っておくれ.お前は誰なのか,なんの心象なのかを見させてくれ.」
ストア哲学はただ困難を耐え忍ぶを進めるんじゃなくて不退転の精神をもつこと
精神的反脆さにつながる言葉の多いことよ. -
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キュニコス派 ディオゲネス
ストア派初期 ゼノンなど
ストア派中期 キケロなど
ストア派後期 セネカ、エピクテトス、マルクスアウレリウス
4割くらいはセネカ、エピクテトス、マルクスアウレリウスでしょうか。
それぞれの哲人の人生をざっくりとエピソードと格言を織り交ぜつつ紹介。んで誰が誰の師匠弟子で、(時代を超えて)誰の影響を受けていて、でもこういうところに違いがあんのよー、と親切に教えてくれながら進んでいきます。
「どうせ全部借り物(死んだら終わりだし、人間は必ず死ぬし、しかも結構すぐ死ぬ)」
ここで紹介される名言格言は多いんですが、私にとっては数多くの哲人が様々な表現で語ってくれても要はこれ↑かなと。
全然話変わるんですけど。最近のマンションってとんでもないじゃないですか。値段。すでにたくさんお持ちの方にとっては笑いが止まらない状態なんでしょうけど。つい先日も麻布十番の三田ガー10階100平米の転売が10億で出てたんですよね。まだ入居始まってないですよね?あれ。確か2年くらい前の新築募集が3.8億とかの部屋。即転売で税金4割だとしても税引き後3億以上は確実に残ると思うんですよ。一撃、たった一部屋で3億ですよ?利益。手残りで。
私はパーな上に種銭もないし投資センスもないし調べるやる気もないので貧困生活も仕方ないとは思うんですけど(強がり)、小学生の頃から厳しい塾行って晴れて中高一貫行ってさらに塾行って東大やら京大やら医学部やら行って就職は医者だ!キャリア官僚だ!外資金融だ!とか努力してきた人たちがね。そりゃ凄いけどだからといって2年くらいで手残り3億とかじゃないでしょ。給料。エリートサラリーマン(←清純派ポルノ女優みたいな表現ですよねコレ。誰もおかしいと思わないのかな。)とか言われたところでただの労働者だし。(その人たちが三田ガーなりWTRを買ってればさらにドンみたいなことですが)
BTCとかもそうですけどー。
「なんだよこれ。働く意味とかあんの?」とか思っちゃうわけなんですよ。他人事だけど。
(マンションわらしべ長者の人達は銀行から住宅ローンを引くその与信のために働いてるって人も少なくないらしいですね。r>gって感じ?)
でもね。
哲人達が本を通じて私に言うんですよ。
「三田ガーやWTRの次はパコ檜か?んで次はパーマン千鳥ヶ淵か?でやっぱ森ビルだろとか言うのかね君は。やれやれ。そんなことではどこまで行っても満足しないよ。君が幸福な日々を過ごしたいと願うのならば、やるべきことは幸福のハードルを下げることだよ。」と。くすん。
ま。
それもこれも数十年の短い短い人生。
しかも脳が見せてる幻想。気のせい。と思えば。あいつだけなんであんなに明るいとこ飛べるんだ!と文句言っても全員ウスバカゲロウ(あいつも私もすぐ死ぬ)なわけだから。
それにしても3億欲しい。
マルクスアウレリウスにまで言われたらやっかむ気持ちも少しは落ち着きます。
昨日と変わらぬ今日。何事もない。他人の記憶は勿論自分の記憶にすら残らない日々。でもそれこそが幸運なのだから。
でも2億でもいいです。この際。
本の中でも「多読より精度」とされているように、「老年について」「人生の短さについて」「自省録」あたりを買って繰り返し繰り返し読む方がよほどいいですよね。でも他の本も読みたいのよ。
ワガママBOYだから。
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われわれの力が及ぶのは「判断、衝動、欲望、忌避」といった、意志のみである。それ以外のものは力の及ばないものである。力の及ぶものだけに注意を払い、それ以外の事物に心を奪われるべきではない。 といった趣旨のことを述べ続けている。
度々ソクラテスやディオゲネスがリスペクトの対象として引き合いに出される。一方でエピクロスはやはり敵対視されている。
古代哲学は万物の根源(火だとか水だとかアトムだとか)を何なのかという命題をよく議論している。エピクロスは自然現象を知ることが不安を払拭し、心の安寧につながると考えていた。一方でエピクテトスは、そういった力の及ばないことを考えても無駄だという立場をとる。ここにもストア派と快楽派の異なる立場が見えて面白い。 -
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エピクテトス(50?-135?)自身が著した本ではなく、アリアノスが師から聴いた講話を出来るだけその話し方そのままに再現した形で記録した『語録』、それを簡潔にまとめた『要録』、種々の筆者によりエピクテトスに言及した断章を幾らか集めた『断片』を収めたもの。岩波文庫上下巻の大半は『語録』が占めており、あとの2編は分量はごく少なく、下巻の後半に載っている。
昨2020年に岩波文庫から出た「新訳」版なのだが、『語録』はどうも読みにくかった。平明な言葉を話しているのに、文と文の相互関係が意想外に乱れており、現代日本語としてはちょっと分かりにくすぎる。思うに、「分かりやすくなるよう」に括弧[ ]などでもっとたくさん接続詞等を補ってやるべきではなかったか?
