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「君は私の足を縛るだろう.だが,私の意志はゼウスだって支配することはできない」.ローマ帝国に生きた奴隷出身の哲人エピクテトスは,精神の自由を求め,何ものにも動じない強い生き方を貫いた.幸福に生きる条件を真摯に探るストア派哲学者の姿が,弟子による筆録から浮かび上がる.上巻は『語録』第一・二巻を収録.(全二冊)
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Posted by ブクログ
442P ストア派の思想 エピクテトス 1~2世紀、ローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に仕えた。ローマ帝政時代のストア派の哲学者。小アジアのフリギア出身の奴隷であったが解放され、文章家としてネロ帝などに仕える。外的なものに左右されず、自己を確立することによって自由を得ることを説...続きを読むいた。その思想は、五賢帝の一人、哲人皇帝といわれるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝にも影響を与えた。 「うん、だがなぜ君はこの人を、彼自身の悪に気づくことから引き離すのか。彼がどこに進歩を求めるべきかわかるように、彼に徳の仕事を君は示そうとしないのか。気の毒な、君の仕事のある処に進歩を求めるがいい。だが君の仕事はどこにあるのか。それは(一)欲求したり、忌避したりすることの中にあるので、得そこなったり、避けそこなったりしないようにすることなのだ、(二)間違わぬように意欲したり、拒否したりすることの中にあるのだ、(三)まただまされぬように判断したり、判断を差し控えたりすることの中にあるのだ(*)。だが一番大切で一番必要なのは、第一の領域のものである。だがもし君がふるえたり、悲しんだりしながら避けそこなわぬようにと求めているならば、そもそも君は進歩しているだろうか。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 つまりそれを招来したり、妨害したりすることのできる人々に、従属させざるを得ないということを学んだならば、更にまた朝早く起きて以上述べられたことを保持したり、見守ったり、それに忠実な者として風呂にはいったり、つつしみのある者として食事したり、同様また常に事柄に対しても、その主要なる義務を、ちょうど力走者が力走者らしく、歌の先生が歌の先生らしく骨折るように骨折るならば、この人こそ本当に進歩してる人であり、この人こそでたらめに旅をして来た人ではないのだ。だがもし読書力を養うために張り切り、そのために骨折り、そのため旅したのであるならば、私はその人に対して、即刻家に帰るように、そして家の事をゆるがせにしないようにいおう。というのは彼の旅行の目的は、何でもないからだ。しかし旅行の本当の目的は、自分の生から、苦悩とか、悲痛とか、「あゝあゝ」とか、「可哀そうな私」とか、不運、不幸とかを取り去り、死とは何か、追放とは何か、牢獄とは何か、毒とは何かということを学ぶように心することで、それは牢獄の中で「親愛なるクリトンよ、もしそれが神々の御気に召すならば、そうなるがいいのだ」〔プラトンの「クリトン」〕ということができるためで、「可哀そうな老人の私、これらのために私は白髪頭になったのだ」などということのないためなのである。誰がそれらのことをいっているか。 「理性は他のものを分析したり、完成したりするものであるが、自身また非分析的なものであるはずがないとすると、それは何によって分析されるのだろうか。というのはいうまでもなくそれは、自分によってか、他によってかだからである。ところで実は、後者もまた理性であるか、あるいは理性よりもっと高次な何か他のものであるかである、だが後者であることは不可能だ。もし理性だとするならば、更にまた何がその理性を分析するのだろうか。というのは、もし自分が自分をなのであるならば、この理性もまたそうすることができるだろうから。もしわれわれが他の理性を必要とするならば、それは無限にしてきりがないだろう。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「そうすると、教養を身につけるということはどういうことなのか。それは自然的な先取観念を、個々のものに、自然本性と合致するように、適用したり、また今後諸物のうち、ある物はわれわれの権内にあるが、ある物はわれわれの権内にないということを区別したりするのを学ぶことである。意志やすべての意志的活動は、われわれの権内にあるが、肉体、肉体の部分、財産、両親、兄弟、子供、また祖国、簡単にいえば社会的なものは、われわれの権内にない。ではわれわれは善をどこに置くことにしようか。どんなものに善を当てはめようか。われわれの権内にあるものにか。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「というのは本来人間は善を奪われるのを辛抱することも、また悪に出会うのを辛抱することもできぬようにできてるからだ。