しかもこの『語録』、数ページから成る短いエピソードが大量に入っているのだが、何も考えずに配列したようなデタラメさで、このアリアノスという人の無才無芸が際立っている。そもそも、速記が出来たとも思えぬし、本当にエピクテトスがこう語ったのだというのも疑わしい。むしろ『要録』の方が簡潔な文章になっているので理解しやすい。
いずれにしても、本書を読んでエピクテトスにおいて語られたストア派の教義を知ることは出来る。世界の真理をくまなく調べていこうとするようなアリストテレス的知とは異なって、ここでは「自分の心をいかに陶冶するか」という人生論的な方針に哲学知は限定される。
「次のことを心に留めておくがいい。君を辱めているのは、罵ったり殴ったりしている人ではなく、彼らが辱めているという思いなのだ。だから、だれかが君を怒らせたなら、君の考えが君を怒らせたのだということを知るがよい。だから、まず第一に心像によって心を奪われないように心がけよ。・・・(後略)」(『要録』二〇 下巻P373)
このような自己陶冶のテクネ—は、現在の日本人にとってもある意味では参考になるのかもしれない。ストレスだらけの社会生活を孤独にさすらう、寄る辺もない現代人がすがりつくものを求め、安直な自己啓発本や、怪しげなカルト宗教や、アドラーなんていう二流の心理学者の「ことば」に飛びついたりするのも、まあ気持ちは分かるとして、エピクテトスの本書も、そういった需要に応えうるところがあるだろう(しかし分かりにくい日本語訳が問題だが)。
誰かに何かをされたり、「自分の力の及ばないこと」に対しては「自分には関係ない」と捨象し、代わりに心の平静さを保つための自己鍛錬に専心する。こうして限定された「自己」こそが本当の「自由」であり、宇宙の自然本性にかなった知や生き方を約束するものである。
このようなスタンスは、何かと心乱される日常生活において確かに心がけた方がよいのかもしれないという気はする。しかし、そんな有用性よりも、この時代のストア派の知の権力において、「自己への配慮」が全力で推進されたという、ミシェル・フーコーの系譜学的考察を参照するのが面白い。
フーコー『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』には、マルクス・アウレリウスの「自身の外をさまようこと」を止め「自分自身を支援せよ」と自らに呼びかけるような思考へとつながる言説として、「この主題についての最高の哲学的琢磨が表れるのは、多分エピクテトスにおいてだろう」という指摘がある(田村俶訳 新潮社、P.65)。
フーコーと共に、古代の思想をメタ的に辿り直し、そして現在、消費財としての「自己啓発」ベクトルのテクネ—が人々の間で濫費される状況を顧みてみる、というプロセスに魅力を感じている。 -
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古代ギリシャ ストア派の哲学者エピクテトスが説いた考えを著した本の新訳。
エピクテトスは生また時からの奴隷であり、人生の途中で奴隷を解放されたという異色の経歴の人物。
そんな苦しみを耐え抜いた人の説く哲学だから綺麗ごとは一切なく、理路整然とどう考えるのが納得できるかに終始している。
言っている内容はハッとさせられるものも多いし、読む価値はあるのだが、如何せん2000年前の事柄が引き合いに出されるから、共感できないことも多い。
そして多分、激情家だったのだろう。
ヒートアップすると次々に違う話に波及するし、他の学派をディスり始めれば、けちょんけちょんに言うしで、ついていくのが大変だった。
度々、わからなくなるからすぐに眠くなるし。。
とはいえ、学んだことは価値があると思う。
エピクテトスの主張は主に以下である。
・自分の力の及ぶもの、及ばないものを区別せよ
・力の及ばないものに心を留めるな(環境・人間関係・身体)
・力の及ぶものを使いこなすことに注力せよ(自らの意志)
・物事の善悪は自分の力の及ぶものの中にしかない
・行動、考えを自然本来に適うようにせよ
書いたら単純ではあるが、口酸っぱく繰り返し説明されるように、実際に日常に当てはめるのは思いのほか難しい。。
以下、いいなと思った発言
・追放か、死刑か? 追放です。 それでは昼食にしよう。
・最高のものに到達できないからといって、捨てて顧みないようなことはないのだ
・我々のうちの大部分はキツネとなって、いわば動物の中での不幸者になるのだ
・我々がこれこれのことが良いと思わなければ、その結果となる行為をすることはないでしょう
・自分の意志に反しているところ、それが牢獄だよ。
・神々は唯一、心象をどのように用いるかだけを君の責任として付与してくれた。
・所有のある所に損失があり、苦労がある
・共通の利益に何らかの貢献をしない限り、個別的な善のいかなるものも獲得できないように人は作られている
・君もそう思えるようなときなどは「もう遊ばない」といってやめる事だ。だけどそれをやめないのであれば、泣き言を言ってはならない
・君の物はあらゆる手段によって守り抜き、君の物でないものは望んではならない
・牢獄とか追放や死などは善悪とは無関係
・意志に関わりの無いことは大胆であれ、意志に関わる事には用心深くあれ
・死とは何であるか。お化けだ。労苦とは何であるか。お化けだ
・私は私のするべき仕事をしたが、君が君のするべき仕事をしたかどうかは、自分で見てみることだ
・人間とは理性を持った死すべき動物だ。理性の無い野獣(危害を加え、乱暴)や羊(欲情にふける)になってはならない
・もし君があらゆることをお金に換算してみるならば、鼻を失った人は君の目からすれば損害を受けたことにはならない、という事を考えてみることだ
・哲学するというのは判断基準を考察し確立すること(秤をつくる)で、その上で認識されたものを用いるだ。例:善は誇るに値するが、快楽は値しない など
・我々は小さな身体に、わずかな財産に、権威にどう思われるか不安を感じているが、我々の内部のことについては少しも不安ではない。という事はありえない。
・何かが奪われる、失われるならそれまでに用いることが出来た時間に感謝して、気持ちよく速やかに返すことだ
・訓練・習慣は少しづつ、自分を褒めるように
・心像よ、お前を調べさせてくれ と言えばいいのだ
・ストア哲学は病気、危機、追放、低評価、死に際しても幸福な人々である
・人の心は「私、私のもの」に利益があるところに必ず傾く。
だから「私、私のもの」を自分の意志のみにするべきだ。
そうすれば、財を守るより、誠実な男であることが利益となる。
・友愛とは他でもない、誠実さがあるところ、専ら美徳だけを尊ぶところにあるのではないか
・自分と自分の属するものを意志とは無関係な所に置こうとする。これが対立を招く。
下巻も気になるが、読み進めるのが大変だから悩むところ。。 -
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一目見て、私が求めていたものだと直感して購入。もともとストア哲学に関心があり、その、いかに生きるべきかを説いた、実践的な教説が気に入っていた。読むと、著者はストア哲学の新しい解釈を引っさげて本書を刊行したらしく、それがまた実に明瞭で、しっくり来る。どうもこの著者はギリシャ・ローマの教養のみならず、漢文学にも通じているようで、それが我々日本人に西洋の古典を分かりやすく教示する基盤となっていると感じた。私自身は論語を始めとして儒教に依拠していることもあり、著者の説くストア哲学と思想的に衝突するかと思いきや、その点も著者が日本的教養をかなり有しているおかげで、私にしても快くこの本を受容できた。これが正しい唯一無二の解釈だと思うのは行き過ぎだが、明らかに我々には恵み豊かな思想だと言える。
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Posted by ブクログ
あまり多くはないストア派に関する書籍だが、書店で見かけて気になって購入。
代表的なストア派の哲学者であるセネカ、エピクテトスなどなど、彼らの思想とその背景を知ることができる。
思ったよりも時代背景や哲学者の日々の生活の記載が多い。もちろん思想だけ切り取ってしまえるものではないのかもしれないが、あまり一般読者向けではないのかもしれないと思った。ただ、そうした人物伝と思想の解説は分けて記載されているので、ごちゃごちゃにはならない。
あと終章を読むと大まかな思想の流れがつかめるので、ストア派初体験の自分はそちらを先に読んでから全文を読んだ方が良かった気もする。
エピクテトスの時代を先取りしたような意識の捉え方や、発達理論の先駆けのような思想など、解説書の少ないストア派全般について知ることができた。