それから最後に、物を変えることも、邪魔する者を盲にすることもできなくなった時は、私は座って溜息をつく、そして私の罵ることのできる者は、ゼウスであろうが、その他の神々であろうが、罵るのである。というのは、もし彼らが私を顧みてくれないならば、私は彼らとは何のかかわりがあるだろうか。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「ようく似てるよ。人間の身体が滅びた、また牛や羊の身体が滅びた。人間の住家が焼けた、また鸛の巣が焼けた。何か大きなことか、もしくは恐ろしいことか。それともどうか示してくれ給え、人間の家と鸛の巣との間には、家としてどんな違いがあるか。 そうすると鸛と人間とは似ていますか。 何をいってるのか。物質の点ではようく似てるよ。一方は家が、梁や煉瓦や漆喰からできてるが、他方は小枝や粘土からできてるということは別として。 すると人間は、鸛からどんな点でも違いませんか。 そんなことはない、しかしこれらの点では違わない。 ではどの点で違いますか。 探求して見給え、そうすれば他の点で違うことに気づくだろう。ほら、彼の行為が、理解によるという点で違わないかどうか、ほら、社会的とか、誠実とか、つつしみとか、注意深いとか、分別とかいう点において、違わないかどうか。そうすると、人間における大きな善や悪は、どこにあるか。違いのあるところにあるわけだ。もしそれが保持され、防備されて残っており、またつつしみも、誠実も、分別も破壊されていないならば、その時にはその人自身も保持されているわけである。だがもしそれらの中の何かが滅亡したり、征服されたりしているならば、その時にはその人自身も滅びているわけだ。そして重大な事柄はここにあるのである。ギリシア人が船でやって来て、トロイアを荒らし、そしてアレクサンドロスの兄弟たちが滅びた時、アレクサンドロスはひどく没落したわけなのか。決してそうではない、というのは他人の行為によっては、何人も没落しないからだ、いやその時には鸛の巣がこわされたのである。だがつつしみや、誠実や、客に対する友愛や、礼節をなみした時、既に彼は没落していたのである。アキレウスは、いつ没落したのか。パトロクロスが死んだ時か。そんなことはない。むしろ彼が腹を立てた時であり、女の子のために泣いた時であり、また恋人を得るためにそこにいるのではなく、戦うためにそこにいるのであることを忘れた時だ。正しい考えが取り去られる時、それが破壊される時、それが人間的没落であり、それが包囲であり、それが滅亡なのだ。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「それでは、これらの教説の結実は、何だろうか。本当に教養ある人々にとって、最も美しく、最もふさわしくあるべきものは、平静であり、無畏であり、自由である。つまりこれらについては、自由人たちのみが、教養を受けることが許される、と主張している大衆を信ずべきではなく、むしろ教養ある人々のみが、自由である、と主張する哲学者たちの方を信ずべきである。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「諸々の事物は善悪無差別なもの(どうでもいいもの)であるが、それらの使用は善悪無差別ではない。そうするといかにして人は、剛毅や平静を保つと同時に、また注意深くして、でたらめでもぞんざいでもないことができるか。それは、さいころ遊びをする人々になぞらえて見ればいい。数とり石も善悪無差別なものであるし、またさいころも善悪無差別なものである。投げて何が出るかを、私はどこから知るか。だが投げ出されたものを注意深く、うまく利用することは、それはもう私の仕事である。かくてそのように人生の場合でも、主なる仕事は、事柄を区別し、分類して、そして「外物は私の権内にないが、意志は私の権内にある。私は善や悪をどこにさがそうか。それは私の内部にである」ということである。だが他人のものにおいては決して善であるとも、悪であるとも、有用であるとも、有害であるとも、この種の何か他のものであるとも名づけてはならない。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「そうすると何か外界の事物が、自然本性にかなっているとか、自然本性に反しているとかいうことは、どうしていえるか。それは、あたかもわれわれが絶対的であるかのように思う場合だ。というのは足にとっては、綺麗であることは自然本性にかなっていると私はいうけれども、もし君が足を足として取り、そして絶対的でないものとして取るならば、それは泥の中にはいることも、いばらを踏むことも、また時あっては全身のために切断されることもふさわしいからである。だがもしそうでなければ、それはもう足ではなくなる。何かこのようなことを、われわれの場合にも考うべきである。君は何か。人間である。もし絶対的なものとして考察するならば、老年まで生き、富み、丈夫であることは、自然本性にかなったことである。だがもし君が人間として考察し、何か全体の部分として考察するならば、その全体のために病気をしたり、航海をして危険を冒したり、窮乏したり、また時あっては寿命前に死んだりすることもふさわしい。そうすると、何で君は怒っているのか。かくては前者がもう足でないように、君はもう人間でなくなるということがわからないのか。一体人間とは何なのか。それは国家の一部分である、第一に神々と人々とからなる国家の、次にまたいわゆる全体の小さい模倣で、われわれと最も近い関係にある国家の部分である。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「それからもし彼が「君は遺産を相続するだろう」というならば、われわれはあたかも彼から遺産の相続を受けたかのように、彼に感謝するのだ。だから結局彼らもわれわれを翻弄することになるわけだ。そうするとどういうことになるか。欲望も忌避もしないで、(虚心坦懐に)行くべきだろうか、ちょうど旅人が、出逢った人から、(目的地へ行くのに)どっちの道を行ったらいいかと訊ねて、左の道よりも右の道の方をなどと望まないように。というのは彼はこれらのある一方を行こうとするのではなくて、目的地へ達する方を行こうとしているのだからである。そのように神に対しても、案内者と思って行くべきなのである、ちょうどわれわれが眼を使用する場合に、このようなものの方をわれわれに見せてくれるようになどと、眼に要求しないで、見せてくれるようなものの心像を(そのまま)受け取るようになのである。ところが事実はと云えば、われわれはびくびくしながら小鳥をつかまえ、そしてそれが神であるかのように呼びかけて、「主よ憐れんで下さい、どうぞ(危険を)逃れさせて下さい」などとそれに嘆願するのだ。憐れだね君は、もっと善いものがあるのに君はそれよりも何かほかのものが欲しいのか。そうすると神にそう思われるものよりも、何かもっと善いものがあるのか。なぜ君は、力の限りを尽して、君の判定者をそこなったり、忠告者を迷わしたりするのか。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「それは石か、銅か、金か、もしくは象牙ではないか。それにまた、フィディアスのアテナは、一度その手を伸ばし、その上にニケ(勝利の女神)を受け取ったが最後、永遠にその姿で立っているのだ、だが神の作品は動くものであり、呼吸するものであり、心像を用いるものであり、吟味するものなのである。君はこの形成者の作品であるのに、君はそれを辱かしめるのか。何? 神はただに君をつくっただけでなく、なおまた君だけを信頼し、君に委せているのだ、君はそれを憶えていないで、かえってその信頼を辱かしめるのか。もし神が君に誰か孤児を委せたとするならば、君はそのようにしてそれをおろそかにするだろうか。彼は君に君自身を与え、そして「わしは他人を君以上には信頼しなかった、どうかこの人を本来あるように、つまりつつしみ深く、誠実で、高尚で、ぐらつかず、情念なく、平静であるように守ってくれ給え」と云っているのである。そうすると君は守らないわけなのか。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「それは個人的に何らの利益もはからず、何物についても絶対的なもの(孤立したもの)としては考えないで、ちょうど手や足がもし理性を持ち、自然の仕組を理解しているとしたならば、全体に対する関係以外の仕方では意欲したり、欲望したりしないだろうが、ちょうどそのようにすることだ。だから哲学者たちは、もし賢者が未来のことを予見したとするならば、病気や死や不具に協力したことだろうとうまくいっている、というのはとにかくそれは全体の秩序から分たれたのであって、全体は部分よりも、都市は市民よりもより勝れたものであるということを知っているからだ。だが現にわれわれは予知していないのだから、選択するのに、より性分に合うものを保持することが似つかわしいわけである、というのはわれわれはそういうふうに生まれて来たからだ。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「哲学の始めは、少なくともあるべきように、そして入口を通ってそれにとりかかろうとする人々においては、必要なものに関する自分の貧弱さと、無能力とを自覚することである。というのは直角三角形とか、四分の一音とか、半音とかの観念は、本来われわれは何一つ持たずにやって来ているのであって、むしろ何か技術的なことを仕込まれて、われわれはそれらの各々を教わっているのだ、そしてその故にそれらを知らない人たちは知ってるとは思わないのである。だが善悪、美醜、似つかわしい似つかわしくない、幸不幸、ふさわしいふさわしくない、また為すべきこと為すべからざることについては、誰が、生得観念を持たないで生まれて来たであろうか。だからすべてわれわれはその言葉を用い、そしてその先取観念を、個々の事物に適用しようとしているのだ。彼は立派にやった、彼はやるべきようにやった、彼はやるべきようにやらなかった、彼は不幸であった、彼は幸福であった、彼は不正である、彼は正しい。われわれの中の誰がこれらの言葉を遠慮するだろうか。われわれの中の誰が、ちょうど線や音についてその無知者がそうするように、学ぶまでこれらの言葉の使用を延期するだろうか。この原因は、人はこの領域のことを、既に、自然によって、いわば教わってから、この世にやって来たということである、そしてそこが始まりとなって、われわれはその上に自惚れを取ってつけるわけなのだ。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「これらの言葉に従って、いつ彼はこの勉強をしたのか。それでは何でなおも君は、彼が学んだ処では他の人々にまさるが、勉強のできてない処では多くの人々と同じだということを変に思うのか。それはちょうど竪琴を弾いてうたう人が弾き方を知り、立派にうたい、立派な舞台着を持っていながら、それでも舞台にあがると震えるようなものだ、というのはこれらのことは知っているが、大衆とは何かということは知らないし、また大衆の叫び、大衆の嘲笑の何かも知らないからだ。いや不安というものさえ何であるのか、われわれのしわざなのか他人のしわざなのか、それはとめられるのかとめられないのか、ということも知らないのである。だから彼は褒められると、驕り高ぶって退場するが、嘲笑されると、あの高ぶり顔は面目を失ってくしゃくしゃになってしまうのだ。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「すべての習性と能力とは、それに対応する活動によって、維持され、増進される、(例えば)歩行のそれは、歩行することにより、疾走のそれは、疾走することによって、維持され、増進される。もし君が朗読家になりたいならば、朗読し給え、作家になりたいならば書き給え。だが三十日間ずっと朗読しないで、何か他のことをやる時、君はどういうことになるかわかるだろう。そのようにして、もし君が十日間寝ていて、それから起きて、長距離の道を歩行して見給え、そうすれば、いかに君の脚が弱くなったかがわかるだろう。そこで、一般に、もし君が何かをなそうとするならば、常習的にやり給え。もしあることをなすまいとするならば、それをなさないで、その代りにむしろ何か他のことをやるように慣れるがいい。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「学校へ行ってるのは、ただ物語を学んだり、以前に知らなかった書物を理解したり、またもしそういうことがあれば、他人にもそれを説明したりするためなのか」と自分自身に注意するのが正しいと思う。ねえ君、君は家では奴隷と喧嘩したり、家をかきまわしたり、隣人を混乱の中に捲き込んだりしたのだ。ところが今は賢者のようななりをして、私の処へ来ているのか、そして坐って、私が文をどう解釈したか、私が思い浮ぶものを一体どうしゃべったかということを判断しているのか。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著 「 そうすると残るところは、彼らが一所懸命になってるのは、善いものだけについてだということになる。またもし彼らが一所懸命になっているのであるならば、彼らはそれを愛しているわけだ。それで誰にもせよ、善いものについて知識のある者は、また愛することも知っているだろう。だが善いものを悪いものから、またいずれでもないものを両者から、区別することのできない者は、どうしてなお愛することができるだろうか。そういうわけで愛するということは、賢者だけがなし得ることなのだ。」 —『人生談義(上)』エピクテトス著
古代ローマのストア派の代表的哲学者として伝わる「エピクテトス」の講話を弟子がまとめたものとされる本である。 旧訳本を1度読んだが、新訳が出るに及んで、再度読み直した次第である。 一貫している内容は、ストア派的世界秩序をベースに、真に自由に生きることを目指し、以下の内容を説く。 「求めて得損なわ...続きを読むず、避けて避け損なわず。」 「権内にあるもののみが君の自由になるもの。権外にあるものは一切自由にならないもの。」 本書の内容は上記の内容を繰り返し説くものと言える。 本書からは仏教書に通じる何かを感じる。 所々になんとも言えない親しみやすさを覚える。 これが何かは、まだうまく言語化できない。 権内にあるのは、「今」、自分の意思や肉体を、神に感謝して、心象を正しく用いて、行動することだけである。その結果は権外であり、一喜一憂するものではない。 年を経ても変わらない真理の一つであろう。 自分の中にエピクテトスの説くことのベースは刻まれた。 自分が、彼の教えを実践できる素質の人間だとは思わないが、折に触れて本書を読み返し、この一つの真理を、人生と言う航海の、灯台の灯りとしたい。
エピクテトスの対話や発言がまとめられている。内容はやや難解な部分もあるが、語り口調のおかげで全体的に理解しやすいと感じた。 話題やテーマごとに数十の章に分かれているので、X(Twitter)を読むような気持ちでパラパラとめくり、自分の感情や死生観とマッチするところがあれば、うんうんと頷きながらサクサ...続きを読むクと読める。
古代ギリシャ ストア派の哲学者エピクテトスが説いた考えを著した本の新訳。 エピクテトスは生また時からの奴隷であり、人生の途中で奴隷を解放されたという異色の経歴の人物。 そんな苦しみを耐え抜いた人の説く哲学だから綺麗ごとは一切なく、理路整然とどう考えるのが納得できるかに終始している。 言っている...続きを読む内容はハッとさせられるものも多いし、読む価値はあるのだが、如何せん2000年前の事柄が引き合いに出されるから、共感できないことも多い。 そして多分、激情家だったのだろう。 ヒートアップすると次々に違う話に波及するし、他の学派をディスり始めれば、けちょんけちょんに言うしで、ついていくのが大変だった。 度々、わからなくなるからすぐに眠くなるし。。 とはいえ、学んだことは価値があると思う。 エピクテトスの主張は主に以下である。 ・自分の力の及ぶもの、及ばないものを区別せよ ・力の及ばないものに心を留めるな(環境・人間関係・身体) ・力の及ぶものを使いこなすことに注力せよ(自らの意志) ・物事の善悪は自分の力の及ぶものの中にしかない ・行動、考えを自然本来に適うようにせよ 書いたら単純ではあるが、口酸っぱく繰り返し説明されるように、実際に日常に当てはめるのは思いのほか難しい。。 以下、いいなと思った発言 ・追放か、死刑か? 追放です。 それでは昼食にしよう。 ・最高のものに到達できないからといって、捨てて顧みないようなことはないのだ ・我々のうちの大部分はキツネとなって、いわば動物の中での不幸者になるのだ ・我々がこれこれのことが良いと思わなければ、その結果となる行為をすることはないでしょう ・自分の意志に反しているところ、それが牢獄だよ。 ・神々は唯一、心象をどのように用いるかだけを君の責任として付与してくれた。 ・所有のある所に損失があり、苦労がある ・共通の利益に何らかの貢献をしない限り、個別的な善のいかなるものも獲得できないように人は作られている ・君もそう思えるようなときなどは「もう遊ばない」といってやめる事だ。だけどそれをやめないのであれば、泣き言を言ってはならない ・君の物はあらゆる手段によって守り抜き、君の物でないものは望んではならない ・牢獄とか追放や死などは善悪とは無関係 ・意志に関わりの無いことは大胆であれ、意志に関わる事には用心深くあれ ・死とは何であるか。お化けだ。労苦とは何であるか。お化けだ ・私は私のするべき仕事をしたが、君が君のするべき仕事をしたかどうかは、自分で見てみることだ ・人間とは理性を持った死すべき動物だ。理性の無い野獣(危害を加え、乱暴)や羊(欲情にふける)になってはならない ・もし君があらゆることをお金に換算してみるならば、鼻を失った人は君の目からすれば損害を受けたことにはならない、という事を考えてみることだ ・哲学するというのは判断基準を考察し確立すること(秤をつくる)で、その上で認識されたものを用いるだ。例:善は誇るに値するが、快楽は値しない など ・我々は小さな身体に、わずかな財産に、権威にどう思われるか不安を感じているが、我々の内部のことについては少しも不安ではない。という事はありえない。 ・何かが奪われる、失われるならそれまでに用いることが出来た時間に感謝して、気持ちよく速やかに返すことだ ・訓練・習慣は少しづつ、自分を褒めるように ・心像よ、お前を調べさせてくれ と言えばいいのだ ・ストア哲学は病気、危機、追放、低評価、死に際しても幸福な人々である ・人の心は「私、私のもの」に利益があるところに必ず傾く。 だから「私、私のもの」を自分の意志のみにするべきだ。 そうすれば、財を守るより、誠実な男であることが利益となる。 ・友愛とは他でもない、誠実さがあるところ、専ら美徳だけを尊ぶところにあるのではないか ・自分と自分の属するものを意志とは無関係な所に置こうとする。これが対立を招く。 下巻も気になるが、読み進めるのが大変だから悩むところ。。
解放奴隷の哲学者エピクテトスの話を弟子がまとめた「語録」の前半が収録されている。けっこう回りくどい感じの文章で、しかもジョーク交じりなんだけどその冗談が分かりにくいので何を言っているのかよくわからなくなって辛い。でも大体は「唯一自分の自由になるものである意思をコントロールし、自分の力の及ばない不運や...続きを読む病気、死などにわずらわされるな」「自然(運命)に従って生きよ」ということを手を変え品を変え繰り返している感じで、ストア派思想の処世的な部分がクローズアップされている印象を受ける。これがストア派後期思想なのだろう。 「自分の意志に反しているとき、そこが牢獄である(だからソクラテスは牢獄にはいなかった)」というのはなるほどと思うが、だから自然に従い、すべてを自分の意志だと思い込めればどんな運命の元でもハッピーに生きられるというのはちょっと強引に過ぎるように感じた。幸せだと言われれば、そうなんだろうけど。
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